日本民族の危機《神は私たちの一挙手一投足を見つめておられる》という意識と感覚の喪失

(1)先日のサイン盗み疑惑事件
 先日の選抜高校野球全国大会(2019年)で、“サイン盗み疑惑”が問題となった。第6日の星稜(石川)―習志野(千葉)戦で星稜・林監督が習志野の二塁走者がサインを盗んでいたと試合後に指摘し、大会本部や審判委員が緊急会見するなど大騒動に発展した。

 フェアプレーで闘うスポーツの世界にもルール逸脱の蔓延という由々しき事態が進行しているようだ。関係者によると、以前からサイン盗み疑惑がなかなかなくならないらしい。記者会見を行った竹中事務局長は、「やってはいけないということは大会規則に書いてあること。なのにフェアプレーの本質をわかっていないと思われる行為が見受けられる。精神を作っていかないといけないし、口を酸っぱくして言い続けるしかない。前時代的な野球はやめましょう、ということですね」と、困惑したコメントを出された。

 経済活動においても、企業のコンプライアンスに問題があることは多々報じられてきた。見つからなければいいという感覚しかないのであろうか。いつから日本人は、このような感覚しか持たなくなってしまったのであろうか。神が私たちを見つめているということを気にしないのだろうか。それとも、神は人間がつくった架空のものと思っているのであろうか。

 困り切った時だけ神頼みをするという情けない姿に対しては、神はどうすることもできない。ここに、日本民族の本当の危機がある。


(2)身近に神を感じてきた日本民族の伝統
 古来、日本人は身近に神を感じて神を崇敬してきた。私たちの生活の周りには、常に神が存在した。かまどの神であり、山の神であり、田の神であった。神は身近な存在であった。その霊力が強い所には、祠をつくり神を祀ってきた。産土神を祀る日本古来の信仰では、そこら中に神の気配(正確には霊界の姿)を感じていた。日本は神々の国であり、人々は身近に神を感じてきたのである。親は、子供に「お天道様が見ているから恥じない行いをしなさい」と諭したものである。

 私たち日本人は、今も正月には神社に初詣をして静かに厳かに1年の始まりを祝う。静かに正月を祝う民族はほかにはいない。その風習は、神の前に心を正して神と共に新しい年を迎えるという日本の伝統である。正月には、年神あるいは歳徳神と呼ばれるご先祖様を各自の家に迎え入れてこれを祀る。ご先祖様は各自の家に戻って来られ、家族がみんなそろって年神と一緒に食事をする。大晦日の夕方に年神に神饌を供えて、翌朝その神饌をおろしてみんなで食べる。そのごった煮が雑煮である。

 また、日本人は言葉にならない雰囲気という会話によって無言の会話をしている。それは、他の国の人には実にわかりにくいものであるが、会話は言葉だけではないのである。それは時としてはっきりしないものではあるが、以心伝心としてその場の空気として会話が行われている。

 日本語の言葉も特殊である。日本語は「言霊」とも言われてきた。日本の言葉には霊力が宿っていると言われてきた。確かに、日本語はほかの言語と異なる面がある。一音一語で、音の響きによって意味を伝えるという特殊な一面がある。アルファベットが表音文字であり、漢字が表意文字であるならば、日本語は表霊言語と呼んでもいいかもしれない。

 そのような日本人であるからこそ、村の鎮守様を中心に村社会を形成できたと言えるだろう。しかし、いつしか日本人は神を感じなくなってしまった。感性が鈍くなってしまったようである。

 

(3)神を感じなくなった人間は、道徳と規則に頼ることになる
 神を感じ神に見つめられているという感覚を失うと、目に見える表面だけを取り繕う社会となる。私の心の奥底は誰にもわからないという意識は、他の人間にわからなければ何をしてもかまわないという意識を生む。社会秩序を保つためには、人間関係を正しく保つために表に現れる道徳を浸透させなければいけないという意識をもたらす。神が見つめておられるという意識のない世界では、道徳と規則だけが社会秩序を保つ拠り所となる。それは、一見必要不可欠の正しい姿のように思われる。

 しかし、神を感じない世界において、道徳を教え規則を作るということは、言葉によって秩序を形成するものとなるため、堅苦しく個人の自由と行動を縛るものとなっていく。道徳の背後に神が見つめているという意識がなければ、その場を支配する空気は安らいだものとならない。しかも規則は、時と共にエスカレートして細かくなっていく。心の通わないギクシャクとしたルールが支配する社会では、安らいだ情がそこに生まれず息苦しくなる。それはやがて、神なき人間が人間を支配する硬直した社会となる。神の愛と心情が欠落した社会は、平安と安らぎが感じられない冷たい社会を創り出していくのである。

 そして、最終的には神なき社会の秩序は全体主義に転化していく。共産主義や計画社会、近年懸念されているAIによるロボット奴隷社会となっていく。

 

(4)自由主義経済は、神に見つめられているということを自明のこととしてフェアプレーをするという精神が一般化して初めて成立したということを忘れてはいけない

 倫理学者であったアダム・スミスが経済活動について執筆した目的は、すべての人に最低限の富の確保をもたらすことなくしてこの世界において幸福を達成することができないという熟慮に基づいていた。一人一人が貧困を避けることが出来るか否かは、節約や勤勉など個人の努力だけでは難しい。社会全体の富の拡大なくして人間の幸福はもたらされないというのが、アダム・スミスが見出した結論であった。

 しかし、経済活動には多くの身勝手な活動が入り混じっている。富と地位に対する野心の競争となるため、それは社会の繁栄を推し進める一方、社会の秩序を乱す危険の大きいものである。  

 スミスはこの危険を乗り越えるためには、「競争はフェアプレーのルールに則って行われる必要がある」と主張した。そしてもし、フェアプレーの侵犯がなされるならば、(胸中の)観察者たちが許さないと述べた。私の心の中にある良心とそれを背後から神が見つめているという意識と感覚が経済活動を前進させる前提であることを教えたのだ。

 スミスが容認したのは、正義感によって制御された野心だけである。「見えざる手」が十分に機能するためには、放任されるのではなく「賢明さ」によって制御されなければならない。制御されないならば、人類と文明は当然ながら解体に向かうのである。

 神様は、いつも私たち人間を見つめておられ、神様の前に正しく行動する人には手を差し伸べ、背を向ける人にはため息をついておられることを忘れてはいけない。全ての力と救いは神様からきているのであり、神様なくして我々の平和と幸福はないのである。

 日本資本主義の父と言われている渋沢栄一も、「商人にとっては信用こそが根本だ」と主張し、誠実さが経済活動に不可欠であることを強調した。不正直に商売をしてももうけることはできるかもしれないが、そのような利益は決して永続するものではない。誠実に商売をしてこそ、安定的・持続的な利益を獲得することができると述べた。「不誠実に振る舞うべからず」「自己の利益を第一には図るべからず」。この言葉は、アダム・スミスと同様、心の中の良心とその背後に神様が見つめているという感覚からもたらされたものである。
 こうした精神が根付いていたからこそ、日本は近代化に成功したのである。


(5)この地上世界を築くのは、人間の責任である
 地上世界は、この地上で生活する人間が作り出すものである。無形の神は、人間に多くの知恵を与えることはできても、具体的に地上を作っていくのは人間である。神様は無形の存在であるので、具体的には直接手を下すことができない。この地上は、実際に住む人間によって作られる。住みやすくするのも、住みにくくするのも、人間である。その意味で、現在の地上の姿は人間の心の姿の反映である。地球が危機に瀕している現実は、人間の心が危機に瀕していることの反映でもあるといえよう。

 アダム・スミスも、人間はこの世界に責任をもつ必要があるということを述べていた。「道徳的存在は、責任ある存在である。責任ある存在は、そのことばが表現するように自己の諸行為についての説明を、だれか他人に与えなければならない存在であり、したがってそれらの行為をこの他人の好みに応じて規制しなければならない存在である。人間は、神と彼の被造物に対して責任を有する(『道徳感情論』3部2編)。」