古き天地が滅びて新しき天地が始まる。私たちは、神様が遣わされた弥勒(再臨主)につながらないと救われない

 私はこのブログを通して、宗教を多角的に取り上げてきました。ブログを読まれた方は50万近くになります。お読みになられた皆様には心から感謝いたします。

 私は、このブログを宗教の知識、必要性、心得を伝えるためだけに書き続けたのではありません。もちろん宗教を誤解している人には正しい理解をしていただきたいと願いました。それだけではありません。もっと本質的なことがあります。

 人類が歴史をかけて待ち望んだイエスの再臨(再臨主と呼ぶ。東洋では弥勒の降臨として待ち望まれた)がこの地上で実際に起こり、再臨主は救いの摂理を成し終えられて天に帰られたこと、その恵みが今地上にあることをお伝えしたいのです。再臨主の人生は、あまりにも苦難に満ちていました。イエス・キリストの十字架の人生のように私たちの至たらなさをすべて抱えて、この世の主サタン(悪魔)と壮絶な戦いをして来られました。そしてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。このあまりにも大きい恵みに対して感謝の言葉しかありません。私たちは今、再臨主につながることによって、この世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻ることができるようになったのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。

 今私たちは、多くの苦悩を抱えています。精神疾患、家庭の不和、孤独、貧困問題、環境問題、国家対立など。そのほとんどには解決の術がないように感じています。まして私たちが抱えている心の闇など自分で変えることなどできません。だからこそ苦しみ悩み絶望に襲われます。私たちは、自分が抱えている苦悩を自力では解決できないと気づいています。それと同時に、私たちは心の奥底では私を生かしている何らかの存在(神様)がいるのではないか、私たちは神様を必要とし神様のもとに帰ることが本当ではないか、とうすうす感じていませんか。

 私がブログを通して伝えたかったことは、自らの苦しみを救うのは神様だけであり、神様が遣わされた再臨主であること、私たちは再臨主につながらないと救われないということを伝えるためでありました。新約聖書の「使徒行伝」16章31節には、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とあります。これは本当です。自分の思いを捨てて主イエスを信じ侍ることによって、主イエスの霊(神の愛の情)が私の心の中に入ってくるのです。自らの思い(罪深い性)を悔い改め、主イエスに委ねることによってぎすぎすした心が消え平安な心へと心が洗われていくのです。

 悲しいことに、私が今まで再臨主と出会わないと救われないのだと説いても、誰一人そのことに耳を貸す人もいなければ、再臨主の救いを受けたいと言われた方もありませんでした。自らの心の闇、苦しみから救われることを願っておられないのでしょうか。そんなことはうそだ、あり得ない、再臨主は必要ないと感じておられるならば、自分で行ってみてください。よい結果が現れることを祈っています。

 現代が終末であることに異論を唱える人はいないでしょう。行くべき道がわからない今の状況は、このようになるべく予定されていました。終末とは、神とこの地上の支配権を有しているサタン(悪魔)が激突する時なのです。個人から始まり、家族、民族国家、人類全体の善と悪が激突する時なのです。そしてこの世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味しています。古き天地が滅び新しき天地が始まるという聖句は、こうしたことを語っているのです。

 それゆえ、終末にはすべてが混乱の局に達します。天変地異が起こり、人々が泣き叫び、もだえ苦しみ、多くの人が生命をなくすといわれるのも、以上のような理由によります。すべての人が混乱の中で、善と悪に分けられていくのです。イエス・キリストが「わたしは平和をこの地上にもたらすために来たのではない。むしろ分裂である」と語られているのは、すべてが善と悪に分けられるという意味です。

 イエス・キリストの時も終末でした。イエス・キリストは、ただ人類を救いに来られたのではありません。人々は、イエス・キリストの前で知らないうちに善と悪に分けられるので、イエス・キリストは審判主でもあったのです。

 イエスは、「わたしは火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう(ルカ第12章49~53)」と言われたことを見てもわかります。

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すぐにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ第5章24~25)」と言われたのです。

 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねた時には、次のような言葉を残されました。

「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ第17章26~33)」と言われ、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と言われたのでした。

 ゴルゴダの丘に向かうイエス・キリストは、悲しみ嘆く女たちにこうも言われました。

エルサレムの娘たちよ、私のために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日がいまに来る。そのとき、人々は山にむかって、われわれの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、われわれにおおいかぶされと言い出すであろう。(ルカ書第23章28~30)」と語られました。

 神の子イエス・キリストを十字架に架けたユダヤ民族は、神の身元からサタン(悪魔)に引き渡されることが決まったのです。イエスの死後40年後の西暦70年、エルサレムローマ帝国との間に起こったユダヤ戦争において陥落します。エルサレム神殿は破壊され、一部の生き残ったユダヤ人もマサダの砦で玉砕します。それ以降、1948年のイスラエル建国に至るまで2000年間、ユダヤ民族は国を失い放浪の民として迫害を受け、嘆き悲しむ受難の歴史を歩まざるをえなくなったのです。偶然で歴史は動いているのではありません。

 再臨主(東洋では、弥勒の降臨として待望されてきた)は、この世を創造された神と完全に一つになられたお方なのです。信じられないかもしれませんが、現代歴史のものすごい荒波の背後で神とサタンの摂理を賭けた闘いがなされてきました。再臨主につながるということは、神の霊(心情・愛)が私たちの心の中に注がれてくるという救いの恵沢を受けることができるのです。反対に、再臨主につながらないということは、サタン(悪魔)から逃れられないという宿命を受け継ぎ子々孫々に受け渡すことになるのです。2000年前に起きたように、一人一人が山羊と羊に分けられていくのです。

 この話は、キリスト教だけの話であって、キリスト教でないものには関係がないだと思われている方も多いかもしれません。しかし、日本の宗教も弥勒の世が来る前にはほぼ似たことが起こるのだと言っています。「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(大本教 出口日出麿)」。

 終末の時には多くの艱難が起こり、人々は神につながる人と悪の世界にとどまる人の善悪に分けられる審判があるのです。夜明け前が一番暗いといいますが、現在は弥勒の世が来る前の夜明け前だといっていいでしょう。私たちは今、改心して神様のもとに帰ることが一番大切なことなのです。

 審判は突如来ます。聖書の黙示録は、こう記しています。『ああ、わざわいだ、この大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた。(ヨハネの黙示録第18章―10)』審判は、核戦争か天変地異である可能性が高いでしょう。

 皆様には、神様の身元に帰る道を探し求めていただきたいと願います。そして皆様が信じている宗教は、神道も仏教もキリスト教も大本は一つの同じ神様から発している教えであることに気づいていただきたいのです。教えは、その時代その民族に合うように工夫されているだけで、すべては一つの神様につながっています。神様を探し求めましょう。神様を求める人、弥勒を求める人、再臨主を求める人は幸いなるかな。その人のもとには神の霊がとどまり神の栄光に与かれることになるでしょう。