ヨブ記と随神(かんながら)の道

旧約聖書の『ヨブ記』は、古より人間社会の中に存在している神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられた「義人の物語」です。『ヨブ記』の主人公ヨブは非の打ち所のない人物でした。この全く正しい人で何も悪いことをしていないヨブに、ある日突然次から次へと不幸が襲いかかってくるのです。神様がいるなら、正しい人がなぜ苦しむのか? ヨブは苦しみの意味を問い、神様と争うという物語です。

 

苦労の多い人生を歩んでいる人にとっては、大変参考になる物語です。ヨブ記を読むと、苦労は必ずしも因果応報ではないことがわかります。苦しい人生を歩まねばならない原因は、自分と自分の背後にある問題だけにあるのではなく、あなたが皆の罪を背負い苦労を引き受けるにふさわしい義人だと神様から見込まれたからだということもあるのです。多くの宗教の創始者は、皆苦労の人生を歩んでいます。理不尽な苦労をも甘んじて受け入れ、忍耐づよく神とともに一心に歩む信仰があるのです。神が見つめる中でサタンに試練され、それを乗り越えていっているのです。

 

 (1)ヨブ記が伝える信仰の姿

 ヨブ記の内容を先ず見てみましょう。(Wikipediaを中心にして)

ヨブはウツの地の住民の中でも特に高潔でした。彼は七人の息子と三人の娘、そして多くの財産をもち、神様に祝福されていました。ヨブが幸福の絶頂にあった頃のある日、天では主の御前にサタンほか「神の使いたち」(新共同訳)が集まっていました。主はサタンの前にヨブの義を示します。サタンとてヨブの義を否定することはできません。しかしサタンは、ヨブの信仰心の動機を怪しみ、ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、財産を失えば神に面と向かって呪うだろうと指摘するのです。

「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(9節)

サタンの試みは、ヨブの無償の信仰及び無償の愛の世界観を否定することにありました。人は利益もないのに神を敬うでしょうか」というのがサタンの提起した問題でした。

神はヨブを信頼しており、サタンの指摘を受け入れて財産を奪うことを認め、ただし、命に手を出すことを禁じます。サタンによってヨブは最愛の者や財産を失いますが、ヨブは無垢であり罪を犯しませんでした。サタンは敗北します。しかしサタンは、試みが徹底していなかったためだと感じ、今度はヨブの肉体自身に苦しみを与えようと、再度神に挑戦をするのです。サタンは神を挑発して、さらにヨブ自身に危害を加える権利を得ます。サタンによってヨブはひどい皮膚病に冒されてしまいます。

当時の社会情勢下では、皮膚病は社会的に死を宣告されたことを意味し、ヨブは灰の中に座っていました。ヨブの妻まで神を呪って死ぬ方がましだと主張するようになるのですが、ヨブは次のように答えて退けます。

「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

— (2:10) 、『新共同訳聖書』より引用。(以下、引用はすべて新共同訳)

神はヨブの尊い信仰によってサタンに勝利するのです。

 

その後、ヨブのもとに駆け付けて来た三人の友人は7日7晩、ヨブとともに座っていましたが、激しい苦痛を見ると話しかけることもできませんでした。やがて友人たちは、ヨブにこんなに悪い目にあうのは実は何か悪いことをした報いではないか、洗いざらい罪を認めたらどうかと意見し、議論が繰り広げられます。身に覚えのないヨブは反発します。

三人の友人の主張は、神は正しい者に祝福を与えて罪を犯した人に災いを与えるという因果応報の原理(因果応報は、倫理観を引き出す強い力になるが、社会的弱者や病人には過酷である。)を盾に、元の境遇に戻るために、ヨブが罪を認めて神の信仰に戻ることを求めるというものでした。しかし、ヨブには思い当たるふしがなく、決して悔い改めようとはしませんでした。友人たちが何度その必要を説いても、「自分は間違ったことはしていない」の一点張りで通すのです。

ヨブは神様にまで噛みつきました。自分の運命を呪い、このような目に遭わせた神様に激しく抗議したのです。それが、神様の声を聞くやたちまち豹変し、「わたしが間違っていました」と告白をします

「お前はわたしが定めたことを否定し
  自分を無罪とするために
  わたしを有罪とさえするのか。」(40:8)
神様は、ヨブの苦難を「わたしが定めたこと」と言っています。ヨブの苦難は、神様とサタンの取引の材料だったのです。確かに、ヨブを試みることをサタンに許したのは神ご自身でした。神の自由な裁量によって、それが行われたのです。そのため、神様の「わたしを有罪とさえするのか」という言葉になったのです。

ヨブは、自分の運命に対する神の責任を追及してきたのだと言えます。どうして、神様は私をこんな目に遭わせるのか。どんな正当な理由があってのことなのか。どうか、そのことを説明し、納得させて欲しいと、詰め寄るのです。これは、苦難を背負わされた人間が必ず神様に問いたいと思うことです。だからこそ、ヨブの言葉が、私たちの胸に響くのです。

(参考ウエブサイト:ヨブ物語 http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job_index.htm

 

(2)随神の道(本居宣長の言説を通して)

実はヨブの信仰姿勢は、日本の随神の道によく似ているのです。

本居宣長は、『随神の道』とは、万事みな善悪の神の所為であるから、よくなるもあしくなるもすべて神の計らいであるから、神の御心にまかせて神の心に従うのが『神の道』であると述べています。良いこと悪いこと、どんなことも受け入れることが重要であるというのです。理屈や結果の良し悪しにとらわれず、すべて受け入れるという姿勢は、ヨブに通じる信仰姿勢ではないでしょうか。

日本人の神に対する信仰には、こうした無意識の姿勢があるといえるようです。天変地異で突然不幸が襲ってきても、それをじっと我慢して受け止め、「せむかたなし」とする姿勢は、神にすべて委ねた姿そのものように思われます。理屈はありません。理由もわかりません。ただ、神がそのようにされるから、そのまま受け入れているようです。だから、大震災が起きても、暴動など起こさず静かに事態を受け入れます。人間にはどうしようもないことなので、ただ受け入れるしか方法がないのです。恨んでも文句をいっても仕方がないことをよくわきまえているのです。

 

本居宣長は、次のように語っています。

「世の中のありさまは、万事みな善悪の神の御所為なれば、よくなるもあしくなるも、極意のところは、人力の及ぶことに非ず。神の御はからひのごとくにならでは、なりゆかぬ物なれば、此根本のところをよく心得居給ひて、たとひ少々国のためにあしきこととても、有来りて改めがたからん事をば、俄かにこれを除き改めんとはしたまふまじきなり」(「玉くしげ」)

「そもそも神は、人の国の仏聖人などのたぐひにあらねば、よの常におもふ道理をもてとかく思ひはかるべきにあらず。神の御心はよきもあしきも人の心にてはうかがひがたき事にて、この天地のうちのあらゆる事は、みなその神の御心より出て神のしたまふ事なれば、人の思ふとはたがひ、かのから書の道理とははるかに異なる事もおほきぞかし(『石上私淑言 巻三』)とのべ、人のもっともだと思うような〈道理〉に立って、この世のあらゆる事をおしはかろうとするあり方を〈漢意〉と批判しながら、「神の御心」にうちまかせ、その心にしたがうのが「神の道」なのだというのです。子安宣邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社2001)

世の中のありさまは、万事人間にはわからない深遠な神のはからひ、神の道があるのであって、神の御心にうちまかせて従うことが随神の道なのだと言っているのです。

そこには、赤子のように純真無垢な信仰の姿が垣間見えます。

 

宣長は、また次のようにも言っています。「聖人の書を読みて、道を明らかにし、而して後に、禽獣免れんとするか、亦迂なるかな」、異国人は、そんな考えでいるかもしれないが、自分は日本人であるから、そうは考えていない。一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基づく、と自分は考えている。「夫れ人の万物の霊たるや、天神地祇の寵霊に頼るの故を以てなるのみ」、そう考えている。従って、わが國には、上古、人心質朴の頃、「自然の神道」が在って、上下これを信じ、禮義自ら備るという状態があったのも当然な事である。小林秀雄小林秀雄全集第十四巻 本居宣長」新潮社2002p58)

 

「抑世中の万の事はことごとく神の御心より出て、その御しわざなれば、よくもあしくも、人力にてたやすく止むべきにあらず、故にあしきをば皆必止よと教るは強事也」(「呵刈葭」)と述べているように「よくもあしくも」現実肯定、従順を述べている。「玉かつま」の中では、「今のおこなひ道にかなはざらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこころにあらず、下なる者はただ、よくもあれあしくもあれ、上のおもむけにしたがひをるものにこそあれ」。すなわち「神の御心」や神の「御しわざ」に対する敬虔な信仰が、ここでは「よくもあれあしくもあれ」と「上のおもむけ」に対する「下なる者」の絶対的な服従につながっている。(松本三之介「幕末国学の思想史的意義」日本思想体系51「国學運動の思想」岩波書店 1971所収)

儒教も仏教も老荘の道も、それが生まれたのは「神のしわざ」であり、「皆ひろくいへば、其時々の神道也」と考えた彼は、「儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、儒を以て治むべし。仏にあらではかなはぬことあらば、仏を以て治むべし」(「鈴屋答問録」)と述べている。激しく批判した朱子学についても、「国を治むる人の、学問し給はんとならば、をさまれる世には、宋学のかた、物どほけれど、全くてそこひ無し」(「玉かつま」)と激賞する言葉さえ見出される。(松本三之介「幕末国学の思想史的意義」日本思想体系51『國學運動の思想』岩波書店1971所収)

 

「よくもあしくも従順についていく」というこの信仰姿勢は、どんな試練を課されても神を信じてついて行ったヨブの信仰に通ずるものではないでしょうか。

世の中が大きく変わろうとするときには、ヨブのように神に召命されて苦難の道を歩まされている人が多く出ます。一人一人が苦難の道を甘んじて受け入れて乗り越えていくことによって、未来が大きく切り開かれていくのです。

○「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(『コリント人への手紙』8章3節)

○「思いわずらうな。なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。」(ブッダ)

人々を神から遠ざける二つの邪教(バラモン教とウラル教)

宗教とは「胡散臭いもの」、せいぜいお正月に初詣をして、お盆に墓参りをして先祖供養をして、厄年には厄払いをするぐらいにして、それ以上は近づかないのが賢明であると考えておられませんか。現在多くの日本人が、宗教は理解できない胡散臭いものとして敬遠しているのが現状でしょう。また、宗教の信仰・修行によって得られる功徳や神に触れたという実感(神体験という)もよくわからないのが現実ではないでしょうか。

私たちは、神と触れ合うという感覚がどういうものなのか、何がその触れ合いを妨げているのかがわからなくなっているのです。その原因は、バラモン教とウラル教という二つの邪教(出口王仁三郎が語っている概念)にあるのです。

 

 (1)神と触れ合うという感覚

神と触れ合うという感覚はとても高尚なもので、凡人にはとてもかなわぬものであるという意識がありませんか。とても苦しい修行を全うした人だけが神と出会うことができると考えておられませんか。

実は、多くの人が神と触れ合うという感覚を身近に体験しているのに、その事に気がついていないのです。残念ながらその体験は、一瞬の小さな世界の出来事であるため、神に出会った体験として意識されていません。

 

高校野球が一番わかりやすい例です。高校野球を例にとって説明しましょう。「神とふれ合う」という感覚は「あ-、このことだったのか」と身近なものとして私たちを納得させるはずです。

高校野球では、両チームとも後がないため死力を尽くして闘います。闘っている選手は、もう無我夢中の境地に入り1球1球に魂を込めたように精神を集中させて野球をしています。ゲームに参加している選手だけでなく、控えの選手も観覧席の応援団も皆1球1球に手に汗を握って闘いに参加しています。そうした積み重ねと総力戦が、ゲームの中で信じられないような奇跡を起こします。プロ野球では起きないびっくりするようなドラマが起こるのです。誰もがもうだめだとあきらめかけたところからの逆転劇、何かが作用したとしか思えないような入魂の一球一打、誰もが予想していない結果が起きるのです。

後で、選手が「必死でした。何も覚えていません。球にくらいついていっただけです」とインタビューで答えることをよく聞くことがあると思います。そして、「野球の神様が私たちに味方してくれたのでしょう」と奇跡のドラマの説明を神様の恩恵にします。この「野球の神様」というその言葉こそが、神との触れ合いなのです。

 

この現象が、神と触れ合うという感覚なのです。全力で闘い、自分の思い・力という自我の境地を凌駕して無我の境地に入り込んでいった時に、自分の力・意志を超えた力がどこからか舞い降りてきて力を貸しているのを感じるのです。これが神と触れ合うという感覚なのです。

しかし残念ながら、無我の境地は長続きしません。冷静に我に戻った時、不思議な体験だったと感じるのです。この野球の神様との出会いは、野球という一つの世界の、しかも一瞬の出会いです。本来、日常生活のあらゆる面で神と触れ合う出会いがあるはずですが、自分の至らなさ故に出会うことができていません。

 

それではなぜ感じることができないか。それは、あなたと神の間に雲があるのです。その雲を仏教は「煩悩」と呼び、キリスト教は「罪」と呼び、神道は「穢れ」と呼びました。この雲を取除くことができれば、高校野球の世界で感じるような神と触れ合うことができるはずなのです。宗教はその道を教えているはずなのですが、残念ながら横道にそれるような指導が多く、人々を神から遠ざけてしまい、神と触れ合うという感覚を特殊なものにしてしまったのです。

信仰とは、宗教の教義をそのまま信じて実行することではない。信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することである。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教なのである。神と対話することが難しい原因を知り、元の姿に戻るために、その方法の手段として学び実行するのが宗教の教理であり、宗教的修行である。(出口日出麿)」この言葉に宗教の本来の目的を見出さなければいけません。しかし、宗教の二つの邪教が大きな壁として立ちはだかっているのです。

標題の二つの邪教バラモン教とウラル教という言葉は、出口王仁三郎が語っている言葉です。バラモン教という邪教は、力主体霊という我力に従わすという意味で、主に宗教指導者の誤った指導に焦点を当てています。もう一つのウラル教は、体主霊従(われよし)という意味で、教えを授かる信者のことを言っています。「我執のつよい霊が人の肉体に憑依して、“われよし”の世界を築こう(出口日出麿)」としているのです。

 

(2)バラモン教(力主体霊)

宗教指導者が間違いやすいのがバラモン教です。宗教指導者は、神に近づき神にふれ合うとはどういうことかを教えるのがその使命です。したがって、神と触れ合う世界・感覚を教えられる側にいかに伝えるかが重要です。自らが神と触れ合った経験・感触、聖人が伝えて来た神との触れ合いを伝えていかねばなりません。宗教指導者は偉大な神を伝える仲保者なのです。

聖書の中にイエス・キリストが悪魔に試される場面があります。イエス・キリストは悪魔に非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその栄華を見せられて「もしあなたがひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。(マタイ4-9)」といわれます。イエス・キリストは「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ(マタイ4-10)」と答えて、悪魔を屈服させます。イエス・キリストは、決して自分に力があるなどといっていません。ただ、神を讃え賛美しているだけなのです。このイエス・キリストの姿勢こそ本来の宗教指導者の姿勢であり教えでなければならないのです。

しかし、宗教指導者の中には信者(弟子)を自分につなげようとすることが往々にしてみられるのです。自分は修行を重ねて来たので、神の権能をもっている(超能力とか予言とか奇跡を起こす能力とか)ことを強調する、あるいは、自分を通してしか神につながらないとして信仰を強要する。ここに大きな誤りがあるのです。宗教指導者は、信仰を積み重ねて来られたので、一般の信者よりは神を感じることが多いと思われますが、その経験を伝えていかなければならないのです。

だが、自らの『我』が表面に出てしまうと自らに信者をつなげることになるのです。教義を振りかざし、形式的な修行を推奨するだけで、神の力・エネルギーが伝わっていかないのです。こうなると、神と触れ合うことが難しくなります。「バラモン教」と王仁三郎が呼んだのは、インドのバラモン教の特権階級が自らを通してしか救いがもたらされないという誤った救済方法を強要したことに由来しています。宗教指導者は、あくまでも謙虚に神と信者との仲保者でなければならないのです。

 

また宗教のもつバラモン教としてのもう一つの問題は、多くの場合宇宙の共通する神につなげるのではなく、自らが属する宗教の神と教えにつなげて他の宗教の神と教えを排除してしまったことにあります。この結果、宗教は一つになることができなくなりました。宗教対立はこうした宗教指導者の我執の態度によって生まれ、歴史を掛けた切実な宗教対立の根本的原因となったのです。

「人類が誕生して以来、宗教の対立と抗争は常識であった。神と人間は親子の関係であるといいながら、地上に天国を建設するといいながら、自分の属する宗教こそが正しく他の宗教は間違っていると主張するのが常であった。どれほど多くの迫害と抗争が繰り広げられてきたことだろう。平和を目指す宗教が、対立と抗争の原因であったことは数限りない。(中略)なぜ、宗教が抗争の原因になるのか。その第一原因は、信じるという行為にある。信じるという行為は、盲目的である。理性ではなく、魂の要求のままに従順に従うためである。それは、宗教的行為のすばらしさであり、誰にも平等に行える神へつながる道であるが、十分な内省を伴わずに他のものを盲目的に排撃するという傾向を持っている。そして、今も多くの抗争の原因が宗教に根ざしている。なんと残念な事なのか。(出口日出麿)」

昭和62年(1987)8月、比叡山で初の宗教サミットが世界の主な宗教20数教団の代表が参加して催され、合同礼拝による平和の祈りが捧げられた時、出口日出麿氏は「宗教は末長う仲ような!」と言い続けられたという。出口日出麿氏の言葉をもう一度かみしめておきたいものです。

 

(3)ウラル教(体主霊従(われよし))

自分の願望を達成するために神を利用するというのがウラル教です。「お金が儲かりますように」とか「災いが消えますように」いう願をかけるのがこの姿です。神を信じ神に願いを託しているのですが、何処までも自分本位なのです。それゆえに「われよし」なのです。一言付け加えれば、私の中にある煩悩・罪・ケガレを払拭することに思いが至らず、我欲を神に願うことに専心することなのです。自らは何も変わらず、煩悩・罪・ケガレは温存したままであるため、翻弄されることになります。

 

日本人に非常に多い信仰の姿です。「神にお願いする」そのどこが悪いのかと反発されるかも知れません。この世での自分の幸福・幸せを神に願うのだから正当な信仰であると思われるでしょう。法華経の中の観音経も、「 私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に際し、観世音菩薩の偉大なる慈悲の力を信じ、その名前を唱えれば、必ずや観音がその音を聞いて救ってくださる。この観世音という浄い聖者は、苦しみや死の苦難が訪れたときに、最後のよりどころである。あらゆる功徳を持ち、慈悲の目をもって人々を眺めている。その福の集まる姿は無量であり、だからこそ礼拝すべきである」と、説いているといわれるでしょう。(観音経』は法華経のなかの「観世音菩薩普門品第二十五」という一章)どこに問題があるのかと。

観音信仰では、自らの我を捨てて観世音菩薩にすべて委ねています。しかしウラル教では、自らの内にある煩悩・悪と闘うという信仰の原点をおろそかにしています。煩悩を見つめ煩悩と闘うという信仰の原点が欠落しているがゆえに、我欲に翻弄されているのです。一見信仰のように見えるのですが、その実は魂を悪魔に売り渡しているのと変わらないのです。このため、願いがかなうと大喜びし、かなわないと神様に八つ当たりします。この喜びは、自らの我欲を達成した一時的な喜びであり、仏教のいう六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六つの迷界を指し、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることをいう)の流転する衆生の哀れな姿そのものなのです。神様が聞き届けてくれたように思うかもしれませんが、実際は悪魔(サタン)に聞き届けられていて翻弄されていきかねないのです。

宗教は、自らの煩悩・罪・ケガレに惑い、その苦しみから救われて神と対話できる状態に復帰することにあります。しかしこのウラル教には救いの観念がないのです。そこにあるのは、自らのこの世における願望だけですので、六道輪廻の世界をグルグル回るだけで、神のもとには戻れないのです。これでは、神と触れ合うことはできません。この世の支配者悪魔(サタン)に自らの魂を売り渡しているといっていいでしょう。

 

信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することであって、その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教であると前の方で記しました。「自分で自分にいつも気をつけ、身の内の悪とあくまでたたかわねばならぬ。しかし、自力のみではとうていだめであるから、つねに神さまのお力にすがる事を忘れてはならぬ(出口日出麿)」という姿勢が重要なのです。
ここに聖書の言葉が身に迫ってきます。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。(ルカ3:23~24)」

出口王仁三郎も、次のように言っています。「信仰のためならば、地位も財産も親兄弟も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功名心や自己愛の精神では、どうして宇宙大に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした絶望的な決心がなくては、この広大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神さまに触れることができようか」と。

 

信仰とは、自らの内の悪と闘って神と対話できる状態に復帰することです。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教です。と同時に、このようなみじめな姿に陥って悪魔に翻弄されている人間社会(ゲーテは、この世の支配者はサタンと呼んだ)を神の世界(地上天国)に戻そうとしているのが宗教なのです。それゆえ、宗教はこの世において必ず迫害を受ける宿命をもっています。サタンの牙城を崩そうとするからです。このことを理解しないと宗教はよくわかりません。

世界には様々な宗教が存在します。それぞれの宗教がそれぞれの教義でもって人を導いています。人や民族が皆違うように、全ての宗教(邪教は除く)にはそれぞれ使命があり役割があります。人や民族がそれぞれ独自の歩みをたどってきたように、それぞれの人の魂にとって受け入れやすい有効な説き方が必要だからです。自分に合う宗教で信仰して、神と対話できる境地に達することが最も大切なことなのです。この道は山登りに似ています。

母が紡んできた命と愛―飢饉の時最初になくなっているのが母親

私たちの生命は、先祖から綿々と紡がれてきた尊いものです。子育てを放棄してしまえばそこで命は途絶えてしまいます。そこには家を守り子供を育てるために、知恵を絞り自らを犠牲にして命を削ってまで愛を注いできた尊い母の愛があったことは誰もが感じておられることでしょう。「お母さん、生んで育ててくれてありがとう」、ほとんどの人が母に抱く愛しさと感謝の念こそが、世代を超えて命を紡んできた源泉なのではないでしょうか。

お墓の調査をされている与那嶺さんがこのようなことを話されています。

「お墓を調べていて気がついたのです。江戸時代の天明天保飢饉の時、一番最初になくなっているのがその家の母親だったんです。そして次に祖父母が亡くなり、その後父親が亡くなり、子供たちは何とか生き延びているという例が多いのです。しかも、その日時をみると、母親は最も寒い日に飢えてなくなっているのです。自分は食べないで、子供達に食べさせて自分は死んでいっているのです。そのような母親のいる家系でないと子孫は残っていません。」

何とも涙の出る話ではありませんか。飢饉で多くの人が亡くなったことは知っていても、その渦中でこのように生きた母親が大勢いたのです。そして命は紡がれていったのです。

 

妻(母)は、歴史の中で苦労して命を紡んできたのです。嫁に嫁ぎ、姑いじめに遭い、家の労働力として働きながら、家事全般をこなしつつ、跡継ぎを生み育てなければならなかったのです。裕福で恵まれた家に嫁いでやさしい夫に巡り合えていたならばそうでもなかったでしょう。しかし一つ歯車が狂うと、きびしい人生を生きて来なければならなかったのです。こう思われている妻(母)の歴史も、古代においては少し違っていたようです。

 

(1)日本の古代、妻も財産の所有権をもっていた。

 古代日本の家族制度は、中国・朝鮮とは異なり独特なものだったようです。古代において、文明の先進地中国では女性は嫁入り道具程度のものを除いて田畑や牛馬、奴婢などの財産の所有権や相続権をもっていませんでした。女性は財産の所有権をもたないか、仮にもっていたとしても、夫が生存するかぎり財産の管理は夫に委ねられるというのが普通でした。(家父長制の特徴である。)

ところが日本では違っていたようなのです。古代(奈良・平安時代以前)においては、女性も男性同様に財産の所有権をもっていたらしいのです。

日本霊異記」には、次のような記述があります。

「讃岐の国、美貴郡の地方長官の妻は、夫とは別に田畑や牛馬、奴婢などを自分自身の財産としてもっていました。彼女は非常にケチで、人に施すということがなかったため、多くの民が家を捨てて他郷に逃れました。こうしてかき集められた財産は莫大なものとなり、後に東大寺に施入された財産の一部は『牛70頭、馬30疋、治田20町、稲4,000束』だったということです。

古代においては、日本女性は、それなりに財産をもっていて、家の経営にもかかわっていたようなのです。家長(夫)と妻は共同で家の経営にあたっていたという説もあるぐらいです。女性の社会的地位は高かったのです。」

こうした前知識をもって古代史を眺めると、女性の天皇が次々に誕生し、女流歌人作家が活躍できたのもうなずけることです。

 

(2)武家社会の進展とともに妻(母)は夫に従属したものとなり、裏で家を取り仕切ることになる。

 鎌倉時代には子供の親権は父と母の双方にあったそうです。このことは、女性も親の財産を相続し、その財産は結婚しても夫の方に移ることはなかったことと関連しています。家の中における妻(母)の地位は相対的に高く、夫権はそれほど強くなかったようです。一家の主婦のことを「刀自(とじ)」というのですが、これは本来「戸主」の意味です。家の財産の管理や食糧の調達、下人・所従の賄いなどは、夫(家長)の口出しできない妻の権限であったようです。夫の経営が破たんした時でも、妻は里方の一族を中心としてそれを補償するだけの経済的裏付けをもっていたからではないかと推測されています。

南北朝時代に入ると、嫡子の単独相続制(世襲制)が一般化し始め、それに伴って家における女性(妻)の地位は低下して夫への従属が進んでいきます。女性(妻)は、里方から切り離されて、嫁ぎ先の跡継ぎを生み育てることを使命とされ、それまで持っていた権限を失っていったのです。

現存する土地売券類のうちで、女性が何らかの関わり合いをもった売券の占める割合は、平安時代末から鎌倉時代で約30%、南北朝時代から室町時代中期で約15%、戦国時代では2~3%だそうです。

家父長制を中核とする「家」の成立は、東国の開発領主層(武士団)に起源をもつといわれています。もともと母系社会であったところに、鎌倉時代に儒教

中心とした父系社会ができあがるのです。父系社会を築いた関東武士団は、4~5世紀に朝鮮半島から帰化して入植した帰化人の流れをくむ人々が中心だったようです。埼玉県の高麗神社は、高麗の字の間に「句」の字が小さく書かれており、高句麗から帰化した人の神社であることがわかります。

武士集団においては、農耕より軍事を重視するため、【父親―息子関係】が優先します。上層の一族郎党は血縁関係で結ばれ、養子制度も取り入れていたようです。(養子制度は、中世ヨーロッパでは見られない。中国や朝鮮では「異姓不養」で、男系外から養子をとることは認められていない。)

源氏が関東武士団とともに平家を滅ぼして天下を取り、全国にその支配を確立すると、父系社会が全国に広がり男性のところに女性が嫁いでいくという風習が定着していくのです。

男性に従属せざるを得なくなった日本の妻(母)は、夫を完全に立てて波風を立てず、家庭の実権(財産)をそれとなく握って現実的に家を守っていくというスタイルを築き上げたのです。それを「内助の功」と呼んでいます。世界の中で日本のように夫が働き、財布は妻が握るという形態は極めて珍しいのです。

こうして日本の「タテマエとホンネの文化」「ナンバー2の文化」が生まれたのです。そしてナンバー1は、ナンバー2にまかせる風習が出来あがったのです。日本の儒教が、家父長制のニュアンスが強い中国・朝鮮と違って親子の情のニュアンスが強いのも、このような妻(母)の文化の影響でしょう。この文化は極限まで行くと、「上に立つ殿様は馬鹿でもいい」となってしまいます。そして家庭では、「夫は元気で留守がいい。自分がしっかりして子供を育て上げれば」となるわけです。

 

妻(母)が日本の文化を造り、命を紡んできたといっても過言ではないでしょう。妻(母)が命を紡ぐキーパーソンなのです。妻(母)の愛がポイントなのです。

 

(3)女性の時代とは、単純な女性の社会進出などではない。

 今日本では、「女性の時代」が声高らかに唱えられ、女性の社会進出を高めることが重要であると議論されています。女性が家・夫の従属から解放されて社会的に活躍できる時代圏を迎えているのは事実ですが、そのことはイコール単純な社会進出ではありません。歴史の荒波の中で、家と子供を護るため、知恵と愛でもって現実的な方法を探り続けたのが日本の妻(母)です。これなら大丈夫だという姿が見えるまでは、容易に男どもの試みに乗らないでしょう。日本女性は歴史を知恵と愛で生き抜いてきた実に賢い人なのです。

 

(参考文献:与那嶺正勝著「新・家系の科学」コスモトゥ-ワン 2010)

日本国粋主義の元凶とされている平田国学の「万国の本国」思想

和辻哲郎は、『日本倫理思想(下)』の中で、「篤胤は、その狂信的な情熱の力で多くの弟子を獲得し、日本は万国の本である、日本の神話の神が宇宙の主宰神であるというような信仰をひろめて行った。この篤胤の性行にも、思想内容にも、きわめて濃厚に変質者を思わせるものがあるが、変質者であることは狂信を伝播するにはかえって都合がよかったであろう。やがてこの狂信的国粋主義も勤王運動に結びつき、幕府倒壊の一つの力となったのではあるが、しかしそれは狂信であったがために、非常に大きい害悪の根として残ったのである」と、述べている。(*1:p225)

明治20年代にはこのように平田篤胤の評価は定まっていた。しかし、この「万国の本国」思想は、ここで終焉したのではない。《日本は万世一系の皇統を守り続けている国である。皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されている》という皇国史観・国体主義が主張され国民に広まる中で、再び脚光を浴びていったのである。日本では、国家が危機に瀕してくると、「日本は神国である」という主張が高まり国民を鼓舞するという歴史がある。日清日露戦争の時、太平洋戦争の時、「我が国は天皇を頂いた神国である」という主張がなされ、国民を鼓舞していった。その「神国」観念も、太平洋戦争の敗戦によって灰塵に帰し、国民は幻想から覚めたのだが。

 

国粋主義の元凶とされる平田篤胤の「万国の本国」思想とはいかなるものか、平田篤胤の主張の中にその姿を見てみる。篤胤の主著とされる「霊能真柱」の中にはこのように記述されている。(なお、平田篤胤は狂信者とされているが、仙童寅吉を通してあの世(幽冥界)の世界の見聞を深めようとする一方、キリスト教をはじめとして諸外国の宗教・古史を研究して、人間の救済について真剣に考えていたことを付記しておく。)

 

≪「万国の本国」思想≫

①   我が皇大御国(すめらおおみくに)は、万国の、本つ御柱たる御国にして、万物万事の、万国の卓越たる元因、また掛まくも畏き、我が天皇命は、万国の大君に坐すことの、真理を熟に知得て、後に魂の行方は知るべきものになむ有ける。(『霊能真柱』上巻)

②   こ々に吾が皇大御国は、殊に、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)二柱の大神の、生成賜へる御国、天照大御神の生坐(あれます)る御国、皇大孫命(すめみまのみこと)の、天地とともに、遠長に所知看御国(しょしめすみくに)にして、万国に秀で勝れて、四海の宗国たるが故に、人の心も直く正しくして、外国の如く、さくじり偽ることなかりし故にや、天地の初の事なども、正しき実の説有て、少(いささか)も、私のさかしらを加ふることなく、有のまにまに、神代より伝はり来にける、これぞ、虚偽なき真の説に有ける。(『霊能真柱』上巻)

③   まづ皇国は、神ながら言挙せぬ国と云て、万事外国の如く、かしこげに、言痛く諭(あげつら)ひさだすることなく、ただ大らかなる御国ぶりなるが故に、天地の初の説なども、外国の説どもの如く、これは此故にかくの如し、それは云々(しかじか)の理によりて、かくの如しなどやうに、細に言痛く、説諭したる物には非ず、ただ有しさまのまゝを、大らかに語り伝へたるのみにて・・・・・・(『霊能真柱』上巻)

と語るのである。またいはく、

④   「外国どもの初めは、二柱神大八洲を生賜ひて、国土と海水と漸に分るるに随ひて、此処彼処と潮沫の、おのづから凝堅まり合たるどもの、大にも小くも成れるものなり。篤胤云、実に中庸の論ひの如く、万の外国どもは、皇国に比べては、こよなく劣りて卑しかるべきこと、・・・・・。(『霊能真柱』上巻)

と語るのである。

アドルフ・ヒトラーのアーリア民族の人種的優越説を彷彿させるような日本民族優越説である。ファシストの元凶と言われるのも当然である。

子安宣邦は、他国の古説(神話)を自らの内に包容して、それらの古説を「真の古伝」の残像とすることで、「真の古伝」は世界に冠たる唯一真正なものとされる。宣長に始まり篤胤にあって顕在化する汎神道主義的イデオロギーは、近代日本の国体論のうちに、あるいは日本精神論のうちにその残骸をとどめることになるのである。すなわち、雑多な思想・文化を受容し、それを日本化する、そのことこそ世界に冠たるわが国体の発現であり、日本精神の優越性の証拠だという主張のうちに、国学的汎神主義はその影をとどめるのである、と語っている。(*1:p270)

篤胤は、自分が説く「古伝」はそのまま事実として確定しなければならないという課題をもっていた。それが、彼の眼を海外に向け、キリスト教のアダムとイブの話を取り入れさせる原因となる。

「抑天地世界は、万国一枚にして、我が戴く日月星辰は、諸蕃国にも之を戴き、開闢の古説、また各国に存り伝はり、互に精粗は有なれど、天地を創造し、万物を化生せる、神祇の古説などは、必ず彼此の隔なく、我が古伝は諸蕃国の古伝、諸蕃国の古説は、我が国にも古説なること、我が戴く日月の、彼が戴く日月なると同じ道理なれば、我が古伝説の真正を以て、彼が古説の訛りを訂し、彼が古伝の精を選びて、我が古伝の闝(ひょう)を補はむに、何でふ事なき謂(ことわり)なれば、・・・・。(『赤県太古伝』一、上皇太一紀一(七))と。

もし外国に伝わる伝説がわが国の古伝と整合するとすれば、それだけわが古伝の真実性が増し、篤胤における「古伝・古史」が事実として承認されるというのである。後期平田学の大半を占めるインド学・シナ學の研究は、宇宙の始まりから、天・地・泉(よみ)の成立までの事実の真実性を証明するとともに、わが皇大御国と天皇は四海万国における最高の存在であることを明らかにすべき役割をもつものであったわけである。(田原嗣郎*2:p573~575)

アダムとイブの聖書の話については、こんな具体的な記述がある。

「遥西の極なる国々の古伝に、世の初発、天神既に天地を造了りて後に、土塊を二つ丸めて、これを男女の神と化し、その男神の名を安太牟(アダム)といひ、女神の名を延波(エバ)といへるが、此二人の神して、国土を生りといふ説の存るは、全く、皇国の古伝の訛りと聞えたり」(「霊能真柱」)(「日本思想体系50「平田篤胤 伴信友 大國隆正」岩波書店 1973 p32所収」

 

ところで、平田篤胤の「万国の本国」論は、篤胤が独自に創り出し主張したのかといえばそうではない。篤胤は、本居宣長の結論から出発したといわれているのだが、「万国の本国」論も、やはり宣長の主張を受け継いでいる。宣長は、「直毘霊」のなかでこう述べている。

皇大御國(スメラオホミクニ)は、掛(カケ)まくも可畏(カシコ)き神御祖(カムミオヤ)天照大御神(アマテラスオホミカミ)の、御生坐(ミアレマセ)る大御國(オホミクニ)にして、萬國に勝(スグ)れたる所由(ユエ)は、先( ヅ)こゝにいちじるし。國という國に、此( ノ)大御神の大御德(オホミメグミ)かゞふらぬ國あらめや。大御神、大御手(オホミテ)に天(アマ)つ璽(シルシ)を捧持(サゝゲモタ)して、御代御代に御(ミ)しるしと傳(ツタ)はり來(キ)つる、三種(ミクサ)の神寶(カムダカラ)は是ぞ。(直毘霊)

いともめでたき大御國(オホミクニ)の道をおきながら、他國(ヒトクニ)のさかしく言痛(コチタ)き意行(コゝロシワザ)を、よきことゝして、ならひまねべるから、直(ナホ)く清(キヨ)かりし心も行(オコナ)ひも、みな穢惡(キタナ)くまがりゆきて、後つひには、かの他國(ヒトグニ)のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし。さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物ぞと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、もと聖人の道の蔽(ツミ)なることを、えさとらぬなり。古( ヘ)の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ。(直毘霊)

宣長もやはり日本という国が他の国に比べて優れていると主張しているのである。

国学は、日本は天照大御神から綿々と皇統が続く大御国であるというが、この点については疑問が残る。しかし国学が主張する底辺には、世界の宗教を吸収するだけでは納得できない日本民族の譲れない精神が流れているようだ。それがどこから来ているのか、そして世界の宗教との接点は何なのか、それは今後に残された問題であるが、少なくとも「日本は神国である」という単純な見解だけは荒唐無稽になったことは事実だろう。

 

1:子安宣邦著「平田篤胤の世界」ペリカン社2001

2:田原嗣郎「『霊の真柱』以後における平田信胤の思想について」『日本思想学体系50-平田篤胤伴信友、大国隆正』岩波書店1973

民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(3)

(5)国家神道の成立とは何だったのか(私見)

●国家(民族)の守護祭祀の確立

明治政府の指導者たちがさまざまな宗教的な問題や提案のなかで最終的に理解し、承認を得ようとした神道とは、ある特定の教義や施設にのみ関わるものではなく、いろんな思想や教義などから適度に距離を置きつつ、日本人としての地位とその倫理的な基盤を作り上げようとした(羽賀祥二)ものであった。

そして、その「神道」の為す祭祀は、次のようなものである(羽賀祥二)といわれている。

  1. 歴史の中から、あるいは現存の社会の中から功労者を発見し、顕彰し、序列化していくこと
  2. “神”とは社会的に功績を挙げて、表彰の対象となった人格であり、それは彼らの功績を背後から支えた人々の関係性=共同性であると言い換えられること
  3. その人物に関わる遺蹟・遺物を保存し、あるいは顕彰のための施設(神社・記念碑)を新たに創建すること
  4. その遺蹟・施設への敬礼に人々を誘導することで、“神”と人々、参加者たち相互の心的交流を実現し、さらに社会の構成員全体に「感化」を及ぼしていくこと
  5. 5、この心的な交流を媒介するのが功労者の“霊”であって、それが近代の宗教観念を特徴づけていること(*1:p410)

この理解は、国家という共同体に対する国民の奉仕とそれに対する国家の褒賞であるといえるだろう。つまり神道国家神道)は、個人・家の宗教ではない国家という共同体の神(天)を中心とした紐帯を国民との間で構築するということだったのではないか。明治時代の日本においては、それは万世一系の天照大神の子孫である天皇を頂点に頂いた国体論に行きついたということである。それは、従来の産土神や先祖を祀る神道とは全く次元の違う神道(だから国家神道と呼ばれるに至った)として現出したのだった。

こうして生み出された国家神道は、諸外国の憲法に基づく国民の理念的紐帯よりははるかに親密な国民の紐帯と結束をつくり出した。国家と国民という関係は天皇を核として強い信頼関係で結ばれ、心的関係においても深いものとなった。教育勅語による国民児童への啓蒙、靖国神社等における国家に対する忠臣への顕彰、慰霊鎮魂は、大きな効果をもたらす儀式だったのである。

しかし、国家神道には、国体主義(汎神道主義)・靖国神社天皇親政という三つの大きな問題を有していた。

  • 国体主義(汎神道主義)に潜む怪しい影

 皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されているという主張は、当時ほとんど疑問をもたれていなかった。その神話を記述している日本書紀古事記は、そのまま素直に信じられた。

しかし、現代では日本書紀は二回に分けて記述されたことがわかっている。記述されている内容も抗争の連続で、天の直系の子孫の物語とはいいがたい記述ばかりである。記紀編纂時に都合よくまとめたという印象は捨てきれない。また、桓武天皇の時、記紀編纂時に集めた諸豪族の神話を処分したという話も伝わっている。

 

このような記紀神話を「真の古伝」として、世界に冠たる唯一真正なものだとして、他国の古説をみずからのうちに包含しつつそれらの古説を「真の古伝」の残像としたのが、汎神道主義(国体主義)である。首をかしげざるを得ない代物なのである。

しかしその汎神道主義的イデオロギーが、近代日本の国体論のうちに、あるいは日本精神論のうちにその残骸をとどめることになるのである。すなわちあらゆる雑多な思想・文化を受容し、そしてこれらを日本化する、そのことこそ世界に冠たるわが国体の発現であり、また日本精神の優越性の証拠だという主張のうちに、国学的汎神道主義はその影をとどめるのである。(*5:p233)

こうした汎神道主義が抱えていた問題は、天理教大本教など一部の神道からも異論が出されるのであった。つまり、国体主義には、怪しい影が付きまとっているのである。

さまざまな神殿構想の結果、最終的に根づいたのが靖国神社であったと、羽賀氏は指摘されている。私は、2014年6月15日のブログで、 「日本の宗教は、霊魂の宗教・先祖供養の宗教である」と書いたが、国家宗教としての神道も、国家に殉じてなくなった人の霊魂の慰霊鎮魂に落ち着いたということである。日本人の心情に一番ひびく宗教祭祀が先祖供養なのである。靖国神社は、このことを国家次元で構築したということになる。

靖国神社問題を日本伝統の先祖供養祭祀をもとに分析すると、次のような問題があることを指摘できる。

1、氏神は、産土神鎮守神とは異なる(現在ではほとんど同一視されている)一族(氏)の守護神である。代表的な氏神としては、源氏の八幡神鶴岡八幡宮)、平氏厳島明神(厳島神社)があげられる。氏神への祈願は、氏子の繁栄と安泰を願うのであるが、それは時として敵対勢力に対する戦勝祈願ともなる。靖国神社は、その氏神の伝統を引き継いだのか、戦意高揚・戦勝祈願に駆り出されることになったのである。

2、先祖供養の場合、死後直後の霊は災いをふりまく荒魂として恐れられていた。災いが起こると、先祖が成仏していないのではないかと畏れられた。従ってその霊を鎮め(鎮魂)、罪滅ぼし(滅罪)をし、浄化することが重要になるとされた。このため、荒魂は別に祭壇(若宮様に祀る)を築いて祀られた。共同体にとっては功労者・忠臣ではあっても、共同体外から見た場合には悪人として憎まれている場合、一緒に祀るのではなく、荒魂の祭壇のように別に祀ることが必要なのだろう。戦犯問題には、このような配慮が欠けているとはいえまいか。

 いづれにしても靖国神社問題は、氏神信仰の形式を念頭に置いて考えるべきであろう。

  • 天皇親政と現人神信仰

 明治天皇には天運があった。日本を幕末維新の混迷の極から西欧列強に並ぶまでに導いた中心であったことを見れば、天運を有していたのは間違いない。その天運なるものは、偶然タナボタ式にもたらされたのではない。ある背景によってもたらされたものであるが、明治の日本に大きな光を与えた。

万世一系の皇統を受け継いでいる天皇明治天皇)を中心とする強力な君主国家を築いていく方針を打ち出した明治新政府は、どのようにその体制をつくり出すかに腐心した。明治維新の当時、天皇とはどんな存在なのか、国民にはそれほど知られていなかった。このため政府は、天皇行幸をしばしば行うことで、国民の間に天皇が認知されることに努めた。こうした地道な積み重ねによって、天皇は国民に認知されていったのだが、多大なる効果をもたらしたのが「教育勅語」だった。

 

天皇親政は、天皇の第一の天職を「民の父母」たることにおくか、神祇・皇霊への祭祀におくか、そのどちらに重心を置くのかによって意味合いが変わってくる。天皇が現実に生身の人間として生存して、一方では祭祀をつかさどり、片方では政治に関与するということは、現実世界の生臭い人間模様の中に翻弄されかねないものであるからである。教育勅語の策定過程で、井上毅が『敬天尊神』という言葉は避けるべきであると意見を述べているが、そのことは天皇の神祇・皇霊への祭祀を背面に隠すことになり、生身の天皇を崇拝するという人間主義に陥るきっかけになったのではなかろうか。このことが、後日天皇現人神信仰につながったといったならば語弊があるだろうか。

 

こう考えてみると、成立した国家神道は、必ずしも神(天)に直結したものではないということがわかる。それゆえ国家神道は、日本を守護するものとはなりえなかった。太平洋戦争で日本が壊滅したのも「せむかたなし」だったのである。

 

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf

*3:村上重良著「国家神道岩波書店 1970

*4:山住正己著「教育勅語」朝日選書1980

*5:子安宜邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社 2001

民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(2)

(3)全国各地における神社創建と靖国神社

復古神道に基づく神殿が、一時的ではあれ全国に創建されていった。教導職のための神殿として大教院神殿が東京芝増上寺に創建され、各府県の中教院にもそれぞれ創建されていった。明治2(1869)年、東京招魂社(後の靖国神社)、楠木社(後の湊川神社)が創設された。橿原神宮平安神宮明治神宮などの天皇や皇族を祀る神社や四條畷神社などの功績のある人物をまつる神社(建武中興十五社など)も数多く造営されていく。(護国神社は、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、昭和14(1939)年4月1日施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」によって一斉に改称して成立した神社である。)

また、古代『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化する制度が創設された。明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により制定された近代社格制度では、社格が官社諸社民社)、無格社に分けられた。伊勢神宮は、全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在とされた。官幣社神祇官が、国幣社は地方官(国司)が祀る神社とされた。主として官幣社二十二社天皇・皇族を祀る神社など朝廷に縁のある神社、国幣社は各国の一宮や地方の有力神社が中心である。官国弊社(官幣社国幣社の総称)は、国家が祭祀を行い,神官の任免を司るなど,国家の経営した神社。第2次世界大戦前まで 218社あった。

明治33(1900)年には、外地の台湾の台北に台湾神宮を創建され、以後、台湾には官国幣社5、県社9、以下81社が造られた。大正8(1919)年、朝鮮に朝鮮神宮を創建された。祭神は、天照大神明治天皇であった。官国幣社9、以下60余社が造られた。

靖国神社は、さまざまな構想と実際の神殿建立のいわば最後に出現した神殿だった。それは、多くの錦絵に描かれた鎮魂儀式だった(羽賀祥二)。社会変革の渦中に現れた宗教をめぐるさまざまな様相のうち、政治の危機のなかで自己犠牲を行った人間の、つまり社会的な死者の霊魂をどのように慰撫するのかという問題が、実はもっとも重要な明治政府の課題だった。神をめぐる神学上の論争が神道事務局で行われている状況とは対照的に、戦死者が一人一人名と功績を認められて丁重に葬祭され慰霊されることは画期的なことだった(記念碑や神社)。生死と霊魂の管理を国家が直接行うことがはっきりしてくることで、壮大な神殿構想も退いていったのである。靖国神社と歴史上の功臣を祀る別格官幣社が、日本社会の宗教的性質を象徴的に表明する神殿となったのである。明治34 (1901)年、国費で維持する官祭招魂社の105社が定められた。

これまでの靖国神社の研究によると、招魂の思想は天皇に敵対した戦死者の霊を祀ることを排除している(村上重良「慰霊と招魂」)。確かに靖国神社で祭祀されることはないけれども、地域社会においては、「朝敵」を祀る招魂社の設立は許可されていた。また政府は、招魂社の正確な数を把握していなかった。(*1:p404)

招魂の思想は、共同体のきわめて危機的な状況のなかで「忠義」を貫いたことの社会の評価である。国家(天皇)と社会への貢献と公共的精神、それが「義」という概念で現されるものであったが、それを促し組織していくための論理として「神道」があった。そこでは、個人的な業績は君主や父母、そして公共的なものへと奉還していくことが求められた。(羽賀祥二)

公共のために犠牲的な死を厭わなかった人々への国家の手厚い保護と顕彰、神道は神社や記念碑という場所で倫理的共同性(「義」の共同体)の確立をめざしてきたといえよう。

(4)国体論としての神道

明治10年代に入って、西洋の権利義務観念や信教の自由の理解が深まる一方、キリスト教については黙認されてきた。片方、明治初期の過激な神仏分離廃仏毀釈については反省されてきた。「政府は宗教への干渉を排除して政教分離の方針を打ち出すべきだと主張する一方で、宗教もまた政治に関係せず、宗教的精神を確立すべきである(福地源一郎「宗教論」明治16年)」という論説に現れているように、宗教政策の転換を求める声も強くなっていた。

そのような中で、明治15(1882)年の「官国幣社神官の教導職兼補廃止」によって、祭祀と宗教の分離がなされた。神官の活動が「公務=社頭奉仕」に影響を及ぼし、また神官教導職が国家の祀るべき祭神を恣意的に解釈していることを考慮して、神官と教導職の分離を打ち出したのだった。教導職は、明治17(1884)年廃止された。(教導職は、天皇と国家のイデオロギーを説くことを職務としていた。教導職に任命されることではじめて宗教活動が許された。教導職制を通じて、仏教では本山の末寺支配権や僧侶身分、得度制を改変させた。)また教導職制廃止直後に、自葬の禁止が解かれて葬祭の制約が排除され、信教の自由が実現してきた。

村上重良は、「祭祀と宗教の分離によって、宗教ではないというたてまえの国家神道が、教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基のうえに君臨する国家神道体制への道が開かれ、世界の資本主義国では類例のない、特異な国家宗教が誕生した。この国教は、いわば宗教としての中身を欠いた、形式的な国家宗教であり、国民は、国家によってこの国教を新たに与えられ、その信仰を強制されることになった。(*3p118~119)」と述べている。

しかし、当時の神社は放任状態に置かれ、さらに20年代初めには官国幣社に保存金が一定期間下付されることになり、その後は財政的な自立を要求されていた(中島三千雄*1)。また、佐々木高行などの神道派が憲法体制のもとで神祇院の設立の動きを見せた時、彼らの意識をとらえていたのは神社と神祇祭祀が「告朔の餼羊(きよう)」になりつつあることへの危機感だった。このような状況の中で、のちに国家神道が定着するのは、他の宗教を取り込む強さを持つこと、擬制政教分離が安定的になること、神道界で国家神道の論理が受け入れられること、さらに国民の側に受容する基盤ができることといった条件が必要であって、これには長い時間(日清・日露戦争期)を有した(中島三千雄*1)。

明治20年代は、教団の自治能力が試される時代だったのだが、その時代の思潮として伊藤博文の言葉をあげる。伊藤博文は、『憲法義解』の中で、西欧で一般的になっていた信教の自由、布教の自由について次のように語っている。

「本心の自由は内部に存するものにして、固より国法の干渉する区域の外に在り。而して国教を以て偏信を強ふるは、尤人知自然の発達と学術競進の運歩を障害するものにして、何れの国も政治上の威権を用いて、以て教門無形の信依を制圧せむとするの権利と権能とを有せざるべし。(中略)内部に於ける信教の自由は完全にして、一の制限を受けず。而して外部における礼拝・布教の自由は法律規制に対し必要なる制限を受けざるべからず。及臣民一般の義務に服従せざるべからず。」

身分制度の解体とそれに並行した西欧の諸制度の導入の中で、急速に社会秩序が変容していくとき、日本人と呼ばれる固有の倫理的価値をもった民族が古代以来、連綿として存続してきたことの根拠が探られようとしていた。そうした日本人の連綿さの証として天皇は持ち出されてきたのである(羽賀祥二)。能勢栄は、「忠孝・廉恥・面目・清潔・貞節などは日本固有の道徳であるが、これらは人々の遺伝と経験から自然に生じて一国の道徳を形成してきたものである。そういうものが日本人の内部に核として存在する。この遺伝的な素質は皇室を尊崇するという外的、儀礼的な行為の中で常に国民的規模で再確認されていかなくてはならない」と述べているが、このような論調の中に国体論が登場する土壌が醸成されてきたのである。

一般に国体とは、皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されているという史観である。このことと並行して、「神道は宗教ではない」という主張がなされてくる。政府も、「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示した。

そして、国体論・非宗教という鎧を身につけた国民教化の体系(国家神道)は、明治23(1890)年の教育勅語の中で結実した。教育勅語策定の過程で、井上毅が、「今日の立憲政治では君主は臣民の良心の自由に干渉しないのが原則であること、宗教上の論争を避ける意味で、『敬天尊神』の用語は避けるべきであること」、という意見を述べていることは注目される。

発布された教育勅語について、東京日日新聞は、『儒教主義に非ずして国体主義なり』とし、勅語を一句ごとに解説したうえで、『日本の教育は日本の歴史よりせる国体を以て其精神たらしめ而して日本国民の資格を有せざるべからずと云ふの大御心たること其詔勅に於て昭々たり』と要約して歓迎した。しかし、1891年の内村鑑三不敬事件や1892年の帝大文科大学教授の久米邦武筆禍事件のように、批判を許さないような姿勢が既に存在していた。政府の方針に反対するとたちまち発禁を命じられてきたように、詔勅に対する不敬は許されざるものであった。(*4)

その後政府は、多くの衍(えん)義書を出すとともに、国民の祝日等に合わせて学校で厳かに教育勅語の棒読式を行い、普及に努めた。その成果が多大なるものであったことはいうまでもない。また、教育勅語は諸外国からも評価されていた。

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf

*3:村上重良著「国家神道岩波書店 1970

*4:山住正己著「教育勅語」朝日選書1980

民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(1)

王政復古がなされた時、迫りくる諸外国からの圧力に対して、復古神道を核とした国づくりをしようとした明治新政府では、国民の意識をどのようにまとめるかが重要な問題であった。開国に伴い禁令であったキリスト教にいかに対処していくべきか、また神仏分離の急激な流れの中で仏教・神道をいかに変革していくべきか、しかもこの問題は身分制の解体という大変革の中で起こっていた。また、維新の戦争によって犠牲となった功労者の慰霊・鎮魂という問題も当局者の切実な課題であった。

復古神道(当初は、神教・大教・本教と呼ばれた。神道という言葉に収れんしていくのは、神教を奉じる神道事務局が近代教団として一体性を維持し発展できなくなった以降である)を中心においてはみたものの、体制が落ち着くまでには紆余曲折の歴史が繰り広げざるをえなかった。神道国教化を模索したものの、キリスト教、仏教だけでなく神道陣営からも反発は強く行き詰まった。また、神道国教化に欠かせない教義が貧弱であったことも致命的だった。

明治政府が、この問題にある程度の方向性を見出すには10~20年の期間が必要であった。各宗教教団の活動を容認できる範囲で認める一方、日本は万世一系の天皇をいただく神国であり、神道は宗教ではないという国体論を前面に出すという方法が最終的に成功した方法だった。それは、大日本帝国憲法教育勅語の中で成立したのだった。

日本は、世界に類を見ない王統が綿々と続いている神国であるという主張は、江戸時代本居宣長ほか多くの国学者儒学者によって主張されてきたことであった。他の国のように、国家権力をめぐる抗争と覇権交代がみられなかった素晴らしい国である。その中で天皇家は、日本の初めより日本を治めてきた家系であるという主張である。

この天皇家を頂点に頂く明治政府において、天皇の統治とは、天神地祇・皇霊の祭祀を内容とし、皇祖大神の「言寄」のままに、そして天神・皇霊の「恩頼」にこたえることこそが、天皇の天職(役割)とみなされた。このことは、天皇が国家の最高の神官としての機能を持つ存在だということを意味していた。

羽賀祥二氏は、「19世紀(幕末明治維新期)の日本の政治と宗教の問題を考えていくとき、皇国の神殿創建を目指す動きと人民を教化していこうという、二つの大きな流れというものを指摘できる。日本社会の変動期に対処するうえで不可欠な制度として、神殿創建と教諭方法のあり方が模索されてきたのである」(*1:p5)と指摘されている。この指摘は、幕末の民族共同体の危機に対して王政復古復古神道というかたちの国家創建を選択した日本にとって、従来の社会価値観とは違う国家守護の宗教的体系を整えていく緊急の中心課題として、神殿創建と人民教化の方法があったのである

(1)       大神殿創建構想とその経緯

江戸時代末期、国学者佐藤信淵は、『混同秘策』の中で、天之御中主神・産霊ニ神(造化三神)、イザナギイザナミ、風・火・土・水の四神、天照大神、大国大神、天皇家代々の霊神などを祀り、神事大師が管轄し、天皇が時々拝礼する『宗廟』を中央の神殿として創建し、また造化三神天照大神、天児屋根神などを祀り、中央政治機関である三台(教化台・神事台・太政台)・六府(陸軍・海軍・農事・物産・百工・融通)を統括する大学校を、政治の中心に置くことを提案した。『宗廟』は教化大師が法教(産霊の大道)を講談する場であり、法座の上には宝蓋を釣り、左右には金花を飾り、珠玉金碧の精巧を尽くして『人目を眩耀する』ような輝かしさがあった。大学校には会議室が置かれて、三台六府の役人が政治を行い、大事の決議にあたっては宗廟に報告して決するとされていた」。まさしく華やかな、技巧を凝らした神殿の下での神政政治が構想されていたのである。

こうした幕末の神殿構想の延長線上に、国学者矢野玄道は慶応3年(1867)、「宮中と京都東山に皇国の中央神殿ともいうべき壮大な神殿の建立を構想した。それは規模を縮小しながらも神祇官神殿として創り出されて、新たな国家祭祀の拠点となった。慶応3(1967)年12月9日、王政復古が宣言されると、神祇官復興が画策された。翌年1月17日には神祇事務科が設置され、神祇事務局に改称され、閏4月には太政官内に神祇官が設置され、幕末以来の念願であった神祇官の再興は実現された。(この時期中心的役割を果たしたのは、中山忠能と津和野派の亀井玆監、福羽美静であった。津和野藩では、先駆けて廃仏・神道振興政策が実施されていたことによる。)翌明治2(1969)年7月8には官制改革【職員令】において律令二官制が復活し、神祇官太政官の上位に班位された。神祇官の下には宣教使が置かれ、維新政府のイデオロギー宣布政策を主導することになった。 これを受けて、神祇官神殿の設置の計画も進められる。

実現されなかったが、江藤新平伊勢神宮の東京遷座に伴って、造化三神をも祀る宮中の神殿を創建し、そこでの神政政治を構想した。三島通庸は、皇居の側に一大仮山を築き、山上に純然たる黄金造りの神殿を建てて、伊勢神宮遷座し、国教の本山にしようという構想を提案している。

明治2年10月20日に太政官は神殿造営の許可を出す。工事は11月より始まり、12月竣工して12月17日に仮神殿の遷宮式が行われた。現在の皇居前広場二重橋前交差点付近である。こうして神道国教化を目指す態勢は整えられた。(仮神殿と称したのは遷都問題があったからだという。)明治3(1870)年1月3日には鎮祭が初めて行われた。しかし、神祇官が廃止されてからは祭祀は式部寮(宮内庁式部職の前身)に移った。

しかし、2年後の明治4(1971)年8月8日、官制改革の一つとして神祇官太政官内の神祇省に格下げされ、翌5年3月14日には廃止され、宣教事務は新たに設置された教部省へ、祭祀事務は式部寮へ移管された。このため神祇官神殿の建造物は、増上寺に設置された大教院の神殿として移築された。(移築後、大教院に反対するものによって、放火されて焼失した。)

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神祇官神殿(Wikipediaより)

(2)神道国教化政策の破たんと宮中三神殿体制

神道国教化政策は、信教の自由を要求する民衆の抵抗、キリスト教抑圧に対する諸外国の攻撃、寺院僧侶の抵抗といった反発の中で、時代錯誤な政策がはっきりしていった。明治4(1871)年には近世以来の宮中祭祀のあり方が再編成される。神祇官神殿に合祀されていた歴代皇霊を、宮中に新たな神殿を創建して遷座し、それを神器とともに合祀することにされた。明治4(1871)年9月に宮中に遷座賢所と共に「皇廟」と呼ばれた。明治5(1872)年、神祇省の祭祀は宮中に移され、八神殿は宮中に遷座し、八神を天神地祇に合祀して神殿と改称。賢所、全神祇を祀る神殿、それに天皇家の祖霊殿である皇霊殿という近代の宮中三神殿体制が成立した。明治22(1889)年の宮中三殿の完成によって神祇官神殿は、近代天皇祭祀に完全に組み込まれた。

この宮中への移管は、神祇官政策の行き過ぎの是正だけでなく、太政官における天皇親政・親祭体制創出のための措置であったことは間違いない(桂島宣弘*2)といわれる。そして、明治10年の教部省廃止、文部省設立により、神道国教政策は完全に敗退した。

明治天皇紀は、神祇官廃止について次のように記している。
神祇官は大宝令の旧制を復活したるものにして、太政官の上に班し、恰も王政復古の趣旨を代表せるものの如くなりしが、其勢力大に伸び、叉往々新思想と扞格して新政府の累を為すのみならず、神官の為す所亦党同伐異の弊尠(すくな)しとせず、為に所在囂々(ごうごう)として之を難ずるに至れり、是に於いて其の勢力を殺ぎ、且諸省との平衡を保たしめんとして、之れを改めたるものの如し(明治4年8月8日)」
開化思想との対立、神祇官内外での学派の対立、制度としての合理性を廃官の理由として挙げている。

また明治4(1971)年9月14日の詔書は、次のように述べている。この詔書は、より明確に天祖および歴代天皇の威霊に権威づけられた政治的君主としての天皇の地位を明確に示している。
「朕恭ク惟ル二、神器ハ天祖威霊ノ憑ル所、歴世聖皇ノ奉シテ以テ、天職ヲ治メ玉フ所ノ者ナリ、今ヤ朕不逮ヲ以テ、復古ノ運二際シ、悉ク鴻緒ヲ承ク、新二神殿ヲ造リ、神器ト列聖皇霊トヲ、コゝ二奉安シ、仰テ以テ万機ノ政ヲ視ント欲ス、爾群卿百僚、其レ斯旨ヲ体セヨ」

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」  

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf