宗教はなぜ儀式と浄財を重んじるのか?(1)

誰もが神社に参拝する時、神に祈りを捧げる時、供え物をする。神が本当に聞いていると思っている人はわずかかもしれないが、そのように行う。供え物は、自分の心の正直な証というつもりであるのだろう。私の本当の気持ち、願いが参拝と供え物という形になって表われているのだ。神の前では人は皆敬虔である。

このためであろうか、供え物は貴重なもの、清らかなものでなければならないというのが古来宗教の教えて来たことである。神に豊穣の感謝の祈りを捧げる時は、もっともよくできた初穂を捧げるのが鉄則である。心のこもったものを供えないと、神に受け取ってもらえないという恐れを感じるからであろう。

アニミズムシャーマニズムという土着宗教だけではない。旧約聖書に出てくる最初の供え物は、アダムとイヴの息子カインとアベルの供え物である。地を耕す者となったカインは、地の産物を、羊を飼う者となったアベルは群れのういごと肥えたものを供えた。人類は、神につながるためには供え物が必要であるということを創世記の時代から感じていたのである。

 

(1) 宗教が教えて来た浄財の姿

 

1-1、仏陀の最初の在家(一般人)への説教
仏陀の最初の在家への説教は、ベナレスの富豪の息子、人生に煩悶し懊悩していた青年ヤサに説教したのが最初であるとされている。「青年よ。ここに来るがよい。うとましさを脱した安らかな境地を教えてあげよう」と呼びかけられた。
釈尊は、順を追って説法された。
施論ーまず説かれたのが、他者への施し、布施についてである。布施は慈善とは違う。慈善は、他人のためにする行為であるが、布施は自分のためにする行為である。仏教は、自分の大切なものを人にもらっていただく。そうすることによって自分の気持ちが安まるから、お布施をさせていただくのである。「相手がありがとうというべきだ」という考え方は、相手を乞食扱いしている。布施の功徳を積むことによって、心が浄らかになる。正しく世界を見られるようになる。(ほんとうにそうである。)
戒論―次に基本的な戒として五戒を説いている。五戒は、命令ではない。a,不殺生戒、b,不妄語戒、c,不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、d,不邪淫戒、e,,不飲酒戒(ふおんじゅかい)。このような善い習慣を身につけようという意味である。そして、戒を犯したとき、素直に自分の過ちを反省して謝罪する(懺悔―さんげと読む)。自分の弱さを自覚してそれを懺悔するのが仏教者の生き方である。
生天論―因果応報の思想
わたしたちが布施の功徳を積み、そして戒を守って行くならば、わたしたちは必ず来世において天界に生まれることができる。逆に、わたしたちが布施の功徳を積まず、破戒をしながらなんの反省もなく、悪事を積み上げるならば、来世は必ず地獄に堕ちるという教えである。輪廻転生を信じたインド人は、未来における果報を「天に生まれる」と表現した。
この布施・戒・因果応報の三論がわかってはじめて仏教に入っていくことができるといわれた。

(ブログ2012年5月13日「 仏教のミニ知識1-釈尊の教え」)

布施・戒・因果応報の三つは密接に結びついているのである。(出家は、身施にあたる。)


1-2、空海弘法大師)の行った社会事業宗教的背景

空海弘法大師)は、多くの社会事業を行ったことでも知られている。香川県に残る満濃池は、周囲20キロに及び、この巨大な池の修築工事は空海の数ある業績の中でも、確かな史実として伝えられる代表的なものである。
空海は、なぜ多くの社会事業を行ったのか。その理由は、古代の勧進にあった。宗教者の衣食住、布教・法会・儀礼などの宗教行為、ついでその場となる寺院や堂塔、そこに収まる仏像並びに経典はすべて勧進によって集められた資縁(集められた金品)にかかっている。

古代、聖の勧進は、信者団体を結成して因果応報からくる悪果を説いてそれを免れる滅罪のための宗教的作善と社会的作善を行うという形ではじめられた。死後滅罪の一番良いのは、社会に奉仕することだと考えられていた。行基は、罪滅ぼしの奉仕をしなさいと言っている。社会事業のために橋を架けたり、道を造ったり用水を引いたりしたのではなく、そうすることによって行った人自身の罪も滅び、亡くなった人の罪も滅びるという理由である。

行基は、たびたび「罪福の因果を説く」と述べている。行基は、古代呪術と唱導巧みによって数千の人を集めたといわれる。四十九院といわれる多数の寺や道路・橋・溝・造船などの社会事業を行った。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その実績を認められ、後に大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として、聖武天皇により奈良の大仏東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。古代の社会事業の背景にも浄財の思想は息づいていたのである。

 

1-3、アブラハムのイサク燔祭

 供え物・燔祭といえば、忘れてならないのがアブラハムのイサク燔祭である。この燔祭は、神がアブラハムの信仰を認め、アブラハムがユダヤ教イスラム教キリスト教の祖としてその起点となる重要な供え物である。信仰の勝利は、子々孫々の繁栄を約束されるということにつながることになる。ひとり子を捧げるという不合理極まりない決断をしなければならなかったアブラハムの真情を神は見ておられたのである。

このように信仰による供え物は、不合理で人間には理解できないことが多い。合理的な思考になれた人から見れば、馬鹿げたものに違いないだろう。しかし、そこに神が存在するとすれば、答えは自ずから変わるのではないか。その場面を聖書から抜き出してみよう。

 「アブラハムよ」神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と。

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。

そして、アブラハムを祝福して言われた。

「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしはあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。(創世記22-1~19)

 

神は何をアブラハムに願ったのだろうか。モルモン書(モルモン教の経典)が答えている。人間が神と和解することを願ったのである。

アブラハムイサクささげようしたことは、神(かみ)神(かみ)独(ひと)り子(ご)相(そう)似(じ)あった。人(ひと)贖罪(しょくざい)通(つう)じて神(かみ)和(わ)解(かい)しなければならない。(モルモン書ヤコブ諸第4章)

宗教はなぜ儀式と浄財を重んじるのか?(2)

1-4、キリスト教献金

 聖書は、献金には神様の大きな恵みと祝福が伴うことを教えている。 「献金とは、会費・寄付金・説教の聴講料ではなく、イエス・キリストを信じた人が、その感謝の心を、神に対して金品をもって表わすものである。従って、感謝もなく、強いられたり、いやいやな思いでするなら、むしろしない方がよろしい」。

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は、欲ばって金銭を求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦難をもって自分自身を刺しとおした」(テモテへの第一の手紙6-10)

「信仰」とは、ある意味で抽象的なものである。人の信仰は目に見えないからである。しかしその「信仰」が、その人のお金や献金への態度になると、具体的に現われてくる。献金は信仰のバロメーター」とよく言われるゆえんである。献金という具体的な形を取ろうとすると、心の中にすぐっている醜い私が顔を出すのである。

またキリスト教では、十一献金をいう。マラキ書は次のように述べている。
「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。………それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。………十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て………こうしてわたしをためしてみよ。」(マラキ書3-8~10) 

神が求めているのは、私達の献金ではない。神が求めているのは、私達自身との深い交わりなのです。そして「あふれるばかりの祝福」を私達に注ぎたい、と願っておられることにある。そのすばらしい神と私達との交わりを、お金に対する執着などというもので壊してしまってはいけないと言っているのである。   

十一献金は、決して「教会の税金」ではない。十一献金の正確な意味は、「私達の全ての必要を満たして下さった神への、私達の感謝と献身の表現として、私達は『全て』を、つまり『十分の十』を神にささげるということ。すると神は十分の一を取って残りの十分の九を私達の生活のために下さる。」ということである。そして、神は私達の生活の必要を必ず全て満たして下さる、と約束して下さっていることを忘れてはいけない。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ福音書6-24)心に留めておきたい聖句である。

参考:http://www.imcj.org/bible/abc/l6.html

 

1-4、天理教中山みき教祖の「貧に落ち切れ」

 天理教の教祖中山みきさんの浄財はすさまじいの一言に尽きるものである。

中山みきさんは、天保9年(1838年)10月26日、「月日のやしろ」と定まられてからは、まず「貧に落ち切れ」との親神様の思召のままに、貧しい人々への施しに家財を傾けて貧のどん底への道を歩まれた。

1853年、夫・善兵衞が田地3町歩と屋敷を遺して病死すると、かねて宿願どおり「これから世界のふしんに掛る」といって、母屋を売却して一家は八畳と六畳の隠居所に移った。

このような常人には理解し難い信仰は、親族の反対はもとより、知人、村人の離反、嘲笑を招かずにはいなかった。しかし、貧窮の中で成長した五女こかんは、老いた母の真摯な信仰に引かれ、大坂の町で最初の布教に赴く。

その後さらに十年ほどのどん底の道中も、常に明るく勇んでお通りになり、時には食べるに事欠く中も「水を飲めば水の味がする」と子どもたちを励ましながらお通りになった。

こうした道中を経て、三女はるの初産の「をびや許し」を道あけとして、不思議なたすけが次々と顕れるにつれて、教祖を生き神様と慕い寄る人々が現れ始めていく。

「あしきはらひ」のおつとめに教祖が「貧に落ち切れ」と言われたのは当時の中山家だけ

開教直後の中山みきは、幾度も池や井戸へ投身を企てるなど、神と人との間のはげしい内面的矛盾の中を歩んだ。(中略)中山家の没落は、開教後の中山みきの、際限ない施与が原因とも伝えられているが、中山みきは、「貧に落ち切れ、貧に落ち切らねば難儀なる者の味わいが分からん」との神の命を聞き、すべての人間の救済を実現するための神の意志として、「谷底」への道をよろこんで迎えたという。「谷底せりあげ」すなわち民衆の救済は、中山みきの考えでは、中山家が「谷底」に落ち切ることによって、はじめてその第一歩を踏み出すはずであった。
(参考:村上重良「中山みき天理教」日本思想体系67「民衆宗教の思想」岩波書店1971所収)

 

信者を代表して中山みきさんが浄財をなされたのである。ちょうど、アブラハムがイサク燔祭をしてユダヤ教の始祖となったように、中山みきさんが神との和解の道を切り開かれたといえよう。大変敬服すべきことである。

 

1-5、儒教と祭祀

 孔子自身は、多くの儀礼について語ったが、厳密にいえば宗教的な話題には言及したことがない。鬼神に仕えることについて聞かれた時、「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕えられよう)」(先進第十一)と答えている。

ただ、中国では古来、自然=事物と鬼神とは表裏一体のものとして捉えられていた。自然や堅物の裏側に、ある霊妙なものの存在が予感されていた。『周礼』大宗伯にみえる雨師・風師は、雨や風の背後にあってそれらを現象せしめる神である。『中庸』第16章の「物に体して遣すべからず」というのも、より原初的には物の背後にある笹神などの鬼神をいっている。

孔子の孫、子思がまとめた『中庸』第十六章二節には次のように記述され、その重要性が指摘されている。

視之而弗見。聴之而弗聞。体物而不可遺。

<訓(鬼神は)之を視れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺す可からず>

仏教の挑戦を受けて再興された近代儒教宋学朱子学)では、霊妙な世界(霊界)は、鬼神が充満し、その物をその物たらしめている「物に体する(体物)」空間として説明した。鬼神は民衆の世界においては、日本語の「オニガミ」のように、具体的なお化けや幽霊、物の怪などを意味する。(「朱子語類」の記述でも最後のところで民衆の信仰の一端が書かれている。)

しかし朱子学では、鬼神は具体的なオニやお化けという実体があるのではなく、「二気(陰陽)の良能」(張横渠)として、気が帯びている陰陽の作用によって分かれる気の霊的エネルギー状態に「神」「鬼」という名をつけている。自然科学のように、陰陽の作用として受け止めている。(気が伸びるのが神、気が屈するのが鬼である。)

もの、すべての存在は、陰陽二気が凝集することによって生まれ、すなわち存在を開始し、それを散ずることによって存在を終える。物の体、物の骨子を形づくっているものが鬼神である(『朱子語類』九八)。物に体して遺す可からず」とは、鬼神があるからこそ物がある、という意味である。物の芯、骨格ともいうべきものであって、存在にリアリティを与えているのが「鬼神」なのである。

この説明を聞くと、霊的世界を他の宗教と形は少し違うがエネルギー的なものとして存在を前提にしていることがわかる。

 

では、儒教の祭祀であるが、このことについても朱子が「鬼神論」の中で述べている。

ところで人間が死ぬと、最後には散ってしまうことになるが、すぐに散ってしまうわけではない。だから祭祀に感格の理があるのだ。はるか遠い昔の先祖の場合、その先祖の気の有る無しはわからないが、しかし祭祀を取り行うものが、その人の子孫である以上、結局のところ気が同じなのだから、感通の理はあるのだ。しかしもはや散ってしまった気は、二度と凝まることはないのだ。ところが仏教徒は、人が死ぬと鬼になり、鬼がふたたび人になると考えている。もしそうなら天地の間には、常に大勢の人々が行ったり来たりしているだけであって、決して造化のはたらきによって生々しないのだ。こんな理は無いにきまっている。たとえば伯有の怨霊が祟ったという点になると、程伊川は別種の道理があるといっている。思うにその人の気がまだ尽くべきでないのに変死した時には、祟ることができるのであろう。子産が伯有のために跡目を立てて、落ち着き場所を与えてやったので、祟らなくなった。子産も鬼神の情状を知っていたといってよい。」

*感格:祖先の魂が感じてやって来る。

人に祟るものの場合は、まともな死に方をしなかったものが多い。その気が散らないので、結ばれて祟るのだ。体がひ弱くて病死した人の場合は、気が完全に消耗してから死ぬので、二度と結ばれて祟るようなことはない。しかしまともな死に方をしなかったものも、しばらくたつうちに散る。

問う。「子孫が祭祀を行う時には、誠意を尽くして祖先の精神(タマシイ)を集めますが、一体、祖先の魂気と体魄を合せるのですか、それとも魂気を感格させるだけですか。」

先生いう。蕭〔ヨモギ〕と祭脂(イケニエノアブラ)を焫(ヤ)くのは、〔祖先の魂〕気に報いるためであり、鬱鬯(ウツチョウ)の酒を〔地に〕灌ぐのは、〔祖先の体〕魄を招き寄せるためである。つまり祖先の魂気と体魄を合わせるのだ。いわゆる『鬼と神とを合はすは、教への至りなり』だ。」

やはり儒教も、儀式と供え物を重視しているのである。

〔参考:ブログ:2015年10月11日  朱子朱熹)の鬼神論(1)(2)〕

宗教はなぜ儀式と浄財を重んじるのか?(3)

  (2) 浄財の否定論の根拠

宗教がこのように昔から供え物・浄財を説いてきたにもかかわらず、現代では浄財に懐疑的な人が多数派である。特に合理的思考に慣れてしまっている現代人は、信仰の論理そのものが理解できない。信仰とは心の問題である、心が浄財や儀式で救われるはずがないという論拠によって完全に否定する。

浄財・献金をすることによって心が変わるはずがない。ものと心がつながっているなどという論理は非科学的であるとされる。心理学と脳科学の研究は、人間の思考と記憶、感情の問題をだいぶ解明してきており、脳の役割が解明されると心が何であるかわかると思われている。ノーベル賞受賞者である利根川進理化学研究所理研)脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センター、センター長>のグループは、「光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善―楽しかった記憶を光で活性化―(2015/6/18)」を発表し、うつ様行動を示すマウスの海馬の神経細胞の活動を操作して、過去の楽しい記憶を活性化することで、うつ様行動を改善させることに成功したと発表されている。脳科学は、人間の意識変革さえ可能であるようにも思われている。このような科学研究の状況下において、浄財と心の変化の相関性があるなどという研究は荒唐無稽であろう。科学は霊界の存在に否定的であり、浄財の効能についても懐疑的である。神からのメッセージ、霊界からのメッセージというものもほとんど信じられないことである。

 

否定論の論拠となっているのは、頭ごなしに「この世界は我々が感じ取っている現世(現実世界)だけである」という認識であり、霊の存在と霊的世界を妄想であると断定することにある。このように否定することによって、人間は心の不安を取り去り心の安定を保っているともいえる。

もし、世界がこの現実世界だけでできているとしたら、浄財の否定は正解である。しかし、私たちは現世の他にわれわれがまだよく知らない世界があることを感じ取っている。死後の世界の有無、幽霊とかお化けとかとか言っている霊的世界について完全否定できる人は少ないだろう。うすうす気づいている方の方が多いだろう。

科学も、超常現象について関心を深めている。生前の記憶を持つ子供の研究とか疑似死後体験の後生き返った人の調査などの研究が積み重ねられている。また、地球意識プロジェクトでは人間が意識を集中させると、意識のパワーが確立1/2の世界を変えるということを証明している。(ブログ 2014年4月29日 「祈りと祈りの力、そして意識連鎖」参照)
スピリチュアリズムが人々に受け入れられる日はすぐそこまで来ているといってよい。
霊界は実在しているのである。

 

(3) 霊界から現世の人間の行動が見えているとしたら

 大正時代初期に大本教で本田式鎮魂帰神術という霊媒術が流行した。霊界から霊を降ろし降りてきた霊(神)に必要な質問を浴びせ、もしそれが邪霊・邪神の類であると判断された場合には、戒告、なだめすかしたりした。しかし、あちらの世界から戻って来れなくなったりして、多くの問題が生じたため原則禁止になった。この霊媒術は、比較的簡単にできたため大変はやった。

ここで言いたいのは、霊界との交信は科学的方法としてはまだできないが、宗教的方法としてはできるということである。

つまりこの現実世界とは別に霊的世界を多くの人が実感できたのである。大本教の出来事は、日本に心霊科学協会の設立を促し、スピリチュアルの世界に多くの人の関心を引き付けていった。

ただここで問題なのは、やみくもに交霊すると問題が生じるということである。霊界には、神(善霊)が存在する一方、悪霊(邪霊)が存在していて、こちら側に影響を与えてくるのである。かつてのブログで、「煩悩の背後に悪魔は存在する。そしてこの世を支配している」と書いた。神(善霊)だけが霊界にいるわけではない。悪魔(悪霊)も存在していて、現世の人間に影響力を及ぼしているのである。守護霊とか憑依霊という形で影響を及ぼしてくるのである。

神(善霊=善霊、神の側にいる天使)が働くと、時間の経過とともに人間に平和感、すがすがしさ、正義感を増進させ、健康も増進させる。一方、悪魔と悪魔の側にいる悪霊が働くと、時間の経過とともに不安と恐怖、利己心を増殖させ、健康をも害するようになる。自らの心の中を省察すると、善霊と悪霊が入り混じりながら存在していることに気がつくだろう。

 

さて、表題の「浄財」という現世での人間の宗教的行為であるが、この行為はその人が悪霊側から神側に移りたいという意思表示の行為である。生命の次に大切な「お金」を捧げることを通して、悪魔の支配から神に仕えるという選択を示すのである。お金はこの世で生きていくために欠かせないものであり、お金には蓄われる過程の多くの思いが込められている。それだけに決意が固いとみなされる。心の決断だけではすぐ心変わりしてしまいやすいし決意は定かではない。

もし、霊界から見ている存在があるとすると、浄財・儀式という形にすることで決意が本物であると認めることができよう。「浄財」という儀式を通して、神側と悪魔側が取引をしているのである。

仏陀も言っているように、「布施の功徳を積むことによって、心が浄らかになる。正しく世界を見られるようになる」。浄財を通じて悪魔側から神側へと、心が転換するのである。浄財にあたって大切なことは、霊界には神(善霊)と悪魔(悪霊)がともにいて、自分がどちらの声に耳を傾けているのかをよく熟慮・自省し、自分自身が十分納得したうえで行うことである。私は、神側か悪魔側かのどちらかにつこうとしているのである。

 

最後に、供え物がすべて条件として神に受け取られるのではないということも付け加えておきたい。神への供え物は必ず受け取られるとは限らない。受け取られない場合もある。

人類最初の神への供え物として聖書に記述されているアダムとイヴの息子、カインとアベルの供え物の内、神(主)は、アベルとその供え物は顧みられたが、カインとその供え物については顧みられなかった。カインは大いに憤って顔を伏せた。そこで神(主)はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか、正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければありません」。(「創世記」4-4~7)

 

受け取る時期ではないとか条件が足りないとか方法が違うとか心情が不純であるとかの原因があると、受け取られないことがあることを付け加えておく。

「易経」が教える循環と苦難への対処(2)

竹村亞希子さんは、現代は「追い剥ぎに遭う時」山地剥の時代だといわれています。まさしくひとつの時代が終わろうとしています。このような時代には、時代を追いかけるのではなく、達観・内省して向かうべき未来、次の時代を見通すことが大切になります。このような姿勢を謙虚に持ち続けていると、どこかに次の時代の兆しが見出せるはずです。これが「陰」の時代の姿勢なのです。

易経』は、次のように説いています。陰の時代「塞がっている。進もうとしても進めない。希望がない」時代には、どのように歩めばいいのか。『繋辞伝』に、「戸を闔(とざ)すこれを坤と謂い、戸を闢(ひら)くこれを乾と謂い、一闔一闢(いっこういっぺき)、これを変と謂う」

ものごとは、扉が開いたり閉じたりするように、ある時は開き、ある時は閉じる。終わりなく開閉がくりかえされてすべてのものごとは発展していく。扉が開いて通じる時は外に出て積極的に活動し、閉じて塞がるときは活動のエネルギーを充電するために休息するのです。

 

(2)「陰」の時代、「坤為地」の教え f:id:higurasi101:20151124190931p:plainf:id:higurasi101:20151124190931p:plain

「陽の時代」の生き方を教えるのが、天の働きを説く「乾為天」ですが、「陰の時代」の生き方を説いているのが、地の働きを説いている「坤為地」です。「坤為地」は、卦の卦象がすべて陰の爻でできた「純陰の卦」です。陰の代名詞、大地は、母なる大地として天のパワーを虚心に深く受け容れ、その中から新たなものを生じさせ、地上の万物を生み育てていきます。これが、「陰」の時代の特質です。

この卦は、「したがい、受け容れる時」をあらわす卦とされるのです。受け容れて従順に従うことで力を発揮する時なのです。「陰」の道は、妻の道、臣下の道といわれ、従順な牝馬のように大地の働きにならって柔順に受け容れてしたがっていくならば、ものごとは正しく健やかに大きく循環して通じていくとされています。

 

卦辞坤は、元(おお)いに亨る。牝馬の貞に利(よ)ろし。

君子は往くところあるに、先んずれば迷い、後るれば主を得。西南には朋を得、東北には朋を喪うに利ろし。貞に安んずれば吉なり。

彖(たん)に曰く、至れるかな坤元、万物資(と)りて生ず。すなわち順(したが)いて天を承(う)く。坤は厚くして物を載せ、徳は无彊(むきょう)に合し、含弘光大にして、品物ことごとく亨る。牝馬は地の類、地を行くこと彊(かぎり)なし。柔順利貞は、君子の行うところなり。先んずれば迷いて道を失い、後(おく)るれば順(したが)いて常を得。西南には朋を得とは、すなわち類と行けばなり。東北には朋を喪うとは、すなわち終(つい)慶びあるなり。貞に安んずるの吉は、地の彊(かぎり)なきに応ずるなり。

象に曰く、地勢は坤なり。君子をもって徳を厚くして物を載す。

 

<最初の「坤は、元いに亨る。牝馬の貞に利ろし」は、易経64卦の卦辞にあたる一文で、最古に書かれた言葉です(そのほかの文章は、後に書き加えられた解説です)。乾為天の卦辞「乾は、元いに亨りて貞しきに利ろし」と比べると、牝馬の部分をのぞいて他は同じ卦辞となっています。陰の時代は、大地主導の時代であり、天の宜しきを得て、天地が交わってものごとが進んでいく時なのです。

牝馬」は、繊細でわがままで牡馬に比べ扱いにくいといわれています。しかし、一度人を信頼して馴れたならば100%の力を発揮して働きます。このことから、天の働きを徹底して受け容れてしたがう大地の働きに例えて牝馬が登場しているのです。

「先んずれば迷い、後るれば主を得」-閉塞した時は無理に何かをしようとしても、天の時も地の利も整っていないので迷うだけだと教えています。淡々と泰然自若に現実を受け容れて、逆境にさえしたがっていく、貫き通すことが大切だというのです。先走れば迷うだけで、あせらず後からついていきながら力を蓄えることが大切だというのです。

「西南には朋を得、東北には朋を喪うに利ろし」-「西南」は、太陽が進行する方向という意味で、気楽で親しみやすい人とは朋になるが、「東北」は太陽の進行と逆行する方向という意味で、慣れない親しめない方との関係に苦労するということです。気楽でない方向にしたがうとは旧来のものの考え方を忘れるぐらいの気持ちが必要で大変であるが、その苦労を乗り越えると開けてくるのです。

「東北に朋を喪うとは、すなわち終に慶びあるなり」―したがうということがしっかりできたなら、立場に変わりはなくても、ついには「あなたがいなければやっていけない」といわれるほど、なくてはならない存在になるということです。

「至れるかな坤元、万物資(と)りて生ず」とは、大地の徳はなんとすばらしいのだろう。すべてのものはここから生まれるということです。大地は雨がどれだけ降ろうが嵐が来ようが、美しいもの、みにくいものを選ばず、いやがらず、一切合切を受け容れます。限りなく受け容れて、したがい、生み育てることは、発するだけの陽にはできません。つまり、それが陰の強みなのです。地層が積み重なるように、土壌に栄養が蓄えられ、あらゆるものごとを生み出し育て形にしていくのです。

陰は陽によって動き方が変わるともいいます。陰は、何でも受け容れるので、清濁あわせのむので、善だけでなく悪をも育ててしまうことになります。このため、爻の初爻の「霜を履みて堅氷至る」という説明は、重要な戒めを説いています。秋の深まった朝、庭先に降りた霜はやがて厚く堅い氷に育っていくという意味なのですが、悪が育っていく兆しを見逃してはいけないという戒めの有名な言葉です。「少しくらい大丈夫だろう」と悪習を積み重ねていけばやがて身動きのとれない大きな災いに至ると言っているのです。悪事を早い段階で厳しく戒めないと、悪に染まってしまうのです。

陰の時代に重要なことは、陰は陽に正されないと方向転換ができないということを忘れてはいけません。陰の時代は、悪にそまらず、正しいものにしたがうこと、自分のことだけ考えて私利私欲に走らないことが重要なのです。悪に染まってしまえば、大変な時代になるでしょう。その上に立って、「大人を見るに利ろし」といって、「自ら陰徳を生み出しなさい。さもないと亢龍になる」と教えています。陰の時代は、未来を見据えて自分自身の土壌づくりをする時代なのです。

 

(3)苦しみに遭遇した時の教え「坎為水(かんいすい)」 f:id:higurasi101:20151124191108p:plainf:id:higurasi101:20151124191108p:plain

重病を患う、災害に見舞われる、大切な人をなくすなど人生に一度あるかないような苦しみに陥った時の教えを説いているのが、「坎為水(かんいすい)」の卦です。64卦の中でも大きな苦難をあらわす「坎為水」<四大難卦のひとつ>は、昔から多くの賢人に愛読されてきました。「坎為水」の卦名の下の「習坎」は、「苦しみに習う」という意味で、特別に別名として「習坎」と呼ばれていす。

 

卦辞習坎(坎為水)は、孚(まこと)あり。これ心亨る。行けば尚(たっと)ばるることあり。

彖(たん)に曰く、習坎は、重険なり。水は流れて盈(み)たず、険を行きてその信を失わざるなり。

これ心亨るとは、すなわち剛中なるをもってなり。行けば尚ばるることありとは、往きて功あるなり。

天険は升るべからざるなり。地険は山川丘陵なり。王公は険を設けて、もってその国を守る。険の時用大いなるかな。

彖(たん)に曰く、水洊(しき)りに至るは習坎なり。君子もって徳行を常にし、教事を習う。

<卦名の「坎為水」の水は苦しみをあらわし、坎は土が欠けると書いて穴を意味します。水が次々に押し寄せてくる。苦しみに次ぐ苦しみ、どん底を経験する時をあらわしています。「習坎」とは、苦しみを重ねることによって多くを学ぶということです。

苦しみの時は、心をしっかり持ってその時を通っていくのだよ、と教えています。苦しみの時を通っていくには、水の性質に習うことです。水は柔らかい性質をもち、丸い容器に入れたら丸くなり、流れるところがあれば、障害物にぶつかってもとめどなく流れていく。苦しい時には立ち止まらず、生きるために必要最低限のことをやって、ほんの少しずつ進んでいくのが大切だと説いているのです。絶対に苦しみから逃げてはいけません。「孚(まこと)」とは、誠心誠意の真心、信じる心という意味です。「心亨る」とは、苦しみから逃げずにいることで、真心と信念が虚しく苦しい時を貫いていく、ということをいっています。

天は高く昇ることができない険しさをもっています。地には険しい山と川があります。王は険しい城壁、堀などを築いて国を守ります。「時用」とは、できれば経験したくない時ですが、時としっかり向かい合うことで、この苦難の効用は大きくなります。そして大きな苦難を乗り越えた経験は、その後の人生を支え、より充実させるものとなるでしょう。君子は次々と押し寄せる苦しみに教えを乞うほどに習い、人生の教示を学ぶのです。>

苦しみの時は自分から逃れられません。だから勇気をもって自分から飛び込むくらいの覚悟を持った方がいいのです。「身を捨てて浮かぶ瀬あり」の覚悟が必要なのです。苦しいから逃げたいと考えたり、運が悪いと嘆いたり、人や世間のせいにしても解決になりません。逃げ出すことは諦めて、苦しみの中で水のように自然体で泳いでいくのです。煩悩や観念というものは打ち捨てて、今を生きるのです。そうしていると、苦しみの中に光明を見出すことができると説いているのです。

(参考文献;竹村亞希子著「超訳易経 自分らしく生きるためのヒント」角川SSC新書

「易経」が教える循環と苦難への対処(1)

誰でも「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉を知っていると思います。易占いは、筮(ぜい)を立てて得た卦を使って、今起きている問題への対処法を知る方法です。一方「易経」は、人生で起こるあらゆる場面の解決法<陰陽の組み合わせによる64種類の卦と384の小話を使って>が書いてある書物です。(「易経」では、解決法のことを「中する」といいます。)

易経」について、竹村亞希子さんの著書をもとにかいつまんで苦難への対処についてまとめてみました。

易経には、人生に起こるさまざまな状況を一つの卦として、64の物語が書いてあります。「卦辞(かじ)」と「爻辞(こうじ)」です。

最初の卦は、陰陽の陽を象徴する「乾為天(けんいてん)」、次に陰を象徴する「坤為地(こんいち)」です。次に、陰陽が交わって一つのものごとが生れるという考えに基づき、産みの苦しみの時をあらわす水雷屯(すいらいちゅん)」となります。その次は、「啓蒙の時」をあらわす「山水蒙(さんすいもう)」の卦になり、最後から二番目に「完成の時」を意味する「水火既済(すいかきさい)」、そして最後に「未完成の時」をあらわす「火水未済(かすいびせい)」の卦が置いてあります。最後が未完成に終わっているということは、時の変化に終わりはなく永遠に循環していくということを表しているのです。

    f:id:higurasi101:20151124190746p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain        f:id:higurasi101:20151124190931p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain              f:id:higurasi101:20151124191108p:plainf:id:higurasi101:20151124191144p:plain             f:id:higurasi101:20151124191258p:plainf:id:higurasi101:20151124191643p:plain

1、乾為天     2、坤為地    3、水雷屯     4、山水蒙  

       f:id:higurasi101:20151124191918p:plainf:id:higurasi101:20151124191934p:plain                      f:id:higurasi101:20151124192011p:plainf:id:higurasi101:20151124192045p:plain                   f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124191144p:plain              63、水火既済         64、火水未済     25、天雷旡妄

易経」は、状況は変わっても人間は同じように問題に突き当たり、ものごとの成否はおおよそ人間の取る行動によって成行が決まっていると説いています。「易経」には、「典要となすべからず、ただ変の適くところのままなり」と書いてあり、決めつけたり頭を固くしたりせず、固定観念を捨てて時や状況とともに自分自身を変化させて適応していくことが重要だと説くのです。

易経の「易」は十二時虫と呼ばれる蜥蜴(とかげ)から来ています。光の変化によって一日に十二回体の色を変えるということから、変化を意味しています。「経」は理(ことわり)ですから、易経は「変化の理」について書いてあるという意味をあらわしています。現在伝わっている「易経」の本文は、周の文王とその息子、周公旦によって記された「周易」です。

周易』には経と伝の二つの部分があり、伝統的な言い方で言うと、伏羲が八卦を作り、文王が六十四卦として、卦辞・爻辞(こうじ)を作り、孔子が十翼すなわち「易伝」を作ったとされています。孔子が『易伝』を作ったという記述は、司馬遷の『史記』に見えるのですが、孔子が十翼を作ったということは疑問視され、近世の学者の研究によると、卦辞と爻辞は殷周の際の作、十翼は戦国時代の末に作られ、かつ一人の手によってできたものではなく、孔子の手によるものでもないとされています。

 

64卦の中で、「天雷无妄(てんらいむぼう)」は、最も易経の教えを表している卦で、64の卦のうち、これだけは「どうすれば問題が解決するか」の具体的な対処法が書かれてなく、「身をすべて委ねよ」と教えているようです。竹村亞希子さんは、2011年の東日本大震災の時、この卦「天雷无妄(てんらいむぼう)」がとっさにひらめいたといわれています。

易経」は、時の変化の兆しを感じ取ることが重要だと教えています。目に見えないが、実際にものごとが起こる前にはかならず兆しがあるので、それを感じ取ることが大切だというのです。そして、易経が語る時にぴったり合った行動を取ることが大切なのです。(これを「時中」という。)

ところが人間はなかなか時を感じ取れません。特に「吉」の時は驕り高ぶってなかなか改めることができません。「大吉は凶に転ずるから危ない」とは、このことを言っています。

「震(うご)きて咎无(な)きものは悔に存す」(易経)とは、背中が震えるような恐れ震えるような思いをしないと、人は改めないものだという意味です。震えが人を正常な感覚に戻し、凶を吉に、或いは凶に至る前に未然に転換させるのです。心の中に芽生えた傲慢さや、惜しむ、けちるという吝(りん)の兆しを察知することが大切だと教えるのです。

 

(1)十二消長卦(陰陽の消長をあらわす十二の卦)

一年の変化を陰陽の消長で表したのが、十二消長卦です。陰陽のグラデーションのようになっています。64卦の感覚がわかるのではないでしょうか。各月のこまかい説明は、下記のウェブより転記しました。占いでは、このように説いているようです。暦は旧暦です。

http://yamame.chobi.net/64_setumei.htm#2

 

4月 f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124192129p:plain  乾為天(けんいてん) 「健やかな成長の時」 陽のピーク、裏側に陰が隠れている。

常人には荷が重い

剛健で盛運だが、責任も重く緊張も絶えない状態。実力のある大物には吉でも、常人には重圧になる。位負け。父。君主。権力。大金。厳しさ。険しさ。たかぶり。対人関係においては奢りが窺え、成立しても凶のことが多い。身の程に応じて控えめにすること。無理をすれば、どちらかが傷つくし、このまま進めば離別もある。

5月   f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124192658p:plain  天風(てんぷうこう)夏至>「思いがけなく(陰に)出遭う時」 夏至を境に陰が勢力を伸ばしてくる。  

出合う
思いがけず遭う。奇遇。奇禍。災い。だます。女難。変事。発病。衰運のはじまり。 とは偶然の出会いのこと。好色女に騙される。卦の形はひとつの陰爻(女性)が5本の陽爻(男性)を集めて、女王のように魅惑している。女性にはいいが男性には望ましくない卦。関係は一定しない。かりに内縁で一度は成っても遂げず。

6月 f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124191258p:plain 天山遯 (てんざんとん)「逃れる時」 二本の爻が陰になり、陰が着実に勢力を伸ばす。

自分から逃げる
遯は逃げること。遁走。自分から退く。見切りをつける。引退。家出。運気が逃れて時勢が味方しなくなった。今までの力を頼りに無理をすると危険に陥る。さっさと退いてこそ道が拓ける。チャンスが巡ってきたらまた積極策を講じればいい。相手から望まれても気が進まないなら消極策をとること。自分から逃れて吉。

7月 f:id:higurasi101:20151124192129p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain   天地否 (てんちひ)「閉塞の時」 陰と陽が半分ずつ、天地の気がまったく交わらず暗黒の時。

上下交わらず凶上下交わらず凶
否塞。時期いたらず八方塞がり。行き違い背きあいしっくりといかない。外面は強く見えるが、実態は柔弱で砂の上の楼閣のようだ。危機に直面している。なにごとも行き詰まり、無理をしても苦労ばかり。チャンスの到来を待つ以外に方策はない。情愛なく疎遠で交際がへた。先方は亢ぶる。結婚は見合わせたほうがよい。

8月 f:id:higurasi101:20151124193237p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain   風地観(ふうちかん)「観る時、洞察の時」 時の衰えを感じ始め、内省する時。

観察のとき
利欲が渦まいて秩序が混乱している。互いに決断力が乏しく様子をみている状態。
相手の出方を伺ってどう行動しようかと迷っている。岐路にたったとき、利欲に惑わされず人の模範となる行動がとれるなら咎めはない。交友を厚くしておけば先方から臨んでくる形で成立するので急がず着実に進むこと。半凶。学術頭脳派には吉。

9月 f:id:higurasi101:20151124191258p:plainf:id:higurasi101:20151124190931p:plain   山地剥(さんちはく)「剥がされる時」 時代は日暮れ、進んで事をなしてはいけない。

身を削る心配 身を削る心配
艮の山が削り取られて荒野になるさま。剥奪。心配。内向。衰退。苦労。散財。陰の勢いが強くなって陽が最後のひとつだけになった。危機が近い。身を切るような心配ごとがある。対人関係は骨折り、支障が多くて調うことがない。今までのことは諦めて次のチャンスを待てば返り咲きもありえる。

10月 f:id:higurasi101:20151124190950p:plainf:id:higurasi101:20151124190950p:plain   坤為地(こんいち)「したがう時」 すべてが陰になり、冬に向っていく。大地は養分を蓄えて次の準備をする。

大地の静かな動き
豊かな力を蓄えた大地。母。柔弱と消極。迷い。保守。衰微。女性的だが決して劣っているわけではない。消極を保つことで剛の攻撃をしのげる。勇気決断に乏しくて初めは疑いや迷いがあるが、なにごとも従順にして剛強を避ければ遂にかなう。お互いに様子を窺っていて定まりにくいが、みだりに変えずにいれば調和して吉となる。

11月 f:id:higurasi101:20151124190950p:plainf:id:higurasi101:20151124191144p:plain   地雷復(ちらいふく)冬至>「一陽来復(回復・復帰)の時」 地中奥深くでかすかに陽気が芽生えた兆しの段階。

くりかえし
一陽来復。復とは冬至のこと。元に戻る。卦は地中深くに春の陽がひとつ芽生えた形。長かった冬もあと一息だが、焦って飛び出してはいけない。雷のエネルギーもまだ潜んでいる状態で、活躍するのに充分な力はない。吉兆。希望。復興。仲直り。再婚。捜していたものが見つかる。着実にコツコツと努力すれば順調に達成する。

12月 f:id:higurasi101:20151124190950p:plainf:id:higurasi101:20151124193621p:plain   地沢臨(ちたくりん)「臨む(展望の)時」 人間の成長でいうと青年期、再出発にあたって栄枯盛衰のならひに注意すること。

相方から臨みあう
親しみあう。双方から臨みあう。求める。与える。躍進。将来性があって運気が隆盛に向かっている。互いに和合して万事順調な卦。結婚は進んで求めてよい。志操を守っていれば遅れてもかなう。希望があるとはいえ短期決戦と心得たほうがよい。急速に盛んになったものはたちまち衰えるからだ。機敏に行動して吉。

1月 f:id:higurasi101:20151124190931p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain   地天泰(ちてんたい)「天下泰平の時」 天と地の気が相交わり、新しいことが勢いよく生まれていく。

上下が和合して吉
上にある地は下がり、下にある天が昇って上下が和合する理想の卦。交わって吉。心を通じあい安定した関係を保つには誠意と用心が大切である。よい関係であっても乱を忘れずに、質素にして奢りを慎むこと。内面が充実して外面も穏やかだが安泰すぎるので堅く身を守ること。平穏。和合して悦び多し。結婚、恋愛に大吉。

2月 f:id:higurasi101:20151124191144p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain   雷天大壮(らいてんたいそう)「大いに勢い壮んな時」 時の勢いの後押しもあって大きく飛躍する。暴走しやすいので、自制心を持つこと。

盛大・勇猛・やりすぎ
好調な発展のときだが、空騒ぎの喧噪の意味もあって、外見ほどには実質を伴わない。こともある。すこし荒っぽい卦だが進展はある。勢いに乗りすぎると先方は逃げだすので落ち着いた対処が必要。ふたつの爻をひとつにみると全体で兌(若い女性)の形になり、結婚はのちに成立する。調子にのらず誠実を心がけること。

3月 f:id:higurasi101:20151124193952p:plainf:id:higurasi101:20151124190810p:plain   沢天夬(たくてんかい)「小人を決し去る時」 古きを決し、新しい時代を切り開く時。一番上の陰の爻は、力をなくした君子をあらわす。この卦の教えることがそのまま行われたのが明治維新です。

決断する
切り拓く。重大時を決行する。悪が去って正常にもどる。5本ある陽爻が増して一番上の陰爻を押し出すかたち。決断の時期がきているが、強く行動して陰の小物に仇をとられないように注意。無理なく穏やかに行動して吉。先方はたかぶって執着する象なので成立してもあとが良くない。好き嫌いが激しく和しにくい。

 

(参考文献;竹村亞希子著「超訳易経 自分らしく生きるためのヒント」角川SSC新書

覚りと悟り(解脱)とは同じではない

(1)釈尊の悟りと解脱

釈尊は、菩提樹の下で瞑想に入り、想いの世界において悪魔の挑戦を受け、最後色魔との闘いに勝利をおさめ、悟りを得たとされている。その境地は無上のものであったという。この伝承が、悟りを得ると解脱し、涅槃の境地に入るという仏教の教えに結びついている。仏教の伝えるところによると、釈尊生存中に同様の悟りの境地に達した修行者は500人を下らないという(悟りの境地に達した修行者は、阿羅漢と呼ばれる)。

釈尊は、悟りの境地を「天上天下唯我独尊」という言葉で表された。

そして釈尊が悟りを開いた時、悪魔はやって来て、次のように囁いたという。

「(45年前)、おまえが悟りを開いて仏陀となったとき、わしはおまえにすすめた、さっさと涅槃に入れ、と。たいていの聖者がそうする。せっかく聖者になったのに、愚かな人間と接触して汚れてしまえばなんにもならない。けれども、おまえは変わり者であった。」

一方では、梵天が現れて、「釈尊よ、お前は至上の悟りを得たが、そのまま満足するだけでいいのか。衆生に伝えないのか」と、伝道を促したとされている。

釈尊は熟考し、45年間の真理を伝える道に入る。

釈迦の最後の旅から始まって入滅に至る経過を記述したマハー・バリニヴァーナ・スッタンタ(漢訳大般涅槃経)(パーリ語)によると、「私は、人々のよるべき真理をあきらかにした。真の生き方を明らかにした、それだけなのだ。だから、私が亡くなったからといって嘆き悲しむな。およそこの世のものでいつかは破れ消え失せるものである。そこにある一貫した真理を解き明かしてきたではないか。それに頼れ。変転きわまりない世の中では、まず自分に頼れ。自分に頼れとは、その場合その場合に考えること、何を判断基準にするかというと、人間としての道「法」、インドの言葉でいうと、「ダルマ」、この人間の理法というものこれに頼ることである」、と語ったとされる。(中村 元)
また、弟子の親族アーナンダとの会話でも、「私は、29歳で出家して真理を求めて真理を実践してきた。正理(八正道)と正しい法に生きてきた釈尊自身は教義は説いていない。それは後代の教義学者が作ったもの。人間の真実を説いただけである。諸々の事象は過ぎ去るもの。努力して修業を完成させなさい」。「悟り」というものは固定したものではなく時空の中で変転するものであり、悟ったといえども宇宙とのつながりの中で、人間としての「法」に頼って考えることが必要である(中村 元)。

 

そういう釈尊なのだが、一方で経典は、悟りを得た後も魔の誘惑があったことを伝えている。既に勝利したことであっても再び誘惑されるのである。もちろん、既に勝利した内容なので乗り越えることは容易であるのだが、試練は悟りを得た後も訪れる。有名なスンダリーの迫害」マーガンディヤーという娘の話」はその一例である。もしも釈尊の心に魔がさしたなら、悟りは水泡に帰して堕落してしまうことになる。

『マーガンディヤーという娘の話』とは、次のような物語である。マーガンディヤーという美しい娘がいた。その両親が釈尊にひと目でほれてしまい、自分の娘を釈尊に嫁がせたいと思って申し入れをした時の話である。釈尊は、苦笑されて、「私は天女の誘惑にも負けなかった人間です」と、語られる。「そうした浄らかな天女の誘惑にも打ち克ったわたしが、どうして人間の女性に誘惑されることがあろうか・・・・」と、釈尊は言われるのである。しかし、その言い方に問題があったため、憎しみを与えてしまうのである。2013年2月4日ブログ 「仏陀は、悟りを得た後も最高の真理を求め続ける。そして、悟りを得た後も魔の誘惑は続く」を参照)

釈尊の覚りは、魔を降伏させた悟り(解脱)であったと思われるが、悟りを得たとしても、社会は不浄に満ちており、悪の誘惑からは逃れられないということを伝えている。

ところで、表題のテーマ、「覚りと悟り(解脱)は同じではない」であるが、釈尊の悟り(解脱)の中には、修行上の二つの内容が渾然と入り混じっていることを指摘したい。つまり悟りには、①神の召命と、②悪魔の解脱承認、の二つの要素が内包されているのである。

 

(2)覚りとは何か。覚りとは、知的レベルの飛躍であり、神の召命である。

「覚り」という言葉は、禅の修行でよく使われる。禅の公案でもっとも有名な「無門関」第一則「趙州無字」は、趙州和尚、僧の『狗子(しし)にも還た仏性ありや』と問うに因って、州云く、≪無≫』というものである。無に集中して次第に一心に統一され、推し進めていくと突然覚りを開くという。

この無字に集中して坐禅修行の実際について、川尻宝岑は次のように述べている。「この打成一片の地位を喩えてみると、厚い氷の中に閉じつ込められているようなものじゃ。上下四方、前後左右、悉く透き徹っていかにも見事な美しいものではあるけれども、わが身は氷に閉じ込められているゆえ、身動きをすることのならぬようなもの、この時に至って少しも退却の心を発さず、一念も動かさず、ただ一向に「州云く、無無無無で、無二無三で押し込んでゆくと、頓て時節到来して豁然(かつねん)として真の悟りが開けるのである。(川尻宝岑『坐禅の捷径(はやみち)』(*1)」

 

なるほど、そのように修行すればいいのかと思われるだろう。ほとんどの人は、覚りを開くとすべての迷い、煩悩が亡くなり解脱して聖なる境地に至ると思われていることだろう。煩悩と闘い、苦難の歩みの中で長い苦しい修業を超えて得た光は、すべての達成であるかのように。

しかし、その願いと覚りの境地とは少し違っている。鈴木大拙氏は、「『禅と俳句』の中で、覚りは『狂う』こと、すなわち通常の意識レベルたる知的レベルを超えることだといわれている。覚りには別の一面があって、それは通常に異常を見、平凡な事物に神秘的なものを感知し、創造全体の意味を一気に領得する一点を把握し、一本の草の葉を採ってこれを丈六の金身仏に変ずるのである」。絶対マイナスの先には、神に出会って神の愛に触れて絶対プラスに転じるという大転換が起こるというのである。このような大転換を体験するがゆえに、絶対者の愛に応えてはたらく主体へと転ずるのである。無の境地とは、空の境地であり、そこに神が存在していてそこが神と出会える場なのである。

また鈴木大拙氏は、禅について次のように言われている。「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない」と、語られている。(*2)道徳とは必ずしもこのようにはならない。「無」に徹しきったならば、神・仏の大慈悲が顕現して道徳的に直結しても不思議ではない。しかしそうならないと鈴木大拙氏は述べている。

禅の覚りは、自然との間においては、問題なく直結するが、対人間の関係においてはそれが難しいといわれているのである。個を超越したとしても、人間同士の関係においては、神・仏が直截に入り込めない。覚りと道徳は直結していないのである。

 

(3)覚りに至っても、煩悩はしつこく付きまとう。

覚りと道徳は直結していないのである。それゆえ、覚りに至ってもすべてが解決されるわけではないのである。楞厳経に、「理は頓悟するも、事は漸修す」という言葉がある。煩悩は、しつこく付きまとうのである。

中国の禅僧袾宏は、「一念に自理を頓悟しても、無始以来の習気は頓に除きがたいから現業流識(現在の業づくりとしてはたらいている意識)の払拭にはげめ、という潙山霊祐の語をひき、「経、少し悟るところがあると、すぐに一生参学の目的は達せられたというのは、何たることだ」と厳しく戒めている。中国明代末の禅僧達観は、心に巣くう情のしつこさへの注視をおこたるべからずと、「道は頓に悟るべきだが、情は漸々に除かねばならぬ」(紫柏老人集、巻二)と示し、徳清も、「頓悟するといえども、漸修を廃せず。仏祖の心、もとより二なきなり」(夢遊集、巻一二)の語を残している。陽明学王陽明も、「もしわれわれの凡夫心がまだのこっているなら、いくら悟りを得たとしても、まだ随時、漸修の工夫を用いねばならぬ。そうしなければ、凡夫を超えて聖人に至ることはできぬ」(『伝習録』巻下)と述べている。(*3)

 

情(煩悩)のしつこさは、聖書の中にも記載されている。回心して伝道に邁進したパウロは、「ローマ人への手紙」の中で、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな存在なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」(『ローマ人への手紙』7-12~25)と語っている。

パウロでさえ、煩悩に悩まされているのである。現世で歩む我々人間は、当然ながら煩悩に翻弄されている。

 

(4)なぜ情(煩悩)はしつこく付きまとうのか

上で述べたように、修行僧の煩悩との闘いは、現世での欲望をすべて断ち切って出世間での修行に入っても、煩悩はしつこく付きまとい苦しめることを伝えている。

 

情は、本然のものであれ煩悩であれ、対象と触れ合うことによって生起する。対象に反応して心に対象の情報が入ると、そこに一つの情が生起してくる。その場面場面によって湧き上がる情は異なる。その中には、善きものもあれば悪しきものもある。孟子は、幼児が井戸に落ちかけているのを見たら、どんな人でも驚きあわてて、いたたまれない気持ちになろう。孟子はこうした素朴な心情の存在を根拠として、人間の本来性を「四端」<「惻隠の心」、「羞悪の心」、「辞譲の心」、「是非の心」>が備わっているとして性善説を主張した。

一方荀子は、人間の本来の性質には生まれながらにして自分中心で憎悪の心がある。その心をそのままにすると、他人に危害を加えるような行為をしてしまいやすい。また、自己の欲望にしたがい感情の赴くままに行動すれば、人の道に外れた行為が横行し、秩序が崩壊することになると主張した。古来より人間の心には善悪両面の心が備わっていて、善なる心よりも悪なる心の方が圧倒的に強いことが知っられていた。その悪なる力が人間を苦しめて来た。パウロの嘆きは、まさにこれゆえであった。

 

宗教者は、悪なる心-仏教では煩悩と呼んでいる―をいかに克服するかと闘ってきた。そして煩悩を払拭するために、宗教者は出家という方法(出世間)を見出した。出世間においては、欲望が生起する環境を極力なくしているのだが、それでも煩悩の解脱が一挙にできず困難なのである。それは、情が己と対象の関わりにおいて生起して、己を虜にし苦しめるからである。その煩悩の力が弱まわらず苦しめ続けるのは、煩悩に力を与えている存在(悪魔とか悪霊と呼ばれている霊的存在)が、その都度姿を現して容易に消え失せないからである。知的に人間存在の高みを覚ったとしても、わきあがる情をコントロールしにくいということは、情というものが我々個人の心の中から発しているだけではないことを暗示している。

 

現世の場合は、それははるかに難しくなる。煩悩は、清浄な出世間の環境では制御しやすいが、現世においては欲望が渦巻いており情が揺れ動いて悪魔に誘惑され罪を犯しやすい。自己の情を律することはとても難しい。しかも、人間関係が複雑に絡み合っており、その内容の多くは因果応報という先祖からの因果に由来するものが多い。煩悩はぬぐってもぬぐっても沸き起こってくるのである。それだけではなく、対立となりけんかとなって再び新しい罪を作り出す。何と嘆かわしいことか。

しかし、自ら湧き上がる欲望には本然の好ましいものもある。それゆえ、宗教者といえども、現世での幸福を願ってきたし、現世において解脱できると信じて来た。人間にはすべての人に仏性があるという教えこそが希望であった。しかし、いまだこの願いは達成されていない。

 

(5)現世での解脱への道―魔を退けて、「天上天下唯我独尊」に至ること

仏教が伝えるところによると、解脱の最終局面での試練は、色情と自尊心(プライド)であるという。この二つの煩悩は、人間の有する根源的な煩悩であり、心の病の原点だともいえよう。それは、煩悩の根であり、仏教はそれを無明と呼び、キリスト教は原罪と呼んだ、始原の問題である。人間は煩悩の根を抱えているがゆえに、業を抱えて輪廻するという道を歩む悲しい存在となってしまっているのである。

 

それではなぜ人間は、煩悩から一挙に解放されず付きまとわれるのか?それは、人間にこの地上世界を創りかえることのできる力、「人間の裁量権」ともいうべきものが与えられているからである。人間がこの力をどのように用いるかによって、人間が住むこの地上世界は不浄な悪の世界にも幸せな善なる世界にもなりうるのである。すべては人間次第なのである。もし、幸せなる地上世界を願うならば、煩悩に働きかけて来る悪魔の囁きにイエス・キリストのように答えなければいけない。「神のみを愛せよ」と。

そして、釈尊が「天上天下唯我独尊」と語られたように、神・宇宙とのつながりの中で、変転する時空の中に自らが存在する位置を自認して、宇宙の秩序の中で生きる道を選択することが重要なのである。

 

*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014

*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940

*3:荒木見悟著 「仏教と陽明学第三文明社レグルス文庫 1979

朱子(朱熹)の鬼神論(2)

(4)問う。『遊魂、変をなす』とありますように、時たま人に祟るものがあります。どうして散らずにおれるのですか。」

先生いう。「『遊』というのは、次第々々に散るということである。人に祟るものの場合は、まともな死に方をしなかったものが多い。その気が散らないので、結ばれて祟るのだ。体がひ弱くて病死した人の場合は、気が完全に消耗してから死ぬので、二度と結ばれて祟るようなことはない。しかしまともな死に方をしなかったものも、しばらくたつうちに散る。たとえばうどん粉をこねて糊を作る場合、なか頃には、小さいかたまりとなって散らないものができるが、しばらくこねているうちに次第に散ってくる。またたとえば『その精を取ること多く、その物を用ふること弘し』といわれている伯有のようなものも、すぐには散らないのである。張横渠は、『物が初めて生ずる時は、気が日々やってきて生長する。物が完全に生長しおわると、気は日々返っていって離散する。やってくるのを神という。気が伸びるからである。返っていくのは鬼という。気が帰るからである』と述べている。天下の万物万事は、古から今に到るまで、陰陽二気の消息屈伸にすぎないのだ。張横渠は、屈伸ということで一貫して説いた。謝上蔡の説は、循環のありさまをうまく説いていないようだ。『宰我曰く、われ鬼神の名を聞けども、その謂ふところを知らずと。子曰く、気なるものは神の盛んなるなり。魄なるものは、鬼の盛んなるなり。鬼と神とを合はすは、教への至りなり』の注に、『口鼻の嘘吸を気となし、耳目の聡明を魄となす』とある。気は陽に属し、魄は陰に属しているのだ。いま『眼光が落ちる』といういい方をするものがいるが、これがつまり『魄が降る』ということである。いま人が死のうとしているのを、また『魄が落ちる』ともいう。気の方は升って散るだけだ。だから『魂気は天に帰り、形魄は地に帰る』というのだ。道家の養生法にもこんな説があり、わが儒教の説とおおむね一致している。」葉賀孫

 

(5)問う。「人が死ぬ時、一体、魂魄(コンハク)はすぐ散るのですか。」

先生いう。「勿論そうだ。」

また問う。「子孫がお祭りをすると、先祖の霊が感じてやってくるのはなぜですか。」

先生いう。「結局、子孫は祖先の気なのだ。祖先の気は散っても、その血すじをひくものがちゃんといて、誠敬を尽くすならば、やはり祖先の気を呼び寄せて集めることができるのだ。たとえば波がただようようなもので、後の水は前の水ではなく、後の波は前の波ではないが、どれもこれも同じ水の波なのだ。子孫の気と、祖先の気との関係も同じことだ。祖先の気はすぐに散ってしまうが、血すじを引くものはちゃんといる。ちゃんといる以上、祖先の気を呼び集めることができるのだ。この事は説明しにくい問題だ。各人が自分で理解しなければいけない。」

問う。「『下武』の詩の、『三后、天に在り』の先生の解釈に、『天に在りとは、三后が没した後、その精神が、上、天に合するという意味だ』とありますが、これはどういうことですか。」

先生いう。「つまりそういう理もあるということだ。」

劉用之いう。「多分、理として上、天に合するまでなのでしょう。」

先生いう。「理がある以上、気もあるのだ。」

ある人いう。「想像ですが、聖人は清明純粋な気を受け取っているので、死ぬと、その気が、上、天に合するのでしょう。」

先生いう。「まあそういうことだ。この件はさらに微妙なところがあって説明しにくい。各人が自分で理解しなければいけない。世の中の道理には、まともでわかりやすいものもあれば、また変化常なくて、推測できないものもある。このように考えてこそ、道理というものをとらわれずに理解することができるのだ。またたとえば『文王陟降(チョクコウ)して、帝の左右に在り』というのは、いまもし文王が、本当に上帝の左右にいるとか、本当に世間で造られている泥人形のような上帝がいるとかいうならば、勿論いけない。しかし聖人がそのように説いているからには、つまりそんな理もあるのだ。たとえば周公の『金縢』の中にある、『すなはち壇嘽(ダンゼン)を立つ』の一節は、あきらかに死者に対するものだ。『もし爾三王、これ丕子(ヒシ)の責を天に有せば、且を以て某の身に代へん』という一条は、先儒はみな間違った解釈をしており、晁以道(チョウイドウ)のだけがよい。晁以道は、『丕子の責』を、史伝中にある、侍子(ヒトジチ)を責(モト)む」の『責』のように解釈している。思うに『上帝が三王の侍子を責める』というのであろう。侍子は武王をさしているのである。上帝が、武王がやってきて左右に服事することを責めたので、周公が武王の身代わりになって死ぬことを乞い、『且を以て某の身に代へん』といったのだ。三王にもし天に対して侍子を差し出す責任があるならば、私を武王の身代わりにした方がよろしい。私は多才多芸で、上帝によくお仕えすることができるが、武王は私のように多才多芸ではないから、鬼神にお仕えすることができません。それよりもしばらくこの世にとどめて、あなた様の子孫と、世界中の人民を治めさせた方がよろしいという意味だ。文意は以上のようであるが、程伊川は、周公が自分から多才多芸であるというはずはないであろう。そうではなくて周公はただ、武王の身代わりとなって死のうとしたまでだと考えた。」

劉用之問う。「先生が廖子晦に答えた手紙に、『もはや散った気は、死んだ以上は存在しない。しかし理にもとづいて日々に生ずるものは、勿論、広大であって窮まることがない。だから謝上蔡が、自分の精神は、つまり祖先の精神であるといったのは、思うにこのことをいったのであろう』とあります。そこでお尋ねしますが、理にもとづいて日々に生ずるものは、広大であって窮まることがないというのは、天地が気によって万物を創造するという場合の気を説いたのですか。」

先生いう。「気はまったく同じだ。『周礼』にいわゆる『天神・地示・人鬼』は、三様があるけれども、本当はまったく同じなのだ。もし子孫のいるものは、祖先の気を招き寄せることができると説いたとしても、子孫のいないものは、祖先の気が全くなくなってしまっているとはいえまい。その血気は流伝しなくても、その気は広大であって日々に生じて窮まることがないのだ。たとえば『礼書』の『諸侯因国の祭』は、自国内に、すでに亡んだ前代の国があって、しかもその君主の子孫がいない場合には、子孫に代って、その国の先祖を祭るのである。たとえば斉の太公が、斉の国に封ぜられた時、なぜ爽鳩氏・季○(草冠に則)・逢伯陵・蒲姑氏などを祭らなければならなかったのか。それは彼らがこの国の前代の君主であり、礼として祭るのが当然だったからであろう。ところで聖人が礼を制定した際に、その国を継承したものは祭るべきであり、その国にいないものは祭るべきではないとしたのは、つまり理としてそうすべきだったからだ。道理としてそうすべきであるならば、気があるのだ。たとえば衛の成公が夢の中で衛の始祖の康叔から、『夏后相が私への饗(マツリ)を奪おうとしている』と告げられたのは、思うに衛は後に帝丘に都したわけだが、夏后相も帝丘に都したのだから、その国に都したら当然夏后相も祭らなければならないのに、祭らなかったので、そのような事態が発生したとしても無理からぬことなのである。またたとえば普候が、黄熊(コウユウ)が寝門にはいる夢をみて、黄熊を鯀(コン)の神であると考えたのも、同じ類のものだ。子孫がいるものであって、はじめて感格の理があるということにはならないのだ。たとえ子孫がいなくても、祖先の気は亡んだことはないのだ。たとえば現在、勾芒を祭っている。それは遠い昔のものだが、祭るのが当然であるとする以上、少しばかりの気があるのだ。要するに天地人を一貫して、この一気だけなのだ。それで『洋々然としてその上に在るがごとく、その左右にあるがごとし』と説くのだ。宇宙空間はどこもかしこも理でないものはないのだ。各人がとらわれずに理解しなければいけない。言葉で教えさとすことは難しいのだ。それで程明道は、人が鬼神について質問した時、『実在しないと説明しようとすると、なぜ聖人は実在すると説いたのであろうか。実在すると説明しようとすると、君はこんどは私に向って根ほり葉ほり尋ねようとするだろう』と答えたのだ。ここまで説明したら、後は各自で理解することだ。孔子は、『いまだ人に事ふること能はず。いずくんぞ能く鬼神に事へん』といった。いまはまず身近で大切な道理を理解するように務めることだ。しばらくして道理がはっきりした時に、自然にわかるのだ。謝上蔡の説で、もはや十分にあきらかなのだ。」沈僴

 

(6)問う。「子孫が祭祀を行う時には、誠意を尽くして祖先の精神(タマシイ)を集めますが、一体、祖先の魂気と体魄を合せるのですか、それとも魂気を感格させるだけですか。」

先生いう。「蕭〔ヨモギ〕と祭脂(イケニエノアブラ)を焫(ヤ)くのは、〔祖先の魂〕気に報いるためであり、鬱鬯(ウツチョウ)の酒を〔地に〕灌ぐのは、〔祖先の体〕魄を招き寄せるためである。つまり祖先の魂気と体魄を合わせるのだ。いわゆる『鬼と神とを合はすは、教への至りなり』だ。」

また問う。「一体、常時このようにするのですか、それとも祭祀の時だけですか。」

先生いう。「子孫の気がありさえすれば、祖先の気はある。しかし祭祀の時でなければ、どうして祖先の気は集まれるだろうか。」

 

(7)先生いう。「世間ではやたらと化け物を崇め尊んでいる。たとえば、私の郷里の新安などは、一日中、お化け屋敷にいるみたいだ。私は一度里帰りをしたことがあるが、世間で五通廟と呼んでいる社がある。とりわけ霊怪で、『霊験あらかたである』といって、みんなが大事にお守りをしている。土地の人たちは、外出する時には、神片をもってお社に行き、おいのりをしてから出かけることにしている。通りすがりのお役人たちは、必ず門生の誰それがしと名前を書いた紙切れを持ってお参りした。私が帰郷した当初、親戚のものたちから、お参りに行けとせっつかれたが、私は行かなかった。その晩、一族の人たちを呼んで宴会をした。役所に行って酒を買ったが、灰が混っていて、飲んだとたんにひどい腹痛がして、夜通し苦しんだ。つぎの日、たまたま蛇が一匹、屋敷の階段のそばに現れた。お参りをしなかった罰だといってみんなが大騒ぎをした。私は『胃の腑が物を消化しなかったのであって、五通廟とは何の関わりもない。むやみに五通のせいにしないことだ』といってやった。なかに一人、学問熱心な人がいたが、この人もやって来て、『これも衆に従うということです』といって、お参りに行くようにすすめた。私は『衆に従ってどうしようというのです。学問熱心なあなたのような人まで、こんなことをいうとは意外です。私は幸いなことに、郷里に帰省する機会に恵まれ、先祖の墓所のすぐ近くにおります。もし本当に祟りで死んだのなら、どうか私を祖先の墓所のそばに葬ってください。はなはだ好都合です』といってやった。」

先生またいう。「地方長官となったら、淫祠を除去しなければいけない。勅額に関係したものの場合は、軽々しく除去してはいけない。」葉賀孫

*:五通廟と称される化け物を祀った社。詳細は不明であるが、通俗篇巻十九、神鬼の部などに記述されている。

 

<出典:諸橋轍次/安岡正篤 監修「朱子學体系第六巻 朱子語類明徳出版社 1981 p34~49佐藤 仁執筆「鬼神」>

 

いかがでしたか。けむに巻かれた気もしますね。