孔子が目指した理想世界

仁の人間中心の哲学思想から出発し、古代の聖王<堯・舜・禹>の時代を理想社会として、将来そのような社会の実現を目指した孔子は、大同世界と小康世界の二つの異なるレベルの理想世界を示した。二つの理想世界を紹介する。

 (1)大同世界

大同世界は、公私の最高の理想世界であり、長期的な目標である。その姿は、『礼記』礼運編にある。

 

大道の行わるるや、天下は公と為し、賢と能とを選び、信を講じ睦を修む。故に人は独り其の親を親とするのみにあらず、独り其の子を子とするのみにあらず。老をして終わる所有り、壮をして用うる所有り、幼をして長ずる所有り、矜(かん)寡(か)孤独廃疾の者をして皆養う所有らしむ。男は分有り、女は帰する所有り。貨は其の地に棄てらるるを悪むも、必ずしも己の為にせず。是の故に謀は閉じて興さず、盗窃乱賊にして作さず、故に外戸は閉じず、是を大同と謂う。

 

天下大同の社会では、天下は人民により共有されるもので、人徳と才能の共に備わった人材を選んで天下を治める。人々は信用を重んじ、打ち解けて交際し、自分の親戚を親しみ愛し、自分の子供達を扶養するだけでなく、すべての老人が扶養され、成年の人はみな自分の才能を発揮することができ、子供はみな扶養を得ることができ、男やもめや寡婦、独り暮らし、障害者がみな世話をしてもらうことができる。男子はみな自分の仕事と責任があり、女子はみな適齢期に嫁に行ける。人々は富が浪費されることを嫌うが、強奪して自分のものにすることはしない。力があって用いないのを嫌うが、自分のために利益を計ることはしない。陰謀や悪巧みは抑制され、盗賊や世の中を乱す人々は出現しようがない。夜は戸を閉めない。これはとても素晴らしい社会である。

 

孔子が憧れた古代の理想社会であり、伝説上の皇帝堯舜の時代の社会の素晴らしい姿でもあり、それは孔子の政治的理想の最高の境地であった。

 (2)小康社会

小康社会は、大同社会に比べれば低い政治理想であり、短期目標である。大同社会と同じく、『礼記』礼運編にある。

 

今大道既に隠れ、天下を家と為し、各々其の親を親とし、其の子を子とし、貨・力は皆己の為にす。大人は世及して以て礼と為し、城郭溝池以て固めと為し、礼義以て起と為し、以て君臣を正し、以て父子を篤くし、以て兄弟を睦まじくし、以て夫婦を和し、以て制度を設け、以て田里を立て、以て勇知を賢(かしこ)び、功を以て己の為にす。故に謀(はかりごと)是を用って作(おこ)り、而して兵此に由りて起こる。禹・湯・文・武・成王・周公は此れを由(もち)いて其れ選(すぐ)れたるなり。此の六君子は、未だ礼を謹まざる者有らざるなり。以て其の義を著らかにし、以て其の信を考(な)し、有過を著らかにして、仁に刑(のっと)り譲を講じ、民に常有るを示す。如し此に由らざる者有らば、執に在る者も去り、衆は以て殃(わざわい)と為す。是を小康と謂う。

 

「小康」社会の基本的特徴は、天下は個人の天下となり、人々はただ自分の身内に親しみ、ただ自分の子供達だけを扶養する。財産と力は自分のためにある。官位を世宗するのは、貴と賤がもともと異なるという考え方と対応しており、一連の法令制度と倫理道徳を定めて、君臣関係を正しくし、父と子の愛情を深め、兄弟を仲良くさせ、夫婦を和合させ、人々に田畑を分けて、勇敢で聡明な人を尊敬する。このような社会には明らかに「大同」世界のような完全なるすばらしさはなく、権謀術策が行われ、戦争が起きる。しかし、社会には秩序があり、礼を用いて道義を表彰し、信用できる人を表彰し、過ちを暴露し、仁愛を打ち立て、謙譲を提唱し、人々に法規を遵守するように指示するので、小康社会と称することができる。小康社会は実際的には私有制が生まれた後の理想的な階級社会の盛んな世の中のことであり、これもまたすなわち夏殷周の、階級が出現し始めた頃の社会の様子で、孔子の短期的な努力目標である。

 

礼記』は、孔子の死後に編まれた著作であり、大同社会・小康社会は孔子の口から出たものではないとされているが、大同と小康の思想は『論語』の中にも叙述されており、孔子の思想とみなすことが正当である。

孔子の「天下大同」と「小康」社会の思想が中国歴史に与えた影響は非常に大きい。異なった時代の思想家や革命家はみな、各々天下大同と小康社会に基づく異なった憧れの未来図を提示したし、異なる時代の思想家や政治家は皆影響を受けている。たとえば、洪秀全、康有為、譚嗣同、孫文らは皆その影響を受けた。近代の民主革命家で思想家の孫文の掲げた「民族・民権・民生」の三民主義は、孔子の大同の主張と儒家の民本思想を西洋資産階級の思想と結合したものである。そして中国の社会主義初期段階も、孔子の小康と異なるけれども、小康社会を目標としている。

(引用文献:孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明翻訳「図説 孔子―生涯と思想」科学出版社東京株式会社 2014 p82~86)

 

現代中国の英雄毛沢東も、孔子の理想社会の思想に大きな影響を受けている。長沙に出て、湖南第四師範(のちに第一師範と合併)で学んだ時、「第一師範の孔子」と噂される楊昌済という教師と出会っている。毛沢東の回想によると、「楊昌済は、理想主義者で、道徳性の高い人物で、自分の倫理学を非常に強く信じ、学生に正しい、道徳的な有徳な、社会に有用な人物になれという希望を鼓吹した」という。毛沢東は、この教えを聞き、「いささかも自私自利の心のない精神を樹立して、高尚な、純粋な、道徳をもった人になろう」と手記に記している。毛沢東は、学生時代に「心の力」という論文を書いており、楊昌済は激賞したという。毛沢東の最初の妻は、楊昌済先生の娘、楊開慧である。

毛沢東は、共産主義理論(マルクス・レーニン主義)と孔子の大同世界思想を結び付け、毛沢東理論を構築した。しかし、毛沢東孔子にはならなかった。秦の始皇帝になろうとした。

毛沢東は、1973年頃外国人客との談話において、「秦の始皇帝は中国封建社会で最初の有名な皇帝である。私も秦の始皇帝である。林彪は私が秦の始皇帝であると非難した。中国は一貫して二派に分かれていた。一派は秦の始皇帝を良いと言う。もう一派は秦の始皇帝を悪いと言う。私は秦の始皇帝に賛成し、孔子様に賛成しない」と述べた。天に頼らず自分の手で、プロレタリア文化大革命を最後まで進めるという決意の表われであろう。ここに現代中国の根本的な問題が潜んでいる。

日蓮の警告が受け入れられていれば、蒙古襲来という悲劇は避けられていただろう。

(1)日蓮は、蒙古襲来を予言したとして有名になった。しかしそれは、日蓮の本意ではなかった。日蓮の警告もむなしく蒙古襲来は現実のものとなったからである。

危機を伝えようとする予言は悲しいものである。危機を叫んでも何を馬鹿な!と無視され、当たれば認められはすれどもそこには悲しい現実が出現するだけだからである。鎌倉時代、日蓮が日本の危機を叫んだ時もそうであった。受け入れられず迫害を受け、結局蒙古襲来という悲劇に日本は襲われることになった。太平洋戦争前の日本も、日本の危機を叫んだ大本教出口王仁三郎は迫害を受け、結局日本敗戦という現実がもたらされたのであった。

予言というものは、人間の理性を超えたものであるがゆえに胡散臭いものとして敬遠され、当たった時初めて評価されるという悲しい運命にある。しかし、予言は論理的に可能なものである。表面に現れる人間歴史の背後に目に見えない歴史時間空間〔霊界と呼んでおこう〕が存在して、そこに「神の摂理」とか呼ばれている時刻表が記されているがゆえにできるものである。しかし、それは必ずあたるというものではない。神の摂理時刻表は、現世の人間の選択によって書き換えられるからである。

(2)日蓮の予言と蒙古襲来

日蓮は、1253年(建長5年)4月28日朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、立教開宗した。名前も日蓮と改めた。正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。日蓮は、

「この世界こそが仏の在(ましま)す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか〔来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ〕」。
「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし〔自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきだ〕」。
http://www.nichiren.or.jp/buddhism/nichiren/03.php

と述べ、当時幕府が置かれていた政治の中心地・鎌倉の町辻に立ち、道行く人々に、法華経を説き続けた。

1260年日蓮は、「法華経を立てなければ国が滅ぶ」と主張し、『立正安国論』を鎌倉幕府5代執権北条時頼に献上した。「立正安国論」の中には次のような記述がある。

仁王経にはこの様にある。「国土が乱れる時は鬼神が乱れる、鬼神が乱れるがゆえに、万民が乱れる。賊が来て国をおびやかし、百姓が居なくなり王臣や君主、太子、百官の仲に互いに言い争いが起きるであろう。
天地に怪しい異変が起こり、星の動きや太陽や月の運行がおかしくなり、多くの争いが起こるであろう」と。

他方から賊が来て国を侵略し、自界叛逆してその土地を略奪されたならば、大変な事になるだろう。
国を失い家を滅ぼされたら、どこに逃れるというのか。はやく一身の安堵を願うのであれば四俵の静謐を祈るべきであろう。

あなたは信仰の心を改めて、はやく実乗の一善に帰依すべきである。そうすれば三界はみな仏国になるのであり、仏国は衰える小とはなく、全ては宝の土地である。宝の土地であればどうして壊れる事があるであろうか。国には衰微はなく、土地が破戒される事がなければ、身は安全であり、心が苦悩に悩む事もなくなりのである。この言葉は信じるべきであり、崇ぶべきである。

日蓮は、「立正安国論」を鎌倉幕府執権北条時頼に献上した40日後、他宗の僧侶らにより最初の法難「松葉ケ谷の草庵焼き討ち」に遭う。翌61年には禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年伊豆国に流罪となった(伊豆法難)。1264年には、安房国小松原にて念仏宗信者に襲われ負傷(小松原法難)する。

しかし、「迫害を受けるのは法華経を広める者の証」とその強い意志を曲げることなく法華経を広める。その日蓮の姿に、人々は心を動かされ、この頃から次第に教えに帰依する人の輪が大きく広がっていった。

このような時世の流れの中で、1268年蒙古から鎌倉幕府に国書が届き、侵略の危機が現実となる。この年時頼の後を継いだ執権北条時宗は、国書を受け取るとともに当時の外交担当、朝廷に国書を回送する。日本側は、国書について議論はしたものの返事をせず、寺社に対しては祈願を依頼し、御家人には蒙古襲来の準備だけはするように通達した。その後数度の蒙古の使節に対しても同様に無視する。

1271年日蓮は、幕府や諸宗を批判したとして再び捕えられ、腰越瀧ノ口刑場で処刑されかける。日蓮は処刑は免れたものの、今度はその力を恐れられて佐渡へ流罪にされてしまう。

1274年日蓮は赦免となり、幕府より蒙古襲来の予見について聞かれる。日蓮は、「よも今年はすごし候はじ(撰時抄)」と答え、幕府に法華経を立てよ、と三度目の諌暁を行う。予言の5か月後、蒙古が襲来する(文永の役)。その後赦免された日蓮は、身延山に隠棲する。日蓮の予言は的中し、日蓮の迫害は終わりを迎える。

(3)蒙古襲来と北条時宗

1274年、モンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは、朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する(文永の役)。

対する日本側は、鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

蒙古来襲の直接の原因は、日本を属国化あるいは国交を結ぼうとし応じなければ軍を送るという、1271年に送られてきた元からの書状および使節を無視し続けたことに端を発する。対馬壱岐と次々攻め落とされる。ついには博多湾に至りここでも当初は一方的に攻められるが、なぜか次の日にはいなくなっていた。元軍は海戦に慣れていなかったためとする説、もともと恫喝のみが目的だったという説がある。(台風の季節ではない。)

その後幕府は、1275年、1279年と再び恫喝のために元から送られてきた使節を、今度は斬り捨ててしまう。幕府の御家人も、今度はその時の経験を分析して土塁を築くなど戦闘に備えた。

この年1279年、北条時宗の招きに応じて無学祖元が来日する。鎌倉で南宋出身の僧・蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受け、大きな力をもつ。無学祖元は、1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺に避難していて元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる。

 乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
 珍重す、大元三尺の剣
 電光、影裏に春風を斬らん

祖元は1281年、2度めの蒙古襲来である弘安の役に際して、その一月前に元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた。無学祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる。

弘安の役では、日本武士は防塁を築きその後ろから改良した弓矢を射て上陸を防ぎ、夜討ちで元軍に対抗する。そもそも士気の低かった旧宋兵らを含む元軍は兵糧攻めにされて消耗し、今度こそ暴風雨の追い討ちがかかり元軍は滅んだ。

蒙古軍を追い払ったけれども、日本が受けたダメージは大きかった。当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。鎌倉幕府は御家人を大量動員して応戦したが新恩給与するための土地が得られず、彼らに対して恩賞として与える物はほとんど無かった。御家人はダメージを受けたが、幕府からの恩賞もなく疲弊して力を失っていった。鎌倉幕府滅亡の大きな原因となったのである。

(4)日本はなぜ神風によって守られたか。

蒙古襲来は、最終的に台風による暴風雨によって蒙古軍が壊滅して救われた。以来、日本では「神風が吹いた」といって、神国日本の象徴的出来事にされている。偶然の奇跡だとほとんどの人は思っておられるだろうが、そうではない。偶然ということはない。すべての事象は、何らかの因果関係によって奇跡さえも起こるものである。日本は、最善の策として蒙古軍の襲来を防ぐことができたはずだが、それはかなわず、次善の策として神風が吹いたのである。

日蓮法華経に帰依していたならば、蒙古襲来は防げたであろう。しかし、鎌倉幕府日蓮を迫害し、蒙古襲来が現実になるまで耳を傾けなかった。危機を事前に知らせることはできても、危機を回避する選択はほとんどの人には難しかった。日蓮の「法華経を信じれば国は安泰である」という主張は、科学時代の現代から見れば空論に見えるかもしれない。しかし、この主張は正しい。日蓮は、「魔を降伏しなければ正法とはいえない」と言ったといわれる。古来日本では、法華経は「金光明経」「仁王経」と併せ、護国三部経とされていた。法華経には国を護る神通力があったのである。その後の法華経日蓮宗の広がりを見るならば、日蓮の教えは正解だったといえよう。

では、なぜ神風が起きて日本が守られたのか。蒙古襲来は防げなかったが、日蓮への帰依の広まりと無学祖元の法力、北条時宗の大悟が、最終局面で日本を守ったのであろう。しかしこのようなことは、太平洋戦争では起きなかった。蒙古襲来に際しては、日本の守りにだけ集中したため神仏の加護を受けることができたが、太平洋戦争では時宗のような信仰もなく、外国にまで軍を進めるという過ちを犯したため、神仏の加護は受けるはずもなかった。国土は灰塵に帰しても仕方なかった。(ほとんどの宗教団体が戦争に反対しなかった。)

 

 「世界平和の祈りの輪」プロジェクトを提唱する

戦争の足音が近づいている。偶発的な軍事衝突が引き金となって戦争勃発という事態がいつ始まるかわからない。安倍政権は、危機を助長させるかのように安保法制の改革、集団的自衛権の行使に足を踏み入れ、憲法改正さえ目指している。軍事的均衡政策こそが、戦争の危機を回避させる現実的な唯一の方法であると考えているようである。

その考えがどれほど国民に不安を与えているかは、意識調査を見ればわかる。また日本政府の行動が、世界の人々をどれほど不安がらせていることか。

軍事的脅威に対して、他の方法「平和な祈りと対話の戦略」はたわいもない幼稚な理想論にすぎないと考えているのだろう。

それは間違いである。祈りの輪は、意識の世界において連結され連動して、世界に平和をもたらす素晴らしい方法である。古来日本の政治は、神に尋ねることを旨としていた。政事(まつりごと)は祭事(まつりごと)であり、神に尋ねるものであった。

 

(1)地球意識プロジェクトが示した成果

プリンストン大学を拠点に、地球意識プロジェクトが本格的にスタートしたのは、1999年からであり、いまやこの乱数発生器の設置場所は全世界に広がっている。地球意識プロジェクトが注目されたのは、2001.9.11同時多発テロ事件で、世界の集計データが発生の11日から大きく逸脱したことであった。

このデータを検証しようとネバダ砂漠の真ん中で行われる「多くの人が参加して巨大な人形を燃やす」バーニングマンというイベントで、壮大な超能力実験を行われた。イベントのクライマックス、その瞬間に230万分の1の確率で起こる大きな偏り(1の発生ばかり)が現れた。7万人の「意識のパワー」が、大きな変化を引き起こしたことが確認されたのである

人間が意識を集中させると、意識のパワーが確立1/2の世界を変える。人間の意識が集まり集合意識となると、ものすごいパワーをもたらすのである。人間の意識は集合させることによって、この現実世界は動かされていくのである。反対に、人間の意識が混乱したり激高していくと、世界は混乱に至る。

人間の意識は、連結して人類全体の集合意識となり、その心理的な効果は地球にさえ影響を及ぼすのである。

 

(2)祈りは問題を好転させる

意識の力といえば、祈り、祈祷を思い浮かべる。祈りは、祈る人に安らぎを与え、勇気を与え、力を与える。宗教は、祈りを通して神仏からの慈悲の力を受けてきた。祈りは、それぞれの宗教によって違いがあるにしても、どの祈りも神仏との対話であり、祈ることによって神仏の慈愛の力を受けてきた。

集団祈祷は、大きなパワーをもたらすことが知られている。皆が集団で祈ることによって集積した意識は大きな力をもたらすのである。古来日本では、国家守護の祈祷が頻繁に行われてきた。祈りが具体的な力を果たすことを知るならば、この方法は効果のあるものであったことがわかる。

 

(3)型の理論(祈祷)からもたらされた日露戦争の勝利

日露戦争日本海海戦に勝利をもたらした参謀秋山真之は、次のように語っている。

信濃丸からの無線電信で敵の接近を知り、ついにあの歴史的な海戦になるのですが、その時は肝の底から勝利の確信がありました。なぜって、目前に現われた敵の艦形が、三日前に霊夢で見せられたのと寸分の相違もなかったですからね。いざ戦線を書こうとして筆を執った時、『天佑と神助によりて・・・』と、まず書き出していたのです。」

秋山真之の勝利の背後には、神助があったのです。そして、その神助の基に、大本教出口なお教祖の祈祷と型の理論(この理論は、意識法則として普遍性を有している)による沓島での祈願があった。

出口なお教祖は当時10日間舞鶴沖の孤島沓島で日本の戦争を祈願しなはった。23日の夜には龍宮の乙姫さんが現われて、『日本を攻める外国の船がたくさん参ったから、これからお手伝いに参る』と言い放ったそうや。
あなたの霊夢は、その明け方、教祖はこの日、『もう日本は大丈夫、私の御用も終わったから、明日は船を呼んで帰ってもよい』と、ついて行った若い者に言っています。

 

(4)「世界平和の祈りの輪」プロジェクト

ここに「世界平和の祈りの輪」プロジェクトを提唱する。

【目的】地球に平和を実現する。各国に軍備がある限り地球に平和は到来しない。

  • 核廃絶(すべての国の核兵器を廃絶する。)
  • 軍備縮小、国連軍以外の軍隊廃絶
  • 軍縮対話、宗教対話、経済協力対話の推進

【方法】趣旨に賛同する人が一人一日1分の祈りを捧げる。参加する人が増えることによって、祈りの力が大きな影響を及ぼすことになる。歴史の転換期にはこのような人間の意識の作用があったことを忘れてはいけない。

 

<参考>

ぶっだがやの散歩道「2014年4月29日 祈りと祈りの力、そして意識連鎖」

ぶっだがやの散歩道「2014年4月29日 秋山真之海軍少将の見た霊夢

ヨブ記と随神(かんながら)の道

旧約聖書の『ヨブ記』は、古より人間社会の中に存在している神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられた「義人の物語」です。『ヨブ記』の主人公ヨブは非の打ち所のない人物でした。この全く正しい人で何も悪いことをしていないヨブに、ある日突然次から次へと不幸が襲いかかってくるのです。神様がいるなら、正しい人がなぜ苦しむのか? ヨブは苦しみの意味を問い、神様と争うという物語です。

 

苦労の多い人生を歩んでいる人にとっては、大変参考になる物語です。ヨブ記を読むと、苦労は必ずしも因果応報ではないことがわかります。苦しい人生を歩まねばならない原因は、自分と自分の背後にある問題だけにあるのではなく、あなたが皆の罪を背負い苦労を引き受けるにふさわしい義人だと神様から見込まれたからだということもあるのです。多くの宗教の創始者は、皆苦労の人生を歩んでいます。理不尽な苦労をも甘んじて受け入れ、忍耐づよく神とともに一心に歩む信仰があるのです。神が見つめる中でサタンに試練され、それを乗り越えていっているのです。

 

 (1)ヨブ記が伝える信仰の姿

 ヨブ記の内容を先ず見てみましょう。(Wikipediaを中心にして)

ヨブはウツの地の住民の中でも特に高潔でした。彼は七人の息子と三人の娘、そして多くの財産をもち、神様に祝福されていました。ヨブが幸福の絶頂にあった頃のある日、天では主の御前にサタンほか「神の使いたち」(新共同訳)が集まっていました。主はサタンの前にヨブの義を示します。サタンとてヨブの義を否定することはできません。しかしサタンは、ヨブの信仰心の動機を怪しみ、ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、財産を失えば神に面と向かって呪うだろうと指摘するのです。

「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか」(9節)

サタンの試みは、ヨブの無償の信仰及び無償の愛の世界観を否定することにありました。人は利益もないのに神を敬うでしょうか」というのがサタンの提起した問題でした。

神はヨブを信頼しており、サタンの指摘を受け入れて財産を奪うことを認め、ただし、命に手を出すことを禁じます。サタンによってヨブは最愛の者や財産を失いますが、ヨブは無垢であり罪を犯しませんでした。サタンは敗北します。しかしサタンは、試みが徹底していなかったためだと感じ、今度はヨブの肉体自身に苦しみを与えようと、再度神に挑戦をするのです。サタンは神を挑発して、さらにヨブ自身に危害を加える権利を得ます。サタンによってヨブはひどい皮膚病に冒されてしまいます。

当時の社会情勢下では、皮膚病は社会的に死を宣告されたことを意味し、ヨブは灰の中に座っていました。ヨブの妻まで神を呪って死ぬ方がましだと主張するようになるのですが、ヨブは次のように答えて退けます。

「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」
このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

— (2:10) 、『新共同訳聖書』より引用。(以下、引用はすべて新共同訳)

神はヨブの尊い信仰によってサタンに勝利するのです。

 

その後、ヨブのもとに駆け付けて来た三人の友人は7日7晩、ヨブとともに座っていましたが、激しい苦痛を見ると話しかけることもできませんでした。やがて友人たちは、ヨブにこんなに悪い目にあうのは実は何か悪いことをした報いではないか、洗いざらい罪を認めたらどうかと意見し、議論が繰り広げられます。身に覚えのないヨブは反発します。

三人の友人の主張は、神は正しい者に祝福を与えて罪を犯した人に災いを与えるという因果応報の原理(因果応報は、倫理観を引き出す強い力になるが、社会的弱者や病人には過酷である。)を盾に、元の境遇に戻るために、ヨブが罪を認めて神の信仰に戻ることを求めるというものでした。しかし、ヨブには思い当たるふしがなく、決して悔い改めようとはしませんでした。友人たちが何度その必要を説いても、「自分は間違ったことはしていない」の一点張りで通すのです。

ヨブは神様にまで噛みつきました。自分の運命を呪い、このような目に遭わせた神様に激しく抗議したのです。それが、神様の声を聞くやたちまち豹変し、「わたしが間違っていました」と告白をします

「お前はわたしが定めたことを否定し
  自分を無罪とするために
  わたしを有罪とさえするのか。」(40:8)
神様は、ヨブの苦難を「わたしが定めたこと」と言っています。ヨブの苦難は、神様とサタンの取引の材料だったのです。確かに、ヨブを試みることをサタンに許したのは神ご自身でした。神の自由な裁量によって、それが行われたのです。そのため、神様の「わたしを有罪とさえするのか」という言葉になったのです。

ヨブは、自分の運命に対する神の責任を追及してきたのだと言えます。どうして、神様は私をこんな目に遭わせるのか。どんな正当な理由があってのことなのか。どうか、そのことを説明し、納得させて欲しいと、詰め寄るのです。これは、苦難を背負わされた人間が必ず神様に問いたいと思うことです。だからこそ、ヨブの言葉が、私たちの胸に響くのです。

(参考ウエブサイト:ヨブ物語 http://www2.plala.or.jp/Arakawa/job_index.htm

 

(2)随神の道(本居宣長の言説を通して)

実はヨブの信仰姿勢は、日本の随神の道によく似ているのです。

本居宣長は、『随神の道』とは、万事みな善悪の神の所為であるから、よくなるもあしくなるもすべて神の計らいであるから、神の御心にまかせて神の心に従うのが『神の道』であると述べています。良いこと悪いこと、どんなことも受け入れることが重要であるというのです。理屈や結果の良し悪しにとらわれず、すべて受け入れるという姿勢は、ヨブに通じる信仰姿勢ではないでしょうか。

日本人の神に対する信仰には、こうした無意識の姿勢があるといえるようです。天変地異で突然不幸が襲ってきても、それをじっと我慢して受け止め、「せむかたなし」とする姿勢は、神にすべて委ねた姿そのものように思われます。理屈はありません。理由もわかりません。ただ、神がそのようにされるから、そのまま受け入れているようです。だから、大震災が起きても、暴動など起こさず静かに事態を受け入れます。人間にはどうしようもないことなので、ただ受け入れるしか方法がないのです。恨んでも文句をいっても仕方がないことをよくわきまえているのです。

 

本居宣長は、次のように語っています。

「世の中のありさまは、万事みな善悪の神の御所為なれば、よくなるもあしくなるも、極意のところは、人力の及ぶことに非ず。神の御はからひのごとくにならでは、なりゆかぬ物なれば、此根本のところをよく心得居給ひて、たとひ少々国のためにあしきこととても、有来りて改めがたからん事をば、俄かにこれを除き改めんとはしたまふまじきなり」(「玉くしげ」)

「そもそも神は、人の国の仏聖人などのたぐひにあらねば、よの常におもふ道理をもてとかく思ひはかるべきにあらず。神の御心はよきもあしきも人の心にてはうかがひがたき事にて、この天地のうちのあらゆる事は、みなその神の御心より出て神のしたまふ事なれば、人の思ふとはたがひ、かのから書の道理とははるかに異なる事もおほきぞかし(『石上私淑言 巻三』)とのべ、人のもっともだと思うような〈道理〉に立って、この世のあらゆる事をおしはかろうとするあり方を〈漢意〉と批判しながら、「神の御心」にうちまかせ、その心にしたがうのが「神の道」なのだというのです。子安宣邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社2001)

世の中のありさまは、万事人間にはわからない深遠な神のはからひ、神の道があるのであって、神の御心にうちまかせて従うことが随神の道なのだと言っているのです。

そこには、赤子のように純真無垢な信仰の姿が垣間見えます。

 

宣長は、また次のようにも言っています。「聖人の書を読みて、道を明らかにし、而して後に、禽獣免れんとするか、亦迂なるかな」、異国人は、そんな考えでいるかもしれないが、自分は日本人であるから、そうは考えていない。一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基づく、と自分は考えている。「夫れ人の万物の霊たるや、天神地祇の寵霊に頼るの故を以てなるのみ」、そう考えている。従って、わが國には、上古、人心質朴の頃、「自然の神道」が在って、上下これを信じ、禮義自ら備るという状態があったのも当然な事である。小林秀雄小林秀雄全集第十四巻 本居宣長」新潮社2002p58)

 

「抑世中の万の事はことごとく神の御心より出て、その御しわざなれば、よくもあしくも、人力にてたやすく止むべきにあらず、故にあしきをば皆必止よと教るは強事也」(「呵刈葭」)と述べているように「よくもあしくも」現実肯定、従順を述べている。「玉かつま」の中では、「今のおこなひ道にかなはざらむからに、下なる者の、改め行はむは、わたくし事にして、中々に道のこころにあらず、下なる者はただ、よくもあれあしくもあれ、上のおもむけにしたがひをるものにこそあれ」。すなわち「神の御心」や神の「御しわざ」に対する敬虔な信仰が、ここでは「よくもあれあしくもあれ」と「上のおもむけ」に対する「下なる者」の絶対的な服従につながっている。(松本三之介「幕末国学の思想史的意義」日本思想体系51「国學運動の思想」岩波書店 1971所収)

儒教も仏教も老荘の道も、それが生まれたのは「神のしわざ」であり、「皆ひろくいへば、其時々の神道也」と考えた彼は、「儒を以て治めざれば治まりがたきことあらば、儒を以て治むべし。仏にあらではかなはぬことあらば、仏を以て治むべし」(「鈴屋答問録」)と述べている。激しく批判した朱子学についても、「国を治むる人の、学問し給はんとならば、をさまれる世には、宋学のかた、物どほけれど、全くてそこひ無し」(「玉かつま」)と激賞する言葉さえ見出される。(松本三之介「幕末国学の思想史的意義」日本思想体系51『國學運動の思想』岩波書店1971所収)

 

「よくもあしくも従順についていく」というこの信仰姿勢は、どんな試練を課されても神を信じてついて行ったヨブの信仰に通ずるものではないでしょうか。

世の中が大きく変わろうとするときには、ヨブのように神に召命されて苦難の道を歩まされている人が多く出ます。一人一人が苦難の道を甘んじて受け入れて乗り越えていくことによって、未来が大きく切り開かれていくのです。

○「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(『コリント人への手紙』8章3節)

○「思いわずらうな。なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。」(ブッダ)

人々を神から遠ざける二つの邪教(バラモン教とウラル教)

宗教とは「胡散臭いもの」、せいぜいお正月に初詣をして、お盆に墓参りをして先祖供養をして、厄年には厄払いをするぐらいにして、それ以上は近づかないのが賢明であると考えておられませんか。現在多くの日本人が、宗教は理解できない胡散臭いものとして敬遠しているのが現状でしょう。また、宗教の信仰・修行によって得られる功徳や神に触れたという実感(神体験という)もよくわからないのが現実ではないでしょうか。

私たちは、神と触れ合うという感覚がどういうものなのか、何がその触れ合いを妨げているのかがわからなくなっているのです。その原因は、バラモン教とウラル教という二つの邪教(出口王仁三郎が語っている概念)にあるのです。

 

 (1)神と触れ合うという感覚

神と触れ合うという感覚はとても高尚なもので、凡人にはとてもかなわぬものであるという意識がありませんか。とても苦しい修行を全うした人だけが神と出会うことができると考えておられませんか。

実は、多くの人が神と触れ合うという感覚を身近に体験しているのに、その事に気がついていないのです。残念ながらその体験は、一瞬の小さな世界の出来事であるため、神に出会った体験として意識されていません。

 

高校野球が一番わかりやすい例です。高校野球を例にとって説明しましょう。「神とふれ合う」という感覚は「あ-、このことだったのか」と身近なものとして私たちを納得させるはずです。

高校野球では、両チームとも後がないため死力を尽くして闘います。闘っている選手は、もう無我夢中の境地に入り1球1球に魂を込めたように精神を集中させて野球をしています。ゲームに参加している選手だけでなく、控えの選手も観覧席の応援団も皆1球1球に手に汗を握って闘いに参加しています。そうした積み重ねと総力戦が、ゲームの中で信じられないような奇跡を起こします。プロ野球では起きないびっくりするようなドラマが起こるのです。誰もがもうだめだとあきらめかけたところからの逆転劇、何かが作用したとしか思えないような入魂の一球一打、誰もが予想していない結果が起きるのです。

後で、選手が「必死でした。何も覚えていません。球にくらいついていっただけです」とインタビューで答えることをよく聞くことがあると思います。そして、「野球の神様が私たちに味方してくれたのでしょう」と奇跡のドラマの説明を神様の恩恵にします。この「野球の神様」というその言葉こそが、神との触れ合いなのです。

 

この現象が、神と触れ合うという感覚なのです。全力で闘い、自分の思い・力という自我の境地を凌駕して無我の境地に入り込んでいった時に、自分の力・意志を超えた力がどこからか舞い降りてきて力を貸しているのを感じるのです。これが神と触れ合うという感覚なのです。

しかし残念ながら、無我の境地は長続きしません。冷静に我に戻った時、不思議な体験だったと感じるのです。この野球の神様との出会いは、野球という一つの世界の、しかも一瞬の出会いです。本来、日常生活のあらゆる面で神と触れ合う出会いがあるはずですが、自分の至らなさ故に出会うことができていません。

 

それではなぜ感じることができないか。それは、あなたと神の間に雲があるのです。その雲を仏教は「煩悩」と呼び、キリスト教は「罪」と呼び、神道は「穢れ」と呼びました。この雲を取除くことができれば、高校野球の世界で感じるような神と触れ合うことができるはずなのです。宗教はその道を教えているはずなのですが、残念ながら横道にそれるような指導が多く、人々を神から遠ざけてしまい、神と触れ合うという感覚を特殊なものにしてしまったのです。

信仰とは、宗教の教義をそのまま信じて実行することではない。信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することである。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教なのである。神と対話することが難しい原因を知り、元の姿に戻るために、その方法の手段として学び実行するのが宗教の教理であり、宗教的修行である。(出口日出麿)」この言葉に宗教の本来の目的を見出さなければいけません。しかし、宗教の二つの邪教が大きな壁として立ちはだかっているのです。

標題の二つの邪教バラモン教とウラル教という言葉は、出口王仁三郎が語っている言葉です。バラモン教という邪教は、力主体霊という我力に従わすという意味で、主に宗教指導者の誤った指導に焦点を当てています。もう一つのウラル教は、体主霊従(われよし)という意味で、教えを授かる信者のことを言っています。「我執のつよい霊が人の肉体に憑依して、“われよし”の世界を築こう(出口日出麿)」としているのです。

 

(2)バラモン教(力主体霊)

宗教指導者が間違いやすいのがバラモン教です。宗教指導者は、神に近づき神にふれ合うとはどういうことかを教えるのがその使命です。したがって、神と触れ合う世界・感覚を教えられる側にいかに伝えるかが重要です。自らが神と触れ合った経験・感触、聖人が伝えて来た神との触れ合いを伝えていかねばなりません。宗教指導者は偉大な神を伝える仲保者なのです。

聖書の中にイエス・キリストが悪魔に試される場面があります。イエス・キリストは悪魔に非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその栄華を見せられて「もしあなたがひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。(マタイ4-9)」といわれます。イエス・キリストは「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ(マタイ4-10)」と答えて、悪魔を屈服させます。イエス・キリストは、決して自分に力があるなどといっていません。ただ、神を讃え賛美しているだけなのです。このイエス・キリストの姿勢こそ本来の宗教指導者の姿勢であり教えでなければならないのです。

しかし、宗教指導者の中には信者(弟子)を自分につなげようとすることが往々にしてみられるのです。自分は修行を重ねて来たので、神の権能をもっている(超能力とか予言とか奇跡を起こす能力とか)ことを強調する、あるいは、自分を通してしか神につながらないとして信仰を強要する。ここに大きな誤りがあるのです。宗教指導者は、信仰を積み重ねて来られたので、一般の信者よりは神を感じることが多いと思われますが、その経験を伝えていかなければならないのです。

だが、自らの『我』が表面に出てしまうと自らに信者をつなげることになるのです。教義を振りかざし、形式的な修行を推奨するだけで、神の力・エネルギーが伝わっていかないのです。こうなると、神と触れ合うことが難しくなります。「バラモン教」と王仁三郎が呼んだのは、インドのバラモン教の特権階級が自らを通してしか救いがもたらされないという誤った救済方法を強要したことに由来しています。宗教指導者は、あくまでも謙虚に神と信者との仲保者でなければならないのです。

 

また宗教のもつバラモン教としてのもう一つの問題は、多くの場合宇宙の共通する神につなげるのではなく、自らが属する宗教の神と教えにつなげて他の宗教の神と教えを排除してしまったことにあります。この結果、宗教は一つになることができなくなりました。宗教対立はこうした宗教指導者の我執の態度によって生まれ、歴史を掛けた切実な宗教対立の根本的原因となったのです。

「人類が誕生して以来、宗教の対立と抗争は常識であった。神と人間は親子の関係であるといいながら、地上に天国を建設するといいながら、自分の属する宗教こそが正しく他の宗教は間違っていると主張するのが常であった。どれほど多くの迫害と抗争が繰り広げられてきたことだろう。平和を目指す宗教が、対立と抗争の原因であったことは数限りない。(中略)なぜ、宗教が抗争の原因になるのか。その第一原因は、信じるという行為にある。信じるという行為は、盲目的である。理性ではなく、魂の要求のままに従順に従うためである。それは、宗教的行為のすばらしさであり、誰にも平等に行える神へつながる道であるが、十分な内省を伴わずに他のものを盲目的に排撃するという傾向を持っている。そして、今も多くの抗争の原因が宗教に根ざしている。なんと残念な事なのか。(出口日出麿)」

昭和62年(1987)8月、比叡山で初の宗教サミットが世界の主な宗教20数教団の代表が参加して催され、合同礼拝による平和の祈りが捧げられた時、出口日出麿氏は「宗教は末長う仲ような!」と言い続けられたという。出口日出麿氏の言葉をもう一度かみしめておきたいものです。

 

(3)ウラル教(体主霊従(われよし))

自分の願望を達成するために神を利用するというのがウラル教です。「お金が儲かりますように」とか「災いが消えますように」いう願をかけるのがこの姿です。神を信じ神に願いを託しているのですが、何処までも自分本位なのです。それゆえに「われよし」なのです。一言付け加えれば、私の中にある煩悩・罪・ケガレを払拭することに思いが至らず、我欲を神に願うことに専心することなのです。自らは何も変わらず、煩悩・罪・ケガレは温存したままであるため、翻弄されることになります。

 

日本人に非常に多い信仰の姿です。「神にお願いする」そのどこが悪いのかと反発されるかも知れません。この世での自分の幸福・幸せを神に願うのだから正当な信仰であると思われるでしょう。法華経の中の観音経も、「 私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に際し、観世音菩薩の偉大なる慈悲の力を信じ、その名前を唱えれば、必ずや観音がその音を聞いて救ってくださる。この観世音という浄い聖者は、苦しみや死の苦難が訪れたときに、最後のよりどころである。あらゆる功徳を持ち、慈悲の目をもって人々を眺めている。その福の集まる姿は無量であり、だからこそ礼拝すべきである」と、説いているといわれるでしょう。(観音経』は法華経のなかの「観世音菩薩普門品第二十五」という一章)どこに問題があるのかと。

観音信仰では、自らの我を捨てて観世音菩薩にすべて委ねています。しかしウラル教では、自らの内にある煩悩・悪と闘うという信仰の原点をおろそかにしています。煩悩を見つめ煩悩と闘うという信仰の原点が欠落しているがゆえに、我欲に翻弄されているのです。一見信仰のように見えるのですが、その実は魂を悪魔に売り渡しているのと変わらないのです。このため、願いがかなうと大喜びし、かなわないと神様に八つ当たりします。この喜びは、自らの我欲を達成した一時的な喜びであり、仏教のいう六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六つの迷界を指し、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることをいう)の流転する衆生の哀れな姿そのものなのです。神様が聞き届けてくれたように思うかもしれませんが、実際は悪魔(サタン)に聞き届けられていて翻弄されていきかねないのです。

宗教は、自らの煩悩・罪・ケガレに惑い、その苦しみから救われて神と対話できる状態に復帰することにあります。しかしこのウラル教には救いの観念がないのです。そこにあるのは、自らのこの世における願望だけですので、六道輪廻の世界をグルグル回るだけで、神のもとには戻れないのです。これでは、神と触れ合うことはできません。この世の支配者悪魔(サタン)に自らの魂を売り渡しているといっていいでしょう。

 

信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することであって、その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教であると前の方で記しました。「自分で自分にいつも気をつけ、身の内の悪とあくまでたたかわねばならぬ。しかし、自力のみではとうていだめであるから、つねに神さまのお力にすがる事を忘れてはならぬ(出口日出麿)」という姿勢が重要なのです。
ここに聖書の言葉が身に迫ってきます。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。(ルカ3:23~24)」

出口王仁三郎も、次のように言っています。「信仰のためならば、地位も財産も親兄弟も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功名心や自己愛の精神では、どうして宇宙大に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした絶望的な決心がなくては、この広大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神さまに触れることができようか」と。

 

信仰とは、自らの内の悪と闘って神と対話できる状態に復帰することです。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教です。と同時に、このようなみじめな姿に陥って悪魔に翻弄されている人間社会(ゲーテは、この世の支配者はサタンと呼んだ)を神の世界(地上天国)に戻そうとしているのが宗教なのです。それゆえ、宗教はこの世において必ず迫害を受ける宿命をもっています。サタンの牙城を崩そうとするからです。このことを理解しないと宗教はよくわかりません。

世界には様々な宗教が存在します。それぞれの宗教がそれぞれの教義でもって人を導いています。人や民族が皆違うように、全ての宗教(邪教は除く)にはそれぞれ使命があり役割があります。人や民族がそれぞれ独自の歩みをたどってきたように、それぞれの人の魂にとって受け入れやすい有効な説き方が必要だからです。自分に合う宗教で信仰して、神と対話できる境地に達することが最も大切なことなのです。この道は山登りに似ています。

母が紡んできた命と愛―飢饉の時最初になくなっているのが母親

私たちの生命は、先祖から綿々と紡がれてきた尊いものです。子育てを放棄してしまえばそこで命は途絶えてしまいます。そこには家を守り子供を育てるために、知恵を絞り自らを犠牲にして命を削ってまで愛を注いできた尊い母の愛があったことは誰もが感じておられることでしょう。「お母さん、生んで育ててくれてありがとう」、ほとんどの人が母に抱く愛しさと感謝の念こそが、世代を超えて命を紡んできた源泉なのではないでしょうか。

お墓の調査をされている与那嶺さんがこのようなことを話されています。

「お墓を調べていて気がついたのです。江戸時代の天明天保飢饉の時、一番最初になくなっているのがその家の母親だったんです。そして次に祖父母が亡くなり、その後父親が亡くなり、子供たちは何とか生き延びているという例が多いのです。しかも、その日時をみると、母親は最も寒い日に飢えてなくなっているのです。自分は食べないで、子供達に食べさせて自分は死んでいっているのです。そのような母親のいる家系でないと子孫は残っていません。」

何とも涙の出る話ではありませんか。飢饉で多くの人が亡くなったことは知っていても、その渦中でこのように生きた母親が大勢いたのです。そして命は紡がれていったのです。

 

妻(母)は、歴史の中で苦労して命を紡んできたのです。嫁に嫁ぎ、姑いじめに遭い、家の労働力として働きながら、家事全般をこなしつつ、跡継ぎを生み育てなければならなかったのです。裕福で恵まれた家に嫁いでやさしい夫に巡り合えていたならばそうでもなかったでしょう。しかし一つ歯車が狂うと、きびしい人生を生きて来なければならなかったのです。こう思われている妻(母)の歴史も、古代においては少し違っていたようです。

 

(1)日本の古代、妻も財産の所有権をもっていた。

 古代日本の家族制度は、中国・朝鮮とは異なり独特なものだったようです。古代において、文明の先進地中国では女性は嫁入り道具程度のものを除いて田畑や牛馬、奴婢などの財産の所有権や相続権をもっていませんでした。女性は財産の所有権をもたないか、仮にもっていたとしても、夫が生存するかぎり財産の管理は夫に委ねられるというのが普通でした。(家父長制の特徴である。)

ところが日本では違っていたようなのです。古代(奈良・平安時代以前)においては、女性も男性同様に財産の所有権をもっていたらしいのです。

日本霊異記」には、次のような記述があります。

「讃岐の国、美貴郡の地方長官の妻は、夫とは別に田畑や牛馬、奴婢などを自分自身の財産としてもっていました。彼女は非常にケチで、人に施すということがなかったため、多くの民が家を捨てて他郷に逃れました。こうしてかき集められた財産は莫大なものとなり、後に東大寺に施入された財産の一部は『牛70頭、馬30疋、治田20町、稲4,000束』だったということです。

古代においては、日本女性は、それなりに財産をもっていて、家の経営にもかかわっていたようなのです。家長(夫)と妻は共同で家の経営にあたっていたという説もあるぐらいです。女性の社会的地位は高かったのです。」

こうした前知識をもって古代史を眺めると、女性の天皇が次々に誕生し、女流歌人作家が活躍できたのもうなずけることです。

 

(2)武家社会の進展とともに妻(母)は夫に従属したものとなり、裏で家を取り仕切ることになる。

 鎌倉時代には子供の親権は父と母の双方にあったそうです。このことは、女性も親の財産を相続し、その財産は結婚しても夫の方に移ることはなかったことと関連しています。家の中における妻(母)の地位は相対的に高く、夫権はそれほど強くなかったようです。一家の主婦のことを「刀自(とじ)」というのですが、これは本来「戸主」の意味です。家の財産の管理や食糧の調達、下人・所従の賄いなどは、夫(家長)の口出しできない妻の権限であったようです。夫の経営が破たんした時でも、妻は里方の一族を中心としてそれを補償するだけの経済的裏付けをもっていたからではないかと推測されています。

南北朝時代に入ると、嫡子の単独相続制(世襲制)が一般化し始め、それに伴って家における女性(妻)の地位は低下して夫への従属が進んでいきます。女性(妻)は、里方から切り離されて、嫁ぎ先の跡継ぎを生み育てることを使命とされ、それまで持っていた権限を失っていったのです。

現存する土地売券類のうちで、女性が何らかの関わり合いをもった売券の占める割合は、平安時代末から鎌倉時代で約30%、南北朝時代から室町時代中期で約15%、戦国時代では2~3%だそうです。

家父長制を中核とする「家」の成立は、東国の開発領主層(武士団)に起源をもつといわれています。もともと母系社会であったところに、鎌倉時代に儒教

中心とした父系社会ができあがるのです。父系社会を築いた関東武士団は、4~5世紀に朝鮮半島から帰化して入植した帰化人の流れをくむ人々が中心だったようです。埼玉県の高麗神社は、高麗の字の間に「句」の字が小さく書かれており、高句麗から帰化した人の神社であることがわかります。

武士集団においては、農耕より軍事を重視するため、【父親―息子関係】が優先します。上層の一族郎党は血縁関係で結ばれ、養子制度も取り入れていたようです。(養子制度は、中世ヨーロッパでは見られない。中国や朝鮮では「異姓不養」で、男系外から養子をとることは認められていない。)

源氏が関東武士団とともに平家を滅ぼして天下を取り、全国にその支配を確立すると、父系社会が全国に広がり男性のところに女性が嫁いでいくという風習が定着していくのです。

男性に従属せざるを得なくなった日本の妻(母)は、夫を完全に立てて波風を立てず、家庭の実権(財産)をそれとなく握って現実的に家を守っていくというスタイルを築き上げたのです。それを「内助の功」と呼んでいます。世界の中で日本のように夫が働き、財布は妻が握るという形態は極めて珍しいのです。

こうして日本の「タテマエとホンネの文化」「ナンバー2の文化」が生まれたのです。そしてナンバー1は、ナンバー2にまかせる風習が出来あがったのです。日本の儒教が、家父長制のニュアンスが強い中国・朝鮮と違って親子の情のニュアンスが強いのも、このような妻(母)の文化の影響でしょう。この文化は極限まで行くと、「上に立つ殿様は馬鹿でもいい」となってしまいます。そして家庭では、「夫は元気で留守がいい。自分がしっかりして子供を育て上げれば」となるわけです。

 

妻(母)が日本の文化を造り、命を紡んできたといっても過言ではないでしょう。妻(母)が命を紡ぐキーパーソンなのです。妻(母)の愛がポイントなのです。

 

(3)女性の時代とは、単純な女性の社会進出などではない。

 今日本では、「女性の時代」が声高らかに唱えられ、女性の社会進出を高めることが重要であると議論されています。女性が家・夫の従属から解放されて社会的に活躍できる時代圏を迎えているのは事実ですが、そのことはイコール単純な社会進出ではありません。歴史の荒波の中で、家と子供を護るため、知恵と愛でもって現実的な方法を探り続けたのが日本の妻(母)です。これなら大丈夫だという姿が見えるまでは、容易に男どもの試みに乗らないでしょう。日本女性は歴史を知恵と愛で生き抜いてきた実に賢い人なのです。

 

(参考文献:与那嶺正勝著「新・家系の科学」コスモトゥ-ワン 2010)

日本国粋主義の元凶とされている平田国学の「万国の本国」思想

和辻哲郎は、『日本倫理思想(下)』の中で、「篤胤は、その狂信的な情熱の力で多くの弟子を獲得し、日本は万国の本である、日本の神話の神が宇宙の主宰神であるというような信仰をひろめて行った。この篤胤の性行にも、思想内容にも、きわめて濃厚に変質者を思わせるものがあるが、変質者であることは狂信を伝播するにはかえって都合がよかったであろう。やがてこの狂信的国粋主義も勤王運動に結びつき、幕府倒壊の一つの力となったのではあるが、しかしそれは狂信であったがために、非常に大きい害悪の根として残ったのである」と、述べている。(*1:p225)

明治20年代にはこのように平田篤胤の評価は定まっていた。しかし、この「万国の本国」思想は、ここで終焉したのではない。《日本は万世一系の皇統を守り続けている国である。皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されている》という皇国史観・国体主義が主張され国民に広まる中で、再び脚光を浴びていったのである。日本では、国家が危機に瀕してくると、「日本は神国である」という主張が高まり国民を鼓舞するという歴史がある。日清日露戦争の時、太平洋戦争の時、「我が国は天皇を頂いた神国である」という主張がなされ、国民を鼓舞していった。その「神国」観念も、太平洋戦争の敗戦によって灰塵に帰し、国民は幻想から覚めたのだが。

 

国粋主義の元凶とされる平田篤胤の「万国の本国」思想とはいかなるものか、平田篤胤の主張の中にその姿を見てみる。篤胤の主著とされる「霊能真柱」の中にはこのように記述されている。(なお、平田篤胤は狂信者とされているが、仙童寅吉を通してあの世(幽冥界)の世界の見聞を深めようとする一方、キリスト教をはじめとして諸外国の宗教・古史を研究して、人間の救済について真剣に考えていたことを付記しておく。)

 

≪「万国の本国」思想≫

①   我が皇大御国(すめらおおみくに)は、万国の、本つ御柱たる御国にして、万物万事の、万国の卓越たる元因、また掛まくも畏き、我が天皇命は、万国の大君に坐すことの、真理を熟に知得て、後に魂の行方は知るべきものになむ有ける。(『霊能真柱』上巻)

②   こ々に吾が皇大御国は、殊に、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)二柱の大神の、生成賜へる御国、天照大御神の生坐(あれます)る御国、皇大孫命(すめみまのみこと)の、天地とともに、遠長に所知看御国(しょしめすみくに)にして、万国に秀で勝れて、四海の宗国たるが故に、人の心も直く正しくして、外国の如く、さくじり偽ることなかりし故にや、天地の初の事なども、正しき実の説有て、少(いささか)も、私のさかしらを加ふることなく、有のまにまに、神代より伝はり来にける、これぞ、虚偽なき真の説に有ける。(『霊能真柱』上巻)

③   まづ皇国は、神ながら言挙せぬ国と云て、万事外国の如く、かしこげに、言痛く諭(あげつら)ひさだすることなく、ただ大らかなる御国ぶりなるが故に、天地の初の説なども、外国の説どもの如く、これは此故にかくの如し、それは云々(しかじか)の理によりて、かくの如しなどやうに、細に言痛く、説諭したる物には非ず、ただ有しさまのまゝを、大らかに語り伝へたるのみにて・・・・・・(『霊能真柱』上巻)

と語るのである。またいはく、

④   「外国どもの初めは、二柱神大八洲を生賜ひて、国土と海水と漸に分るるに随ひて、此処彼処と潮沫の、おのづから凝堅まり合たるどもの、大にも小くも成れるものなり。篤胤云、実に中庸の論ひの如く、万の外国どもは、皇国に比べては、こよなく劣りて卑しかるべきこと、・・・・・。(『霊能真柱』上巻)

と語るのである。

アドルフ・ヒトラーのアーリア民族の人種的優越説を彷彿させるような日本民族優越説である。ファシストの元凶と言われるのも当然である。

子安宣邦は、他国の古説(神話)を自らの内に包容して、それらの古説を「真の古伝」の残像とすることで、「真の古伝」は世界に冠たる唯一真正なものとされる。宣長に始まり篤胤にあって顕在化する汎神道主義的イデオロギーは、近代日本の国体論のうちに、あるいは日本精神論のうちにその残骸をとどめることになるのである。すなわち、雑多な思想・文化を受容し、それを日本化する、そのことこそ世界に冠たるわが国体の発現であり、日本精神の優越性の証拠だという主張のうちに、国学的汎神主義はその影をとどめるのである、と語っている。(*1:p270)

篤胤は、自分が説く「古伝」はそのまま事実として確定しなければならないという課題をもっていた。それが、彼の眼を海外に向け、キリスト教のアダムとイブの話を取り入れさせる原因となる。

「抑天地世界は、万国一枚にして、我が戴く日月星辰は、諸蕃国にも之を戴き、開闢の古説、また各国に存り伝はり、互に精粗は有なれど、天地を創造し、万物を化生せる、神祇の古説などは、必ず彼此の隔なく、我が古伝は諸蕃国の古伝、諸蕃国の古説は、我が国にも古説なること、我が戴く日月の、彼が戴く日月なると同じ道理なれば、我が古伝説の真正を以て、彼が古説の訛りを訂し、彼が古伝の精を選びて、我が古伝の闝(ひょう)を補はむに、何でふ事なき謂(ことわり)なれば、・・・・。(『赤県太古伝』一、上皇太一紀一(七))と。

もし外国に伝わる伝説がわが国の古伝と整合するとすれば、それだけわが古伝の真実性が増し、篤胤における「古伝・古史」が事実として承認されるというのである。後期平田学の大半を占めるインド学・シナ學の研究は、宇宙の始まりから、天・地・泉(よみ)の成立までの事実の真実性を証明するとともに、わが皇大御国と天皇は四海万国における最高の存在であることを明らかにすべき役割をもつものであったわけである。(田原嗣郎*2:p573~575)

アダムとイブの聖書の話については、こんな具体的な記述がある。

「遥西の極なる国々の古伝に、世の初発、天神既に天地を造了りて後に、土塊を二つ丸めて、これを男女の神と化し、その男神の名を安太牟(アダム)といひ、女神の名を延波(エバ)といへるが、此二人の神して、国土を生りといふ説の存るは、全く、皇国の古伝の訛りと聞えたり」(「霊能真柱」)(「日本思想体系50「平田篤胤 伴信友 大國隆正」岩波書店 1973 p32所収」

 

ところで、平田篤胤の「万国の本国」論は、篤胤が独自に創り出し主張したのかといえばそうではない。篤胤は、本居宣長の結論から出発したといわれているのだが、「万国の本国」論も、やはり宣長の主張を受け継いでいる。宣長は、「直毘霊」のなかでこう述べている。

皇大御國(スメラオホミクニ)は、掛(カケ)まくも可畏(カシコ)き神御祖(カムミオヤ)天照大御神(アマテラスオホミカミ)の、御生坐(ミアレマセ)る大御國(オホミクニ)にして、萬國に勝(スグ)れたる所由(ユエ)は、先( ヅ)こゝにいちじるし。國という國に、此( ノ)大御神の大御德(オホミメグミ)かゞふらぬ國あらめや。大御神、大御手(オホミテ)に天(アマ)つ璽(シルシ)を捧持(サゝゲモタ)して、御代御代に御(ミ)しるしと傳(ツタ)はり來(キ)つる、三種(ミクサ)の神寶(カムダカラ)は是ぞ。(直毘霊)

いともめでたき大御國(オホミクニ)の道をおきながら、他國(ヒトクニ)のさかしく言痛(コチタ)き意行(コゝロシワザ)を、よきことゝして、ならひまねべるから、直(ナホ)く清(キヨ)かりし心も行(オコナ)ひも、みな穢惡(キタナ)くまがりゆきて、後つひには、かの他國(ヒトグニ)のきびしき道ならずては、治まりがたきが如くなれるぞかし。さる後のありさまを見て、聖人の道ならずては、國は治まりがたき物ぞと思ふめるは、しか治まりがたくなりぬるは、もと聖人の道の蔽(ツミ)なることを、えさとらぬなり。古( ヘ)の大御代に、其道をからずて、いとよく治まりしを思へ。(直毘霊)

宣長もやはり日本という国が他の国に比べて優れていると主張しているのである。

国学は、日本は天照大御神から綿々と皇統が続く大御国であるというが、この点については疑問が残る。しかし国学が主張する底辺には、世界の宗教を吸収するだけでは納得できない日本民族の譲れない精神が流れているようだ。それがどこから来ているのか、そして世界の宗教との接点は何なのか、それは今後に残された問題であるが、少なくとも「日本は神国である」という単純な見解だけは荒唐無稽になったことは事実だろう。

 

1:子安宣邦著「平田篤胤の世界」ペリカン社2001

2:田原嗣郎「『霊の真柱』以後における平田信胤の思想について」『日本思想学体系50-平田篤胤伴信友、大国隆正』岩波書店1973