宗教はなぜ儀式と浄財を重んじるのか?(2)

1-4、キリスト教献金

 聖書は、献金には神様の大きな恵みと祝福が伴うことを教えている。 「献金とは、会費・寄付金・説教の聴講料ではなく、イエス・キリストを信じた人が、その感謝の心を、神に対して金品をもって表わすものである。従って、感謝もなく、強いられたり、いやいやな思いでするなら、むしろしない方がよろしい」。

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は、欲ばって金銭を求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦難をもって自分自身を刺しとおした」(テモテへの第一の手紙6-10)

「信仰」とは、ある意味で抽象的なものである。人の信仰は目に見えないからである。しかしその「信仰」が、その人のお金や献金への態度になると、具体的に現われてくる。献金は信仰のバロメーター」とよく言われるゆえんである。献金という具体的な形を取ろうとすると、心の中にすぐっている醜い私が顔を出すのである。

またキリスト教では、十一献金をいう。マラキ書は次のように述べている。
「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。………それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。………十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て………こうしてわたしをためしてみよ。」(マラキ書3-8~10) 

神が求めているのは、私達の献金ではない。神が求めているのは、私達自身との深い交わりなのです。そして「あふれるばかりの祝福」を私達に注ぎたい、と願っておられることにある。そのすばらしい神と私達との交わりを、お金に対する執着などというもので壊してしまってはいけないと言っているのである。   

十一献金は、決して「教会の税金」ではない。十一献金の正確な意味は、「私達の全ての必要を満たして下さった神への、私達の感謝と献身の表現として、私達は『全て』を、つまり『十分の十』を神にささげるということ。すると神は十分の一を取って残りの十分の九を私達の生活のために下さる。」ということである。そして、神は私達の生活の必要を必ず全て満たして下さる、と約束して下さっていることを忘れてはいけない。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ福音書6-24)心に留めておきたい聖句である。

参考:http://www.imcj.org/bible/abc/l6.html

 

1-4、天理教中山みき教祖の「貧に落ち切れ」

 天理教の教祖中山みきさんの浄財はすさまじいの一言に尽きるものである。

中山みきさんは、天保9年(1838年)10月26日、「月日のやしろ」と定まられてからは、まず「貧に落ち切れ」との親神様の思召のままに、貧しい人々への施しに家財を傾けて貧のどん底への道を歩まれた。

1853年、夫・善兵衞が田地3町歩と屋敷を遺して病死すると、かねて宿願どおり「これから世界のふしんに掛る」といって、母屋を売却して一家は八畳と六畳の隠居所に移った。

このような常人には理解し難い信仰は、親族の反対はもとより、知人、村人の離反、嘲笑を招かずにはいなかった。しかし、貧窮の中で成長した五女こかんは、老いた母の真摯な信仰に引かれ、大坂の町で最初の布教に赴く。

その後さらに十年ほどのどん底の道中も、常に明るく勇んでお通りになり、時には食べるに事欠く中も「水を飲めば水の味がする」と子どもたちを励ましながらお通りになった。

こうした道中を経て、三女はるの初産の「をびや許し」を道あけとして、不思議なたすけが次々と顕れるにつれて、教祖を生き神様と慕い寄る人々が現れ始めていく。

「あしきはらひ」のおつとめに教祖が「貧に落ち切れ」と言われたのは当時の中山家だけ

開教直後の中山みきは、幾度も池や井戸へ投身を企てるなど、神と人との間のはげしい内面的矛盾の中を歩んだ。(中略)中山家の没落は、開教後の中山みきの、際限ない施与が原因とも伝えられているが、中山みきは、「貧に落ち切れ、貧に落ち切らねば難儀なる者の味わいが分からん」との神の命を聞き、すべての人間の救済を実現するための神の意志として、「谷底」への道をよろこんで迎えたという。「谷底せりあげ」すなわち民衆の救済は、中山みきの考えでは、中山家が「谷底」に落ち切ることによって、はじめてその第一歩を踏み出すはずであった。
(参考:村上重良「中山みき天理教」日本思想体系67「民衆宗教の思想」岩波書店1971所収)

 

信者を代表して中山みきさんが浄財をなされたのである。ちょうど、アブラハムがイサク燔祭をしてユダヤ教の始祖となったように、中山みきさんが神との和解の道を切り開かれたといえよう。大変敬服すべきことである。

 

1-5、儒教と祭祀

 孔子自身は、多くの儀礼について語ったが、厳密にいえば宗教的な話題には言及したことがない。鬼神に仕えることについて聞かれた時、「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕えられよう)」(先進第十一)と答えている。

ただ、中国では古来、自然=事物と鬼神とは表裏一体のものとして捉えられていた。自然や堅物の裏側に、ある霊妙なものの存在が予感されていた。『周礼』大宗伯にみえる雨師・風師は、雨や風の背後にあってそれらを現象せしめる神である。『中庸』第16章の「物に体して遣すべからず」というのも、より原初的には物の背後にある笹神などの鬼神をいっている。

孔子の孫、子思がまとめた『中庸』第十六章二節には次のように記述され、その重要性が指摘されている。

視之而弗見。聴之而弗聞。体物而不可遺。

<訓(鬼神は)之を視れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺す可からず>

仏教の挑戦を受けて再興された近代儒教宋学朱子学)では、霊妙な世界(霊界)は、鬼神が充満し、その物をその物たらしめている「物に体する(体物)」空間として説明した。鬼神は民衆の世界においては、日本語の「オニガミ」のように、具体的なお化けや幽霊、物の怪などを意味する。(「朱子語類」の記述でも最後のところで民衆の信仰の一端が書かれている。)

しかし朱子学では、鬼神は具体的なオニやお化けという実体があるのではなく、「二気(陰陽)の良能」(張横渠)として、気が帯びている陰陽の作用によって分かれる気の霊的エネルギー状態に「神」「鬼」という名をつけている。自然科学のように、陰陽の作用として受け止めている。(気が伸びるのが神、気が屈するのが鬼である。)

もの、すべての存在は、陰陽二気が凝集することによって生まれ、すなわち存在を開始し、それを散ずることによって存在を終える。物の体、物の骨子を形づくっているものが鬼神である(『朱子語類』九八)。物に体して遺す可からず」とは、鬼神があるからこそ物がある、という意味である。物の芯、骨格ともいうべきものであって、存在にリアリティを与えているのが「鬼神」なのである。

この説明を聞くと、霊的世界を他の宗教と形は少し違うがエネルギー的なものとして存在を前提にしていることがわかる。

 

では、儒教の祭祀であるが、このことについても朱子が「鬼神論」の中で述べている。

ところで人間が死ぬと、最後には散ってしまうことになるが、すぐに散ってしまうわけではない。だから祭祀に感格の理があるのだ。はるか遠い昔の先祖の場合、その先祖の気の有る無しはわからないが、しかし祭祀を取り行うものが、その人の子孫である以上、結局のところ気が同じなのだから、感通の理はあるのだ。しかしもはや散ってしまった気は、二度と凝まることはないのだ。ところが仏教徒は、人が死ぬと鬼になり、鬼がふたたび人になると考えている。もしそうなら天地の間には、常に大勢の人々が行ったり来たりしているだけであって、決して造化のはたらきによって生々しないのだ。こんな理は無いにきまっている。たとえば伯有の怨霊が祟ったという点になると、程伊川は別種の道理があるといっている。思うにその人の気がまだ尽くべきでないのに変死した時には、祟ることができるのであろう。子産が伯有のために跡目を立てて、落ち着き場所を与えてやったので、祟らなくなった。子産も鬼神の情状を知っていたといってよい。」

*感格:祖先の魂が感じてやって来る。

人に祟るものの場合は、まともな死に方をしなかったものが多い。その気が散らないので、結ばれて祟るのだ。体がひ弱くて病死した人の場合は、気が完全に消耗してから死ぬので、二度と結ばれて祟るようなことはない。しかしまともな死に方をしなかったものも、しばらくたつうちに散る。

問う。「子孫が祭祀を行う時には、誠意を尽くして祖先の精神(タマシイ)を集めますが、一体、祖先の魂気と体魄を合せるのですか、それとも魂気を感格させるだけですか。」

先生いう。蕭〔ヨモギ〕と祭脂(イケニエノアブラ)を焫(ヤ)くのは、〔祖先の魂〕気に報いるためであり、鬱鬯(ウツチョウ)の酒を〔地に〕灌ぐのは、〔祖先の体〕魄を招き寄せるためである。つまり祖先の魂気と体魄を合わせるのだ。いわゆる『鬼と神とを合はすは、教への至りなり』だ。」

やはり儒教も、儀式と供え物を重視しているのである。

〔参考:ブログ:2015年10月11日  朱子朱熹)の鬼神論(1)(2)〕