弥勒信仰の発生と起源について、宮田登氏と安永寿延氏の論文をもとにまとめてみた。
アジア世界で発展した弥勒信仰は、未来仏マイトレーヤ(弥勒)を軸とするメシアニズムである。釈尊入滅後56億7千万年ののちに、弥勒菩薩が兜率天からこの世に下生して竜華樹の下で、三会にわたって説法し、衆生を救済するというのが骨子である。弥勒仏の来現は、経典によれば、次のように伝えられている。(弥勒三部経として「弥勒下生経」「弥勒大成仏教」「弥勒上生経」があり、最古の「弥勒下生経(羅什訳)」は日本に伝えられ教義の根幹となっている。)
『兜率天に住んでおられた釈迦牟尼仏は、われわれ衆生を救わんとして、兜率天から地上に降りて来られて、インドの釈迦国の浄飯王の妃である摩耶夫人の胎内に入られ、シッダ-ルタ太子となって誕生された。釈迦牟尼仏は、兜率天を去る直前、弥勒菩薩を未来仏にノミネート〈指名)された。自分はこれから人間界に行って仏陀となり、衆生を教化するが、自分のあとは、弥勒菩薩よ、そなたが人間界に行って仏陀となってほしい・・・・。その依頼によって、弥勒菩薩は、56億7千万年後に仏陀となってわれわれのところに来現されるというのである。』
弥勒信仰は、インド仏教の中に突如として形成されたものではない。その前景の一つとして考えられるのは、ヒンズー教における救済者カルキの存在である。カルキは、ヴィシヌ神の第十の化神といわれ、未来において人間の寿命がわずか23歳となった末世にこの世に出現して、人々を救済するという謂れがあった。(このような背景が弥勒信仰の土台にあったのであろう。)
弥勒の別名は、阿逸多(アジタ)ともいわれ、実在のバラモンの弟子であったという。一説に阿逸多とマイトレーヤは別の人物であるともいわれたが、後世両者は同一視され、阿逸多はマイトレーヤの別称と位置づけられるに至った。
鈴木中正氏の研究によって紹介されているシルバン・レヴィ―氏の説によると、阿逸多とマイトレーヤは、イランのミトラ神と習合することによってメシア的神格を帯びることになったという。ミトラ神は、ゾロアスター教の強力な神格であり無敵の存在だという。一方阿逸多は、「無能勝」の意で、決して勝るものなしという意味である。さらにミトラ神はパーリー語でメッテーヤといいマイトレーヤと共通の音韻がある。また古代インドでは、太陽を指してマイトレーヤと称した事実もあった。そこで、イラン世界のミトラ神と仏教の習合過程の中で、阿逸多、マイトレーヤを同一視する思考が生まれ、仏教的メシアニズムを生み出したといわれる。
ともかく古代インドにおいて、弥勒信仰は熱狂的に流布し、多くの弥勒像が造られていった。弥勒下生の地とされるゲートマティという都市は、仏教の描くすばらしいユートピアとして知られ、後世の極楽浄土に比定されるものであった。信者たちの弥勒の浄土への憧憬は、「弥勒浄土変相図」によく示されている。そこには、弥勒菩薩とその侍者たちが弥勒浄土に集まっている姿が描かれている。
メシアである弥勒下生の予言は、信者にとって何ともいえぬ魅力であった。地表はガラスの鏡のごとく平坦で、緑の樹木が繁茂し、大小の城が立ち並ぶ。城内には七宝の楼閣や、広さ12里の大通りがあり、国土は平和、飢餓盗賊や刀兵水火の災害はない。食物の心配もせず寿命は八万歳まで延び、若死にすることはない。人々の心は常に慈悲心を持ち恭敬和順だというユートピアが描かれている。(*1)
松本文三郎氏の研究によると、弥勒信仰はインドにおいて仏滅後300年(200年の誤りではないか)紀元前200年代中葉以後500年の間(紀元後200年代の中葉)に、大乗教徒によって徐々に形成されたといわれている。
第一段階は、「弥勒菩薩所問本願経」に見られるもので、仏が弟子阿難と大衆に向かって、弥勒が将来仏であることを予言するというスタイルがとられている。
仏がいうには、弥勒は自分よりはるか42劫前に発意しながらも、自分と違っていまだに成仏していないのは、自分の場合は、物や妻子、頭、目、王位等々自分のもてるものをことごとく衆生に施すことによって、すみやかに正覚をえたのであるが、弥勒はそれらを施すことなく、ただ「善権方便」(暫定的な方便としての安楽の行を以て、無上正真の道を致すことを得ん」という独自の道を進んだからである。仏はこの地上に悪が充満している時に、悪行・非法をなすものを救済しようとして現れたのに対して、弥勒はこの地上から悪が一掃される時にはじめて、大衆とともに成仏したいというのである。そこに見られるのは、仏のように、弥勒自身が積極的に大衆を救済するというよりは、救いは大衆自身の努力に待つところが多い。
第二段階になると、「弥勒大成仏経」にみられるように弥勒出世に伴うユートピア的な国家荘厳、弥勒下生の思想が明確に打ち出される。仏が摩伽陀国の波沙山頂において弥勒下生を予言し、弥勒下生の際の国土の状態を語るのである。そこで描かれている弥勒下生直前の社会は、私的所有もなければ、身分・階級制度もない、透明な共同体であり、アジア的社会の中で、当時の人が可能な限り構想しえた幻想のユートピアが描かれている。トーマス・モアの「ユートピア」のはるか千数百年前に仏教はユートピアを構築していたのである。だが、ユートピアの到来は、あくまで弥勒下生の前提条件であって、この条件が整ったときはじめて弥勒は下生するという。
下生した弥勒は、このユートピアの住民も五欲のために苦しんでいるのを見て出家する。最後に、大衆に説法し、第一会において96億人、第二会は竜華樹の下で94億人、第三会において92億人が阿羅漢(小乗仏教における最高の覚者)を得た。これが、竜華三会である。このあと、「弥勒大成仏経」によると、弥勒は世にあること六万億歳、その滅後正法世にあること六万歳、像法同じく二万歳とある。
第三段階になると、「仏説観弥勒菩薩上生兜率天経」(漢訳464年)にみられるように、阿弥陀信仰との相互の影響のもとに変容してくる。第二段階までは、弥勒はまだ兜率往生していないので、人々は目前の現世的苦悩からの救済はもちろん彼岸的救済すら弥勒に期待できず、せいぜい未来の弥勒の世に生まれ合わせることを期待しうるだけであった。このため、仏が阿逸多が今より12年後に弥勒菩薩として兜率天に往生することを予言し、ついでこの兜率浄土の荘厳がなされる。こうしてまず弥勒上生があって、弥勒菩薩の賛美がなされた後、弥勒下生が説かれる。弥勒上生に重心が移動して、「皆まさに弥勒菩薩の前に往生し、弥勒菩薩の摂受する所となるべし」と兜率往生がすすめられる。弥勒信仰によって、未来へ向けての願望がはじめて投影された。(中国には古くからユートピア空間として蓬莱の国への願望があったが、どこまでも現在=今が中心であった。)(*2)
弥勒下生の時期については、「弥勒下生経」が「将来久遠にして弥勒出現す」という表現をしているだけである。一般的には56億7千万年後とされている。この時期は、『菩薩処胎経』巻二にある弥勒に対する予言「弥勒まさに知るべし。汝また記を受け、56億7千万歳にして、この竜華樹王下において無上等正覚と成らん」が一つの根拠のようである。この数字については、人間の世界の400年が兜率天の一昼夜に相当し、1年を360日として数えると、天上界の寿命が4000年として、400×360×4,000=576,000,000となる。5億7600万年後となる。これを57億6千万年と読み、さらに56億7千万年と読みならわすようになったと説明されている。(*1)(*2)
(*1:宮田登著「弥勒信仰の研究成果と課題」宮田登編「民衆宗教史叢書第8巻ー弥勒信仰」雄山閣出版1984所収)
(*2:安永寿延著「弥勒信仰と弥勒の世」 宮田登編「民衆宗教史叢書第8巻ー弥勒信仰」雄山閣出版1984所収)