霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。 霊界からのメッセージ(2)【釈迦、羅睺羅(らごら、ラーフラ)、須菩提(しゅぼだい、スブーティ)、弥勒】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には、4人の他9人の仏教の聖賢の方々のメッセージが収録されている。(目犍連、迦葉、馬鳴、竺法護菩提達磨、康僧会、玄奘、智顗、異次頓)

 

[お釈迦様のメッセージ]

 地上の信仰者、とりわけ仏教徒たちに私、釈迦の最後の言葉を伝えようと思います。イエス様もおっしゃいましたが、私たち四大聖人は、各宗派の代表者として、人類の平和実現と救いに心血を注いで努力しています。そのことは、地上ではよく理解できないことでしょう。ここ霊界で、私たち四大聖人と聖賢たちは、常に一緒にいながらセミナーを開きますが、意見の対立や衝突は全くありません。
 私たちが一箇所でセミナーを開くまで、それぞれに原理教育などや修練会を経ました。私たちが各宗派の責任者であることを考慮すれば、このような場が一朝一夕につくれるでしょうか。祈祷し、誠意を尽くしながら、幾度か「統一原理」を分析し、検討したあと、こうしたセミナーが設けられたのです。私たちはセミナーを通して、一つの家族のように互いに話し合うので、宗派的な偏見による葛藤は生じません。そして、こうしたセミナーが進行するたびに神様は、美しい花火と、きらびやかな光で私たちを包んでくださったのです。そして、私たちの和気あいあいとした姿を見られると、喜びながら、悠々とその場をあとにされます。
 仏教徒のみなさん! イエス様は、新約時代にメシヤの使命を背負って来られたという事実を、自ら証しされました。釈迦も、そうするほかありません。旧約時代と新約時代が過ぎたのち、成約時代が到来しました。神様は、一つの時代が過ぎるたびに、新しい人物を中心に摂理を引っ張ってこられました。
 このように釈迦も当時、神様の前に方向は違っても、人類を善行の道に導くため、力を尽くしたのは事実でした。ただ、その時代は結婚しないで時を待ち、修行するのが自我完成の近道であっただけです。これは、神様の前に直接出ていける道ではないとしても、相当に価値があったと考えます。キリスト教歴史の「旧約時代」という用語は、仏教徒にはなじみがうすいでしょうが、その時代には、人類救援の恩恵がその段階まで成されるほかなかったのです。当時の状況から見ると、釈迦の生涯と教えも、相当な影響力があったのです。
 仏教徒の皆さん! 今までの皆さんの人生が間違っていたというわけではありません。当時の釈迦も、イエス様のように人類を善導することに最善を尽くしたのです。ただ、摂理が進むとともに、人類を救うメシヤが時代的に変わっただけです。
 今までの仏教徒たちの修行の結実に、新しい時代の摂理を接ぎ木してください。「統一原理」を研究してください。そうすれば、仏教徒たちにも同じ脈が流れる新しい真理が、少なからず発見できるでしょう。あまりに固陋(ころう)な考えにだけ浸らず、新しい真理を受け入れ、私たち仏教徒の真理に新時代の真理を接ぎ木させてごらんなさい。そうすれば、素晴らしい信仰の道が、もろもろの仏教徒たちに展開されると確信します。
 今、この時代には文鮮明先生が皆さんの釈迦牟尼(しゃかむに)であり、弥勒仏(みろくぶつ)です。誠心誠意、仏を供養してごらんなさい。成約時代の新しい弥勒仏とその真理について、排斥の先頭に立つのではなく、真なる仏教徒の人格を示す時であると考えます。
 謙遜、冷静にして、人の科(とが)を見ずに、磨き上げてきた様々な仏教徒の慈悲の美徳を表し、行動してごらんなさい。真の真理とは何でしょうか。時代によって生きていく人間の方向は、いくらでも変化し得るものです。自然界をごらんなさい。神様が創造された被造物は、環境によって種類はあるとしても、大きさと色合いは、季節ごとにいくらでも変わるではありませんか。信仰をする人間の本心の声を誰が妨げることができるでしょうか。しかし、人間の本性の声に従った人間の生活の姿、それ自体は、神様の前に様々な次元で喜びの対象になり得るのです。
 それゆえ、固陋として一箇所にのみ依存しないで、思考の領域を広げてごらんなさい。「イエス様と釈迦が、兄弟のように過ごす」と言えば、皆さん、仏教徒は釈迦を信じないでしょう。
 しかし、それは事実なので、信じるべきではありませんか。神様は、私たちが一つになって働くことを願われます。イエス様は、釈迦をどのように呼ばれると思いますか。常に謙遜で静かな微笑みを浮かべながら、「そうです」、「そうでしょう」、「そうしましょう」と言われながら、慈愛に満ちた語調で話されます。
 仏教徒の皆さん! キリスト教徒の皆さん! 天上で私たちがみな一つになり、平和の世界を成したので、地上でも和合すべきではありませんか! 新時代の新真理で一つになりましょう! 人類の平和運動に渾身の力を尽くされる文鮮明先生は、成約時代のメシヤであり、弥勒仏であられます。これは、四大聖人たちのセミナーにおける、一様の結論です。仏教キリスト教が互いに一つになり、神様を解放しましょう!
(二〇〇一年四月六日)

 

羅睺羅(らごら、ラーフラ釈迦の息子であり、十大弟子の一人、密行第一)のメッセージ
肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか


 世の中に生まれてみると、釈迦の息子でした。それは羅睺羅個人の意思ではなく、私には選択の余地がないことでした。私の家庭は、幸福ではありませんでした。父親の顔は見ることさえ難しく、母親の顔は常に涙にぬれ、試練の中に沈んだ姿をしていらっしゃいました。これが、私の家庭の雰囲気でした。私は、分別がつくと同時に、世の中を見る視角が変わりました。父親の立場と母親の立場を理解できるようになりました。
 そして、家庭から解放されてみたいと思いました。どの家庭を調べてみても、夫婦間や父子間や兄弟間の幸福は、見つけられませんでした。なぜ家庭の姿がそうなのか、そしてその問題をどのようにして解決しなければならないのか、私には知るすべが全くありませんでした。私の家庭も、ほかの家庭のように、家庭の平和が壊れてこなごなになってしまいました。華やかな衣装はもちろん、華やかな食卓や宮廷にも、私には何の関係もありませんでした。人生というものが何なのか、悩み、深い苦悩に陥り始めました。
 これが、私が父親に従うようになった動機でした。「統一原理」を聴講したのち、私は、胸の張り裂けるような痛みに、耐えることができませんでした。第一に、私の父親の苦労と、母親の哀れさを克服するのは、難しいことでした。このような惨めな姿が、私を非常に困らせていました。私の父親は、あらゆる苦行を、すべて経験されたお方です。生涯、過酷な肉体的拷問を自らに課して生活されました。それを通して、無我の境地に至ったのです。それが容易なことだったでしょうか! 人間の生老病死を解決するために、私の父親がこのような生涯を生きたのだとすれば、今はどうなのでしょうか。当時の時代的な状況に伴う問いが、私の家庭をばらばらにして投げ捨ててしまいました。当時のその痛みは、文字をもってしては少しも表現することができません。いかなる表現も、その状況を比喩(ひゆ)することができません。
 今、「統一原理」を知ってみると、神様は、私の家庭の和睦(わぼく)を願われたでしょう。文鮮明先生が明らかにされた「統一原理」によれば、人間は、誰もが家庭的四位基台(よんいきだい)をつくって天国理想を成し、神様と永遠に暮らすというのです。これが、神様の願いであり、人間の祝福の前提です。今、私は、どの位置に立たなければならないのでしょうか。「統一原理」の偉大性を、私は認めます。ですから、私は、様々な側面において、複雑で苦しいのです。私の父親は、既に随分前に「統一原理」を悟り、人生の方向を転換されました。しかし、私はどこに立たなければならず、私の母親はどこに立たなければならないのでしょうか。このように不思議な悲喜劇が、私の家庭を固く締めつけています。
 神様、文鮮明先生、人類の縦的父母様、横的父母様、私の家庭の問題をどのように解決してくださるのですか。私、羅睺羅は、「統一原理」のすべてのものを信じます。たとえこの道を行かなければならないと、はっきりと悟ったとしても、肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか。このような立場から、天国理想を成し得る道はないのでしょうか。
 神様、文鮮明先生、私、羅睺羅の人生も収拾してくださり、新しい道に導いてください。懇切にお願い申し上げます。
 羅睺羅(二〇〇二年二月十二日)

 

須菩提しゅぼだい、スブーティ、十大弟子の一人、あらゆる法がむなしい道理だということを最初に悟る)のメッセージ
人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものではありませんでした

 天地万物の調和が人間の力で成されるものではない、ということを悟ってから既にかなりたちましたが、「統一原理」にこのような途方もない真理が内在しているとは、本当に想像することができませんでした。どうして歴史の出発が、このように誤ったのでしょうか。お釈迦様も十大弟子も、みな無念で悔しく、その惨めな心情は到底表現することができません。しかし、神様の事情のほうが、もっと無念で惨めであり、怒りで張り裂けるようなものだったのです。もちろん、そのような摂理的過程は過去のことだとしても、数千年の間、人類歴史の主人が反対になっていたとは、あたかもそれは、ある作家が作り上げた歴史的物語のようでした。しかし、これは、歴史的事実でした。
 ある日、お釈迦様は私たちに、静かに次のように語られました。「人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものではありませんでした。生まれて、老いて、病んで、死に至るまで、私たちを常に見守り、保護してくださる一人のお方がいらっしゃいました。私たち仏者は、そのお方に出会わなければなりません。そのお方は、釈迦が解決し得ないすべての問題を解決してくださいました。多くの仏者が、謙遜な心で受け入れてくれることを望みます」。
 その後、何日過ぎても、お釈迦様は特別な指示を下さいませんでしたが、今、その日が近づいてきました。そのお方とは、どなたなのでしょうか。どこにいらっしゃるのでしょうか。いくら調べてみても、見ることも、出会うこともできないお方であられました。「統一原理」は私たちに、あまりにも多くの内容を悟らせてくれました。文鮮明先生は、お釈迦様よりもっと多くの修行をされたのでしょうか。どれほど、途方もないことを経綸されたのでしょうか。お釈迦様も、人間の根本的苦悩を解決なさるために、死の峠道を数えきれないほど越えられましたが、それは、神様と文鮮明先生の経綸とは比較することができません。
 お釈迦様、心を痛めないでください。須菩提は、すべてのものを整理して、新しい出発をします。私は心に決めました。どうして人が、数限りない福をすべて享受することができるでしょうか。私がその時代に生まれたことが私の意志でない以上は、水に従い、風に従って生きてきた人生の道なので、今、この場で、すべてのものを謙遜に受け入れます。
 神様が、私たち仏者を愛されて呼んでくださったので、感謝いたします。文鮮明先生、真の父母様! お釈迦様! 弟子の威信を立てながら従っていきます。過ぎし歳月のすべてのことを、寛大に配慮してくださり、私たち仏者の未来の道を導いてください。
 須菩苔(二〇〇二年二月十一日)

 

弥勒(マイトレーヤ、瑜伽行の始祖)のメッセージ

「統一原理」の来世観に深く感動し、敬服しました

 

多くの宗教人が「統一原理」を聞き、人生の正しい道に進むことを決意したようです。「統一原理」は、偉大な経典になると思います。自尊心が深く、自らの主張だけにしがみついている方々は、顔を真っ赤にし、しかめ面をしています。そのような姿をして座っている方々が、あちらこちらに見えます。

弥勒は、「統一原理」の来世観に、深く感動し、敬服しました。人間の二重構造を説明しながら、それを理路整然と説き明かしました。弥勒も共感しましたが、大部分の仏者もそれに共感したと思います。漠然としながらも、極楽世界を期待し、望み、ありとあらゆる苦難の道、険山峻嶺を越えに越えて、一筋の道を歩んできた私たち仏者が、なぜ極楽世界に行けなかったのでしょうか。

仏者たちよ、私、弥勒をののしろうと、石を投げつけようと構いません。「統一原理」を聞いてみると、私たち仏者の歩んできた道には問題があったと思います。それが何なのかを探し求めてください。私、弥勒が、この天上で「統一原理」に夢中になれば、皆さんは私を、どのようにされるでしょうか。正しい道でなければ、行ってはなりません。正しい道ならば、いくら険しい渓谷であろうと、必ず行かなければなりません。神様と文鮮明先生の根本の教えを悟るようになりました。仏者たちよ、最後まで「統一原理」を聞いてください。そして、心を空にしてください。

弥勒(二〇〇二年二月十六日)

霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。 霊界からのメッセージ(1)【イエス・キリスト、アウグスティヌス、マルティン・ルター】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には、3人の他10人のキリスト教の聖賢の方々のメッセージが収録されている。(シモン・ペテロ、使徒パウロジャン・カルヴァン、テルトゥリアヌス、コンスタンティヌス大帝、エマヌエル・スウェーデンボルグカール・バルトマーティン・ルーサー・キング、金大建、李龍道)

 

[イエス様のメッセージ]

 ベツレヘムに生まれた私、イエスが、この紙面を通して地上に新しいメッセージを伝えようと思います。ユダヤ人たちは、いまだに来るべき主を待っていることでしょう。キリスト教徒、他の宗教者、そして信仰をもたない人たちも、イエスの名前ぐらいは記憶していることでしょう。
 今回のメッセージを地上に伝える私、イエスの心は、いろいろと複雑で錯綜(さくそう)しています。その内容を一言で要約して伝えられないことを、心苦しく思います。地上人、とりわけキリスト教徒は、このメッセージに触れるとき、信じるよりは、とても疑うであろうことを、私は分からなくはありません。しかし、かつて新約時代のメシヤの使命を抱いて来た私、イエスが、人類の救いの責任者として明言すべき時代が到来したため、この事実を明らかにするものです。
 当時、私は、神様からメシヤの使命を頂いて地上に来ていました。しかし、その時代、宗教者と非宗教者の葛藤を、すべて聖書に記録することはできませんでした。実際、聖書には、すべてを明かせずに、隠された摂理的内容が多くあったのです。その時代の流れに従って、神様の摂理は変わるしかありませんでした。今こそ、キリスト教徒やメシヤを待つ数多くの聖職者たちに、隠された摂理的内容の一端を、はっきり伝えようと思います。
 神様は、人間を創造されるとき、肉身を、地上で生きるときに必要なものとして造られました。そして肉身を失えば、その霊魂は霊界で永存するよう創造されたのです。メシヤを待つ聖徒の皆さん! 聖書に表現された各節の両面的な預言には、なぜ関心をもたないのですか。私、イエスは、新約時代に人類を救うために、メシヤとして来た人物です。しかし、イエスの十字架の問題を、皆さんはどのように考えますか。それは神様のみ旨だったのでしょうか。人間の失敗だったのでしょうか。皆さんは、私、イエスの生涯を綿密に検討してみましたか。イエスの懐胎と誕生についても考えてみましたか。その時代、私は間違いなくメシヤの使命を抱いて来ましたが、肉身をまとった平凡な人間の姿で、地上で食べて、着て、眠って生活したのです。しかし、私の使命は、一般人とは異なり、メシヤとしての使命をもっていたのです。メシヤの十字架の贖罪(しょくざい)は、神様の本来のみ旨ではありませんでした。
 地上の皆さん! キリスト教徒の皆さん! これが事実かどうか、断食しながら祈祷してごらんなさい。そうすれば、私、イエスが現れてはっきり教えてあげます。しかし、断食して徹夜するとき、純粋な祈祷と真心だけを尽くさなければなりません。また、いわゆる異端の声にも耳を傾けてごらんなさい。この時代に統一教会文鮮明(ムンソンミョン)先生は、十字架の贖罪により地上で成せなかった私、イエスの使命を完遂するため、再臨のメシヤとして現れたお方であり、成約時代を締めくくるために真の父母の使命を抱いて現れたお方です。
 新約時代にメシヤの使命を抱いて来た私、イエスを、当時の人々は十字架につけてしまいました。そのため、地上には神様が成就すべきみ旨が残され、そのため再臨のメシヤが必要になったのです。新約時代のメシヤは、霊的な救いしか成就できなかったため、肉的な救いは宿題として残されたまま歴史が流れてきたのです。それゆえ、恨めしい歴史の背後で、数多くの悲しみと苦痛を味わいながら神様は、再びメシヤを地上に送る時を待ってこられたのです。文鮮明先生の血統を分別して聖別し、メシヤとして送るまで、神様は、この上なく緊張した歳月を送られました。
 私、イエスは、どこで生まれたでしょうか。馬小屋で生まれました。当時、マリヤの気持ちはどうだったでしょうか。キリスト教徒の皆さん! 聖書を読むとき、容易にその内容を理解できたでしょうか。解けない問題、理解できない問題に直面して、皆さんは苦しむことがなかったでしょうか。天の秘密のすべてを明かせなかったイエスの気持ちを、理解できるでしょうか。聖書に記録できなかった摂理の奥深い内容を、皆さんは、いかに知ることができるでしょうか。イエスの父、ヨセフの婚約者であるマリヤのおなかが、どうして大きくなったのでしょうか。復帰摂理歴史において、人類が受け入れ難い、途方もない天の秘密がベールに包まれているのを、皆さんは知っているでしょうか。人類は神様の子女であるため、神様は人類を訪ねてきて、愛するほかはありませんでした。皆さんは、そういう神様の心情を推し量ることも難しいでしょう。
 この時代に地上に現れた文鮮明先生は、皆さんが待ちわびた再臨のメシヤです。文鮮明先生は、数えの十六歳の時、私、イエスからメシヤの使命を引き継がれました。キリスト教徒の皆さん! いまだに雲を見つめながら、雲の中から現れる再臨の主を待っていますか。文鮮明先生は、数万回、雲の中をかき分けて世界を巡回し、人類の平和具現のために渾身の力を尽くしていらっしゃいます。きょうもこのお方は、八十歳を超えた御高齢にもかかわらず、人類の救いのために最前線で苦闘していらっしゃいます。
 新約時代にイエスを迫害したローマ人たちのように、この時代に生きる皆さんも、そのお方を再び十字架につけるのですか。ソドムとゴモラの滅亡を皆さんは知っているではありませんか。神様は愛です。待っていらっしゃるのです。成約時代に降臨されたメシヤを迎え入れなさい。そのお方の業績と人類を救うための摂理的導きを排斥せず、心から迎えながら、祈祷してごらんなさい。皆さんの真実の祈祷の中に、イエスが共にあることでしょう。
 今こそ、キリスト教徒たちが、イエスの生涯と神様の救いについて深く祈祷しながら、メシヤ、イエスを十字架につけた新約時代の時代的な状況を、再び思い起こしてくれることを切に願うものです。
 私、イエスが三十三歳になるまで結婚できず、私に従って歩んだ十二弟子ともども空腹だった状況を考えてごらんなさい。イエスには恨めしいことが多かったのです。キリスト教徒たちは、メシヤ、イエスに関するすべてが神様のみ旨である、とだけ結論を下しています。けれでも、人類がすべきことと責任はないのか、深く考えてごらんなさい。メシヤとして来たイエスは、人の子でした。私、イエスは、神様のひとり子として、メシヤの使命を成し遂げるため渾身の力を尽くしましたが、その夢とみ旨を完全に成すことができませんでした。そのみ旨が完全に成されたならば、再臨の主が来られる必要があったでしょうか!
 キリスト教徒の皆さん! そして、もろもろの宗教者の皆さん! 当時のメシヤは私、イエスでした。間違いなくメシヤでした。しかし今日、メシヤの使命を完遂するため再び来られたお方は、文鮮明先生であられます。そのお方が、正に再臨の主であられます。二千年前、異端の魁主(かいしゅ)とされた私、イエスに「『きたるべきかた』はあなたなのですか」と尋ねた洗礼ヨハネの立場を考えてごらんなさい。皆さんは今、文鮮明先生をどう評価していますか。時代の流れを考えてみて、文鮮明先生が成し遂げた業績を思い起こしてごらんなさい。人間の力だけでは不可能な、途方もない業績を成し遂げられたのです。
 既に亡くなった私、イエスが、再び生きて皆さんの前に現れることはできません。人間の肉身は、霊人体と分離されれば、土に帰るようになっています。それが真理であり、天道なのです。墓から起き上がるという聖書の一節を、いま一度見てごらんなさい。神様は、科学的で数理的な神様であり、原理の神様であられます。消えた死体の全器官が分解して再び組み合わさり、復活するという論理は、神様は何でもできるという能力を前提にしたものですが、それは極めて矛盾しているのです。そのように問題が解決するのではありません。自然界を御覧なさい。人間の成長過程と構造を御覧なさい。神様と人間は父子の関係です。今や皆さんは、子女を待って耐えてこられた神様の摂理と心情を体験すべきでしょう。キリスト教徒が偶像崇拝者とする仏教の教祖、お釈迦様とイエスが向かい合って座り、談笑しているとすれば、私、イエスをどう思うでしょうか。
 もろもろのキリスト教徒の皆さん! 仏教徒の皆さん! そして、もろもろの宗教者の皆さん! イエス、釈迦、孔子、ムハマンド(マホメット)などの四大聖人と、ソクラテス、聖アウグスティヌスなどの聖賢たち、そしてその他の宗教指導者たちが、霊界で数回セミナーを開き、それは今も続いています。セミナーの主題は常に「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』をめぐり、分析、討論しています。
 それは、神様が私たちに下さった宿題でもあり、神様が地上の文鮮明先生の活動にくまなく関与し、観察し、私たちに対して、「人類を解放するためには、ここにいる宗教の代表たちが、まず一つになり、地上に協助するように」と命令されたからです。
 私たち(四大聖人)には宗派の壁はありません。私たちはみな一つになり、地上に現れた成約時代のメシヤを通して、人類が神様の子女として生まれ変わることによって、神様を中心とした一つの世界が成就できるよう祈祷し、発表し、談笑しています。地上でしばしば見かける宗教者たちの対立と葛藤は、こちらではすべて解消されました。そうなるまでに、相当な時間が流れました。人間の創造主は唯一、神様だけという究極的な真理を明らかにするまで、それだけの時間を要したからです。地上でも、すべての宗教の障壁が崩れてこそ、人類の平和が実現することでしょう。
 各宗教の教理の共通性と差異性を明らかにし、互いの長所と短所を取捨選択しながら、温柔謙遜の美徳を示すなら、宗教をもたない人たちも、その姿に倣い、正しい道に導いていけるのではないでしょうか。もろもろの宗教者、とりわけキリスト教徒がすべて一つになり、この無形世界で一堂に会することを願うものです。
 ユダヤのベツレヘム出身のイエスが、地上人にメッセージを伝えられる、時代的な環境と恵沢が与えられたのは、ほかでもなく、成約時代が到来したからであり、成約時代の主人公が文鮮明先生であり、そのお方が再臨のメシヤだからなのです。
 皆さんは、そのお方をどうしますか。批判の的にしますか。新約時代のイエスのように、十字架につけますか。祈祷し、断食して、神様に問いますか。皆さんが、最も賢明な信仰者としての在り方を選択するよう願います。この霊界からでも、新約時代のメシヤ、イエスの責任を悟らせたくて、このように地上人にメッセージを伝えるものです。                                           (二〇〇一年四月四日~五日)

 

アウグスティヌス(354~430. ヒッポの主教。カトリック神学の教父)のメッセージ

 私、アウグスティヌスは、神様に仕えることにおいて、誰にも劣らない最高の立場に立ちたいと思っていました。ところが、こちらに来て知ってみると、誠に恥ずかしく、愚かな立場になってしまいました。私は、神様に父母として侍ることができず、ただ最高の神様としてのみ侍り、父子の関係など念頭にも置くことができなかったのです。私の信仰と思想は、神様の前に極めて小さな価値をもって残っているのみです。
 地上で熱心に信仰するキリスト教徒たちと、もろもろの宗教者の皆さん! 四大聖人や聖賢たちのメッセージを何度も読んで、多くの覚醒(かくせい)があらんことを願うものです。私たち聖賢と四大聖人たちの集いは、周期的に開かれます。この霊界で、宗派の集いを開くのは、それを通じて、様々な次元に分裂した人々に神様の思想を知らしめるためです。
 地上人たちは、イエス様がキリスト教徒だけを訪ねると考えますが、そうではありません。宗派の代表者たちは、教派を超越し、各宗派の教理と教えについて、各自の見解を交換します。そしてついには、すべての宗教は一つに統一されなければならないという結論に達します。各宗派をあまねく巡りながら、信徒たちと対話して共に礼拝を捧げたのち、互いに経験した事実を中心として、四大聖人と聖賢たちはセミナーを開きます。その際、多様な主題が出されますが、私たちは互いに和気あいあいとした雰囲気の中で、それぞれの主題を論議します。
 ここで、実に興味深い出来事がありました。イエス様がお釈迦様の説教を熱心に傾聴されたのち、その説教を仏教徒が集まった他の場所で、そのままお伝えになりました。この時、仏教徒たちは、「イエス様はキリスト教の教祖なのに、私たちの師の教えを伝えるのですか」と質問しました。ところが、イエス様の返答がとてもおもしろかったのです。なんと、「私も釈迦牟尼仏になれるか試してみました」と言われたのです。このとき、ここに集まった霊人たちは、共に笑いました。イエス様は、本当に何の欲も私心もありませんでした。ひたすら神様の子女になることだけを願う、純真無垢で謙遜なイエス様の態度に、仏教徒たちも感動したようでした。
 宗教者の皆さん! 真理は永遠なものです。真理は一つだけです。それは、神様がただお一人であり、神様が真理の本体であるからです。神様は人類の父母であり、私たち人類は神様の子女です。このような状態で、数多くの集はが存在する理由がどこにあるのでしょうか。各宗教ごとに真理の核心を要約してごらんなさい。究極的な終着地は、一つの方向のみです。各宗派の長所を捨てよというわけではありません。一つの共通目的のもとに統一せよというのです。神様は、様々な子女たちを見て喜ばれるでしょうが、彼らが争い合う姿を見れば、胸が痛くはないでしょうか。子女たちが互いに和睦するとき、聖霊が共にあることでしょう。
 私たち四大聖人と聖賢たちは、セミナーで最終の結論を得ました。「私たちは互いに愛し合い、一つになろう」と決意しました。まず、天上で宗教の代表者たちが一つになってこそ、地上も一つになると信じています。宗教が一つに統一されなければ、神様の心も安らかではあり得ません。それゆえ、人類の平和は、神様の理念によって実現するのです。
 宗教者の皆さん! もろもろの聖賢たちと四大聖人のメッセージを、肝に銘じるようにお願いします。皆さんには、こうした黄金時代は、再び訪れないでしょう。私たちが、地上人に天上の秘密を伝え続けることができると思いますか。神様の特別な配慮によって下さったこの黄金期を、皆さんはしっかり受け止めて、信仰の本質と根本を悟り、神様の子女の立場に正しく立って下さい。
 私、アウグスティヌスに、最後のお願いがあります。数多くのキリスト教徒と地上の宗教者の皆さん! 地上で人類の平和のために、殉教者の道を歩み行かれる一人の師がいらっしゃいます。そのお方こそ、文鮮明先生であられます。ですから、そのお方を心から迎え入れてください。四大聖人と聖賢たちはみな、そのお方のメシヤ思想を固く信じ、その師が行かれる道を共に行こうと、しっかり決意しました。ここでひたすら一つの方向を定めて、熱心に努力し、愛し、尊敬して、すべての宗派を超越しようと決意しました。
 そして私たちは、文鮮明先生の思想を教えているのです。これこそが人類を平和に導く道であり、真理の道だからです。宗教者の皆さん! 争ってはなりません。互いに一つに和合してください。一つになった所に、神様はいらっしゃることでしょう。
(二〇〇一年四月十日)

 

マルティン・ルター(1483~1546.宗教改革者)のメッセージ

「統一原理」が明らかにされていたならば宗教改革も必要なかったものを

 

 まず感謝と尊敬の意を表します。立派な思想を明らかにしてくださった文鮮明先生に心から感謝しながら、この文をお奉げいたします。本来、ルターは、限りない神様の愛の体験を根拠として信仰生活をしてきました。今回の教育を受けてみると、神様の前に宗教改革は、大きな不幸をしでかした事件になったかもしれない、という心の葛藤が起きました。

 文鮮明先生、人類の真の父母様、そして再臨のメシヤなど、すべての呼称は当然であり、ふさわしいものです。何をもって、このような恩恵に報いることができるでしょうか。天の秘密を、このように理路整然と明らかにしてくださったので、感謝しています。今正に、人間救済の道が開かれたという確信をもちました。「統一原理」は、すべての思想と宗教的教えを受容し得る絶対真理です。このように体系的に成し遂げられた「統一原理」がルター当時に現れていたならば、宗教改革は必要なかったことでしょう。そして、数多くの人々が犠牲になることはなかったでしょう。今も宗教の名によって、数多くの人々が犠牲になっているので、残念に思います。宗教人たちが「統一原理」さえ知れば、宗教の障壁、人種の障壁、思想の障壁がすべて崩れることでしょう。しかし、このような真理が、なぜ今になって人類にもたらされたのか・・・・・。数多くの紛争と摩擦などによって、病にかかっていった人類を回顧してみるとき、無念な思いがします。

文鮮明先生、どのような呼称でこの文をお捧げすれば、最も大きな尊敬と感謝となるでしょうか。ルターは、ただ感動と感謝だけです。地上にいらっしゃる間に、このような原理と思想が全人類に、地の果てまで広く伝播され、人類の悲惨な歴史が終息し、ただただ神様の愛の世界が実現されることを願います。

 先生、再臨の主様、ルターはまだ、お父様とお呼びすることはできないでしょう。主は、全人類の父母として来られましたが、人類は、各自の資質を磨き上げ、神様と真の父母様の前に、真の子女の姿に生まれ変わらなければなりません。ルターが真の子女の立場に立つまで、あまりにも多くの時間がかかると思うのですが、このような姿でも子女として受け入れてくださるのでしょうか。先生、ルターも真の子女の立場に立てるよう努力します。天の秘密を明らかにしてくださったことを、心から感謝いたします。最高の感謝の表現をお捧げして、この文を締めくくろうと思います。先生、ありがとうございます。本当にありがとうございます。ルターは、この真理の前に渾身の力を尽します。

マルティン・ルター(二〇〇一年九月十六日)

「ヨハネの黙示録」と千年王国

(1) ピューリタン千年王国運動

千年王国論とは、キリスト教の宗教的解釈の一説で、『聖書』の「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」をもとに、将来キリストが再臨し、地上でキリストの王国が実現されると考える教義です。しかし、この教義はアウグスティヌスが『神の国』において非難して以降、カトリック教会の支配的教義からは「迷信」として排斥され、中世においては民衆や異端的な預言者に受容され、近代において登場しても、前近代的な「狂信派」の思想として捉えられがちでした。
これが近代イギリスの扉を開いた革命に大きな影響を与えていました。千年王国論は単に前近代、狂信的という言葉では片付けられない歴史的役割を担っていたことになります。なぜなら、革命以前、多くのピューリタンが迫害から逃れてアメリカ大陸のニューイングランドへと渡り、本国から遠く離れたこの地で、祖国の腐敗を嘆き、新しい地における理想の国の実現を目指す千年王国論が確立されていきました。最近の研究では、清教徒たちの「大移住」には、「千年王国論」が大きく影響していると見られています。
ピューリタンの思想は、広くはカルビニズムの流れに属しますが、「契約神学」と呼ばれる独自なもので、神人関係も社会関係(家庭や国家)も契約で考え、聖書にのっとって地上に理想社会 (神の国) を実現し、神に対し責任をもつ生活をすることを目標としました。
千年王国論はピューリタン革命から110年後のアメリカ独立において再度姿を現し、アメリカにおいて、モルモン教や、エホバの証人などのプロテスタント教会に強い影響を及ぼし、彼らを理想郷造りに駆り立てました。
清教徒」と訳される「ピューリタン」という名称は、最初イングランドの女王エリザベス1世のアングリカニズム(英国国教会中心主義)による宗教政策を不徹底な宗教改革とみなし、国教会をジュネーブ宗教改革者カルバンの教会改革のモデルに従って徹底的に改革しようとしたプロテスタントにつけられたあだ名でした。
以上≪ユートピア研究 ピューリタンの理想社会の実現≫よりhttp://www.geocities.ws/genitolat/Utopia/000.html

 

プロテスタントピューリタンにとって、将来キリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の体の復活、最後の審判、天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられてきました。この信仰のもとに、キリスト再臨後に訪れるとされる千年王国を待ち望み、神に選ばれた選民として聖書にのっとった禁欲生活を守り、キリスト再臨まで神に対し責任をもつ生活をすることを目標としました。そしてキリスト再臨以降は、小羊の婚姻に招かれる栄誉に浴し、さらにこの地上にキリストとともに神の千年王国を実現しようという理想を抱いていたと考えられるのです。

 

 (2) 黙示録と終末、千年王国

 では、「千年王国論」のもととなった「ヨハネの黙示録」には、どのように書かれているのでしょうか。ヨハネの黙示録は、聖書の最後に登場する預言書で、紀元96年頃、パトモス島のヨハネによって書かれたとされています。)

ヨハネの黙示録』は、古代キリスト教の小アジアにおける七つの主要な教会にあてられる書簡という形をとっています。黙示録によると、(キリストの再臨が近づいた時)小羊によって封印(*1)が解かれ、天において神とサタンの壮絶な戦いが繰り広げられるとされています。地は暴虐に満ち、天変地異が続き、多くの人びとが苦しむとされています。神の怒りが極みに達した時、キリストが雲に乗って再臨し、大淫婦の裁き(*2)とバビロンの滅亡(旧き罪の世界の解体)が起きるというのです。

(*1)小羊について黙示録は次のように記している。「巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当たらないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』。」(黙示録5-4~5)

(*2)地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒によいしれている。(黙示録17-2)

この裁きの後、汚れのない聖徒たちの婚姻=子羊の婚姻=が行われると書かれています。キリストの千年の統治が始まり、サタンは底知れぬ所に封印されるのです。殉教者と、獣の像を拝まず、獣の刻印を受けなかった者が復活して、千年間統治するというのです。千年王国の後、サタンが一時的に解放されて神の民と戦うものの、滅ぼされると書かれています。最後の裁きがなされた後、神が人と共に住み、涙をぬぐわれる、死もなく、悲しみもない新天新地が到来するというのです。そこにはいのちの書に名が書かれている者だけが入ることが出来るとされているのです。

ヨハネの黙示録  http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/Yohane.html

第18章 (1~6)
この後、わたしは、もうひとりの御使が、大いなる権威を持って、天から降りて来るのを見た。地は彼の栄光によって明るくされた。
彼は力強い声で叫んで言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。
すべての国民は、彼女の姦淫に対する激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得たからである」。
わたしはまた、もうひとつの声が天からでるのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。
彼女の罪は積もり積もって天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。
彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼女が混ぜいれた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。

第19章(1~9)
この後、わたしは天の大群衆が大声で唱えるような声を聞いた、「ハレルヤ、救と栄光と力とは、われわれの神のものであり、そのさばきは、真実で正しい。神は、姦淫で地を汚した大淫婦をさばき、神の僕たちの血の報復を彼女になさったのである」。

再び声があって、「ハレルヤ、彼女が焼かれる火の煙は、世々限りなく立ちのぼる」と言った。
すると、二十四人の長老と四つの生き物とがひれ伏し、御座にいます神を拝して言った、「アァメン、ハレルヤ」。
その時、御座から声が出て言った、「すべての神の僕たちよ、神をおそれる者たちよ。小さき者も大いなる者も、ともに、われらの神をさんびせよ」。
わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれたものは、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。

第20章 (1~3)

またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手にもって、天から降りてきた。彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕らえて千年の間つなぎおき、そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終わるまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。

 

(3)千年王国の理想と終末において処する態度

千年王国の理想は、キリスト教世界だけにとどまりません。原始共産制をめざすマルクス主義キリスト教の影響を受けたものであることは、多くの識者によって指摘されています。また、東洋世界にも仏教の弥勒思想による弥勒浄土思想(千年王国思想)が広く伝わっています。キリストの再臨を願うように、東洋では弥勒の下生はずっと待望されてきました。日本でも弥勒下生は、仏教だけにとどまらず神道の教派においてもずっと待ち望み続けられてきました。千年王国あるいは弥勒浄土は、地上での生に苦しむ人間にとって唯一救いと希望を託せる未来預言だったのです。

東洋、西洋で伝えられてきた千年王国思想には、次のような共通点があります。

千年王国思想は
1. 信徒が享受するもので、
2. 現世に降臨し、
3. 近々現れ、
4. 完璧な世界であり、
5. 建設は超自然の者による

という共通した世界観を持ち、
a. この世は悪に染まっており、
b. 全面的に改変する必要があり、
c. それは人間の力では不可能で、神のような者によらねばならず、
d. 終末は確実に、そろそろやってきて、
e. 来るべきミレニアムでは、信徒以外は全員居場所を失う、
f. そのため、信徒を増やすべく宣伝しなければならない。(Wikipedia

千年王国を信奉している宗派では、天変地異や地上の混乱が続く時代が訪れた時、終末が来たと警告します。そして、キリストあるいは弥勒の降臨が近づいており、キリストが直接地上を支配する千年王国(至福千年期)が間近になった、希望の時が来たと説きます。そして、キリストの再臨、弥勒の下生が近づいたので、千年王国に入るために人びとは「悔い改め」をして信仰姿勢を正すことが重要であると諭すのです。しかし、この説明は幾度も不発であったため、今やほとんど信用されなくなってしまいました。しかし、黙示録の予言は絵空事ではありません。比喩で書かれているため如何ようにも解釈できる想像しきれない内容ですが、恐ろしいことが書いてあることだけは確かです。大本教出口なお教祖の御筆書きには、終末の混乱によって最悪の場合3%の人間しか残らないという予言もあります。地球破滅に近い事態ですね。

黙示録の言葉は、天で起きていることが感得できなければただの戯れにしか聞こえないでしょう。現代も先の未来が見えない「終末」と呼んでもいい時代です。何が起きているのか、何が起きようとしているのか、聖書あるいは弥勒預言に耳を傾けてみてはいかがですか。

出口王仁三郎は、次のような言葉を残しています。「弥勒の世は、弥勒(信者のこと)が法を説くようにならないと到来しないのじゃ」と。また弘法大師の言葉には、弥勒下生の際には自分も地上に下生して弥勒の業に協力すると書かれてあるそうです。悟りを開いてきた聖人は、キリストの再臨あるいは弥勒の降臨を信じて疑っていないのです。私たち一人一人も、終末に際して処すべき姿勢・信仰を見つめ直すことが重要ではないでしょうか。

神と霊界の存在形態<神はいかなる御方か、そして霊界は>

人間が神と宗教を信じようとしないのは、神の実在と来世の実相を知らないからである。このことを実感するなり体験するなりまたは客観的に実証されるならば、受け容れざるを得ないであろう。一方、この世界は日常私たちが見ている現実世界だけで出来ていると信じている人にとっては、人生の目的が現実世界だけにとどまるがゆえに、人生の大半を送ったあと誰しも最後には肉体の消滅によって無になるのかという虚しさを味わうことになるのではなかろうか。この虚しさの背後には、「それは事実ではないのではないか」という懐疑心が宿っている。

すべての宗教が主張してきたこと、「神は実在し、そして来世は実在する」のは事実である。

 

神を知るには、一神か多神かの問題を解決する必要がある。生長の家創始者の谷口雅春先生の神に対する論考をもとに、『神』とはいかなる御方かを考えていきたい。(谷口雅春著『生命の實相』第一巻p380~382 日本教文社 昭和35年

 (1)創造の原理神―創造主(唯一神

【日本語でカミと申しますのは、第一に創造神のことをカミと申すのであります。この語源は『噛む』と云って『上』と『下』とは和合すること、天と地とが結び合うこと、陰と陽とが触れ合うことによって事物を生み出す愛の働きを云うのであります。歯で噛むと云うことも上下相和すると云う同じ語源から来たのであります。ありとあらゆるものを陰と陽との和合、すなわち愛のはたらきによって造り出し給う霊妙なる『創造の原理神』が第一義のカミであります。】

≪日本の「神」のいう言葉の語源は、陰と陽の二性が相対関係を結んで一つになるということからきており、愛によって陰と陽の二性が相対関係を結んで和合することが根本である。そこに顕れている神は、「創造神」ともいうべきもので、「無形の創造の原理神」ともいうべきものである。

パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って彼らには弁解の余地がない」(「ローマ人への手紙」1-20)と記しているように、私たちは無形の神を無形であるが故に直接感じることは出来ないが、神が創造した被造世界を通して(自分も含む)明らかに感じることができるようにできている。

現実世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性が明らかに展開されている。それゆえ、私たち人間は、被造物の中にそのすばらしい出来上がりに感動し神を感じるのである。こうして創造された被造世界は、愛という創造の目的によって和合された動じ静ずるひとつの完全な有機体となるべきものである。それゆえ、神は被造世界の一切の被造物の中に遍在しているということができる。

東洋哲学の中心思想である易学思想は、宇宙の根本は「太極」であり、その太極から陰陽が、陰陽から木火土金水の五行が、五行から万物が生成されたと主張している。そして陰陽を道と称し(一陰一陽之謂道)、その道は、即ち、み言(道也者言也)であるといった。太極から陰陽、即ちみ言が、このみ言から万物が生れたという意味となる。従って、太極は、すべての存在の第一原因として、陰陽の統一的核心であり、その中和的主体である。≫

 (2)発光神としての神

【第二に、吾々がカミと申しますのは『輝く身』即ち一つの発光身を云うのであります。一燈園などでは「お光り」と云っています。仏教では「不可思議光」と云ったり「無礙(むげ)光如来」と云ったりしています。キリスト教では創世記に「神、光あれと云い給いければすなわち光ありき」と書いてあるのがそれであります。この神は本来それは真如法身(観自在原理)そのものであって相(かたち)がないのであります。ただ救うて下さいと呼ぶ者があるので、真如界から救いの求めに応じて発光身となって観世音菩薩の如く機に応じて色々の姿に顕現せられる如来であります。キリスト教で云うエンジェル(天使)の多くはこれで、唯一根元神から投げかけられた「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。皆さまが霊眼に同時に御覧になった「生長の家の神さま」もこの「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。いづれも元は一つ、その働きによって名前が違う。例えば観自在菩薩と云うのは観察自在のお働きをして衆生を教化になるので、そうお名前を申し上げ、阿弥陀如来と云うのはアミダ即ち無量壽無量光の働きとあらわれ、死後までも衆生を摂取し給うからそう申し上げ、天照大御神と申し上げるのは「渾珠(あま)」即ち「宇宙」を、限りなく遍照し給い一切のものを育み育て給う働きとなって顕れてい給うからそう申し上げ、「生長の家の神」と云うのは、狭義に於ては家々、家庭々々を生長さす一つのおハタラキであり、広義に於ては「宇宙」全体に満ちみちている普遍的真理を世界に宣布し給う救済力として顕現になっているから、そう申し上げる。神そのものの本質本体から云えば一つでありますが、その救いの働き(即ち霊波の種類)から云えば異なる譯でありまして、霊波が異(ちが)うから、霊眼で見てもお姿が異なる譯であります。丁度それはもとは一つの太陽光線でも三角帽子で光を分散させて見れば七色にも八色にもなり、その各々の光波は別々の作用を人体に及ぼすようなものであります。】 

≪中国の易学では、太極から陰陽、即ちみ言が、このみ言から万物が生れたという。陰陽の交わりが道であり、み言である。旧約聖書の創世記の初めは、次の言葉で始まっている。『はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった』(「創世記」1章1~2)

即ち神は陰陽の根源として存在しており、陰陽の交わりが光、道、即ちみ言を生み、み言から万物が創造されたということになる。だから、【神は光であり、道であり、み言】である。

神による啓示が、光であり、言葉であるのは、このことによって明らかであろう。すべての宗教にもたらされている神の啓示は、見えない神(太極)から発しているさまざまな波長の光を受信したものである。ただ、私の経験あるいは感じるところでは、如来とか天使、中国の天上の生命「麒麟」「鳳凰」「龍」は、光としての存在「発光神」というだけではなく、霊的に実在している。キリスト教では、「天使は人間に仕えるために創造された。天使の属する霊的な世界は我々の物質的な世界に先立って創造された」といわれている。天使が神のお告げを伝える伝令としての役目を負っている姿はしばしば描かれているように、光だけの存在ではない。後に述べる幽体(死後の人間の姿)と同様に霊界で実在している。ただ、東洋の阿弥陀如来や鳳凰、西洋の天使がすべて別の存在であるか、感じる姿・呼び方が異なるだけなのかはまだ判然としない。

私は、「金神七殺」方位の吉凶ー恵方祭祀と艮の金神」(2013/12/1)において、「金神七殺」といわれ疫病神の筆頭にされてきた艮の金神とは、ひょっとするとキリスト教でいう堕落した天使長ルシファーなのかもしれないと書いた。金神は、金気の精・太白の精とされる。太白星とは金星のこと、金神は星に例えると金星。西洋のユダヤ教キリスト教では明けの明星金星というと、堕落した天使長ルシファーを指す。三大天使長のひとりで知恵の天使長ルシファーを指す。同じ霊的存在かも知れない。

別の角度から論ずると、堕落した天使長ルシファーは神の意図とは違うささやき・誘惑をしているのだから、神の意図とは違う明確な別の霊的存在が実在していることになる。いづれにしても、人間が受けている神の啓示は、発光神としての作用の発現作用のようである。

付け加えて一言言っておきたいことは、堕落した霊的存在が存在しているが故に、啓示は神からだけくるのではなく、別の存在【悪魔=サタン】からも来るということである。≫

 (3)幽り身・幽微な身(霊界での姿)

【第三に吾々がカミと申しますのは幽(かく)り身の略称であります。即ち肉眼で見える体を備えてはいないけれど、体がないのではなく幽微(かすか)な身をそなえているのであります。此の階級のカミの種類は千差万別であって、低きものにはまだ悟りを開かない人間の亡霊や動物霊などがあり、高きものにはズッと高い神界に住む神格を得た人体があるのであります。仏説では此の世で善因を積んだものは「天」に生まれると申しますが、この諸天にいます神々はすべてこの幽(かく)り身に属する神々であります。】 

≪人間は死を迎えると、肉体を捨てて幽体として霊界に旅立つ。幽体離脱である。幽微(かすか)な身・幽り身は、幽体あるいは霊人とも呼ばれ、死後肉体から切り離され、霊界で生活する体である。神仏との縁をもち善行を積み、愛の完成に努めた人は、同じような人がいる霊界(神界・天界)に行く。神道では、すべての霊人を『命』と尊称で呼んでいるが、弔い上げが済んだといっても自動的に神界に至るのではない。

スウェーデンボルグの霊界日記に表されているように、天界・中間界・地獄界に分かれている。神の波動と無縁な霊界も存在している。昔から地獄と呼ばれてきた世界は、空想の産物ではない。当然ながらそこには神の光は届かない。

もちろん天界にいる聖人からは多くの啓示・霊的護りがもたらされる。過去の聖人がこの世にいる人間に多くのメッセージを送ってきていることはよく知られている。一方、地獄で苦しむ霊人も、この世に救いのメッセージを送ってくる。苦しみを背負ってくれといわんばかりに苦痛・不幸をもたらすのである。

人間は、現実世界に於いて善行を積むことによって、或いは悪行を重ねることによって、幽り身(魂)の善化あるいは悪化をもたらす。現実世界における行動が死後の世界を決めることになる。人生の目的は愛を深めることにあるという啓蒙は、幽り身(魂)を善化することが死後の世界においてかけがえのないものになることを意味している。

天国でも地獄でも、人間が死後行くことになる場所は、神が定めるのではなく、人間自身が決定するものである。愛を育んだ人間は、神の懐に近い天界に行くが、犯罪行為や過ちのために不完全な愛の姿になった人間は、愛の主体である神の前に立つことが苦痛となり神とは遠い距離にある自分の心に似た霊界(地獄など)を自ら選択するのである。

このような法があるから、人生の第一の目的は神を知り愛を完成することなのである。≫

 (4)まとめ

【この三種のカミを神と呼んでいます。神か一つだと主張する人は、神と云う言葉で宇宙の創造者としての唯一の神を指して云われるのでありますから唯一つと云うことに決して間違いがないのであります。そして神は多神だと主張する人は救いの化身たる第二類以下の神々を含めて云われるのでありますから、これも間違いがないのであります。同じ言葉で別々のものを指して、互いに「一神」だ「多神」だと論争していても結局解決の果てしがないのであります。

このように神は一神であると共に、時と所と人に応じて、場所次第、時代次第、救われる相手次第で、そのあらわれ方が千差万別して来るのでありまして、時代により、そこに住んでいる人間の発達程度に応じて色いろに変化して現れ給うて人をお救いになるのであります。】(谷口雅春著『生命の實相』第一巻p380~382 日本教文社 昭和35年 

≪神は創造神として唯一神であり、愛の原理によって<光・み言>を発している存在である。その発する形態が千差万別の形となって具現化している。その姿を見れば多神といっても間違いはない。神は全ての被造物に遍在して、巨大な平安な宇宙を築き上げているのである。人間は、神との関係を保持することなくして安寧と幸福を保つことはできないことを知らないといけない。そうでなければ、反逆児として神の創造世界を壊す役目をすることになる。また、堕落と呼んでいる現象は、悪魔と一体となって、神との関係が切れた状態のことをいっている。そこには神の光は条件なしではとどかない。≫

 

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。(旧約聖書「伝道の書」12章1-4)】自らの魂が願うところに救いを求めよ。

自分の家庭に幸福を見出さない限り、地上天国は到来しない

「王様であろうと農民であろうと、自分の家庭で平和を見出すものが一番幸福な人間である。(ゲーテ)」

ゲーテのこの言葉には、すべての人間の究極の願いが込められている。どんなに社会的に成功したとしても、どんなにお金を儲けても、足元の家庭が安定して平和で楽しくなければ、人生は切ないものである。反対に、家庭が平和で安らぎに満ちたものであれば、世間の荒波に翻弄されていても辛抱して耐えていくことができる。「人」という字は、二本足で支える形をしている。人間は独りで生きていくようには造られていない。夫婦は「ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(マルコ10章;マタイ19章)

古今東西、この世における幸福は家庭の幸福と平和な世界に包まれた社会の中で生きることである。歴史上の賢人の言葉をまず紹介してみよう。

とにもかくにも結婚せよ。
もし君が良い妻を得るならば、
君は非常に幸福になるだろう。
もし君が悪い妻を持つならば哲学者となるだろう。
そしてそれは誰にとってもよいことなのだ。 
 ソクラテス (古代ギリシアの哲学者 / 紀元前469~399)

結婚は個人を孤独から救い、
彼らの家庭と子供を与えて空間の中に安定させる。
生存の決定的な目的遂行である。
 ボーヴォワール (フランスの作家、哲学者 / 1908~1986)

結婚には多くの苦痛があるが、
独身には喜びがない。
 サミュエル・ジョンソン (英国の詩人、批評家、文献学者 / 1709~1784)

結婚をしないで、
なんて私は馬鹿だったんでしょう。
これまで見たものの中で最も美しかったものは、
腕を組んで歩く老夫婦の姿でした。
 グレタ・ガルボ (スウェーデン出身のハリウッド女優 / 1905~1990)

人類は太古の昔から、
帰りが遅いと心配してくれる人を
必要としている。
 マーガレット・ミード (米国の文化人類学者 / 1901~1978)

幸せな結婚の秘訣は、
どれだけ相性が良いかではなく、
相性の悪さをどうやって乗り越えるかにある。
 ジョージ・レビンガー (米国の心理学者)

何と心打たれる言葉の数々であろうか。同じ人生を生きるならば、よき伴侶を持つべきではないだろうか。

賢人の言葉は、そのまま神が人間に願ったことである。この世の始まりが一組の夫婦から始まるのは、旧約聖書だけではない。日本の古事記の国産み神話を読んだ人は少ないと思う。次のように書かれている。

古事記の一節、伊邪那岐命伊邪那美命の国土生成の話

さて、天津神々は、伊邪那岐命伊邪那美命の二神に、「この、まだふわふわとした国土を、造り固めて下さい」と、一本の矛を授けてお任せになった。そこで、二神は天の浮橋に立って、その矛を差しおろして、潮をこをろこをろとかきまわして引き上げ給うと、その矛の先から、ぽとぽとと潮のしずくが滴り積もって島となった。これが自凝島(おのごろしま)である。

二神はその島に天下り遊ばされて、柱を立て、広い御殿をお造り遊ばれた。そうしてから、伊邪那岐命が、

「そなたのからだの形はどのように出来ていますか」と、伊邪那美命にお尋ねになると、

「わたくしのからだは成り整ってはおりますけれど、足りない所が、ひと所だけございます」とお答えになった。

「わたしのからだは、余っている所が、ひと所ある。だから、このわたしの余った所を、そなたの足りない所に刺しふさいだら、国土が出来ると思うが、いかがなものであろう」

「それがよろしうございましょう」

「では、わたしとそなたと、この柱をめぐって、婚(まじわ)りをすることにしよう」

こう約して、「それでは、そなたは右からお廻りなさい。わたしは左から廻ることにするから」
こうして、二神が柱を廻られる際に、伊邪那美命がまず、「あゝ、お美しい、愛しいかた!」とお唱えになり、後に、伊邪那岐命が、「おゝ、美しい、可愛いおとめよ!」と仰せられた。しかしその後に、「女が先に言ったのはよくなかった」と仰せられたけれども、とにかく寝屋におこもりになって、水蛭子(ひるこ)をお生みになった。

聖書のアダムとイヴの神話と似たような物語が展開しているのである。

天理教が受けた啓示
中山みき教祖が天啓を受けた天理王命の教えである「みかぐらうた」は、次のような文言で始まる。

あしきをはらうて たすけたまへ てんりおうのみこと

ちよとはなし かみのいふこと きいてくれ

あしきのことは いはんでな このよの ぢいとてんとを かたどりて ふうふをこしらへ きたるでな これハこのよの はじめだし

あしきをはらうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろだい

〔神は、天地にかたどって夫婦を造った。これがこの世の始まりであると。凡ての人間の救済を急いでいる。心を清らかにして。天理教の教義では、全世界の人間を救済して、地場に甘露台を建てるとしている。また、結婚は男女それぞれの因縁を寄せる人生の大事であると説かれる。〕

神の計画は、この地上に一組の夫婦を造ることが出発点だったのだ。そして宗教の目的も、幸せな結婚をして平和な家庭を築いて地上に甘露台(地上天国)をもたらすことである。儒教に誰もが聞いたことがある【修身斉家治国平天下】という言葉がある。孟子は、次のように述べている。

人恒の言あり。皆天下国家と曰う。天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在り。(離婁章句上)

<世間の人はだれもが「天下国家」と口癖のように言うが、天下の本は国であり、国の本は家であり、家の本はこのわが身であることをとかく忘れがちだ。一身が修まらないで、天下国家を論じたとてなにになろうぞ。>

天下国家が治まり地上に天国を築くには、まず自らの身を治め、幸せな家庭を築くことが始まりとなる。
「宗教の目的は、地上天国の建設にあるが、それを実際に行うのは人間である。人間一人一人の幸福にとって一番重要なのは、家庭であり結婚である。一国の王様といえども、家庭が幸福でなければ、人生の幸福は得られない。ここに重要な出発点がある(出口日出麿)」。ここに宗教の原点がある。

だから結婚はとても重要なことである。「人生にとって、もっとも大切なことは結婚だ。これが失敗したら、その人の一生は失敗である。それでも、まだ魂のほぼ相合うのは結構だが、その差がはなはだしくなるほどやりきれなくなる。ああ若者よ、その他の何物の得なくともよい、真の愛だけは得てくれ!(出口日出麿)」

  • 多くの問題を抱えている現代の家族

ところが、現代の家族は多くの問題を抱えていて、幸せとはいいがたいものである。当然ながらその中で育つ子供達も幸せではない。人は平和と幸せな世界を築きたいと願うものの、結婚と家庭を築くことにしり込みしている。また家庭を築いたとしても、お互いに理解しあえず離婚となることが日常茶飯事である。現在、人生の基地となる家庭の多くは壊されており、人生が幸福であるかといえば疑問符が付く。現在家族が抱えている問題は、複雑でやりきれないものが多い。

天理教の教義では、結婚は男女それぞれの因縁を寄せる人生の大事であると説かれている。結婚は、男女それぞれの因縁を引き寄せるのである。ブログ〔ブログ2014年11月11日家系の法則3-先祖の因果が子に報う〕で語ったような形で、実際の家庭の中に問題が起きてくるのである。多くの家庭で、外には内緒にしているものの複雑な家庭問題を抱えていることが多い。誰にも大っぴらに相談しづらいものなので、一人で悩まれているケースが多い。何が悪かったのかもよくわからず、方策を見つけきれない。家庭には、先祖からの罪科が集中して現れてくるのである。兄弟仲が悪いとか、両親の仲が悪いとか、家庭内暴力が止まらない、子供の閉じこもりとかいう問題は、自分に原因があるというより先祖から持ち越してきた問題なのである。そして、仲良くできないことを当たり前として、「兄弟は他人の始まり」と争いが始まることは当然のことと思われてきた。

では、いつから家庭は壊されたのかといえば、人類の創生時に壊されたようだ。聖書は、そのことをアダムとイヴの話として伝えている。上に述べた古事記は、イザナギノミコトとイザナミノミコトが、婚(まじわ)りをして、「女が先に言ったのはよくなかった」と仰せられたけれども、とにかく寝屋におこもりになって、水蛭子(ひるこ)をお生みになった。>何かの間違いがあって水蛭子(ひるこ)=不具の子が出た、と語る。どうも、男女の交わりに第一の原因があり、そののち生まれて来た子供が健全ではなかったと伝えている。聖書によれば、アダムとイヴの子供カインとアベルの間では人類最初の殺人が行われたと記述されている。

幸せであるはずの家庭の破壊は、人類創生から始まっているようだ。そして、直視しなければいけないことは、人類始祖に起きた家庭の悲劇は、現代でも日常的に起こされているという現実である。このことが、家庭が不幸になる原因である。

  • 家族が抱えている問題は、子孫が解決しなければならない

男女それぞれが引き寄せた罪科が、家族の抱える問題となっている。先祖の犯した罪科は、子孫が解決しないといけないものである。先祖の業を関係のない人が償うという理屈は成り立たない。

「霊界で罪科に苦しむ霊魂を救うには、神への祈念とともに、その霊魂と因縁のある者が、なんらかの形で、代わって罪のつぐないをせねばならない。その霊魂の負う罪の多寡、また救済する者の祈念力の大小で、“あがない”の規模、期間に差違はあるが、いずれにしても、この形はふまねばならない。このことなくして現界からの霊魂の救済はない。」(出口日出麿)

 

  • 地上天国の理想は家庭から

「この世の改造ということが、そう手っ取り早くできるものではない。表面だけの改造なら今日の日でもできるけれども、それはまたすぐに壊されるものだ。神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(出口日出麿)」

地上天国を築くということは、共産革命のように制度改革をすれば済む問題ではない。人間が築くものである以上、人間が得心して心が変わっていなければできるものではない。それは、一人一人の人間が本心に目覚めることであり、人生の基地となる家庭に天国を築くこと、それが最初の一歩である。地上天国の理想は家庭から始められなければならないのである。

聖書のヨハネの黙示録に小羊の婚姻が描かれているが、エデンの園の再興は、幸せな結婚と家庭づくりから始まることを示唆しているのである。

宗教はなぜ儀式と浄財を重んじるのか?(1)

誰もが神社に参拝する時、神に祈りを捧げる時、供え物をする。神が本当に聞いていると思っている人はわずかかもしれないが、そのように行う。供え物は、自分の心の正直な証というつもりであるのだろう。私の本当の気持ち、願いが参拝と供え物という形になって表われているのだ。神の前では人は皆敬虔である。

このためであろうか、供え物は貴重なもの、清らかなものでなければならないというのが古来宗教の教えて来たことである。神に豊穣の感謝の祈りを捧げる時は、もっともよくできた初穂を捧げるのが鉄則である。心のこもったものを供えないと、神に受け取ってもらえないという恐れを感じるからであろう。

アニミズムシャーマニズムという土着宗教だけではない。旧約聖書に出てくる最初の供え物は、アダムとイヴの息子カインとアベルの供え物である。地を耕す者となったカインは、地の産物を、羊を飼う者となったアベルは群れのういごと肥えたものを供えた。人類は、神につながるためには供え物が必要であるということを創世記の時代から感じていたのである。

 

(1) 宗教が教えて来た浄財の姿

 

1-1、仏陀の最初の在家(一般人)への説教
仏陀の最初の在家への説教は、ベナレスの富豪の息子、人生に煩悶し懊悩していた青年ヤサに説教したのが最初であるとされている。「青年よ。ここに来るがよい。うとましさを脱した安らかな境地を教えてあげよう」と呼びかけられた。
釈尊は、順を追って説法された。
施論ーまず説かれたのが、他者への施し、布施についてである。布施は慈善とは違う。慈善は、他人のためにする行為であるが、布施は自分のためにする行為である。仏教は、自分の大切なものを人にもらっていただく。そうすることによって自分の気持ちが安まるから、お布施をさせていただくのである。「相手がありがとうというべきだ」という考え方は、相手を乞食扱いしている。布施の功徳を積むことによって、心が浄らかになる。正しく世界を見られるようになる。(ほんとうにそうである。)
戒論―次に基本的な戒として五戒を説いている。五戒は、命令ではない。a,不殺生戒、b,不妄語戒、c,不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、d,不邪淫戒、e,,不飲酒戒(ふおんじゅかい)。このような善い習慣を身につけようという意味である。そして、戒を犯したとき、素直に自分の過ちを反省して謝罪する(懺悔―さんげと読む)。自分の弱さを自覚してそれを懺悔するのが仏教者の生き方である。
生天論―因果応報の思想
わたしたちが布施の功徳を積み、そして戒を守って行くならば、わたしたちは必ず来世において天界に生まれることができる。逆に、わたしたちが布施の功徳を積まず、破戒をしながらなんの反省もなく、悪事を積み上げるならば、来世は必ず地獄に堕ちるという教えである。輪廻転生を信じたインド人は、未来における果報を「天に生まれる」と表現した。
この布施・戒・因果応報の三論がわかってはじめて仏教に入っていくことができるといわれた。

(ブログ2012年5月13日「 仏教のミニ知識1-釈尊の教え」)

布施・戒・因果応報の三つは密接に結びついているのである。(出家は、身施にあたる。)


1-2、空海弘法大師)の行った社会事業宗教的背景

空海弘法大師)は、多くの社会事業を行ったことでも知られている。香川県に残る満濃池は、周囲20キロに及び、この巨大な池の修築工事は空海の数ある業績の中でも、確かな史実として伝えられる代表的なものである。
空海は、なぜ多くの社会事業を行ったのか。その理由は、古代の勧進にあった。宗教者の衣食住、布教・法会・儀礼などの宗教行為、ついでその場となる寺院や堂塔、そこに収まる仏像並びに経典はすべて勧進によって集められた資縁(集められた金品)にかかっている。

古代、聖の勧進は、信者団体を結成して因果応報からくる悪果を説いてそれを免れる滅罪のための宗教的作善と社会的作善を行うという形ではじめられた。死後滅罪の一番良いのは、社会に奉仕することだと考えられていた。行基は、罪滅ぼしの奉仕をしなさいと言っている。社会事業のために橋を架けたり、道を造ったり用水を引いたりしたのではなく、そうすることによって行った人自身の罪も滅び、亡くなった人の罪も滅びるという理由である。

行基は、たびたび「罪福の因果を説く」と述べている。行基は、古代呪術と唱導巧みによって数千の人を集めたといわれる。四十九院といわれる多数の寺や道路・橋・溝・造船などの社会事業を行った。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その実績を認められ、後に大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として、聖武天皇により奈良の大仏東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。古代の社会事業の背景にも浄財の思想は息づいていたのである。

 

1-3、アブラハムのイサク燔祭

 供え物・燔祭といえば、忘れてならないのがアブラハムのイサク燔祭である。この燔祭は、神がアブラハムの信仰を認め、アブラハムがユダヤ教イスラム教キリスト教の祖としてその起点となる重要な供え物である。信仰の勝利は、子々孫々の繁栄を約束されるということにつながることになる。ひとり子を捧げるという不合理極まりない決断をしなければならなかったアブラハムの真情を神は見ておられたのである。

このように信仰による供え物は、不合理で人間には理解できないことが多い。合理的な思考になれた人から見れば、馬鹿げたものに違いないだろう。しかし、そこに神が存在するとすれば、答えは自ずから変わるのではないか。その場面を聖書から抜き出してみよう。

 「アブラハムよ」神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」と。

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。

そして、アブラハムを祝福して言われた。

「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしはあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。(創世記22-1~19)

 

神は何をアブラハムに願ったのだろうか。モルモン書(モルモン教の経典)が答えている。人間が神と和解することを願ったのである。

アブラハムイサクささげようしたことは、神(かみ)神(かみ)独(ひと)り子(ご)相(そう)似(じ)あった。人(ひと)贖罪(しょくざい)通(つう)じて神(かみ)和(わ)解(かい)しなければならない。(モルモン書ヤコブ諸第4章)

宗教はなぜ儀式と浄財を重んじるのか?(2)

1-4、キリスト教献金

 聖書は、献金には神様の大きな恵みと祝福が伴うことを教えている。 「献金とは、会費・寄付金・説教の聴講料ではなく、イエス・キリストを信じた人が、その感謝の心を、神に対して金品をもって表わすものである。従って、感謝もなく、強いられたり、いやいやな思いでするなら、むしろしない方がよろしい」。

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は、欲ばって金銭を求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦難をもって自分自身を刺しとおした」(テモテへの第一の手紙6-10)

「信仰」とは、ある意味で抽象的なものである。人の信仰は目に見えないからである。しかしその「信仰」が、その人のお金や献金への態度になると、具体的に現われてくる。献金は信仰のバロメーター」とよく言われるゆえんである。献金という具体的な形を取ろうとすると、心の中にすぐっている醜い私が顔を出すのである。

またキリスト教では、十一献金をいう。マラキ書は次のように述べている。
「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。………それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。………十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て………こうしてわたしをためしてみよ。」(マラキ書3-8~10) 

神が求めているのは、私達の献金ではない。神が求めているのは、私達自身との深い交わりなのです。そして「あふれるばかりの祝福」を私達に注ぎたい、と願っておられることにある。そのすばらしい神と私達との交わりを、お金に対する執着などというもので壊してしまってはいけないと言っているのである。   

十一献金は、決して「教会の税金」ではない。十一献金の正確な意味は、「私達の全ての必要を満たして下さった神への、私達の感謝と献身の表現として、私達は『全て』を、つまり『十分の十』を神にささげるということ。すると神は十分の一を取って残りの十分の九を私達の生活のために下さる。」ということである。そして、神は私達の生活の必要を必ず全て満たして下さる、と約束して下さっていることを忘れてはいけない。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ福音書6-24)心に留めておきたい聖句である。

参考:http://www.imcj.org/bible/abc/l6.html

 

1-4、天理教中山みき教祖の「貧に落ち切れ」

 天理教の教祖中山みきさんの浄財はすさまじいの一言に尽きるものである。

中山みきさんは、天保9年(1838年)10月26日、「月日のやしろ」と定まられてからは、まず「貧に落ち切れ」との親神様の思召のままに、貧しい人々への施しに家財を傾けて貧のどん底への道を歩まれた。

1853年、夫・善兵衞が田地3町歩と屋敷を遺して病死すると、かねて宿願どおり「これから世界のふしんに掛る」といって、母屋を売却して一家は八畳と六畳の隠居所に移った。

このような常人には理解し難い信仰は、親族の反対はもとより、知人、村人の離反、嘲笑を招かずにはいなかった。しかし、貧窮の中で成長した五女こかんは、老いた母の真摯な信仰に引かれ、大坂の町で最初の布教に赴く。

その後さらに十年ほどのどん底の道中も、常に明るく勇んでお通りになり、時には食べるに事欠く中も「水を飲めば水の味がする」と子どもたちを励ましながらお通りになった。

こうした道中を経て、三女はるの初産の「をびや許し」を道あけとして、不思議なたすけが次々と顕れるにつれて、教祖を生き神様と慕い寄る人々が現れ始めていく。

「あしきはらひ」のおつとめに教祖が「貧に落ち切れ」と言われたのは当時の中山家だけ

開教直後の中山みきは、幾度も池や井戸へ投身を企てるなど、神と人との間のはげしい内面的矛盾の中を歩んだ。(中略)中山家の没落は、開教後の中山みきの、際限ない施与が原因とも伝えられているが、中山みきは、「貧に落ち切れ、貧に落ち切らねば難儀なる者の味わいが分からん」との神の命を聞き、すべての人間の救済を実現するための神の意志として、「谷底」への道をよろこんで迎えたという。「谷底せりあげ」すなわち民衆の救済は、中山みきの考えでは、中山家が「谷底」に落ち切ることによって、はじめてその第一歩を踏み出すはずであった。
(参考:村上重良「中山みき天理教」日本思想体系67「民衆宗教の思想」岩波書店1971所収)

 

信者を代表して中山みきさんが浄財をなされたのである。ちょうど、アブラハムがイサク燔祭をしてユダヤ教の始祖となったように、中山みきさんが神との和解の道を切り開かれたといえよう。大変敬服すべきことである。

 

1-5、儒教と祭祀

 孔子自身は、多くの儀礼について語ったが、厳密にいえば宗教的な話題には言及したことがない。鬼神に仕えることについて聞かれた時、「未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん(人に仕えることもできないのに、どうして鬼神に仕えられよう)」(先進第十一)と答えている。

ただ、中国では古来、自然=事物と鬼神とは表裏一体のものとして捉えられていた。自然や堅物の裏側に、ある霊妙なものの存在が予感されていた。『周礼』大宗伯にみえる雨師・風師は、雨や風の背後にあってそれらを現象せしめる神である。『中庸』第16章の「物に体して遣すべからず」というのも、より原初的には物の背後にある笹神などの鬼神をいっている。

孔子の孫、子思がまとめた『中庸』第十六章二節には次のように記述され、その重要性が指摘されている。

視之而弗見。聴之而弗聞。体物而不可遺。

<訓(鬼神は)之を視れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺す可からず>

仏教の挑戦を受けて再興された近代儒教宋学朱子学)では、霊妙な世界(霊界)は、鬼神が充満し、その物をその物たらしめている「物に体する(体物)」空間として説明した。鬼神は民衆の世界においては、日本語の「オニガミ」のように、具体的なお化けや幽霊、物の怪などを意味する。(「朱子語類」の記述でも最後のところで民衆の信仰の一端が書かれている。)

しかし朱子学では、鬼神は具体的なオニやお化けという実体があるのではなく、「二気(陰陽)の良能」(張横渠)として、気が帯びている陰陽の作用によって分かれる気の霊的エネルギー状態に「神」「鬼」という名をつけている。自然科学のように、陰陽の作用として受け止めている。(気が伸びるのが神、気が屈するのが鬼である。)

もの、すべての存在は、陰陽二気が凝集することによって生まれ、すなわち存在を開始し、それを散ずることによって存在を終える。物の体、物の骨子を形づくっているものが鬼神である(『朱子語類』九八)。物に体して遺す可からず」とは、鬼神があるからこそ物がある、という意味である。物の芯、骨格ともいうべきものであって、存在にリアリティを与えているのが「鬼神」なのである。

この説明を聞くと、霊的世界を他の宗教と形は少し違うがエネルギー的なものとして存在を前提にしていることがわかる。

 

では、儒教の祭祀であるが、このことについても朱子が「鬼神論」の中で述べている。

ところで人間が死ぬと、最後には散ってしまうことになるが、すぐに散ってしまうわけではない。だから祭祀に感格の理があるのだ。はるか遠い昔の先祖の場合、その先祖の気の有る無しはわからないが、しかし祭祀を取り行うものが、その人の子孫である以上、結局のところ気が同じなのだから、感通の理はあるのだ。しかしもはや散ってしまった気は、二度と凝まることはないのだ。ところが仏教徒は、人が死ぬと鬼になり、鬼がふたたび人になると考えている。もしそうなら天地の間には、常に大勢の人々が行ったり来たりしているだけであって、決して造化のはたらきによって生々しないのだ。こんな理は無いにきまっている。たとえば伯有の怨霊が祟ったという点になると、程伊川は別種の道理があるといっている。思うにその人の気がまだ尽くべきでないのに変死した時には、祟ることができるのであろう。子産が伯有のために跡目を立てて、落ち着き場所を与えてやったので、祟らなくなった。子産も鬼神の情状を知っていたといってよい。」

*感格:祖先の魂が感じてやって来る。

人に祟るものの場合は、まともな死に方をしなかったものが多い。その気が散らないので、結ばれて祟るのだ。体がひ弱くて病死した人の場合は、気が完全に消耗してから死ぬので、二度と結ばれて祟るようなことはない。しかしまともな死に方をしなかったものも、しばらくたつうちに散る。

問う。「子孫が祭祀を行う時には、誠意を尽くして祖先の精神(タマシイ)を集めますが、一体、祖先の魂気と体魄を合せるのですか、それとも魂気を感格させるだけですか。」

先生いう。蕭〔ヨモギ〕と祭脂(イケニエノアブラ)を焫(ヤ)くのは、〔祖先の魂〕気に報いるためであり、鬱鬯(ウツチョウ)の酒を〔地に〕灌ぐのは、〔祖先の体〕魄を招き寄せるためである。つまり祖先の魂気と体魄を合わせるのだ。いわゆる『鬼と神とを合はすは、教への至りなり』だ。」

やはり儒教も、儀式と供え物を重視しているのである。

〔参考:ブログ:2015年10月11日  朱子朱熹)の鬼神論(1)(2)〕