朱子(朱熹)の鬼神論(1)

中国では古代以来、自然=事物と鬼神とは表裏一体のものであった。自然や堅物の裏側に、ある霊妙なものの存在が予感されていた。『周礼』大宗伯にみえる雨師・風師は、雨や風の背後にあってそれらを現象せしめる神である。『中庸』第16章の「物に体して遣すべからず」というのも、より原初的には物の背後にある笹神などの鬼神をいっている。

しかし、儒教は鬼神について来世についてはほとんど語らなかった。孔子自身も、厳密にいえば宗教的な話題には言及したことがない。鬼神に仕えることについて聞かれた時、「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕えられよう)」(先進第十一)と答えている。

この儒教が答えない人々の来世の問題に答えたのが仏教であった。仏教伝来は、中国の人々の不安に救済の手を差し伸べたのである。道教も同じように人々の不安に応えていった。

道教は、不老不死や仙人になるための薬を生み出し、奇蹟を約束する特殊な食養生や肉体の鍛錬法を発展させた。儒教が来世については何も語らないので、来世に対する関心によって道教の魅力はいっそう高まった。道教は何世紀にもわたって影響力を持続することになる。

仏教・道教の普及に刺激を受けて、儒教が宋の時代再構築される。宋儒学、理気学とも呼ばれる朱子学である。朱子学を最終的にまとめたのが朱熹朱子)である。朱子学は、日本へも大きな影響を及ぼしたことは周知のことである。

朱子学の中で、中国古来からの霊妙なる存在、「鬼神」はいかにとらえられたのであろうか。朱子朱熹)の著作「朱子語類」の中に第三巻として「鬼神」が論述されている。第一・二巻が理気で、第四・五・六巻が性理であることからして、重要なテーマとして捉えられていたことは確かである。小倉紀蔵氏は、朱子学の世界観をリアルに理解するためには、鬼神ほど重要なものはないと語られている。私も同感である。小倉氏は、『中庸』第十六章の一節をあげられてその重要性を指摘されている。

視之而弗見。聴之而弗聞。体物而不可遺。

<訓(鬼神は)之を視れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺す可からず

<訳(鬼神は)これを見れども見えず、これを聴けども聞こえず、すべての物の体となってあますところがありえない。

 

朱子学的世界とは、鬼神が充満し、その物をその物たらしめている「物に体する(体物)」空間である。鬼神は民衆の世界においては、日本語の「オニガミ」のように、具体的なお化けや幽霊、物の怪などを意味する。違うところは、朱子学では、鬼神は具体的なオニやお化けという実体があるのではなく、「二気(陰陽)の良能」(張横渠)として、気が帯びている陰陽の作用によって分かれる気の霊的エネルギー状態に「神」「鬼」という名をつけている。自然科学のように、陰陽の作用として受け止めているのである。(気が伸びるのが神、気が屈するのが鬼である。)〈小倉紀蔵著「入門 朱子学陽明学」ちくま新書 2012 P24~25〉

 

一言言えば、「鬼神」について、実体がなくただの気のエネルギー状態であるという朱子学の主張には問題があり、朱子学の根幹を揺さぶりかねないことを指摘しておく。ただ鬼神論を読まれれば感じられると思われるが、とても気のエネルギーとしてだけで処理できているとはいえない。

朱子語類」第三巻「鬼神」について、諸橋轍次/安岡正篤 監修「朱子學体系第六巻 朱子語類明徳出版社 1981より記載する。なお、文中の太字・下線は、小生が付けたものであることをお断りしておく。

 

鬼神(『朱子語類』巻三)

 

(1)ある人問う。「鬼神は実在するのですか、しないのですか。」

先生いう。「この問題は、急には説明できない。説明しても君は信じまい。衆理をつぎつぎにはっきり見ていかなければいけない。そうするとこの疑惑は自然に解消する。『論語』に『樊遅(ハンチ)、知を問ふ。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知と謂ふべし』とあるように、理解しなければならぬことをまず理解し、理解できないことは、しばらくよそへおしやっておくことだ。日常生活の問題をすっきりと解決することができたら、鬼神の理は自然にわかるようになる。それでこそ知なのだ。『いまだに人に事ふるあたはず、焉んぞよく鬼神に事へん』というのも、意味は同じだ。」呉必大

 

(2)問う。「生死鬼神の理についてお尋ねします。」

先生いう。「天道が流行して万物を発育する。理があって、後に気がある。理も気も同時にあるのだが、結局、理の方を重要に考えるのだ。人間は理と気を得て生れる。しかし気には清と濁とがあり、気の澄んだものが気で、濁ったものが質だ。清んだものは陽に属しており、濁ったものは陰に属している。知覚運動は陽の気のしわざであり、骨肉皮毛は陰のしわざである。気は魂といい、体は魄(ハク)というが、高誘の『准南子』の注には、『魂は陽の神、魄は陰の神』とある。いわゆる神は、魂魄が形成をつかさどっているからだ。人間が生れるのは、精と気が集まるからだ。人間がいくら多くの気をもっているからといっても、必ずいつかは尽きはてる。尽きはてると魂気は天に帰り、形魄は地に帰って、死ぬことになる。人が死のうとする時、熱気が立ち上るのは、いわゆる『魂、升る』であり、下半身からだんだんと冷たくなるのは、いわゆる『魄、降る』である。これは生があれば、必ず死があり、始めがあれば、必ず終りがあるとされる理由である。聚散するものは気である。理の場合は、気に宿っているだけで、もともと凝結して一物となっているのではない。ただ人間の身分として当然そうでなければならぬことが理であって、聚散では説明できないのだ。ところで人間が死ぬと、最後には散ってしまうことになるが、すぐに散ってしまうわけではない。だから祭祀に感格**の理があるのだ。はるか遠い昔の先祖の場合、その先祖の気の有る無しはわからないが、しかし祭祀を取り行うものが、その人の子孫である以上、結局のところ気が同じなのだから、感通の理はあるのだ。しかしもはや散ってしまった気は、二度と凝まることはないのだ。ところが仏教徒は、人が死ぬと鬼になり、鬼がふたたび人になると考えている。もしそうなら天地の間には、常に大勢の人々が行ったり来たりしているだけであって、決して造化のはたらきによって生々しないのだ。こんな理はないにきまっている。たとえば伯有***の怨霊が祟ったという点になると、程伊川は別種の道理があるといっている。思うにその人の気がまだ尽くべきでないのに変死した時には、祟ることができるのであろう。子産が伯有のために跡目を立てて、落ち着き場所を与えてやったので、祟らなくなった。子産も鬼神の情状を知っていたといってよい。」

*精:『易』繋辞上伝第四章「精気物をなす」。朱子いう「精と気とを合して物をなすなり。精は魂にして気は魄なり」(『朱子語類』巻七四)。ただし精を魂とし気を魄とするのはなにかの間違いで、精を魄とし気を魂とすべきであろう。(『朱子語類』巻三・第六条)

**感格:祖先の魂が感じてやって来る。

***:伯有:『春秋左氏伝』昭公七年。伯有は春秋時代の鄭の穇(サン)公の子孫、良霄のあざな。不行跡がたたって殺されたが、死後魍魎となって人に祟ったといわれている。

 

問う。「程伊川は、『鬼神は造化の迹』といっておりますが、そんなのも造化の迹なのですか。」

先生いう。「みなそうだ。もし正常な理を論ずるならば、樹上に突然花や葉を生ずることなどが、つまり造化の迹なのだ。またたとえば空中に突然雷霆風雨が発生するのもみなそうだ。ただ人が見慣れていることなので怪しまないだけだ。突然、鬼のなき声を聞いたり、鬼火を見たりすると、すぐに怪しいと思って、これらもまた造化の迹であることに気づかない。ただ正常な理ではないので、怪異とするのだ。たとえば『孔子家語』に『山の恠(バケモノ)を夔(キ)・魍魎(モウリョウ)といひ、水の恠(バケモノ)を龍・罔象(モウショウ)といひ、土の恠(バケモノ)を●(羊+賁)羊(フンヨウ)といふ』とあるのなどは、みな気が入り乱れちぐはぐになって生じたものだ。やはり理として実在しないものなのではない。実在しないと独り決めにしてはいけない。たとえば冬寒く夏暑いのは、理として正常なのである。ある時、突然夏が寒く冬が暑かったとしても、この理がないとはいえまい。ただ理として正常でない以上、これを怪と呼ぶのだ。孔子はそれで話さなかったのであり、学ぶ者も理解する必要はないのだ。」李閎祖

 

(3)先生いう。「昔儒者は、『口鼻の呼吸が魂であり、耳目の聡明が魄である』といっているが、まああらましを説いただけで、さらにその基本になるものがある。これがつまり坎離(カンリ)火水である。煖気(ダンキ)が魂であり、冷気が魄であり、魂が気の神であり、魄が精の神である。思量計度することができるものが魂であり、事柄を記憶することのできるものが魄である。」

先生またいう。「目では明、耳では聡となって現れるものは、魄の作用である。老氏**の『営魄に載る』の営は、晶熒(ショウケイ、きらきらと輝く)という意味である。魄は、きらきらと輝く堅く凝結したものである。釈氏の地水火風***だが、その説に、『人が死んだ時、風水の方が先に散れば、祟ることができない』とあるのは、思うに魂の方が先に散って、魄がなお残っている場合は、完全に消滅していないだけで、やがて自然に崩壊するからであろう。『もし地水の方が先に風水がなお散り遅れていると、祟ることができる』というのは、思うに魂気がなお残存しているからであろう。」

先生またいう。「魂がなければ、魄はみずからを存続させることはできない。もし思い煩うことが多いと、魂は完全に魄と遊離してしまう。老氏はそこで、ひたすら両者が結合するように守っていこうとした。いわゆる『虚を致すこと極まえり、静を守ること篤し』とは、全く動いていないようにちゃんと守るのだ。」

先生またいう。「『気に専らにして柔を致す』の方は、守るということではなくて、専らにするということである。つまり気に専一であって、全く放出しないならば、気は細やかだが、もし少しでも放出すると粗くなってしまう。」

*:後漢の鄭玄のこと

**:老子のこと

***:いわゆる四大のことで、仏教ではこの四種の元素で一切の物質が構成されていると考えた。

<続く>

 

綿々と続けられてきた中国皇帝の儀式

中国の皇帝がどのような祭祀を行ってきたか、今やほとんど知る人もいないであろう。共産主義中国になって65年、祭祀は何の意味ももっていないだろう。しかし、中国に皇帝が君臨していた時代、皇帝の儀式はとても重要な意味をもって行われていたのである。

中華帝国の繁栄は、皇帝が自ら行う国家的祭祀を正しい方法で執り行うかどうかにかかっていて、人事と天の意思が完全に和合するよう保証するのが皇帝の務めであった。皇帝自身が中華帝国の第一の司祭であった。しかし、清王朝滅亡後はこの祭祀もなくなってしまった。また、各家庭には、もう一人の司祭-父親-がいて、孔子の時代よりもはるか前から祖先の名を記した位牌を祭壇に安置し先祖崇拝の祭祀を行い、祖先に報告するのであった。儒教を奉じている中華民族の家庭では、現在も熱心に行われている。皇帝の行っていた儀式について、トーマス&ドロシー・フーブラー著鈴木博訳「シリーズ世界の宗教 儒教青土社1994(p127~147)より、中国皇帝の天に対する儀式を紹介する。

 

◆皇帝の儀式

冬至の前夜、中華帝国の皇帝は一年のうちでもっとも重要な儀式の準備に取りかかることになっていた。皇帝とその一族が暮らしている紫禁城の城門が開けられ、皇帝は金竜の刺繍を施した布で飾った輿に乗り、十六人の貴族に担がれて南下する。皇后、大臣、官僚や派手な礼服を着た召使を含む二千人余りが、広大な都城を南北に縦断する。砂金を撒いた大通りを歩み、旗手が二十八宿〔二十八星座〕、五星〔五惑星〕、五岳〔五大名山〕の旗幟を掲げ、都城の南門を出て6.4平方キロメートルもあった天壇に向かう。

天壇に入ると、皇帝は祖先の神主(位牌)を拝し、ついで斎宮に引き篭もり、翌日の祭祀にそなえて斎戒する。夜明け前に斎宮を出て、天と相対している漢白玉石造りの三段の祭壇「園丘壇」に登り、自分の天命を更新する年に一回の恒例の儀式を執り行う。

儀式は古代からの伝統にのっとって進められる。皇帝は竜の刺繍を施した藍色の長大な礼服をまとい、真珠の飾りを施した冠をかぶって、天を象った円形の祭壇の階段を登り、積み重ねられた柴に火をつける。立ち昇る煙によって、その儀式に臨む神がみを神降ろしするのである。

ついで、皇帝は祭壇に香、青い絹布、青い玉の円盤を供える。中心をなす犠牲―いかなる欠陥もない雄牛―は慎重に選ばれ、前夜のうちにすでに屠殺、解体されており、皇帝はその肉の一片を取って玉座に供え、さらに他の肉片を玉座の傍らに置かれている祖先の位牌に供え、丁重に九回ひれ伏してから祭壇を下りる。そして、皇帝が下から見上げるなか、供物を青い紅のなかで燃やす。

皇帝がこれらの務めを果たしているあいだ、笛、鐘、磬(けい)の音が祭壇の周囲に響きわたり、儀式の一部をなす荘厳な踊りが演じられる。古代から1916年まで何世紀にもわたって、この情景―王朝が交代しても、遷都が行われても、平和なときでも、戦乱のときでも―には、まったく変化がみられなかった。「五経」の一つである『礼記』に書き留められているので、この祭祀の方式は細部にいたるまでまったく変化しなかったのである。

<『礼記』礼運第九>

聖人礼の以て已む可からざるを知ると為す。故に国を壊り家を喪ぼし人を亡ぼすは、必ず先ず其の礼を去(す)つればなり。

―聖人は、礼の欠くべからざるものであることを万人に先んじて充分に知り、制定したのである。みずから国を滅ぼし、家を破り、わが身を失う人がいるのは、必ずまず礼を捨て去るからなのである。

 

文字通り、中華帝国の繁栄は皇帝がこれらの祭祀を正しい方式で執り行うかどうかにかかっており、人事と天の意思が完全に和合するような保証するのが皇帝の務めであった。それをなしうるのは、天子たる皇帝だけなのである。

皇帝によって執り行われる冬至の儀式は陽気の蘇生を意味するが、その陽気の蘇生は目に見える天と、冷と暗を意味する陰気の冬のあとにやって来る太陽を象徴しているのである。夏至にも、皇帝は同じような祭祀を都城の北方―あらゆる生命の源をなす「地」の方角―で執り行った。陽気が最高潮に達するので、夏至は時計の平衡論を戻して陰気を敬う日なのである。北側の祭壇は「地」の形である方形をしていて、皇帝の礼服、供物、輿は「地」の色である黄色を基調にしていた。また、供物は燃やされず、地中に埋められた。

国教である儒教の祭祀は、大祀、中祀、小祀に分けられ、政府の礼部には皇帝から楽師にいたるあらゆる列席者の指導にあたる官僚が配されていた。皇帝は、小祀と中祀については名代を送って行わせることができ、実際に全国の省や県の中心地にある孔子廟では、官僚が皇帝の名代として中祀や小祀を執り行った。中祀の供物には、孔子を祀る廟で孔子に捧げられるものもあった。

中祀には都城の南西方にある先農壇で皇帝によって定期的に執り行われるものもあった。農民が作物の植え付けを始める旧暦の3月の一の亥の日に、まず皇帝が六畝の神田を耕し、ついで皇后と高官が耕す。皇后は、黄帝の妻〔るい(女ヘンニ累)祖〕を祀る祭壇でもう一つ別の儀式を執り行うのであるが、その黄帝の妻〔るい(女ヘンニ累)祖〕は蚕の保護者と考えられている。というのは、伝承によれば絹の作り方を発見したからである。

皇帝しか執り行うことができない大祀が四つあった。天を祀るもの、地を祀るもの、それに、皇室の祖先を祀るもの、土地と作物の神を祀るもので、いずれも孔子の時代よりもはるか前から行われていたが、何世紀も経つうちに儒教の風習になったのである。それらの祭祀は絶対に公開されず、大祀で特定の役割を果たす人しか加わることができなかった。トーマス&ドロシー・フーブラー著鈴木博訳「シリーズ世界の宗教 儒教青土社1994(p127~147)

 

現代中国では、すでにこの祭祀は完全に捨て去られている。はるか昔よりどの時代でも最も大切に考えられてきた中華帝国の天に対する儀式は喪失してしまい、天との間を取り繋ぐ司祭ももうどこにもいない。中国人は、礼を捨て去ってしまっているのである。このことは、『礼記』に述べるように中国を滅ぼしかねない問題となりはしないだろうか。

東洋陰陽思想の核「太極」

「太極」という言葉は古代からあったが、宋学朱子学)以降極めて重要な概念となった。朱子らが編纂した宋学朱子学)の入門的教科書「近思録」の開巻冒頭に、北宋儒学者周敦頤(しゅうとんい、号は濂渓れんけい。1017~1073)が載せられている。

朱子学は、人間の心の微細な動きから、宇宙の全体的な力動までをすべて説明する壮大な体系である。そのミクローマクロを貫通するのが理と気である。宇宙のしくみや力動を説明するときには、理は往々にして『太極』という言葉で表現される。太極とは、理のさまざまな側面の内、究極的で、もっとも包摂的で、もっとも全一的で、完全に統合的な性格を指し示すときに使われる語である。(小倉紀蔵

小倉紀蔵氏が著書の中で、周濂渓の『太極図説』(「近思録」巻之一)を載せ解説されている。「太極」の概念をかみしめてみたい。

       

       陰陽魚太極図

この形をした太極図は、陰陽太極図、太陰大極図ともいい、太極のなかに陰陽が生じた様子が描かれている。この図は古代中国において流行して道教のシンボルとなった。白黒の勾玉を組み合わせたような意匠となっており、中国ではこれを魚の形に見立て、陰陽魚と呼んでいる。黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が広がっていくのは、それぞれの気が生まれ、徐々に盛んになっていく様子を表し、やがて陰は陽を飲み込もうとし、陽は陰を飲み込もうとする。陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず。陰の中央にある魚眼のような白色の点は陰中の陽を示し、いくら陰が強くなっても陰の中に陽があり、後に陽に転じることを表す。陽の中央の点は同じように陽中の陰を示し、いくら陽が強くなっても陽の中に陰があり、後に陰に転じる。太極図は、これを永遠に繰り返すことを表している。〔Wikipedia

 

【周濂渓の『太極図説』(「近思録」巻之一)】

濂渓先生曰、無極而太極<濂渓先生曰く、無極にして太極なり。>

「無極にして太極なり」という哲学にきわめて重要な言葉において、「にして(而)」という語の意味に関してさまざまな議論がある。これを「から」と解釈すれば、道家のように「無から有が生まれる」という意味になってしまう。これは儒家としては絶対に認められないところである。したがって「であって」とか「でありながら」と読むのが穏当である。太極は朱子学では理を指すが、理は有の性格を持ちながら無の性格をもつのである。なぜなら理が一個の実体としての有であるなら、万物に浸透できないからである。理が無の性格を持つ(無そのものではない)からこそ、万物(気)に浸透できるのである。このような意味で、「無極而太極」というきわめて道家的(非儒教的)な言葉が、宋学においてはアクロバティックに重要な核心的キーワードとなるのである。

 

太極動而生陽<太極動いて陽を生ず。>

太極は動きを通して陽を生む。朱子によれば、太極に動静があるのは、天命の流行である。

 

動極而静<動くこと極まって静なり。>

動きが極限に達すると、静まる。

 

静而生陰<静にして陰を生ず。>

静を通して太極は陰を生む。大極は形而上の道であり、陰陽は形而下の器(物質性のあるもの)である。

 

静極復動<静なること極まって復動く。>

静が極限に達すると、ふたたび起動する。

 

一動一静、互為其根、分陰分陽、両儀立焉<一動一静、互に其根と為り、陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。>

動と静がこのように交替し、互いに相手の根となりながら、やがて陰と陽という区別が生じて、そしてふたつの様態(二気)が成立する。陰と陽とは、ふたつの別個の実体を持った存在なのではない。ひとつの気(一気)が帯びるふたつの様態なのである。これは、陰陽の図において、陰の部分と陽の部分のそれぞれ中央に丸い穴が空いていることからもわかる。これはどこに続いている穴かというと、相手(陰だったら陽、陽だったら陰)に通じているのである。二項対立でも二分論でもない。陰と陽とはつながっているのだし、明確な区分はないのである。

 

陽変陰合、而生水火木金土<陽変じ陰合して、水・火・木・金・土を生ず。>

陽が変じて陰と合し、水・火・木・金・土という五行を生む。

 

五気順布、四時行焉<五気順布し、四時行わる。>

五つの気(五行)が調和をもってあまねくゆきわたると、四つの季節が順番にめぐってくる。

 

五行一陰陽也、陰陽一太極也<五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。>

五行はひとつの陰陽である。陰陽はひとつの太極である。陰陽が太極なのか、それとも陰陽する道が太極なのか、に関しては陸象山と朱子の間に論争がある。陸象山は陰陽そのものが太極だといった。それに対し朱子は、陰陽は気(形而下)であって太極は理(形而上)だから、陰陽がそのまま太極だということはありえないと考えた。

 

太極本無極也<太極は本無極なり>

太極は元来、無極である。

 

五行之生也、各一其性<五行の生ずるや、各(おのおの)其の性を一にす。>

五行が生まれると、それぞれの性質は異なる。

 

無極之真、二五之精、妙合而凝<無極の真、二五の精、妙合して凝る>

本源的な無極と、精緻な顕現としての陰陽の二気、そして五行が絶妙に合わさって、あらゆるものごとの本質部分が形成される。

 

乾道成男、坤道成女<乾道(けんどう)は男を成し、坤道(こんどう)は女を成す。>

天をあらわす乾道は男性的な性質を生み、地をあらわす坤道は女性的な性質を生む。

 

二気交感、化生万物<二気交感して、万物を化生す。>

このふたつの性質(男性的・女性的)を持つ気が互いに感じあって、相互作用を起こすことにより、宇宙の万物に生命と形を与えながら、それらを生み出す。

 

万物生生、而変化無窮焉<万物生生して、変化窮まりなし。>

宇宙の万物はつねに生命力にあふれて生みつづけ、生れつづける。だから生命も宇宙もその変化は一瞬たりとも止まらずに終わりがない。

 

惟人也、得其秀而最霊<惟(ただ)人や、其の秀を得て、最も霊なり。>

そのような万物の中で人間だけが、宇宙の気の中のもっともすぐれた部分を受け取ってできあがったものである。したがって人間こそがもっとも霊性に満ちている。「人間は天地の心なのである。だから人間の心が正しければ、天地の心もまた正しいし、人間の気が順であれば、天地の気もまた順である。」(李栗谷『天道策』)

 

既生矣、神発知矣<形既に生じ、神発して知る。>

人間の形が徐々に形成されて人間が生れるや、霊的能力が発現して知的能力が現実化する。

 

五性感動、而善悪分、万事出矣<五性感動して、善悪分れ、万物出ず。>

人間に内在する五つの道徳的本性が外界の刺激を感じてそれに反応し、現実的に発動する。それにより善と悪がわかれ、すべての事が起こる。

 

聖人定之、以中正仁義、而主静、立人極焉<聖人之を定むるに、中正仁義を以てし、而して静を主として、人極を立つ。>

聖人はこれらのすべての事に、それにふさわしい位置を与える。それは聖人が中庸であること(中)、正しいこと(正)、人間愛にあふれていること(仁)、正義のかたまりであること(義)によって可能なのである。また、動ではなく静を基本として人間の標準を打ち立てるのであり、その聖人自身がまさにその最高の標準なのである。

 

故聖人与天地合其徳、日月合其明、四時合其序、鬼神合其吉凶<故に聖人は天地と其徳を合せ、日月と其明を合せ、四時と其序を合せ、鬼神と其吉凶を合す。>

それゆえ聖人は天地とその徳を合一させる。聖人は太陽・月とその明るさを合一させる。聖人は春夏秋冬の四季とその順序を合一させる。聖人は鬼神とその吉凶を合一させるのである。

 

君子修之吉、小人悖之凶<君子は之を修めて吉なり、小人は之に悖(もと)りて凶なり。>

君子はその聖人の道徳的標準性をしっかりと自分のものにするので良い方向に進む。だが小人はその聖人の道徳的標準性に背馳するので悪い方向に進む。

 

故曰、立天之道日陰与陽、立地之道日柔与剛、立人之道日仁与義<故に曰く、天の道を立てて陰と陽と曰(い)い、地の道を立てて柔と剛と日(い)い、人の道を立てて仁と義と日(い)うと。>

それゆえ次のようにいわれるのである。天の道を立てて陰と陽といい、地の道を立てて柔と剛といい、人の道を立てて仁と義という、と。

 

叉曰、原始反終、故知死生之説<叉曰く、始めを原(たず)ねて終りに反(かえ)る。故に死生の説を知ると。>

また、次のようにもいわれる。始めに立ち戻って終わりにかえってゆく。つまり始めと終わりはつながっている。それゆえに死や生とは何かということを知るのだ、と。

 

大哉易也、斯其至矣。<大なるかな易や。斯(こ)れ其の至れるなり。>

このような宇宙の大きな真理をすべて含んだものが『易』である。ここにこそ、すべての真理の究極がある。

 

〔引用文献:小倉紀蔵著「入門 朱子学陽明学」ちくま新書 2012

p97~p106〕

孔子の「忠」の思想-「忠」の発生と「忠」思想の歪曲化

儒教の教えに五倫の教え〔五倫の関係=父子関係(父子の親)、夫婦関係(夫婦の別)、兄弟関係(長幼の序)、君臣関係(君臣の義)、朋友関係(朋友の信)〕がある。五倫は、戦国時代孟子が、秩序ある社会をつくっていくためには、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した(孟子「滕文公(とうぶんこう)上篇」)ことに始まる。五倫の中で、父子関係・兄弟関係は血縁関係で維持され、夫婦関係は愛情で維持され、君臣関係は禄位の授受で維持される。朋友(友人)関係はそれらの基盤がないため不安定である。孔子は『論語』の中で、『忠』を18回使っているのだが、最も多いのが交友関係においてである。『忠』を語ったとき、その内容は政治に参画すること、民を治めること、交友、処世、修養等についてであり、人に接する時には「忠」=誠意を尽くして力を尽くして真心を尽くすこと=することを語っている。【孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳「図説 孔子 生涯と思想」科学出版社東京(p93~99)2014】をもとに孔子の「忠」の思想についてまとめてみた。

日本の忠孝思想は、中国の歪曲化された忠孝思想に影響を受け、日本の文化土壌と結びついて日本独特の忠孝思想ができあがったようである。

 

(1)「忠」の起源と歪曲化

「忠」という字は、歴史上遅くなって現れた文字で、甲冑文字の中には存在しない。最も早く現れるのは、戦国時代晩期の紀元前310年ごろの中山王の鼎と壷の銘文「余は其の忠(信)を智(知)る」、「志を渇(竭)くし忠を尽くす」である。文献中で使用されるのも非常に遅く、『尚書』『詩経』の中には「忠」の字はない。

『春秋左氏伝』の中には「忠」の字が数十例現れる。桓公6年(紀元前706)、季梁が隋君に勧めて言った、「所謂道は、民に忠にして神に信なり。上民を利せんことを思うは忠なり」。この例は、忠とは統治者に民の利益となるように求めることであり、統治者の人びとに対する忠なのである。春秋左氏伝に出てくる「忠」は、国・社会人びとの利益になるものであって、臣下が君主に仕えるときの道徳的要求ではない例も多い。もちろん臣下が君主に仕える道徳的要求の「忠」も描かれている。

政治理論としての「忠」の出現はとても遅く、社会制度が作り出したものである。宗法社会は、親類を大切にすることを原則とする家族と政治体制を大切にする社会で、この制度は西周の初期までには完成していた。このような制度の下では、君臣関係は政治関係でもあり、一種の血縁関係を備えた宗族関係でもあって二つの関係が統一されている場合、「孝」が社会の最高の規範と道徳の規則となり、それは家庭道徳でもあり社会道徳でもあった。

「忠」は、政治道徳の原則として封建関係の発生に従って生まれたものである。春秋の時代、生産力の発展に従って、生産関係と政治制度にもだんだんと変革が始まった。奴隷主は、あるいは土地を開発することによって富を築き、あるいは商売をすることで富を築き、あるいは製造業で富を築き、だんだんと大夫が諸候よりも富み、諸候が天子よりも富むという局面を生み出した。豊かになった諸侯は争い始め、豊かになった大夫は位を奪い始め、たいして豊かではない諸侯と大夫も自己の有している地位を失うことに甘んじていなかった。覇権を争ったり、位を奪ったり、自分の地位を保全するという目的を達するために、諸候や大夫は争って賢士を招き士を受け入れ、血縁関係のない多くの人びとを招き受け入れ役人とした。それにより、だんだんと宗族関係の政治体制が打ち破られ、以前からあった孝の道では新しい政治関係を守ることはできなくなってしまった。これらの血縁関係のない役人達を拘束し、新しく生まれた政治関係を擁護するために、「忠」が新しい行為の規則として出現した。それは臣下に自分の君主に忠誠を誓うように求めており、忠君の思想も生まれたのである。

 

後漢の時代、封建集権制の強化に従って、孔子の「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」の君臣関係は、「君は臣の綱たり(君主は臣下のおおもとである)」(『礼緯含文嘉』)と硬直化され、忠君思想はこの時から封建専制を教化し、人びとの思想を束縛するものとなった。20世紀人びとは孔子を「君は臣の綱たり」を初めに唱えた人として大批判を加えたが、それは本当のところ不公平である。

「忠」の歪曲化は、「君臣の死を要むれば、臣は死なざるを得ず」という愚忠の思想となった。しかし、それは孔子の思想に対する誤解であり、本来の意味ではない。この誤解は、日本だけではなく、中国歴史にも多くの愚臣を生み出した。

 

(2)孔子の「忠」思想

孔子の君主に仕えるという関係についての論述と評価を見ると、孔子には忠君の考えは非常に薄い。まず、孔子には後世の儒家の強調した「君権は神聖にして侵犯すべからず」の観念はない。殷の湯王、周の武王は臣下として戦争を起こして、各々暴虐な夏の桀と殷の紂を滅ぼした。しかし、孔子はこのような「君を弑する」行為を批判していないだけでなく、逆に彼らを君子として称賛し、『論語』の中で湯王が伊尹を登用した行為を称賛し、武王が至徳を有したことを称賛している。このことから、孔子には後世の忠君思想がなかっただけでなく、逆に残虐な君主を打ち殺すことに賛成していたことがわかる。次に、孔子には後世に奨励された「君に忠にして二主に事えず」の考えもない。管仲は公子糾の先生である。公子糾は斉の桓公に殺されたが、管仲は公子糾のために忠を尽くさなかっただけでなく、反って公子糾の敵である斉の桓公のために力を尽くし、桓公が覇業をなすのを助けている。管仲のような「二臣」を、孔子は非難していないだけでなく、逆に彼が「仁」徳を備えていると高く評価している。

 

(3)孔子の『忠』に関する論述

◆君主に仕えることを述べた唯一の例

定公問う、「君臣を使い、臣君に事(つか)う、之を如何せん?」と。孔子対えて曰く、「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」と。(八佾)

春秋中期以来の忠君思想を孔子が継承しているのだが、発展させている。すなわち「君臣を事うに礼を以てす」で、臣の一方的忠君の義務から、君臣双方が共有する条件としての義務へと修正している。まず、君主が礼に依拠して臣下を使ってはじめて、臣下は忠心をもって君主に仕える。これが孔子が提示した君臣関係である。

もし君主が礼に依拠して臣下を使わないならば、臣下はどうすべきであろうか。孔子の考えは、「道を以て君に事うも、不可ならば則ち止む」(先進)-辞職するといっている。

◆官と民の関係

季康子問いて曰く、「民をして敬、忠を以て勧ましむには、之を如何にせん」と。子曰く、「之に臨むに荘を以てすれば、則敬。孝慈なれば、則忠。善を挙げて不能に教うれば、則勧む」と。(為政)

季康子がどうやったら人びとを厳かでまじめ、一生懸命で、お互いに励まし合うようにできるかと質問すると、孔子は応えた。あなたが人びとに対して厳かでまじめであれば、人びとはあなたの政令に対して厳かでまじめになり、あなたが両親に親孝行で、幼い子に慈しみ深ければ、人びとは一生懸命になり、あなたが賢人を抜擢し、能力の劣った人を教育すれば、人びとはお互いに助け合います。

子張政を問う。子曰く、「之に居りて倦む無く、之を行うに忠を以てす」と。(顔淵)

子張が政治をどうやったら良いかと尋ねた。孔子は彼に応えた。位に就いて役人となったからには、怠ってはいけない。政令を執行するには誠意を尽くし、力を尽くさなければならない。

(4)<孟子>忠誠は相互的なもの

君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如くなれば、即ち臣の君を視ること国人の如し。君の臣を視ること土芥(つちあくた)の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇しゅうの如し。(「離婁章句下」)

人君が臣下を自分の手や足のように大切に扱えば、臣下はその恩義に感じて君主を自分の腹や心(胸)のように大切に思う。君主が臣下を飼い犬や馬のように考えて追い使うだけで礼敬の心がないと、臣下もまた君主をただ路傍の人のように見て恩義を感じなくなる。また、君主が臣下を泥や芥のように見なして踏みつけにすると、臣下もまた君主を寇(仇)やしゅう(敵)のように恨みにくむものである。

 

「忠君」には、特殊な政治的意味がある。国を利し、公を利し他を利す対象を君主一人に限定するため、個人と国家との関係が君主一人との関係になる。それゆえ、歴史上忠君は愛国と一緒になって展開されてきたのである。

歴史上中国にも委細かまわず一つの王朝に忠を尽くした臣下も多数存在し、誤った忠孝思想をもった臣下も数多く存在した(中には親分に惚れて共に死を共にした臣下もいた)。本当の忠臣は、国家・民族に「忠」なのであるが、「忠」という概念は既成の政治体制・君主の擁護に転化されやすいものなのである。

孔子が目指した理想世界

仁の人間中心の哲学思想から出発し、古代の聖王<堯・舜・禹>の時代を理想社会として、将来そのような社会の実現を目指した孔子は、大同世界と小康世界の二つの異なるレベルの理想世界を示した。二つの理想世界を紹介する。

 (1)大同世界

大同世界は、公私の最高の理想世界であり、長期的な目標である。その姿は、『礼記』礼運編にある。

 

大道の行わるるや、天下は公と為し、賢と能とを選び、信を講じ睦を修む。故に人は独り其の親を親とするのみにあらず、独り其の子を子とするのみにあらず。老をして終わる所有り、壮をして用うる所有り、幼をして長ずる所有り、矜(かん)寡(か)孤独廃疾の者をして皆養う所有らしむ。男は分有り、女は帰する所有り。貨は其の地に棄てらるるを悪むも、必ずしも己の為にせず。是の故に謀は閉じて興さず、盗窃乱賊にして作さず、故に外戸は閉じず、是を大同と謂う。

 

天下大同の社会では、天下は人民により共有されるもので、人徳と才能の共に備わった人材を選んで天下を治める。人々は信用を重んじ、打ち解けて交際し、自分の親戚を親しみ愛し、自分の子供達を扶養するだけでなく、すべての老人が扶養され、成年の人はみな自分の才能を発揮することができ、子供はみな扶養を得ることができ、男やもめや寡婦、独り暮らし、障害者がみな世話をしてもらうことができる。男子はみな自分の仕事と責任があり、女子はみな適齢期に嫁に行ける。人々は富が浪費されることを嫌うが、強奪して自分のものにすることはしない。力があって用いないのを嫌うが、自分のために利益を計ることはしない。陰謀や悪巧みは抑制され、盗賊や世の中を乱す人々は出現しようがない。夜は戸を閉めない。これはとても素晴らしい社会である。

 

孔子が憧れた古代の理想社会であり、伝説上の皇帝堯舜の時代の社会の素晴らしい姿でもあり、それは孔子の政治的理想の最高の境地であった。

 (2)小康社会

小康社会は、大同社会に比べれば低い政治理想であり、短期目標である。大同社会と同じく、『礼記』礼運編にある。

 

今大道既に隠れ、天下を家と為し、各々其の親を親とし、其の子を子とし、貨・力は皆己の為にす。大人は世及して以て礼と為し、城郭溝池以て固めと為し、礼義以て起と為し、以て君臣を正し、以て父子を篤くし、以て兄弟を睦まじくし、以て夫婦を和し、以て制度を設け、以て田里を立て、以て勇知を賢(かしこ)び、功を以て己の為にす。故に謀(はかりごと)是を用って作(おこ)り、而して兵此に由りて起こる。禹・湯・文・武・成王・周公は此れを由(もち)いて其れ選(すぐ)れたるなり。此の六君子は、未だ礼を謹まざる者有らざるなり。以て其の義を著らかにし、以て其の信を考(な)し、有過を著らかにして、仁に刑(のっと)り譲を講じ、民に常有るを示す。如し此に由らざる者有らば、執に在る者も去り、衆は以て殃(わざわい)と為す。是を小康と謂う。

 

「小康」社会の基本的特徴は、天下は個人の天下となり、人々はただ自分の身内に親しみ、ただ自分の子供達だけを扶養する。財産と力は自分のためにある。官位を世宗するのは、貴と賤がもともと異なるという考え方と対応しており、一連の法令制度と倫理道徳を定めて、君臣関係を正しくし、父と子の愛情を深め、兄弟を仲良くさせ、夫婦を和合させ、人々に田畑を分けて、勇敢で聡明な人を尊敬する。このような社会には明らかに「大同」世界のような完全なるすばらしさはなく、権謀術策が行われ、戦争が起きる。しかし、社会には秩序があり、礼を用いて道義を表彰し、信用できる人を表彰し、過ちを暴露し、仁愛を打ち立て、謙譲を提唱し、人々に法規を遵守するように指示するので、小康社会と称することができる。小康社会は実際的には私有制が生まれた後の理想的な階級社会の盛んな世の中のことであり、これもまたすなわち夏殷周の、階級が出現し始めた頃の社会の様子で、孔子の短期的な努力目標である。

 

礼記』は、孔子の死後に編まれた著作であり、大同社会・小康社会は孔子の口から出たものではないとされているが、大同と小康の思想は『論語』の中にも叙述されており、孔子の思想とみなすことが正当である。

孔子の「天下大同」と「小康」社会の思想が中国歴史に与えた影響は非常に大きい。異なった時代の思想家や革命家はみな、各々天下大同と小康社会に基づく異なった憧れの未来図を提示したし、異なる時代の思想家や政治家は皆影響を受けている。たとえば、洪秀全、康有為、譚嗣同、孫文らは皆その影響を受けた。近代の民主革命家で思想家の孫文の掲げた「民族・民権・民生」の三民主義は、孔子の大同の主張と儒家の民本思想を西洋資産階級の思想と結合したものである。そして中国の社会主義初期段階も、孔子の小康と異なるけれども、小康社会を目標としている。

(引用文献:孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明翻訳「図説 孔子―生涯と思想」科学出版社東京株式会社 2014 p82~86)

 

現代中国の英雄毛沢東も、孔子の理想社会の思想に大きな影響を受けている。長沙に出て、湖南第四師範(のちに第一師範と合併)で学んだ時、「第一師範の孔子」と噂される楊昌済という教師と出会っている。毛沢東の回想によると、「楊昌済は、理想主義者で、道徳性の高い人物で、自分の倫理学を非常に強く信じ、学生に正しい、道徳的な有徳な、社会に有用な人物になれという希望を鼓吹した」という。毛沢東は、この教えを聞き、「いささかも自私自利の心のない精神を樹立して、高尚な、純粋な、道徳をもった人になろう」と手記に記している。毛沢東は、学生時代に「心の力」という論文を書いており、楊昌済は激賞したという。毛沢東の最初の妻は、楊昌済先生の娘、楊開慧である。

毛沢東は、共産主義理論(マルクス・レーニン主義)と孔子の大同世界思想を結び付け、毛沢東理論を構築した。しかし、毛沢東孔子にはならなかった。秦の始皇帝になろうとした。

毛沢東は、1973年頃外国人客との談話において、「秦の始皇帝は中国封建社会で最初の有名な皇帝である。私も秦の始皇帝である。林彪は私が秦の始皇帝であると非難した。中国は一貫して二派に分かれていた。一派は秦の始皇帝を良いと言う。もう一派は秦の始皇帝を悪いと言う。私は秦の始皇帝に賛成し、孔子様に賛成しない」と述べた。天に頼らず自分の手で、プロレタリア文化大革命を最後まで進めるという決意の表われであろう。ここに現代中国の根本的な問題が潜んでいる。

日蓮の警告が受け入れられていれば、蒙古襲来という悲劇は避けられていただろう。

(1)日蓮は、蒙古襲来を予言したとして有名になった。しかしそれは、日蓮の本意ではなかった。日蓮の警告もむなしく蒙古襲来は現実のものとなったからである。

危機を伝えようとする予言は悲しいものである。危機を叫んでも何を馬鹿な!と無視され、当たれば認められはすれどもそこには悲しい現実が出現するだけだからである。鎌倉時代、日蓮が日本の危機を叫んだ時もそうであった。受け入れられず迫害を受け、結局蒙古襲来という悲劇に日本は襲われることになった。太平洋戦争前の日本も、日本の危機を叫んだ大本教出口王仁三郎は迫害を受け、結局日本敗戦という現実がもたらされたのであった。

予言というものは、人間の理性を超えたものであるがゆえに胡散臭いものとして敬遠され、当たった時初めて評価されるという悲しい運命にある。しかし、予言は論理的に可能なものである。表面に現れる人間歴史の背後に目に見えない歴史時間空間〔霊界と呼んでおこう〕が存在して、そこに「神の摂理」とか呼ばれている時刻表が記されているがゆえにできるものである。しかし、それは必ずあたるというものではない。神の摂理時刻表は、現世の人間の選択によって書き換えられるからである。

(2)日蓮の予言と蒙古襲来

日蓮は、1253年(建長5年)4月28日朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、立教開宗した。名前も日蓮と改めた。正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。日蓮は、

「この世界こそが仏の在(ましま)す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか〔来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ〕」。
「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし〔自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきだ〕」。
http://www.nichiren.or.jp/buddhism/nichiren/03.php

と述べ、当時幕府が置かれていた政治の中心地・鎌倉の町辻に立ち、道行く人々に、法華経を説き続けた。

1260年日蓮は、「法華経を立てなければ国が滅ぶ」と主張し、『立正安国論』を鎌倉幕府5代執権北条時頼に献上した。「立正安国論」の中には次のような記述がある。

仁王経にはこの様にある。「国土が乱れる時は鬼神が乱れる、鬼神が乱れるがゆえに、万民が乱れる。賊が来て国をおびやかし、百姓が居なくなり王臣や君主、太子、百官の仲に互いに言い争いが起きるであろう。
天地に怪しい異変が起こり、星の動きや太陽や月の運行がおかしくなり、多くの争いが起こるであろう」と。

他方から賊が来て国を侵略し、自界叛逆してその土地を略奪されたならば、大変な事になるだろう。
国を失い家を滅ぼされたら、どこに逃れるというのか。はやく一身の安堵を願うのであれば四俵の静謐を祈るべきであろう。

あなたは信仰の心を改めて、はやく実乗の一善に帰依すべきである。そうすれば三界はみな仏国になるのであり、仏国は衰える小とはなく、全ては宝の土地である。宝の土地であればどうして壊れる事があるであろうか。国には衰微はなく、土地が破戒される事がなければ、身は安全であり、心が苦悩に悩む事もなくなりのである。この言葉は信じるべきであり、崇ぶべきである。

日蓮は、「立正安国論」を鎌倉幕府執権北条時頼に献上した40日後、他宗の僧侶らにより最初の法難「松葉ケ谷の草庵焼き討ち」に遭う。翌61年には禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年伊豆国に流罪となった(伊豆法難)。1264年には、安房国小松原にて念仏宗信者に襲われ負傷(小松原法難)する。

しかし、「迫害を受けるのは法華経を広める者の証」とその強い意志を曲げることなく法華経を広める。その日蓮の姿に、人々は心を動かされ、この頃から次第に教えに帰依する人の輪が大きく広がっていった。

このような時世の流れの中で、1268年蒙古から鎌倉幕府に国書が届き、侵略の危機が現実となる。この年時頼の後を継いだ執権北条時宗は、国書を受け取るとともに当時の外交担当、朝廷に国書を回送する。日本側は、国書について議論はしたものの返事をせず、寺社に対しては祈願を依頼し、御家人には蒙古襲来の準備だけはするように通達した。その後数度の蒙古の使節に対しても同様に無視する。

1271年日蓮は、幕府や諸宗を批判したとして再び捕えられ、腰越瀧ノ口刑場で処刑されかける。日蓮は処刑は免れたものの、今度はその力を恐れられて佐渡へ流罪にされてしまう。

1274年日蓮は赦免となり、幕府より蒙古襲来の予見について聞かれる。日蓮は、「よも今年はすごし候はじ(撰時抄)」と答え、幕府に法華経を立てよ、と三度目の諌暁を行う。予言の5か月後、蒙古が襲来する(文永の役)。その後赦免された日蓮は、身延山に隠棲する。日蓮の予言は的中し、日蓮の迫害は終わりを迎える。

(3)蒙古襲来と北条時宗

1274年、モンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは、朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する(文永の役)。

対する日本側は、鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

蒙古来襲の直接の原因は、日本を属国化あるいは国交を結ぼうとし応じなければ軍を送るという、1271年に送られてきた元からの書状および使節を無視し続けたことに端を発する。対馬壱岐と次々攻め落とされる。ついには博多湾に至りここでも当初は一方的に攻められるが、なぜか次の日にはいなくなっていた。元軍は海戦に慣れていなかったためとする説、もともと恫喝のみが目的だったという説がある。(台風の季節ではない。)

その後幕府は、1275年、1279年と再び恫喝のために元から送られてきた使節を、今度は斬り捨ててしまう。幕府の御家人も、今度はその時の経験を分析して土塁を築くなど戦闘に備えた。

この年1279年、北条時宗の招きに応じて無学祖元が来日する。鎌倉で南宋出身の僧・蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受け、大きな力をもつ。無学祖元は、1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺に避難していて元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる。

 乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
 珍重す、大元三尺の剣
 電光、影裏に春風を斬らん

祖元は1281年、2度めの蒙古襲来である弘安の役に際して、その一月前に元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた。無学祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる。

弘安の役では、日本武士は防塁を築きその後ろから改良した弓矢を射て上陸を防ぎ、夜討ちで元軍に対抗する。そもそも士気の低かった旧宋兵らを含む元軍は兵糧攻めにされて消耗し、今度こそ暴風雨の追い討ちがかかり元軍は滅んだ。

蒙古軍を追い払ったけれども、日本が受けたダメージは大きかった。当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。鎌倉幕府は御家人を大量動員して応戦したが新恩給与するための土地が得られず、彼らに対して恩賞として与える物はほとんど無かった。御家人はダメージを受けたが、幕府からの恩賞もなく疲弊して力を失っていった。鎌倉幕府滅亡の大きな原因となったのである。

(4)日本はなぜ神風によって守られたか。

蒙古襲来は、最終的に台風による暴風雨によって蒙古軍が壊滅して救われた。以来、日本では「神風が吹いた」といって、神国日本の象徴的出来事にされている。偶然の奇跡だとほとんどの人は思っておられるだろうが、そうではない。偶然ということはない。すべての事象は、何らかの因果関係によって奇跡さえも起こるものである。日本は、最善の策として蒙古軍の襲来を防ぐことができたはずだが、それはかなわず、次善の策として神風が吹いたのである。

日蓮法華経に帰依していたならば、蒙古襲来は防げたであろう。しかし、鎌倉幕府日蓮を迫害し、蒙古襲来が現実になるまで耳を傾けなかった。危機を事前に知らせることはできても、危機を回避する選択はほとんどの人には難しかった。日蓮の「法華経を信じれば国は安泰である」という主張は、科学時代の現代から見れば空論に見えるかもしれない。しかし、この主張は正しい。日蓮は、「魔を降伏しなければ正法とはいえない」と言ったといわれる。古来日本では、法華経は「金光明経」「仁王経」と併せ、護国三部経とされていた。法華経には国を護る神通力があったのである。その後の法華経日蓮宗の広がりを見るならば、日蓮の教えは正解だったといえよう。

では、なぜ神風が起きて日本が守られたのか。蒙古襲来は防げなかったが、日蓮への帰依の広まりと無学祖元の法力、北条時宗の大悟が、最終局面で日本を守ったのであろう。しかしこのようなことは、太平洋戦争では起きなかった。蒙古襲来に際しては、日本の守りにだけ集中したため神仏の加護を受けることができたが、太平洋戦争では時宗のような信仰もなく、外国にまで軍を進めるという過ちを犯したため、神仏の加護は受けるはずもなかった。国土は灰塵に帰しても仕方なかった。(ほとんどの宗教団体が戦争に反対しなかった。)

 

 「世界平和の祈りの輪」プロジェクトを提唱する

戦争の足音が近づいている。偶発的な軍事衝突が引き金となって戦争勃発という事態がいつ始まるかわからない。安倍政権は、危機を助長させるかのように安保法制の改革、集団的自衛権の行使に足を踏み入れ、憲法改正さえ目指している。軍事的均衡政策こそが、戦争の危機を回避させる現実的な唯一の方法であると考えているようである。

その考えがどれほど国民に不安を与えているかは、意識調査を見ればわかる。また日本政府の行動が、世界の人々をどれほど不安がらせていることか。

軍事的脅威に対して、他の方法「平和な祈りと対話の戦略」はたわいもない幼稚な理想論にすぎないと考えているのだろう。

それは間違いである。祈りの輪は、意識の世界において連結され連動して、世界に平和をもたらす素晴らしい方法である。古来日本の政治は、神に尋ねることを旨としていた。政事(まつりごと)は祭事(まつりごと)であり、神に尋ねるものであった。

 

(1)地球意識プロジェクトが示した成果

プリンストン大学を拠点に、地球意識プロジェクトが本格的にスタートしたのは、1999年からであり、いまやこの乱数発生器の設置場所は全世界に広がっている。地球意識プロジェクトが注目されたのは、2001.9.11同時多発テロ事件で、世界の集計データが発生の11日から大きく逸脱したことであった。

このデータを検証しようとネバダ砂漠の真ん中で行われる「多くの人が参加して巨大な人形を燃やす」バーニングマンというイベントで、壮大な超能力実験を行われた。イベントのクライマックス、その瞬間に230万分の1の確率で起こる大きな偏り(1の発生ばかり)が現れた。7万人の「意識のパワー」が、大きな変化を引き起こしたことが確認されたのである

人間が意識を集中させると、意識のパワーが確立1/2の世界を変える。人間の意識が集まり集合意識となると、ものすごいパワーをもたらすのである。人間の意識は集合させることによって、この現実世界は動かされていくのである。反対に、人間の意識が混乱したり激高していくと、世界は混乱に至る。

人間の意識は、連結して人類全体の集合意識となり、その心理的な効果は地球にさえ影響を及ぼすのである。

 

(2)祈りは問題を好転させる

意識の力といえば、祈り、祈祷を思い浮かべる。祈りは、祈る人に安らぎを与え、勇気を与え、力を与える。宗教は、祈りを通して神仏からの慈悲の力を受けてきた。祈りは、それぞれの宗教によって違いがあるにしても、どの祈りも神仏との対話であり、祈ることによって神仏の慈愛の力を受けてきた。

集団祈祷は、大きなパワーをもたらすことが知られている。皆が集団で祈ることによって集積した意識は大きな力をもたらすのである。古来日本では、国家守護の祈祷が頻繁に行われてきた。祈りが具体的な力を果たすことを知るならば、この方法は効果のあるものであったことがわかる。

 

(3)型の理論(祈祷)からもたらされた日露戦争の勝利

日露戦争日本海海戦に勝利をもたらした参謀秋山真之は、次のように語っている。

信濃丸からの無線電信で敵の接近を知り、ついにあの歴史的な海戦になるのですが、その時は肝の底から勝利の確信がありました。なぜって、目前に現われた敵の艦形が、三日前に霊夢で見せられたのと寸分の相違もなかったですからね。いざ戦線を書こうとして筆を執った時、『天佑と神助によりて・・・』と、まず書き出していたのです。」

秋山真之の勝利の背後には、神助があったのです。そして、その神助の基に、大本教出口なお教祖の祈祷と型の理論(この理論は、意識法則として普遍性を有している)による沓島での祈願があった。

出口なお教祖は当時10日間舞鶴沖の孤島沓島で日本の戦争を祈願しなはった。23日の夜には龍宮の乙姫さんが現われて、『日本を攻める外国の船がたくさん参ったから、これからお手伝いに参る』と言い放ったそうや。
あなたの霊夢は、その明け方、教祖はこの日、『もう日本は大丈夫、私の御用も終わったから、明日は船を呼んで帰ってもよい』と、ついて行った若い者に言っています。

 

(4)「世界平和の祈りの輪」プロジェクト

ここに「世界平和の祈りの輪」プロジェクトを提唱する。

【目的】地球に平和を実現する。各国に軍備がある限り地球に平和は到来しない。

  • 核廃絶(すべての国の核兵器を廃絶する。)
  • 軍備縮小、国連軍以外の軍隊廃絶
  • 軍縮対話、宗教対話、経済協力対話の推進

【方法】趣旨に賛同する人が一人一日1分の祈りを捧げる。参加する人が増えることによって、祈りの力が大きな影響を及ぼすことになる。歴史の転換期にはこのような人間の意識の作用があったことを忘れてはいけない。

 

<参考>

ぶっだがやの散歩道「2014年4月29日 祈りと祈りの力、そして意識連鎖」

ぶっだがやの散歩道「2014年4月29日 秋山真之海軍少将の見た霊夢