聖徳太子の予言と心の声

 聖徳太子が日本の礎を築いたことに異論のある人はいないと思います。17条の憲法、遣隋使の派遣、冠位十二階の制定、国史天皇史の編纂など大王(天皇)や王族が中心である中央集権国家体制の確立を図り、仏教や儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆に努めたと言われています。

 しかしその人生は謎に包まれたままです。聖徳太子という名称は、薨御129年後天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われ、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)などといわれていました。最近では聖徳太子と呼ばれるような顕著な業績は残していないという説まで出ています。

 ここで述べる内容は、月海千峰氏が藤原南朝の末裔、宮東老師が秘蔵されていた「先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)」を解説されたものです。

【出典:月海千峰著「古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密」日本文芸社 1994】

 ここで資料としている「先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)」は、古代史で語られる「先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)」(旧事本記ともいわれている)ではありません。古代史で言われている「先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)」は平安時代初期に成立したとされる歴史書で、全10巻物(30巻物もあるらしい)からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述され、著者、編纂時期など不確かで偽書説も根強い疑惑の多い歴史書です。

 ここで資料としている「先代旧事本記(せんだいくじほんぎ)」は、「旧事本記」の元になったといわれる74巻の日本歴史書です。筆者の月海千峰氏が言われるには、藤原南朝の末裔、宮東老師秘蔵のもので、その編纂は推古天皇の時代であるというそうです。学会で認められている歴史資料とは言えない代物には違いないのですが、内容に注目すべきです。その第69巻に「未然本記(みぜんほんぎ)」と呼ばれている聖徳太子の予言の巻があるのです。歴史学では、当然その存在さえも否定されています。唯一五島勉氏が「聖徳太子の秘予言」としてかつて紹介されたことのあるという謎の聖徳太子の未来記なのです。『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とあり、この記述が後世に『未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)』の存在が噂される一因となったものです。

 真偽はさておいて、聖徳太子の「未然本記」の一部を紹介してみましょう。

 

明治維新から第二次世界大戦までのものと思われるもの

  • 私を離れて理に止まり,帝の徳に近づきながら権力の元に戻り、理に欠いて法をよりどころにする。(太子の示した皇道の真理から離れて天皇制の形だけを復元し、天皇を立てながら権力主義に傾き、天皇制の理を離れた法をよりどころにする。)
  • 天に逆らって災いをなし、虚しいことをする。嘆け、皇道に戻らないことを。悲しめ、天に怪奇現象が起こるように、太陽が二つ現れることを。本当の太陽は高く細く、贋の太陽は低く太い。(ほんとうの太陽=天皇、贋の太陽=原爆と国粋主義の指導者)
  • 弱き太陽は万年あり、強き太陽は一日しかない。(原爆が一日だけの太陽であることと同様に、国粋主義者の権威も長く続かない)
  • 上の太陽は支配されて長く、下の太陽は支配されて短い。(天皇は長らく支配される。国粋主義者が短い間、国を支配する)
  • 天はこうしたことを災いとして太陽を二つ示された。支配しているほうの家来は高ぶって王のように振る舞うだろう。(国粋主義者の家来である軍部は、独裁へと走っていく)
  • そして、欺いていながら君主を崇め偽って家来といっている。(軍部の政治実権掌握のための独断的行為)
  • 天は酬いを与えて彼らの後継ぎを断ち、子を死なすだろう。神は災いを与えて顧みられないだろう。(第二次世界大戦では日本は大敗し、軍部関係者は全滅)
  • 神は海中に災いを示して、手足があって首のない死体を大量に出すだろう。(神罰により太平洋に多くの犠牲者が出る。軍部に利用された兵士たちの死体が浮くことになる)

 

第二次世界大戦後の予言と思われるもの

  • 二逆は自らの権威を失わないよう朝廷を軽んじ、天皇を差しおいて卑しい戎王に通じ、国の圜(えん―囲むの意)を支配して卑しい天の田にしてしまう。(戎王=マッカーサーとの取引の結果、日本の政治機関は卑しい天=米国のための、田=米国に忠誠を誓って文化も経済も貢いでしまうようになる)
  • 習わしに逆らう異国の書簡をありがたがって、朝廷の大礼を辱める。(日本は、米国から提示された新日本憲法を受け入れる)
  • 星が月中に入り、時に天皇の位を脅かす。下の者が上となり、位のない人が位を取る。彗星は祭事の元の法が乱れることを咎める。贋の太陽は滅び、ほんとうの太陽は安定し、裏切り者の家来は滅びる。(太陽=天皇と、並ぶ月=中国皇帝は、深く結びつこうとしていたが、共産主義革命によって皇帝は没落。結果、労働者が天下を取った中国が誕生)
  • ほんとうの主は、位を奢って天を侵す(人間たちが自己を過信して天を侵す)ことの不敬を戒めるため、地震、鬼火、水害、怪風、見たこともない疫病、赤い雪、泥の雨で神罰を与える。
  • また、このようなとき神社や寺は鳴動し、仏や神の像は破裂するが、それは神が示していることだと誰も悟らず、怪奇な示しがあっても誰も驚かない。どのような怪奇が生じても、普段と同じである。
  • このようなことのすべては、一つのことに原因がある。祭事に背き法を乱せば、天は上下の安らぎを欲するが、人は主従の滅亡を招いてしまう。このときは政治がないような極であり、世の中も乱害の極となる。(いまの時代は政治が存在しない乱害の極の世である)
  • 見知らぬ法がやって来て、中華(中国)に近づき神道を脅かし仏教を消滅させる。国の官僚もこれを信じ、太守もこれを信じる。
  • 新しい儒教が来て、我が儒教が衰える。牛や鹿の祠がしばしばつくられ、物忌みの祭りはどんどん減っていく。(新しい儒教=新しい法律・道徳が現れることによって、日本人の思想が大きく変わっていく。そして邪教がはびこり、神道も衰退していく)
  • 新しい儒教を支持する人々は、我が国の習わしを卑しめ、異郷の品々を尊び、仏を誹り、神道を嘲笑う。少徳の先生を王のように崇め、我が多徳の先皇を土のように捨てる。(偽善者がはびこり、真の価値ある者は評価されない)
  • こうした人々の風潮が盛んであるので、国の道はまったく衰えてしまう。こうした人々が多くなるなら、我が国は滅ぼされてしまうべきだ。神はこれを防ぐために、彼らに災いを下す。神はこれを嫌われるので、その道も立ちいくことができない。
  • 太陽の精が下がって卑天の田を司り、大気をつくりだして屈服をなくす。(太陽の精=メシアが降臨してくる)
  • 活き活きとして、滞りなく神と消息をともにし、聖者も及ばず百の過ちを正す者である。尊きものが天下を治めて、常に宝を敬うので、日本のみならず海外までも従わせる。これにより西の戒めも、東の我を覆うことを止め、官僚は親睦し、地方を治める者も真に和む。(メシアはあらゆる過ちを正し、常に神と行動を共にする高潔なる者である。このメシアが神宝を崇めるので、日本のみならず世界の指導者となる。この出現によって西の圧力もなくなり、メシアと共に和をなして暮らすのである)
  • 自ら妻を質にしてまでも、都に寄せ我と城に住む。天かはこうして治まり、朝廷はこうして安泰する。教えを受けなくても自然と人々には教えがあり、生まれながら神仏の田を得ている。年を取ることもなくなるので、墓はいらなくなる。我が祭事の国は万年千年続き、平和が続き、宝も安泰する。(人はこぞってメシアと暮らしたがるが、そのメシアの治める国では、万年千年と平和が続き、宝も安泰する)

 

 いかがですか。真偽を論ずるまでもなく現代の終末の姿を語っていると思いませんか。日本人は、神を信じ敬い降臨されるはずのメシアにつながらないと未来がないのです。早く気づきましょう。それが聖徳太子の願いでもあります。

 最期に、聖徳太子の思想、心の思いが示されている部分を綴ります。『先代旧事本記』63巻と66巻に収められた『御語本記(みかたりほんぎ)』です。この中に聖徳太子の心の声が表されています。

 

人間は天性の善人です。

その命は天の定めであり、それ自体が信といえるでしょう。

しかし、人間が学びはじめると次第に偽りが多くなり、騙すことや馬鹿にすることを覚えます。その多くの原因は、名誉欲や権力欲というものです。

美食に溺れ快楽にふけると、病を生じて命を短くするばかりか、あらゆる人間性の美徳が破壊されます。

そして、優れた人物が出てくるのも絶えるでしょう。

短慮の人は、人知を尊んで、人にはわからない神の知恵を嫌います。

熟慮する人は、その逆です。

しかし人の上に立つ人は、常に神を仰ぎ、日と(人?)の知恵を学ぶものです。

政治に関わる者は、本音を言って当事者を補佐しなさい。

そして、津々浦々の声を聞きなさい。

天に一定の形や好みはない。

だから、耳に入ってくる声を天の如くに聞きなさい。

統治者の道とは、天地自然と理のなかで自然に示されたことだけを成し、己れをなくすことです。統治者が学ばなければならないのは、どのようにして、こうした無の状態になるかであり、無であるがゆえに悪政がなくなり、己を捨てることによって重税がなくなるのです。

内的摂理と外的摂理、そして現象としての歴史(2020年、人類歴史の大峠が訪れた)

 神の摂理という観点から見た時、2020年という年は歴史的な転換が始まる大峠なのです。神を信じない人は珍説として一笑されるでしょうが、これから深刻な事態が続いていくことになります。啓蒙の時代から外的苦難に遭遇することによって人類が改心しなければならない時代に移行したのです。この時代は、宗教上からは審判の時代と呼ばれています。

 私は2020年を迎えた時、何が起きるのかと身構えていました。昨年も天変地異が続いていましたが、今年からはその次元をはるかに超える事件が起きることがわかっていました。その中で第一弾として起きたのがコロナ・ウィルスの世界への蔓延だったのです。コロナ・ウィルスによって世界はパンデミックに見舞われ、世相は一変して陰鬱なものになってしまいました。各国政府は国民の救済に汲々とし、今年のイベントのメインである東京オリンピックは1年延期になってしまいました。しかし、そのオリンピックも来年確実に開催されるということは保証できません。我々人類は、この危機をどのようにして超えていくべきでしょうか。

 

 (1)歴史の背後に秘められた摂理

 歴史は繰り返すといわれてきました。なぜ繰り返すのかと聞かれれば答えに窮しながらも、世界は循環しながら発展しているから起きるのではないかと人々は推測しています。

 私は、日本近代歴史は40年周期で発展と衰退を繰り返しているという40年周期説を主張しています。概略は下図に示しました。これによると、2020年の東京オリンピックは80年前の1940年の開催される予定だった東京オリンピックの再現にあたります。1940年の時東京オリンピックは中止になり、その後1945年まで日本は戦争に突入して敗北して廃墟になっていきました。

 この歴史の繰り返し現象から見て、今回の東京オリンピックが無事に開催できることには前々から不安を抱いていました。案の定1年延期になってしまいました。これから2025年までの5年、このままいくと崩壊しかねないのです。

 

      日本近代の40年周期歴史 

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(2)摂理(外的摂理)の背後にある内的摂理

 40年周期説で述べている繰り返し現象は必ずしも決定されているものではありません。人間の選択によって、その度合いはかなり軽減できるのです。人間が賢明な選択をすることができればの話ですが。しかしほとんどの場合、人間は個人も企業も国家も保身を理由にした選択します。このことが、歴史の発展と崩壊の周期メカニズムを成立させています。

 西洋史ローマ法王のバビロン捕囚という事件があります。1309年、フランス王フィリップ4世はローマ法王クレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させました。それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなったのです。このことを旧約聖書に出てくるユダヤ人のバビロン捕囚になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」とか、「教皇のアヴィニヨン捕囚」と呼んでいます。(バビロン捕囚:紀元前586年、ユダ王国新バビロニアの王ネブカドネザル2世により征服され、ユダヤ人はバビロンに連行され捕囚となった。前538年にアケメネス朝キュロス2世によって解放された事件です。)

 この事件は、ユダヤキリスト教の歴史の中で非常に類似した事件として名づけられたのですが、これはイエス・キリストの十字架を中心にして摂理歴史を解明した時はじめて同時性として起きた現象であると理解できるのです。イエス・キリストが十字架に架けられて人類の罪を背負われて亡くなられたという内的摂理の失敗が引き起こした外的摂理だったのです。ノストラダムスの予言も出口王仁三郎の予言も、こうした内的摂理の失敗を原点として人類歴史の未来を見通した時、見えた未来の姿だったのです。

 この繰り返し現象、外的摂理を変えることができるかどうか、崩壊を小さくとどめることができるかどうか、それはこれから述べる内的摂理の確立にかかっているのです。幸いなことに、東京オリンピックは中止ではなく延期になりました。1年の猶予期間ができました。オリンピックは、若者の祭典、平和の祭典と言われています。オリンピックを無事に開催するということは、未来を担う若者が平和を希求して世界が一つになったという内的摂理の成就になるのです。とても重要な意味をもっています。

 

(3)大本教の「ひな型の理論」―内的摂理と外的摂理

 大本教には、大本で起きたことは日本で起きるという「ひな型の理論」の理論があります。「ひな型の理論」は、心の基台(内的基台)と現実世界とは連結していることを表しています。心の基台(内的基台)が失われ内的摂理が失敗すれば、現実世界も崩壊していくという結果を招くのです。

 大本教出口王仁三郎の受難と太平洋戦争の因果関係を記します。この場合、出口王仁三郎の受難が日本という国の受難と符合しているのです。

 王仁三郎は、自ら囚われることによって人類の罪を贖う宿命にあると自覚していたのです。

王仁三郎が三度目の入獄されたのが1935(昭和10)年12月8日未明。王仁三郎が保釈出所したのは、1942(昭和17)年8月7日でした。保釈されるやいなや、「わしが出た今日から日本が負け初めじゃ」と性懲りもなく放言しましたが、ちょうどこの日、米海兵一師団がソロモン群島のツラギとガナルカナル島に上陸し、翌8日には第一次ソロモン海戦と、米軍の本格的反撃が開始されるのです。

 王仁三郎が刑務所に入っていたのが1935年12月8日から42年8月7日までの6年8か月、日数にして2435日です。日本が連合軍の占領下にあったのは、連合軍先発隊が厚木飛行場に到着した1945年8月28日から1952(昭和27)年4月27日(日米講和条約発効前日)までの6年8か月、2435日。ともに閏年が2回入って、一日として狂いません。

第二次大本事件は、1935年12月8日に始まり、45年9月8日の大審院の判決で終ります。太平洋戦争は41年の12月8日に始まり、51年9月8日のサンフランシスコ講和条約の締結で終ります。閏年の数で日数こそ一日のずれが出ますが、月で数えると共にぴったり9年9か月。」

〈出典:出口和明「スサノオ考」霊界物語研究会編「予言と神話」八幡書店 1991 p279~280所収〉

 王仁三郎の摂理(受難)は、最初から決まっていた事ではありません。王仁三郎が担っていた摂理に人々がついていかなかったために起きた悲劇だったのです。大本教王仁三郎を国家は受け入れず、逆に迫害して潰したのです。この内的摂理の失敗が、外的摂理として日本が廃墟になるという結果を招いたのです。最終的にこの摂理は終戦後、不敬罪の有罪判決を受けることによってすべて終わりました。戦後、王仁三郎は戦争に協力しなくてよかったと述べました。賠償請求は、国民が苦労するからと言って放棄しました。

 現在も、王仁三郎の時のような内的摂理はなされていますが、これについては生々しいので語ることは控えます。一言だけいえば、王仁三郎の時と同じように、人々の不信が日本と世界を苦境に陥れています。1990年以降の日本の停滞も、この内的摂理の失敗が外的摂理としての日本停滞につながりました。そして、2020年以降の未来も輝かしい姿で迎えることができていないのです。

 

(4)内的摂理の役割―神は厳然として生きて働いている

 内的摂理とは、霊的世界を整え神が働ける条件を付与することです。そうすることによって、神と善なる霊的世界が現実世界に働きかけることができるようになるのです。内的摂理は、神を中心として人間が一つになり神が働ける内的基台を醸成して、神が現実世界に働ける条件の醸成することなのです。内的基台ができた分だけ神は働けるのです。内的基台を作り内的摂理が展開するように人間が動けば、後は神が働き万事うまくいくのです。この分野は今まで宗教が担ってきました。国家守護という言葉は、こうした意味をもっているのです。

 余談ですが、宗教とは神頼みの御利益をえようとする弱い人間のすがるものとか神様とはすべての人間をあまねく救う万能のような存在で、現実社会には関りがないと考えている方がほとんどだと思いますが、神はそんな次元の低い存在ではありません。人類歴史を動かしている存在なのです。但し、人間の内的基台が整わない限り神は働くことはできませんが。内的基台(信仰条件)が整っていない場合、期間限定でサタン(神と反対のエネルギー)が働くのです。栄枯盛衰の循環ドラマが繰り広げられるのです。

 私は、ブログ「日蓮の警告が受け入れられていれば、蒙古襲来という悲劇は避けられていただろう」(2015/7/27)で、日蓮という日本の霊的支柱であった存在と主張を受け入れていれば、元寇という蒙古襲来の国難は防ぐことができたはずだったと述べました。日蓮は、国難を予知して「立正安国論」を書いて、鎌倉幕府に訴えたのですが退けられ迫害を受けて佐渡島流しにされてしまいました。日蓮が受け入れられたのは、蒙古襲来が起きてからでした。最初の蒙古襲来は防ぐことができなかったのです。

 現在、宗教はあまりにも軽んじられていますが、神を無視すると内的摂理が失敗した形で外的摂理が展開することになります。宗教は国家の霊的基台(内的基台)を醸成しているので、もしその宗教を迫害すれば国家の命運は尽きてしまうのです。内的摂理として内的基台が成立しなかった場合、外的摂理はサタンの手に奪われ対立抗争の形で展開することになります。(人類歴史はほぼこのパターンである。)

 神の存在を否定した共産主義は、内的摂理が失敗した上に外的摂理が展開されるので、70年が存続期限になり霊脈は終焉します。サタンの手中の中での繁栄は、期間限定で崩壊してしまうのです。ソ連の解体はこうした摂理的事情で起きたのです。中国も北朝鮮も同様の終焉の時期を迎えています。期間が終了すると自動的に崩壊するのであれば放置しておけばいいように考えますが、新しいものがない場合ソ連解体後のロシアのように違う形で混乱が続くので、新しい時代の価値観を準備する必要があります。なければ、権力交代だけが起きて同じような統治が続くことになります。

 

(4)価値観を変えること

 コロナ・ウィルスによる人類への攻撃は、人類に価値観を悔い改めよ、神が存在し神に対して愛と畏敬の念を取り戻すために起きていると理解することが重要です。

 現代の危機は、地球が滅びるか否かの瀬戸際の危機です。歴史上、ノアの箱舟以来2度目の危機なのです。人類と地球の未来を憂い、持続可能な地球創成に真剣になるのも当然なのです。しかし、何が問題の本質かがわかっていません。人間の心が問題なのです。自分を先に考え、他人を後回しにする価値観、これが自己と他己、国と国の対立と抗争を生み世界を危機に陥れている問題の根本なのです。

 人類歴史上2度目の世直しの時が来たと説いていた大本教は、今から100年前既に御魂を水晶のようにしなければ弥勒の世に入れないと説いていました。今度の世直しは、天地がひっくり返るような立て替えなので激動が避けられない、世界大戦もこの一環として起きるものである、また、人類の20%から80%減少するかもしれないと予言しています。とんでもない大災厄が襲ってくるとされているのです。

大本教に降りた啓示>

  • 従前の世界は肉欲的強者優勝の時代で在りて、如何罪穢のある金銭でも、栄輝に致せば人が崇めて、他人は難渋いたしても自己さえ足けりゃ良いと思ふて、後運の判らぬ世で在りたから、我が子孫に毒を皆が呑まして居るが、親の運は子に在り、子が苦しむと親が苦しむが、人を苦しめたら我れに出て来るぞよ。(「大本神諭」明治三十六年旧六月七日)
  • 是丈け悪に化りきりた身魂を、善一とつのみろくの世にして仕舞ふのであるから、今度の世の立替を致したら、是迄の世の持ち方を薩張り替へて仕舞ふて、水晶の世に致して仕舞ふのであるから、此の転換期が辛いぞよ。(「大本神諭」明治三十六年旧十二月二十五日)
  • 今度の二度目の世の立替は、此世始まりてからの大望な世の立替であるから、天地がひつくりかへるのであるから、今度の世の立替を致したら、水晶の世に致して、曇りありたら、其の身魂は、水晶の魂に曇りのかからん如うに、此の先きは致すのである。(「大本神諭」明治三十六年旧十二月二十五日)
  • 世界の今度の大戦争は世界中の人民の改心の為であるぞよ。万古末代戦争はつまらん物であるといふ事を、世界中の人民に覚らせる為の戦であるぞよ。まだまだ是では改心が出来ずに、日本の国を取る考へを外国の悪神が致して居るぞよ。(「大本神諭」大正六年旧二月九日)
  • 日本の国には神から大望な仕組が為て在る、向ふの国も大きな仕組を致して居るが、戦争と天災とが初りたら、人民が三分に減ると、初発の筆先に書いてあるなれど、茲に成ると世界に残る人民が、二分位より無いぞよ。日本の国には誠の者が二分残る仕組で在れど・・・。(「大本神諭」大正六年旧九月五日)

 

(5)神の働ける内的摂理の成就が日本存続の要

 世の立て替えは、肉欲的強者優勝の時代から善と愛の世界への転換なのです。今まで熱望してきた弥勒の世の到来であり、キリスト教でいう千年王国時代の到来なのです。これだけの大転換なのですから、ちょっとやそっとの大災厄ではすみません。

 80年前、王仁三郎の忠告(神の警告)を聞かず迫害した結果、日本は無残に焦土と化しました。現在もこのシナリオ通りに再現されてきています。これから5年果たして無事に日本は生き残れるでしょうか。

 まず、第一に成さなければならないことは、神が働けるすなわち滅びから逃れうる内的摂理(善と愛による絆の確立)を築くことです。そのためには、神が働いている一点を見出し、そこを中心にして内的基台を作ることです。そこが見いだせないと、霊界をまとめて神の働ける状況を作ることができません。その上に当面の外的摂理、「2020東京オリンピック」の開催に力を注ぐのです。オリンピックは、若者の祭典、平和の祭典といわれるように、若者が団結して取り組むことによって日本の未来を拓くことができるでしょう。そして東京オリンピックの開催は、神が守れる日本の内的摂理として日本の未来を崩壊から守ることにつながるでしょう。

 このためには、現代人はまず現在の価値観を間違いであると気づいて改心することから始めなければなりません。しかし罪深き人間は、その言葉の啓蒙よりも現実の肉欲・財・名誉にとらわれて価値観を改めることができていないのです。そこでやむなく大災厄が起こされてくるのです。早く改心しないととんでもないことになるでしょう。

 大本教に下りた神の警告を二つ引用してまとめとします。

「世の立て替え、立て直しは、神界、霊界より現実世界に及び、守護神・人民の改心ができぬと、大三災すなわち風・水・火、小三災すなわち饑・病・戦によって大掃除・大洗濯が行われる。また大地の隆起するところもあれば、海中に陥没するところもある。」

「日本と世界と大戦いが起こり、連合した世界の戦艦、兵力がドッと日本に攻め寄せてくる。」

出口王仁三郎の霊界探訪記

 大本教の聖師として20世紀前半活躍した出口王仁三郎は、出色した霊能者であり予言者であり宗教家であった。太平洋戦争の勃発と敗戦を予言していたことでも知られる。その功績は、未だ世界からほとんど評価されていない。あまりにも巨人であるがために理解できないようである。しかし、王仁三郎が主張し記述した内容は神からのメッセージであり真理である。これから研究を深めていくことが必要である。神のメッセージが隠されているのである。

 今回、王仁三郎が芙蓉仙人に先導されて訪れた霊界の入り口と審判について紹介する。ここで紹介する内容は、霊界物語.ネット~出口王仁三郎大図書館~からの転載であることをお断りしておく。

https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0105

 霊界の姿―天界、地獄界の様子については、上記WEBサイトに詳しく記述紹介されているので、関心のある方はアクセスしてください。

 

霊界物語 > 第1巻 > 第1篇 幽界の探険 > 第5章 霊界の修業

 霊界には天界と、地獄界と、中有界との三大境域があつて、天界は正しき神々や正しき人々の霊魂の安住する国であり、地獄界は邪神の集まる国であり、罪悪者の堕ちてゆく国である。そして天界は至善、至美、至明、至楽の神境で、天の神界、地の神界に別れてをり、天の神界にも地の神界にも、各自三段の区劃が定まり、上中下の三段の御魂が、それぞれに鎮まる楽園である。地獄界も根の国、底の国にわかれ、各自三段に区劃され、罪の軽重、大小によりて、それぞれに堕ちてゆく至悪、至醜、至寒、至苦の刑域である。今自分はここに霊界の御許しを得て、天界、地獄界などの大要を表示して見やう。

霊界の大要

[#図 霊界の大要]

 

 霊界の大要は大略前記のとほりであるが、自分は芙蓉仙人の先導にて、霊界探険の途に上ることとなつた。勿論身は高熊山に端坐して、ただ霊魂のみが往つたのである。

 行くこと数百千里、空中飛行船以上の大速力で、足も地につかず、ほとんど十分ばかり進行をつづけたと思ふと、たちまち芙蓉仙人は立留まつて自分を顧み、

『いよいよ是からが霊界の関門である』

といつて、大変な大きな河の辺に立つた。一寸見たところでは非常に深いやうであるが、渡つて見ると余り深くはない。不思議にも自分の着てゐた紺衣は、水に洗はれたのか忽ち純白に変じた。別に衣服の一端をも水に浸したとも思はぬに、肩先まで全部が清白になつた。芙蓉仙人とともに、名も知らぬこの大河を対岸へ渡りきり、水瀬を眺めると不思議にも水の流れと思つたのは誤りか、大蛇が幾百万とも限りなきほど集まつて、各自に頭をもたげ、火焔の舌を吐いてをるのには驚かされた。それから次々に渉りきたる数多の旅人らしきものが、いづれも皆大河と思つたと見えて、自分の渉つたやうに、各自に裾を捲きあげてをる。そして不思議なことには各自の衣服が種々の色に変化することであつた。あるひは黒に、あるひは黄色に茶褐色に、その他雑多の色に忽然として変つてくるのを、どこともなく、五六人の恐い顔をした男が一々姓名を呼びとめて、一人々々に切符のやうなものをその衣服につけてやる。そして速く立てよと促す。旅人は各自に前方に向つて歩を進め、一里ばかりも進んだと思ふ所に、一つの役所のやうなものが建つてあつた。その中から四五の番卒が現はれて、その切符を剥ぎとり、衣服の変色の模様によつて、上衣を一枚脱ぎとるもあり、或ひは二枚にしられるもあり、丸裸にしられるのもある。また一枚も脱ぎとらずに、他の旅人から取つた衣物を、或ひは一枚あるいは二枚三枚、中には七八枚も被せられて苦しさうにして出てゆくものもある。一人々々に番卒が附き添ひ、各自規定の場所へ送られて行くのを見た。

 

霊界物語 > 第1巻 > 第1篇 幽界の探険 > 第6章 八衢の光

 ここは黄泉の八衢といふ所で米の字形の辻である。その真中に一つの霊界の政庁があつて、牛頭馬頭の恐い番卒が、猛獣の皮衣を身につけたのもあり、丸裸に猛獣の皮の褌を締めこみ、突棒や、手槍や、鋸や、斧、鉄棒に、長い火箸などを携へた奴が沢山に出てくる。自分は芙蓉仙人の案内で、ズツト奥へ通ると、その中の小頭ともいふやうな鬼面の男が、長剣を杖に突きながら出迎へた。そして芙蓉仙人に向つて、

『御遠方の所はるばる御苦労でした。今日は何の御用にて御来幽になりましたか』

と恐い顔に似合はぬ慇懃な挨拶をしてゐる。自分は意外の感にうたれて、両者の応答を聞くのみであつた。芙蓉仙人は一礼を報いながら、

『大神の命により大切なる修業者を案内申して参りました。すなはちこの精霊でありますが、今回は現、神、幽の三界的使命を帯び、第一に幽界の視察を兼ねて修業にきたのです。この精霊は丹州高倉山に古来秘めおかれました、三つ葉躑躅の霊魂です。何とぞ大王にこの旨御伝達をねがひます』

と、言葉に力をこめての依頼であつた。小頭は仙人に軽く一礼して急ぎ奥に行つた。待つことやや少時、奥には何事の起りしかと思はるるばかりの物音が聞ゆる。芙蓉仙人に、

『あの物音は何でせうか』

と尋ねてみた。仙人はただちに、

『修業者の来幽につき準備せむがためである』

と答へられた。自分は怪しみて、

『修業者とは誰ですか』

と問ふ。仙人は答へていふ、

『汝のことだ。肉体ある精霊、幽界に来るときは、いつも庁内の模様を一時変更さるる定めである。今日は別けて、神界より前もつて沙汰なかりし故に、幽庁では、狼狽の体と見える』

と仰せられた。しばらくありて静かに隔ての戸を開いて、前の小頭は先導に立ち、数名の守卒らしきものと共に出できたり、軽く二人に目礼し前後に付添うて、奥へ奥へと導きゆく。上段の間には白髪異様の老神が、机を前におき端座したまふ。何となく威厳があり且つ優しみがある。そしてきはめて美しい面貌であつた。

 芙蓉仙人は少しく腰を屈めながら、その右前側に坐して何事か奏上する様子である。判神は綺羅星のごとくに中段の間に列んでゐた。老神は自分を見て美はしき慈光をたたへ笑顔を作りながら、

『修業者殿、遠方大儀である。はやく是に』

と老神の左前側に自分を着座しめられた。老神と芙蓉仙人と自分とは、三角形の陣をとつた。自分は座につき老神に向つて低頭平身敬意を表した。老神もまた同じく敬意を表して頓首したまひ、

『吾は根の国底の国の監督を天神より命ぜられ、三千有余年当庁に主たり、大王たり。今や天運循環、いよいよわが任務は一年余にして終る。余は汝とともに霊界、現界において相提携して、以て宇宙の大神業に参加せむ。しかしながら吾はすでに永年幽界を主宰したれば今さら幽界を探究するの要なし。汝は今はじめての来幽なれば、現幽両界のため、実地について研究さるるの要あり。しからざれば今後において、三界を救ふべき大慈の神人たることを得ざるべし。是非々々根の国、底の国を探究の上帰顕あれよ。汝の産土の神を招き奉らむ』

とて、天の石笛の音もさはやかに吹きたてたまへば、忽然として白衣の神姿、雲に乗りて降りたまひ、三者の前に現はれ、叮重なる態度をもつて、何事か小声に大王に詔らせたまひ、つぎに幽庁列座の神にむかひ厚く礼を述べ、つぎに芙蓉仙人に対して、氏子を御世話であつたと感謝され、最後に自分にむかつて一巻の書を授けたまひ、頭上より神息を吹きこみたまふや、自分の腹部ことに臍下丹田は、にはかに暖か味を感じ、身魂の全部に無限無量の力を与へられたやうに覚えた。

 

霊界物語 > 第1巻 > 第1篇 幽界の探険 > 第7章 幽庁の審判

 ここに大王の聴許をえて、自分は産土神、芙蓉仙人とともに審判廷の傍聴をなすことを得た。仰ぎ見るばかりの高座には大王出御あり、二三尺下の座には、形相すさまじき冥官らが列座してゐる。最下の審判廷には数多の者が土下座になつて畏まつてゐる。見わたせば自分につづいて大蛇の川をわたつてきた旅人も、早すでに多数の者の中に混じりこんで審判の言ひ渡しを待つてゐる。日本人ばかりかと思へば、支那人朝鮮人、西洋人なぞも沢山にゐるのを見た。自分はある川柳に、

『唐人を入り込みにせぬ地獄の絵』

といふのがある、それを思ひだして、この光景を怪しみ、仙人に耳語してその故を尋ねた。何と思つたか、仙人は頭を左右に振つたきり、一言も答へてくれぬ。自分も強て尋ねることを控へた。

 ふと大王の容貌を見ると、アツと驚いて倒れむばかりになつた。そこを産土の神と仙人とが左右から支へて下さつた。もしこのときに二柱の御介抱がなかつたら、自分は気絶したかも知れぬ。今まで温和優美にして犯すべからざる威厳を具へ、美はしき無限の笑をたたへたまひし大王の形相は、たちまち真紅と変じ、眼は非常に巨大に、口は耳のあたりまで引裂け、口内より火焔の舌を吐きたまふ。冥官また同じく形相すさまじく、面をあげて見る能はず、審判廷はにはかに物凄さを増してきた。

 大王は中段に坐せる冥官の一人を手招きしたまへば、冥官かしこまりて御前に出づ。大王は冥官に一巻の書帳を授けたまへば、冥官うやうやしく押いただき元の座に帰りて、一々罪人の姓名を呼びて判決文を朗読するのである。番卒は順次に呼ばれたる罪人を引きたてて幽廷を退く。現界の裁判のごとく予審だの、控訴だの、大審院だのといふやうな設備もなければ、弁護人もなく、単に判決の言ひ渡しのみで、きはめて簡単である。自分は仙人を顧みて、

『何ゆゑに冥界の審判は斯くのごとく簡単なりや』

と尋ねた。仙人は答へて、

『人間界の裁判は常に誤判がある。人間は形の見へぬものには一切駄目である。ゆゑに幾度も慎重に審査せなくてはならぬが、冥界の審判は三世洞察自在の神の審判なれば、何ほど簡単であつても毫末も過誤はない。また罪の軽重大小は、大蛇川を渡るとき着衣の変色によりて明白に判ずるをもつて、ふたたび審判の必要は絶無なり』

と教へられた。一順言ひ渡しがすむと、大王はしづかに座を立ちて、元の御居間に帰られた。自分もまた再び大王の御前に招ぜられ、恐る恐る顔を上げると、コハそもいかに、今までの恐ろしき形相は跡形もなく変らせたまひて、また元の温和にして慈愛に富める、美はしき御面貌に返つてをられた。神諭に、

『因縁ありて、昔から鬼神と言はれた、艮の金神のそのままの御魂であるから、改心のできた、誠の人民が前へ参りたら、結構な、いふに言はれぬ、優しき神であれども、ちよつとでも、心に身欲がありたり、慢神いたしたり、思惑がありたり、神に敵対心のある人民が、傍へ出て参りたら、すぐに相好は変りて、鬼か、大蛇のやうになる恐い身魂であるぞよ』

と示されてあるのを初めて拝したときは、どうしても、今度の冥界にきたりて大王に対面したときの光景を、思ひ出さずにはをられなかつた。また教祖をはじめて拝顔したときに、その優美にして温和、かつ慈愛に富める御面貌を見て、大王の御顔を思ひ出さずにはをられなかつた。

 大王は座より立つて自分の手を堅く握りながら、両眼に涙をたたへて、

『三葉殿御苦労なれど、これから冥界の修業の実行をはじめられよ。顕幽両界のメシヤたるものは、メシヤの実学を習つておかねばならぬ。湯なりと進ぜたいは山々なれど、湯も水も修行中には禁制である。さて一時も早く実習にかかられよ』

と御声さへも湿らせたまふた。ここで産土の神は大王に、

『何分よろしく御頼み申し上げます』

と仰せられたまま、後をもむかず再び高き雲に乗りて、いづれへか帰つてゆかれた。

 仙人もまた大王に黙礼して、自分には何も言はず早々に退座せられた。跡に取りのこされた自分は少しく狼狽の体であつた。大王の御面相は、俄然一変してその眼は鏡のごとく光り輝き、口は耳まで裂け、ふたたび面を向けることができぬほどの恐ろしさ。そこへ先ほどの冥官が番卒を引連れ来たり、たちまち自分の白衣を脱がせ、灰色の衣服に着替させ、第一の門から突き出してしまつた。

 突き出されて四辺を見れば、一筋の汚い細い道路に枯草が塞がり、その枯草が皆氷の針のやうになつてゐる。後へも帰れず、進むこともできず、横へゆかうと思へば、深い広い溝が掘つてあり、その溝の中には、恐ろしい厭らしい虫が充満してゐる。自分は進みかね、思案にくれてゐると、空には真黒な怪しい雲が現はれ、雲の間から恐ろしい鬼のやうな物が睨みつめてゐる。後からは恐い顔した柿色の法被を着た冥卒が、穂先の十字形をなした鋭利な槍をもつて突き刺さうとする。止むをえず逃げるやうにして進みゆく。

 四五丁ばかり往つた処に、橋のない深い広い川がある。何心なく覗いてみると、何人とも見分けはつかぬが、汚い血とも膿ともわからぬ水に落ちて、身体中を蛭が集つて空身の無い所まで血を吸うてゐる。旅人は苦さうな悲しさうな声でヒシつてゐる。自分もこの溝を越えねばならぬが、翼なき身は如何にして此の広い深い溝が飛び越えられやうか。後からは赤い顔した番卒が、鬼の相好に化つて鋭利の槍をもつて突刺さうとして追ひかけてくる。進退これきはまつて、泣くにも泣けず煩悶してをつた。にはかに思ひ出したのは、先ほど産土の神から授かつた一巻の書である。懐中より取出し押しいただき披いて見ると、畏くも『天照大神、惟神霊幸倍坐世』と筆蹟、墨色ともに、美はしく鮮かに認めてある。自分は思はず知らず『天照大神、惟神霊幸倍坐世』と唱へたとたんに、身は溝の向ふへ渡つてをつた。

 番卒はスゴスゴと元の途へ帰つてゆく。まづ一安心して歩を進めると、にはかに寒気酷烈になり、手足が凍えてどうすることも出来ぬ。かかるところへ現はれたのは黄金色の光であつた。ハツと思つて自分が驚いて見てゐるまに、光の玉が脚下二三尺の所に、忽然として降つてきた。

 

この後、地獄界、天界の訪問記が記述されている。

出口王仁三郎の修行回顧録

  出口王仁三郎は、明治31年如月九日、富士浅間神社の祭神、木花咲耶姫命の天使、松岡芙蓉仙人に導かれて、高熊山に一週間の修業を命ぜられたという。王仁三郎は、修行について次のように書いている。

(この内容は、霊界物語.ネット~出口王仁三郎大図書館~からの転載であることをお断りしておく。https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0101

 

 自分はそれまでに二十七年間の俗界での悲痛な修行を遂行した。その卒業式ともいふべきものであつて、生存中ただ一回のみ空前絶後の実修であつた。

 霊界の業といへば世間一般に深山幽谷に入つて、出世間的難行苦行をなすこととのみ考へてをる人が多いやうである。跣足や裸になつて、山神の社に立籠り断食をなし、断湯を守り火食をやめて、神仏に祈願を凝らし、妙な動作や異行を敢てすることをもつて、徹底的修行が完了したやうに思ひ誇る人々が多い。

 世には……釈迦でさへ檀特山において数ケ年間の難行苦行をやつて、仏教を開いたではないか、それに僅か一週間ぐらゐの業で、三世を達観することを得るやうになつたとは、あまりの大言ではあるまいか……と、疑問を抱く人々もあるであらう。

 すべて業は行である以上は、顕幽一致、身魂一本の真理により、顕界において可急的大活動をなし、もつて天地の経綸に奉仕するのが第一の行である。たとへ一ケ月でも人界の事業を廃して山林に隠遁し怪行異業に熱中するは、すなはち一ケ月間の社会の損害であつて、いはゆる神界の怠業者もしくは罷業者である。すべて神界の業といふものは現界において生成化育、進取発展の事業につくすをもつて第一の要件とせなくてはならぬ。

 しかるに自分から山林に分入りて修行することを非難しておきながら、かんじんの御本尊は一週間も高熊山で業をしたのは、自家撞着もはなはだしいではないか……との反問も出るであらうが、しかし自分はそれまでに二十七年間の俗界での悲痛な修行を遂行した、その卒業式ともいふべきものであつた。

 

霊界物語 > 第1巻 > 第1篇 幽界の探険 > 第3章 現界の苦行

 高熊山の修行は一時間神界の修行を命せられると、現界は二時間の比例で修行をさせられた。しかし二時間の現界の修行より、一時間の神界の修行の方が数十倍も苦かつた。現界の修行といつては寒天に襦袢一枚となつて、前後一週間水一杯飲まず、一食もせず、岩の上に静坐して無言でをつたことである。その間には降雨もあり、寒風も吹ききたり、夜中になつても狐狸の声も聞かず、虫の音も無く、ときどき山も崩れむばかりの怪音や、なんとも言へぬ厭らしい身の毛の震慄する怪声が耳朶を打つ。寂しいとも、恐ろしいとも、なんとも形容のできぬ光景であつた。……たとへ狐でも、狸でも、虎狼でもかまはぬ、生ある動物がでてきて生きた声を聞かして欲しい。その姿なりと、生物であつたら、一眼見たいものだと、憧憬れるやうになつた。アヽ生物ぐらゐ人の力になるものはない……と思つてゐると、かたはらの小篠の中からガサガサと足音をさして、黒い影の動物が、自分の静坐する、一尺ほど前までやつてきた。夜眼には、確にそれと分りかねるが、非常に大きな熊のやうであつた。

 この山の主は巨大な熊であるといふことを、常に古老から聞かされてをつた。そして夜中に人を見つけたが最後、その巨熊が八裂きにして、松の枝に懸けてゆくといふことを聞いてゐた。自分は今夜こそこの巨熊に引裂かれて死ぬのかも知れないと、その瞬間に心臓の血を躍らした。

 ままよ何事も惟神に一任するに如かず……と、心を臍下丹田に落着けた。サアさうなると恐ろしいと思つた巨熊の姿が大変な力となり、その呻声が恋しく懐しくなつた。世界一切の生物に、仁慈の神の生魂が宿りたまふといふことが、適切に感じられたのである。

 かかる猛獣でさへも寂しいときには力になるものを、況んや万物の霊長たる人においてをやだ。アゝ世界の人々を悪んだり、怒らしたり、侮つたり、苦しめたり、人を何とも思はず、日々を暮してきた自分は、何とした勿体ない罰当りであつたのか、たとへ仇敵悪人といへども、皆神様の霊が宿つてゐる。人は神である。否人ばかりではない、一切の動物も植物も、皆われわれのためには、必要な力であり、頼みの杖であり、神の断片である。

 人はどうしても一人で世に立つことはできぬものだ。四恩といふことを忘れては人の道が立たぬ。人は持ちつ持たれつ相互に助け合うてゆくべきものである。人と名がつけば、たとへ其の心は鬼でも蛇でもかまはぬ。大切にしなくてはならぬ。それに人はすこしの感情や、利害の打算上から、たがひに憎み嫉み争ふとは、何たる矛盾であらう、不真面目であらう。人間は神様である。人間をおいて力になつてくれる神様がどこにあるであらうか。

 神界には神様が第一の力であり、便りであるが、現界では人間こそ、吾等を助くる誠の生きたる尊い神様であると、かう心の底から考へてくると、人間が尊く有難くなつて、粗末に取扱ふことは、天地の神明にたいし奉り、恐れありといふことを強く悟了したのである。

 これが自分の万有に対する、慈悲心の発芽であつて、有難き大神業に奉仕するの基礎的実習であつた。アゝ惟神霊幸倍坐世。

 

霊界物語 > 第1巻 > 第1篇 幽界の探険 > 第4章 現実的苦行

 つぎに自分の第一に有難く感じたのは水である。一週間といふものは、水一滴口に入れることもできず、咽喉は時々刻々に渇きだし、何とも言へぬ苦痛であつた。たとへ泥水でもいい、水気のあるものが欲しい。木の葉でも噛んでみたら、少々くらゐ水は含んでをるであらうが、それも一週間は神界から飲食一切を禁止されてをるので、手近にある木の葉一枚さへも、口に入れるといふわけにはゆかない。その上時々刻々に空腹を感じ、気力は次第に衰へてくる。されど神の御許しがないので、お土の一片も口にすることはできぬ。膝は崎嶇たる巌上に静坐せることとて、是くらゐ痛くて苦しいことはない。寒風は肌身を切るやうであつた。

 自分がふと空をあふぐ途端に、松の露がポトポトと雨後の風に揺られて、自分の唇辺に落ちかかつた。何心なくこれを嘗めた。ただ一滴の松葉の露のその味は、甘露とも何ともたとへられぬ美味さであつた。

 これを考へてみても、結構な水を火にかけ湯に沸して、温いの熱いのと、小言を言つてゐるくらゐ勿体ないことはない。

 草木の葉一枚でも、神様の御許しが無ければ、戴くことはできず、衣服は何ほど持つてをつても、神様の御許しなき以上は着ることもできず、あたかも餓鬼道の修業であつた。そのお蔭によつて水の恩を知り、衣食住の大恩を覚り、贅沢なぞは夢にも思はず、どんな苦難に逢ふも驚かず、悲しまず、いかなる反対や、熱罵嘲笑も、ただ勿体ない、有難い有難いで、平気で、社会に泰然自若、感謝のみの生活を楽むことができるやうになつたのも、全く修行の御利益である。

 それについて今一つ衣食住よりも、人間にとつて尊く、有難いものは空気である。飲食物は十日や廿日くらゐ廃したところで、死ぬやうな事はめつたにないが、空気はただの二三分間でも呼吸せなかつたならば、ただちに死んでしまふより途はない。自分がこの修行中にも空気を呼吸することだけは許されたのは、神様の無限の仁慈であると思つた。

 人は衣食住の大恩を知ると同時に、空気の御恩を感謝せなくてはならない。しかし以上述べたるところは、自分が高熊山における修行の、現界的すなはち肉体上における神示の修行である。霊界における神示の修行は、到底前述のごとき軽い容易なものではなかつた。幾十倍とも幾百倍ともしれぬ大苦難的修練であつた。

現代文明を変革する旗手は日本である。日本が立ち上がらなければ世界が滅びる

 終末を迎えている世界の中で、唯一打開の術を秘めているのが日本です。まさかと思う人が大半でしょう。でもそのうちわかります。日本が立ち上がり世界を指導していかなければ人類と世界が滅びるのです。こんなことは、欧米思想に絡められて毒されて民族の原点を見失ってしまった現代日本人には理解できないことでしょう。とはいえ、誰もが欧米文明が限界に来ていて考え方を変えなければ未来がないことだけは感じているはずです。でも何が間違いなのか、どうすればいいのか?限界が訪れた時模索する方向はまったく違う観点です。それは何なのか?このことについて記述していきます。それは、欧米思想の原点「聖書」と日本民族の原点の神話「古事記」を通して紐解いていくことです。
 聖書と古事記は、水と油のように全く別物のように思われています。それは間違いです。理解されていないだけです。神は、まったく異なるように見える二つの啓示を通して人類を導いているのです。聖書と古事記は、一言で言えば「男性宗教」と「女性宗教」、「天の宗教」と「地の宗教」という大きな違いがあります。すべての事物が男性(プラス)と女性(マイナス)が一つに結びついて発展していくように、男性神だけでも女性神だけでも行き詰まるのです。聖書と古事記は、補完関係にあるのです。
 聖書は、救い主としてメシアを待ち望み、メシアの救いが世界を救うと予言してきました。確かにそのとおりであり、メシアが降臨してメシアの救いがもたらされました。メシアは、「天の動きと人間の復帰の法則」を携えて来られました。しかし、人間の復帰の法則が地上で花開くためには、地上で受け入れる土壌が必要なのです。どんな良き種も良き土壌がないと芽を出すことができません。よき土壌となる受け皿が必要なのです。よき男性の種を受け止める女性が必要なのです。日本はその良き受け皿であるのです。天照大神が女性神であるということは偶然ではありません。日本の使命は、神の準備したよきものを受け入れて花開かすことなのです。そのためか、日本の宗教「神道」は教義というものに乏しくすべて受容するという精神に富んでいるのです。それでいいのです。よきものを受け入れるためには、空の方がいいのです。大和魂とは、武士の魂のように思われていますが、平安時代は日本化するという意味でした。日本は、外国のものを取り入れることによって発展するようにできているのです。なぜなら日本は女性神の国だからです。
  しかし、日本にはよきものだけが入ってくるわけではありません。悪いものも入り込んできます。昔は海によって隔絶されていたため、貿易・交流を閉鎖することによって容易に閉じることができました。しかし、近代になってそうすることもできず、西欧諸国の思想と貿易の要求によって、西欧化した国づくりをせざるを得ないことになりました。正に民族の危機が訪れたのです。以下に引用した大本教の開祖出口なおさんに神が最初におろしたお筆書き(明治25〈1892〉年旧正月)は、日本民族の危機を切々と訴えています。神が日本の行く末を本当に心配しているのです。しかし残念ながら、日本民族は、神の心配をよそに欧米化の道を盲目的に受容して没落の道を突き進んできたのです。正しかったでしょうか。今の価値観に永続性がありますか。もう後はないことを知るべきです。

出口なおー明治25〈1892〉年旧正月―お筆書き(大本神諭)
 三ぜん世界一同に開く梅の花艮の金神の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。日本は神道、神が構わな行けぬ国であるぞよ。外国は獣類の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ。是では、国は立ちては行かんから、神が表に現はれて、三千世界の立替へ立直しを致すぞよ。用意を成されよ。この世は全然、新つの世に替へて了ふぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ。神の申した事は、一分一厘違はんぞよ。毛筋の横巾ほども間違いは無いぞよ。これが違ふたら、神は此の世に居らんぞよ。
 『東京で仕組を駿河美濃尾張大和玉芝国々に、神の柱を配り岡山』 天理、金光、黒住、妙霊、先走り、とどめに艮の金神が現はれて、世の立替を致すぞよ。世の立替のあるといふ事は、何の神柱にも判りて居れど、何うしたら立替が出来るといふ事は、判りて居らんぞよ。九分九厘までは知らしてあるが、モウ一厘の肝心の事は、判りて居らんぞよ。三千世界の事は、何一とつ判らん事の無い神であるから、淋しく成りたら、綾部の大本へ出て参りて、お話を聞かして頂けば、何も彼も世界一目に見える、神徳を授けるぞよ。
(中略)
 からと日本の戦いがあるぞよ。此いくさは勝ち軍、神が蔭から仕組が致してあるぞよ。神が表に現はれて、日本へ手柄致さすぞよ。露国から始まりて、モウ一と戦があるぞよ。あとは世界の大たたかいで、是から段々判りて来るぞよ。日本は神国、世界を一つに丸めて、一つの王で治めるぞよ。そこへ成る迄には中々骨が折れるなれど、三千年余りての仕組であるから、日本の上に立ちて居れる守護人に、チット判りかけたら、神が力を付けるから、大丈夫であるぞよ。世界の大峠を越すのは、神の申す様に、素直に致して、何んな苦労も致す人民でないと、世界の物事は成就いたさんぞよ。神はくどう気を付けるぞよ。此事判ける御魂は、東から出て来るぞよ。此御方が御出になりたら、全然日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光り輝く神世になるぞよ。大将を綾部の高天原の竜門館に、○○さんならん事が出て来るぞよ。中々大事業であれども、昔からの生神の仕組であるから、別条は無いぞよ。
 一旦たたかい治まりても、後の悶着は中々治まらんぞよ。神が表に現はれて、神と学との力競べを致すぞよ。学の世はモウ済みたぞよ。神には勝てんぞよ。

 お筆書きは、弱肉強食の悪魔の世の中が来ようとしていること、このままでは先行きがないこと、終わりの時が来たから神が表に表れて世の中を立て直し、弥勒の世をつくると述べているのです。いつ世の中が立て直されるのでしょうか。大本教では、一人一人が改心するまで苦難が続くと述べています。お筆書きでは、なかなか改心しない人間に神も困り果てています。
 また、明治25年の時点で日清、日露、第一次世界大戦の勃発を予言しています。後日、太平洋戦争の勃発と敗戦も予言されています。実際、太平洋戦争が起きて日本は焼け野原になりました。そして今や第三次世界大戦勃発と人類存亡の危機の下にあります。大本教では、神は世界の洗濯をすると語っていることは、人間がひとりひとり御魂を洗いかえることが必要だ、それなくしては始まらない。ほっておいて弥勒の世が来るとは言っていないのです。間違いを正すことが必要不可欠なのです。
 これから聖書と古事記の記述を通して、神が伝えたかったこと、人間がなすべきことは何か、日本の使命について伝えていくことにします。

既に救世主は地上に生まれ役割を果たして天国に帰られた。救いの道は示されている

 人類歴史の中で、多くの宗教指導者が神の願いにこたえてその時代その時代その場所その場所において人々に多くの救いの恵沢を授けてきました。それは、多くの人々の苦悩を取りのぞき心に安らぎと活力をもたらし、生きる勇気と希望を与えることにありました。信仰は、人間にとってかけがえのないものとして生活に根付いていきました。世界中で神と信仰のない世界はありません。人間は、歴史の中で神のもとに帰るために宗教という準備された階段を一歩ずつ上ってきたのです。
 しかし、科学文明が全盛を極め人間が力を謳歌するようになった現代、人々は神と信仰を疑うようになりました。神と信仰は、必要なものに思われなくなってきたのです。神と信仰は、人間が作り出した妄想ではないかとさえ考えるようになりました。人間は、自らの力によってこの地上に天国が築けると過信するようになったのです。しかし、科学技術が発展した現代においても、人々の中には苦悩はなくならず、この世が対立と抗争に暮れる住みにくい世界であることには変わりはありません。地上を科学技術で快適なものにできると信じていた人たちも、地球環境の悪化の前にたじろぐばかりです。神を不信した人間にとって、この世界の苦悩からの救いは共産主義という社会革命にゆだねられました。神は必要ない立場に追いやられたのです。神はもうその立つべき位置さえもなくしてしまいました。
 しかし共産主義は社会体制を変革するものの、神を否定し人間精神の救いをないがしろにしたため息苦しいものにしかなりませんでした。社会の形をいかに整えたとしても、人間が改革前と同じような自分中心の考えをしている限り、そこに調和ある社会が築かれるはずはありませんでした。社会を無理やりに統治するには、権力による弾圧、粛清という方法しかありません。それは新たな抗争(内部闘争)を引き起こすのです。共産主義という理想を掲げても、体制が出来上がると恐怖社会が現出するのは当然のことなのです。
 人間の心が愛に満たされ正しく清らかなものでない限り地上に天国は訪れません。自分よりも他人のことを心配する、わが身を捨ててでも全体のことを気にかけるという心情がなければ、地上に天国など築けるはずもありません。しかし一人一人の人間はそうなっていません。人間は罪深いのです。罪深いということを自覚するところから天国建設は始まるのです。この地上は、今も苦悩が充満したままなのです。人々に喜びはもたらされてはいません。人々は心を変えてくださる救い主が必要だということに気づかなければいけません。
 人類歴史の中で人間は、この地上の救いは救世主によらなければ難しいと悟り、救世主(再臨主・弥勒)の降臨に託してきたことを思い出してほしいのです。弘法大師空海も、弥勒下生の時には自分も下生して協力すると語ったといわれています。宗教の究極の目的は、この地上に天国浄土を建設することにあるのですが、その鍵は救世主(再臨主・弥勒)の降臨にゆだねられてきたのです。
 降臨する救世主(再臨主・弥勒)には二つの使命があります。一つは、人類歴史の中で拭い去ることのできない罪とされている原罪(罪の根)の贖罪の道を示すこと、そしてもう一つは、地上における家族、氏族、民族、国家という対人関係の修復方法を教えに来ることです。人間は、この地上で生活する時、内外両面にわたってさまざまな対立抗争を繰り返しています。家族の中で、本当に全員が仲の良いかけがえのない家庭があるでしょうか。私たちは、多くの人間関係の苦しみの世界にまみれているのです。救世主は、こうした人間関係の軋轢が生まれた原因とその修復方法を教えに来るのです。この二つの道を信徒たちが実践することによってはじめて、この地上に救いが現実のものとなり、喜びに満ちた地上天国が実現していくのです。
 そんなことはありえないと思うことでしょう。これは、人類歴史にかつてなかった奇跡的な慶事なのですから当然です。黙示録の中にある「子羊の婚姻」は、この救いの姿を象徴的に表しているのです。このような救いが訪れるのですから、人々にとっては喜び以外の何物でもないはずです。しかし、そこに大きな障害があるのです。救いへの道を妨げる力が自らの内に働くのです。自らの内にある悪の力(罪)とは、自分中心の考え方です。人間を誘惑した悪魔(サタン)は、「人間は所詮自分中心の考えをする。だから、その考えに力を貸す」といって邪魔をするのです。自尊心・我が自らを救いへの道から閉じ込めてしまうのです。私と他人を不二のかけがえのない関係にすることを妨げるのです。
 このようなことが起こるため、救世主(再臨主・弥勒)が来られた時、心砕かれ苦悶の中で神を求め救い主を求める環境にある人のほうが幸いなのです。反対に栄耀栄華を謳歌している人は災いとなるのです。救いを必要とせず、神を求めようともしないからです。イエスの言葉、山上の垂訓は、最後の時に処すべき人々の態度を戒めています。

山上の垂訓(マタイ5-3~12)
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
1 2喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 終末の時は、神の救いに入る人と神から離れていく人に分かれるといわれています。終末というのは、神と今までこの地上の支配権を有している悪魔(サタン)が激突する時なのです。個人から始まり、家族、民族、国家、人類全体が激突する時なのです。この世の支配者である悪魔(サタン)―対立と力による支配―のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味しています。古き天地が滅び新しき天地が始まるのです。
 「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(出口日出麿)」。どのような形になるかは別として、混乱は避けられないのです。救世主(再臨主・弥勒)の降臨は、この地上に救いをもたらし神の国を実現するという人類歴史を大転換させる事件であり、この慶事を通して人類は新たな時代に踏み出していけるのです。

 しかし、降臨された救世主(再臨主・弥勒)も、やはりイエスの時と同じように虐げられ苦難の人生を歩まれました。既に、救世主(再臨主・弥勒)は、その役割を終え、天上に帰られましたが、どれだけの人がその価値を知っていたことでしょうか。その人生は、イエス・キリストの時と同じように虐げられ迫害を受け、その姿は栄光の主どころか泥まみれの宣教師にしか見えません。それどころか、怪僧ラスプーチンのように世を惑わす怪物として警戒されてしまったのです。その名を知ってはいるがその教えもその活動も知らない。風評だけに左右されて危険なものとして近づこうとしない存在になったのです。人間という存在は、歴史をかけてあれほど救い主を待ち望みながら、時が満ちその待ち望んだ人が来た時、信じることもついていくこともできないのです。それどころか、反対し虐待してその存在を消し去ろうとするのです。
 救世主(再臨主・弥勒)は、虐げられてみじめな末路を迎えるために来られたのではありません。そのようにさせたのは、救世主の行く道を妨げたその時代の人々の信仰や行いのためです。救世主(再臨主・弥勒)の救いを拒否したではありませんか。行くべき道のなくなった救世主には悲しい最期しか残されていなかったのです。イエス様が、迫害する人々に向かって「あなた方は何をしているのかわかっているのか」と慨嘆する場面がありますが、受け入れてもらえないもどかしさ口惜しさを抱えたイエス様の悲痛な心痛がいかばかりであったことかと察します。すべての人を救いに来たのに、人々は罵倒し石を投げつけてくる。そのことがどんな結末を迎えるのか。十字架にかけられたイエス様が、大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れに向かって、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。 不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだと言う日が、いまに来る。」(ルカ23-27~29)と語られます。イエス様の脳裏には、ユダヤ民族の過酷な未来が見えていたのです。
 それでも、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです」(ルカ23-34)と祈られました。エス様は、十字架の上で、自分を取り囲み、この十字架へと導いた者達を赦してくださるようにというとりなしの祈りをされたのです。
 イエスを十字架につけることについて、民衆は「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい(マタイ27-25)」とピラトにこたえました。ユダヤ人は、自ら選んでイエスを十字架につけたのでした。「イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した(マタイ27-30)」のです。言い訳はできません。自らメシアによる救いを拒否したのです。そのことにより、その後の歴史におけるユダヤ人の過酷な未来はいたしかたないものとなったのです。

 救世主(再臨主・弥勒)もやはり同じような道を歩まれました。人間は何と罪深いのでしょうか。神という究極の愛の主人から遣わされた独り子を無視し不遜な態度を取る姿は見苦しいとしか言えません。名前は知られてはいても、その教えも活動もほとんど理解されていません。人々は警戒し色眼鏡でみて近づこうとさえしませんでした。その結果、イエス様の時と同じように、そして同じように罵倒され、敬遠され、救いの道は閉ざされていったのです。
 しかし、その教えは正しいのです。教えに従って歩むことによって、救いは実感されていきます。救いの道は示されているのです。日が暮れる前に、救いの道を求めることが重要ではないでしょうか。現代は誰もが未来が見えにくくなっています。今の社会の価値観は音を立てて崩れ去ろうとしているのです。救世主(再臨主・弥勒)によって示される新しい天地につながれなければ未来は開かれていかないことに気づいていただきたいものです。

実験で実証された「祈り」の驚くべき効果

 「祈り」が私たち人間の生活に大きな力を発揮して来たことは明らかです。人間は窮地に立たされた時無意識に神に祈ります。私たち人間は、本能的と呼んでもいいくらい祈りという行為を身につけています。古来祈りのない社会はありませんでした。無神論の世界であっても、人間は困り果てると祈り求めているようです。

 「祈り」は、宗教だけの世界のように思っているかもしれませんが、どんな人も祈り求めることがあるでしょう。「祈り」という行為は、宗教という特別な世界のものではなく、普遍的なありふれた人間の行いなのです。人間は、祈ることによって神につながり救いを神に求めることを実践してきたのでした。祈ることを通して救いを実感した人が多いことがこうした習慣を築いてきたといえるでしょう。

 しかし一方では、祈りが本当に人間に不可欠な必要なものであることには疑念をいだく人も少なからず存在したことも事実です。祈ってはいてもその効果を感じず確信を持てないことも多いからです。その場合、いつしか祈ることをやめてしまいます。

 近年、医学の研究として「祈り」という人間の行為が取り上げられてきています。今まで宗教面からだけ論じられてきた「祈り」に科学のメスが入ったのです。その研究によると、「祈り」は明らかに効果をもっていることが証明されています。次のブログより研究結果について紹介します。https://www.88luck.jp/祈りの効果/ 

 ここ数年、アメリカを中心とした先進国の中では、『祈り』というものが新しい視点で大変注目を浴びています。バーバード大学、コロンビア大学デューク大学などの権威ある大学が、こぞって『祈り』の研究を進めているのです。全米120に及ぶ医大のうち、「信仰と医療」問題を取り上げる大学は、2004年には70校を超えるようになったそうです。 
 ハーバード大学のハーバード・ベンソン教授は『祈り』が呼吸数、心拍数、二酸化炭素排出量、酸素消費量の抑制を確かめ、『祈り』がガンや糖尿病、不妊症など病気に効果的に働くこともわかってきました。他にも、1200例以上の『祈り』に関する研究データが次々に確認されていますが、医学と科学、そして宗教を超えたその驚きの研究結果に、世界中の人々が今、『祈り』に関心を高めています。
 信じるか信じないかは別にして、これが1200例以上の事実です。

 

🔲 きっかけになった1988年、元カリフォルニア大学の心臓学教授ランドルフ・ビルドの実験 

実験で実証された『祈り』の驚くべき効果https://matome.naver.jp/odai/2147729808368487601

 1988年、元カリフォルニア大学の心臓学教授ランドルフ・ビルドは、厳密な実験によって、祈りによって大変な治療効果があることを証明しました。実験はサンフランシスコ総合病院のCCU(心臓病集中治療室)に入院中の患者393人を対象に、10ヶ月にわたり行われました。393人の患者はコンピュータにより無作為に分けられ、祈られるグループ192人と祈ってもらわないグループ201人に分け、臨床実験で行われる厳密な基準が適用されました。患者、看護婦、医師も、どのグループにどの患者が入るかを、知らないという厳格さでありました。

 患者のために祈る人たちを全国のカトリックプロテスタント教会、さまざまな宗教グループに呼びかけ、患者のために祈ってもらいました。祈る人には患者のファーストネーム、病名、現在の状況を簡単に知らせ、毎日その患者のために祈るように依頼しました。しかし、祈り方については、なんら指示もありませんでした。患者一人につき祈る人は5人から7人の割合でした。

 結果は衝撃的なものでした。

  • 祈られたグループでは抗生物質を必要とした人は、祈られないグループの6分の1であった。
  • 祈られたグループでは肺気腫になった人が、祈られないグループの3分の1であった。
  • 祈られたグループでは人工気道を確保する気管内挿管を必要とする人はいなかった。一方、祈られないグループでは12人が人工気道を必要とした。

 このように、祈られた患者グループは、祈られないグループに対して、驚くほど良い治療効果を示したのです。

この結果を見て、ウィリャム・ノーラン博士は、「この研究は精査に耐えうるものだ。・・・・・・・ おそらく、われわれ医師は『一日3回祈ること』と処方箋に書くべきなのだろう。祈りは効くのである」と述べたといいます。

 

🔲 ノースキャロライナのデューク大学医学部の調査報告

実験で実証された『祈り』の驚くべき効果

https://matome.naver.jp/odai/2147729808368487601

(出典:祈りによる療法、科学的立証へ向けて本格的な動き

 1986年から1992年にかけ、65歳以上の男女4000人を対象に健康におよぼす祈りの効果を調べた結果、「祈ったり聖書を読んでいる高齢者は、健康で長生きしている」と結論づけた。 メディアがこぞって好奇心の目を向けたのはいうまでもない。対象のほとんどがクリスチャンだった。老人学の専門誌「老人学誌」にも掲載された調査報告によると、6年の調査期間中に亡くなった人の数は、祈らない高齢者の方が約50%も高かった。ただし、祈りの頻度による違いはなかったという。
 ほかにも、「30年間にわたり高血圧患者を対象に行った調査では、教会に行っている人はいかない人よりも血圧が低い」「教会に通う人は通わない人に比べて冠状動脈の病気に罹る率が低い」「信仰心のある人は憂鬱や不安が要因のひとつになっている病気に罹る率が低い」「教会に行かない人の自殺率は通う人に比べ高い」――などの調査報告がある。いずれも祈るという心の作用が健康に影響しているといえるだろう。
 研究者のひとりハロルド・コーニング氏は「祈ることでストレスが解消されている」と説明する。祈りと瞑想のストレス解消のメカニズムはと同じだという。ストレスが高まるとアドレナリンなど体に害をおよぼすホルモンが分泌され、高血圧や免疫力低下を引き起こす。祈りや瞑想は、こういったストレス・ホルモンを抑える脳の化学物質「神経伝達物質」の分泌を促進するため、ストレスを解消するということがわかった。

 

🔲 実験で分かった祈りに関すること

 次のまとめ記事で、どんな祈りが効果が大きいかについてまとめてあります。転載します。参考にしてください。
実験で実証された『祈り』の驚くべき効果

https://matome.naver.jp/odai/2147729808368487601

(出典:祈りの力-インテリジェンスフィールズ)

 10年以上にわたり祈りの効果を客観的に研究しているスピンドリフトという組織があります。そこでは麦の発芽と祈りの関係を実験して、祈りの方や祈りの時間の長さ等々、効果ある「祈りの方法」について調査をしました。

(1)麦の発芽実験で、祈られたグループの種子の方の発芽率がはるかに高かった。(何度実験しても同じであった)。祈りは、発芽に効果があった。

(2)苦しい時ほど『祈り』の効果がある

 発芽しにくいように、麦の種を浸している水に塩分を加える実験で、塩分の濃度を増すほど(ストレスを多く与えるほど)祈りの効果が大きかった。このことから、祈ってもらう人が重い病気であるほど、あるいは、つらい、不幸な境遇にあるときほど、「祈り」の効果が大きいと思われる。

(3)『祈り』の量は『祈り』の効果と比例する

 麦の発芽実験で、祈る時間を2倍にした場合は、発芽率が2倍になった。このことは病人のために祈る場合、時々、祈る場合よりも、いつもその病人のことを思いながら、できるだけ多く、「祈り」の念を送ってあげるほうが病人のためによいといえる。

(4)対象を明確にした祈りが効果的

 祈りが効果を持つためには、誰に対して祈るのか、或いは何に対して祈るかと、はっきり「祈り」の対象を明確にして祈るほど、「祈り」の効果がある。このことから、ただ漠然と祈るよりも、「病気のAさん、Bさん、Cさん、Ⅾさん」と一人一人を意識しながら祈るほうが効果が大きいといえる。

(5)祈りの対象の数が増えても効果は減らない

 種子を用いた実験では、種子の数が多くても少なくても、結果は同じだった。このことから、「祈り」の対象数がいくら増えて、例えば1人の人への祈りであろうと、5人、10人であろうとも、「祈り」の効果は変わらないといえる。

(6)祈りの経験の長い人ほど祈りの効果が大きい

 実験によって、「祈り」の経験の長い人のほうが、浅い人よりも大きな効果を生むということが分かった。よって「困った時の神頼み」で、急に思い立って祈る人よりも、ふだんから神棚や仏壇に向かって「祈り」をしている人の「祈り」のほうが、効果が高いといえる。その意味では、神主や僧侶、神父、牧師の「祈り」の効果は大きいと思われる。

(7)「無指示的な祈り」は、「指示的な祈り」より効果が大きい

 「指示的な祈り」とは、例えば、ガンが治癒すること、苦痛が消えることなど、祈る人が特定の目標やイメージを心に抱いて祈ること。いわば祈る人は宇宙に「こうしてくれ」と注文をつける祈り方である。無視地的な祈りは、何らの結果も想像したり、注文したりせずに、ただ、「最良の結果になってください」とか「神の御心のままにしてください」とかと、宇宙を信じてお任せする祈り方。実験結果では、「指示的な祈り」と「無指示的な祈り」のどちらも効果は上がったが、「無指示的な祈り」のほうが「指示的な祈り」の2倍以上の効果をもたらすことも多かった。

(8)祈りに距離は関係ない

 サンフランシスコ総合病院の心臓病患者に対する祈りに関して、病院から遠い東海岸側からの祈りも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの祈りも、距離に関係なく、同様の効果があった。つまり、病院のすぐ側で祈るも、何百キロ離れたところから祈るのも、効果は同じだということです。