民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(3)

(5)国家神道の成立とは何だったのか(私見)

●国家(民族)の守護祭祀の確立

明治政府の指導者たちがさまざまな宗教的な問題や提案のなかで最終的に理解し、承認を得ようとした神道とは、ある特定の教義や施設にのみ関わるものではなく、いろんな思想や教義などから適度に距離を置きつつ、日本人としての地位とその倫理的な基盤を作り上げようとした(羽賀祥二)ものであった。

そして、その「神道」の為す祭祀は、次のようなものである(羽賀祥二)といわれている。

  1. 歴史の中から、あるいは現存の社会の中から功労者を発見し、顕彰し、序列化していくこと
  2. “神”とは社会的に功績を挙げて、表彰の対象となった人格であり、それは彼らの功績を背後から支えた人々の関係性=共同性であると言い換えられること
  3. その人物に関わる遺蹟・遺物を保存し、あるいは顕彰のための施設(神社・記念碑)を新たに創建すること
  4. その遺蹟・施設への敬礼に人々を誘導することで、“神”と人々、参加者たち相互の心的交流を実現し、さらに社会の構成員全体に「感化」を及ぼしていくこと
  5. 5、この心的な交流を媒介するのが功労者の“霊”であって、それが近代の宗教観念を特徴づけていること(*1:p410)

この理解は、国家という共同体に対する国民の奉仕とそれに対する国家の褒賞であるといえるだろう。つまり神道国家神道)は、個人・家の宗教ではない国家という共同体の神(天)を中心とした紐帯を国民との間で構築するということだったのではないか。明治時代の日本においては、それは万世一系の天照大神の子孫である天皇を頂点に頂いた国体論に行きついたということである。それは、従来の産土神や先祖を祀る神道とは全く次元の違う神道(だから国家神道と呼ばれるに至った)として現出したのだった。

こうして生み出された国家神道は、諸外国の憲法に基づく国民の理念的紐帯よりははるかに親密な国民の紐帯と結束をつくり出した。国家と国民という関係は天皇を核として強い信頼関係で結ばれ、心的関係においても深いものとなった。教育勅語による国民児童への啓蒙、靖国神社等における国家に対する忠臣への顕彰、慰霊鎮魂は、大きな効果をもたらす儀式だったのである。

しかし、国家神道には、国体主義(汎神道主義)・靖国神社天皇親政という三つの大きな問題を有していた。

  • 国体主義(汎神道主義)に潜む怪しい影

 皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されているという主張は、当時ほとんど疑問をもたれていなかった。その神話を記述している日本書紀古事記は、そのまま素直に信じられた。

しかし、現代では日本書紀は二回に分けて記述されたことがわかっている。記述されている内容も抗争の連続で、天の直系の子孫の物語とはいいがたい記述ばかりである。記紀編纂時に都合よくまとめたという印象は捨てきれない。また、桓武天皇の時、記紀編纂時に集めた諸豪族の神話を処分したという話も伝わっている。

 

このような記紀神話を「真の古伝」として、世界に冠たる唯一真正なものだとして、他国の古説をみずからのうちに包含しつつそれらの古説を「真の古伝」の残像としたのが、汎神道主義(国体主義)である。首をかしげざるを得ない代物なのである。

しかしその汎神道主義的イデオロギーが、近代日本の国体論のうちに、あるいは日本精神論のうちにその残骸をとどめることになるのである。すなわちあらゆる雑多な思想・文化を受容し、そしてこれらを日本化する、そのことこそ世界に冠たるわが国体の発現であり、また日本精神の優越性の証拠だという主張のうちに、国学的汎神道主義はその影をとどめるのである。(*5:p233)

こうした汎神道主義が抱えていた問題は、天理教大本教など一部の神道からも異論が出されるのであった。つまり、国体主義には、怪しい影が付きまとっているのである。

さまざまな神殿構想の結果、最終的に根づいたのが靖国神社であったと、羽賀氏は指摘されている。私は、2014年6月15日のブログで、 「日本の宗教は、霊魂の宗教・先祖供養の宗教である」と書いたが、国家宗教としての神道も、国家に殉じてなくなった人の霊魂の慰霊鎮魂に落ち着いたということである。日本人の心情に一番ひびく宗教祭祀が先祖供養なのである。靖国神社は、このことを国家次元で構築したということになる。

靖国神社問題を日本伝統の先祖供養祭祀をもとに分析すると、次のような問題があることを指摘できる。

1、氏神は、産土神鎮守神とは異なる(現在ではほとんど同一視されている)一族(氏)の守護神である。代表的な氏神としては、源氏の八幡神鶴岡八幡宮)、平氏厳島明神(厳島神社)があげられる。氏神への祈願は、氏子の繁栄と安泰を願うのであるが、それは時として敵対勢力に対する戦勝祈願ともなる。靖国神社は、その氏神の伝統を引き継いだのか、戦意高揚・戦勝祈願に駆り出されることになったのである。

2、先祖供養の場合、死後直後の霊は災いをふりまく荒魂として恐れられていた。災いが起こると、先祖が成仏していないのではないかと畏れられた。従ってその霊を鎮め(鎮魂)、罪滅ぼし(滅罪)をし、浄化することが重要になるとされた。このため、荒魂は別に祭壇(若宮様に祀る)を築いて祀られた。共同体にとっては功労者・忠臣ではあっても、共同体外から見た場合には悪人として憎まれている場合、一緒に祀るのではなく、荒魂の祭壇のように別に祀ることが必要なのだろう。戦犯問題には、このような配慮が欠けているとはいえまいか。

 いづれにしても靖国神社問題は、氏神信仰の形式を念頭に置いて考えるべきであろう。

  • 天皇親政と現人神信仰

 明治天皇には天運があった。日本を幕末維新の混迷の極から西欧列強に並ぶまでに導いた中心であったことを見れば、天運を有していたのは間違いない。その天運なるものは、偶然タナボタ式にもたらされたのではない。ある背景によってもたらされたものであるが、明治の日本に大きな光を与えた。

万世一系の皇統を受け継いでいる天皇明治天皇)を中心とする強力な君主国家を築いていく方針を打ち出した明治新政府は、どのようにその体制をつくり出すかに腐心した。明治維新の当時、天皇とはどんな存在なのか、国民にはそれほど知られていなかった。このため政府は、天皇行幸をしばしば行うことで、国民の間に天皇が認知されることに努めた。こうした地道な積み重ねによって、天皇は国民に認知されていったのだが、多大なる効果をもたらしたのが「教育勅語」だった。

 

天皇親政は、天皇の第一の天職を「民の父母」たることにおくか、神祇・皇霊への祭祀におくか、そのどちらに重心を置くのかによって意味合いが変わってくる。天皇が現実に生身の人間として生存して、一方では祭祀をつかさどり、片方では政治に関与するということは、現実世界の生臭い人間模様の中に翻弄されかねないものであるからである。教育勅語の策定過程で、井上毅が『敬天尊神』という言葉は避けるべきであると意見を述べているが、そのことは天皇の神祇・皇霊への祭祀を背面に隠すことになり、生身の天皇を崇拝するという人間主義に陥るきっかけになったのではなかろうか。このことが、後日天皇現人神信仰につながったといったならば語弊があるだろうか。

 

こう考えてみると、成立した国家神道は、必ずしも神(天)に直結したものではないということがわかる。それゆえ国家神道は、日本を守護するものとはなりえなかった。太平洋戦争で日本が壊滅したのも「せむかたなし」だったのである。

 

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf

*3:村上重良著「国家神道岩波書店 1970

*4:山住正己著「教育勅語」朝日選書1980

*5:子安宜邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社 2001

民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(2)

(3)全国各地における神社創建と靖国神社

復古神道に基づく神殿が、一時的ではあれ全国に創建されていった。教導職のための神殿として大教院神殿が東京芝増上寺に創建され、各府県の中教院にもそれぞれ創建されていった。明治2(1869)年、東京招魂社(後の靖国神社)、楠木社(後の湊川神社)が創設された。橿原神宮平安神宮明治神宮などの天皇や皇族を祀る神社や四條畷神社などの功績のある人物をまつる神社(建武中興十五社など)も数多く造営されていく。(護国神社は、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、昭和14(1939)年4月1日施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」によって一斉に改称して成立した神社である。)

また、古代『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化する制度が創設された。明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により制定された近代社格制度では、社格が官社諸社民社)、無格社に分けられた。伊勢神宮は、全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在とされた。官幣社神祇官が、国幣社は地方官(国司)が祀る神社とされた。主として官幣社二十二社天皇・皇族を祀る神社など朝廷に縁のある神社、国幣社は各国の一宮や地方の有力神社が中心である。官国弊社(官幣社国幣社の総称)は、国家が祭祀を行い,神官の任免を司るなど,国家の経営した神社。第2次世界大戦前まで 218社あった。

明治33(1900)年には、外地の台湾の台北に台湾神宮を創建され、以後、台湾には官国幣社5、県社9、以下81社が造られた。大正8(1919)年、朝鮮に朝鮮神宮を創建された。祭神は、天照大神明治天皇であった。官国幣社9、以下60余社が造られた。

靖国神社は、さまざまな構想と実際の神殿建立のいわば最後に出現した神殿だった。それは、多くの錦絵に描かれた鎮魂儀式だった(羽賀祥二)。社会変革の渦中に現れた宗教をめぐるさまざまな様相のうち、政治の危機のなかで自己犠牲を行った人間の、つまり社会的な死者の霊魂をどのように慰撫するのかという問題が、実はもっとも重要な明治政府の課題だった。神をめぐる神学上の論争が神道事務局で行われている状況とは対照的に、戦死者が一人一人名と功績を認められて丁重に葬祭され慰霊されることは画期的なことだった(記念碑や神社)。生死と霊魂の管理を国家が直接行うことがはっきりしてくることで、壮大な神殿構想も退いていったのである。靖国神社と歴史上の功臣を祀る別格官幣社が、日本社会の宗教的性質を象徴的に表明する神殿となったのである。明治34 (1901)年、国費で維持する官祭招魂社の105社が定められた。

これまでの靖国神社の研究によると、招魂の思想は天皇に敵対した戦死者の霊を祀ることを排除している(村上重良「慰霊と招魂」)。確かに靖国神社で祭祀されることはないけれども、地域社会においては、「朝敵」を祀る招魂社の設立は許可されていた。また政府は、招魂社の正確な数を把握していなかった。(*1:p404)

招魂の思想は、共同体のきわめて危機的な状況のなかで「忠義」を貫いたことの社会の評価である。国家(天皇)と社会への貢献と公共的精神、それが「義」という概念で現されるものであったが、それを促し組織していくための論理として「神道」があった。そこでは、個人的な業績は君主や父母、そして公共的なものへと奉還していくことが求められた。(羽賀祥二)

公共のために犠牲的な死を厭わなかった人々への国家の手厚い保護と顕彰、神道は神社や記念碑という場所で倫理的共同性(「義」の共同体)の確立をめざしてきたといえよう。

(4)国体論としての神道

明治10年代に入って、西洋の権利義務観念や信教の自由の理解が深まる一方、キリスト教については黙認されてきた。片方、明治初期の過激な神仏分離廃仏毀釈については反省されてきた。「政府は宗教への干渉を排除して政教分離の方針を打ち出すべきだと主張する一方で、宗教もまた政治に関係せず、宗教的精神を確立すべきである(福地源一郎「宗教論」明治16年)」という論説に現れているように、宗教政策の転換を求める声も強くなっていた。

そのような中で、明治15(1882)年の「官国幣社神官の教導職兼補廃止」によって、祭祀と宗教の分離がなされた。神官の活動が「公務=社頭奉仕」に影響を及ぼし、また神官教導職が国家の祀るべき祭神を恣意的に解釈していることを考慮して、神官と教導職の分離を打ち出したのだった。教導職は、明治17(1884)年廃止された。(教導職は、天皇と国家のイデオロギーを説くことを職務としていた。教導職に任命されることではじめて宗教活動が許された。教導職制を通じて、仏教では本山の末寺支配権や僧侶身分、得度制を改変させた。)また教導職制廃止直後に、自葬の禁止が解かれて葬祭の制約が排除され、信教の自由が実現してきた。

村上重良は、「祭祀と宗教の分離によって、宗教ではないというたてまえの国家神道が、教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基のうえに君臨する国家神道体制への道が開かれ、世界の資本主義国では類例のない、特異な国家宗教が誕生した。この国教は、いわば宗教としての中身を欠いた、形式的な国家宗教であり、国民は、国家によってこの国教を新たに与えられ、その信仰を強制されることになった。(*3p118~119)」と述べている。

しかし、当時の神社は放任状態に置かれ、さらに20年代初めには官国幣社に保存金が一定期間下付されることになり、その後は財政的な自立を要求されていた(中島三千雄*1)。また、佐々木高行などの神道派が憲法体制のもとで神祇院の設立の動きを見せた時、彼らの意識をとらえていたのは神社と神祇祭祀が「告朔の餼羊(きよう)」になりつつあることへの危機感だった。このような状況の中で、のちに国家神道が定着するのは、他の宗教を取り込む強さを持つこと、擬制政教分離が安定的になること、神道界で国家神道の論理が受け入れられること、さらに国民の側に受容する基盤ができることといった条件が必要であって、これには長い時間(日清・日露戦争期)を有した(中島三千雄*1)。

明治20年代は、教団の自治能力が試される時代だったのだが、その時代の思潮として伊藤博文の言葉をあげる。伊藤博文は、『憲法義解』の中で、西欧で一般的になっていた信教の自由、布教の自由について次のように語っている。

「本心の自由は内部に存するものにして、固より国法の干渉する区域の外に在り。而して国教を以て偏信を強ふるは、尤人知自然の発達と学術競進の運歩を障害するものにして、何れの国も政治上の威権を用いて、以て教門無形の信依を制圧せむとするの権利と権能とを有せざるべし。(中略)内部に於ける信教の自由は完全にして、一の制限を受けず。而して外部における礼拝・布教の自由は法律規制に対し必要なる制限を受けざるべからず。及臣民一般の義務に服従せざるべからず。」

身分制度の解体とそれに並行した西欧の諸制度の導入の中で、急速に社会秩序が変容していくとき、日本人と呼ばれる固有の倫理的価値をもった民族が古代以来、連綿として存続してきたことの根拠が探られようとしていた。そうした日本人の連綿さの証として天皇は持ち出されてきたのである(羽賀祥二)。能勢栄は、「忠孝・廉恥・面目・清潔・貞節などは日本固有の道徳であるが、これらは人々の遺伝と経験から自然に生じて一国の道徳を形成してきたものである。そういうものが日本人の内部に核として存在する。この遺伝的な素質は皇室を尊崇するという外的、儀礼的な行為の中で常に国民的規模で再確認されていかなくてはならない」と述べているが、このような論調の中に国体論が登場する土壌が醸成されてきたのである。

一般に国体とは、皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されているという史観である。このことと並行して、「神道は宗教ではない」という主張がなされてくる。政府も、「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示した。

そして、国体論・非宗教という鎧を身につけた国民教化の体系(国家神道)は、明治23(1890)年の教育勅語の中で結実した。教育勅語策定の過程で、井上毅が、「今日の立憲政治では君主は臣民の良心の自由に干渉しないのが原則であること、宗教上の論争を避ける意味で、『敬天尊神』の用語は避けるべきであること」、という意見を述べていることは注目される。

発布された教育勅語について、東京日日新聞は、『儒教主義に非ずして国体主義なり』とし、勅語を一句ごとに解説したうえで、『日本の教育は日本の歴史よりせる国体を以て其精神たらしめ而して日本国民の資格を有せざるべからずと云ふの大御心たること其詔勅に於て昭々たり』と要約して歓迎した。しかし、1891年の内村鑑三不敬事件や1892年の帝大文科大学教授の久米邦武筆禍事件のように、批判を許さないような姿勢が既に存在していた。政府の方針に反対するとたちまち発禁を命じられてきたように、詔勅に対する不敬は許されざるものであった。(*4)

その後政府は、多くの衍(えん)義書を出すとともに、国民の祝日等に合わせて学校で厳かに教育勅語の棒読式を行い、普及に努めた。その成果が多大なるものであったことはいうまでもない。また、教育勅語は諸外国からも評価されていた。

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf

*3:村上重良著「国家神道岩波書店 1970

*4:山住正己著「教育勅語」朝日選書1980

民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(1)

王政復古がなされた時、迫りくる諸外国からの圧力に対して、復古神道を核とした国づくりをしようとした明治新政府では、国民の意識をどのようにまとめるかが重要な問題であった。開国に伴い禁令であったキリスト教にいかに対処していくべきか、また神仏分離の急激な流れの中で仏教・神道をいかに変革していくべきか、しかもこの問題は身分制の解体という大変革の中で起こっていた。また、維新の戦争によって犠牲となった功労者の慰霊・鎮魂という問題も当局者の切実な課題であった。

復古神道(当初は、神教・大教・本教と呼ばれた。神道という言葉に収れんしていくのは、神教を奉じる神道事務局が近代教団として一体性を維持し発展できなくなった以降である)を中心においてはみたものの、体制が落ち着くまでには紆余曲折の歴史が繰り広げざるをえなかった。神道国教化を模索したものの、キリスト教、仏教だけでなく神道陣営からも反発は強く行き詰まった。また、神道国教化に欠かせない教義が貧弱であったことも致命的だった。

明治政府が、この問題にある程度の方向性を見出すには10~20年の期間が必要であった。各宗教教団の活動を容認できる範囲で認める一方、日本は万世一系の天皇をいただく神国であり、神道は宗教ではないという国体論を前面に出すという方法が最終的に成功した方法だった。それは、大日本帝国憲法教育勅語の中で成立したのだった。

日本は、世界に類を見ない王統が綿々と続いている神国であるという主張は、江戸時代本居宣長ほか多くの国学者儒学者によって主張されてきたことであった。他の国のように、国家権力をめぐる抗争と覇権交代がみられなかった素晴らしい国である。その中で天皇家は、日本の初めより日本を治めてきた家系であるという主張である。

この天皇家を頂点に頂く明治政府において、天皇の統治とは、天神地祇・皇霊の祭祀を内容とし、皇祖大神の「言寄」のままに、そして天神・皇霊の「恩頼」にこたえることこそが、天皇の天職(役割)とみなされた。このことは、天皇が国家の最高の神官としての機能を持つ存在だということを意味していた。

羽賀祥二氏は、「19世紀(幕末明治維新期)の日本の政治と宗教の問題を考えていくとき、皇国の神殿創建を目指す動きと人民を教化していこうという、二つの大きな流れというものを指摘できる。日本社会の変動期に対処するうえで不可欠な制度として、神殿創建と教諭方法のあり方が模索されてきたのである」(*1:p5)と指摘されている。この指摘は、幕末の民族共同体の危機に対して王政復古復古神道というかたちの国家創建を選択した日本にとって、従来の社会価値観とは違う国家守護の宗教的体系を整えていく緊急の中心課題として、神殿創建と人民教化の方法があったのである

(1)       大神殿創建構想とその経緯

江戸時代末期、国学者佐藤信淵は、『混同秘策』の中で、天之御中主神・産霊ニ神(造化三神)、イザナギイザナミ、風・火・土・水の四神、天照大神、大国大神、天皇家代々の霊神などを祀り、神事大師が管轄し、天皇が時々拝礼する『宗廟』を中央の神殿として創建し、また造化三神天照大神、天児屋根神などを祀り、中央政治機関である三台(教化台・神事台・太政台)・六府(陸軍・海軍・農事・物産・百工・融通)を統括する大学校を、政治の中心に置くことを提案した。『宗廟』は教化大師が法教(産霊の大道)を講談する場であり、法座の上には宝蓋を釣り、左右には金花を飾り、珠玉金碧の精巧を尽くして『人目を眩耀する』ような輝かしさがあった。大学校には会議室が置かれて、三台六府の役人が政治を行い、大事の決議にあたっては宗廟に報告して決するとされていた」。まさしく華やかな、技巧を凝らした神殿の下での神政政治が構想されていたのである。

こうした幕末の神殿構想の延長線上に、国学者矢野玄道は慶応3年(1867)、「宮中と京都東山に皇国の中央神殿ともいうべき壮大な神殿の建立を構想した。それは規模を縮小しながらも神祇官神殿として創り出されて、新たな国家祭祀の拠点となった。慶応3(1967)年12月9日、王政復古が宣言されると、神祇官復興が画策された。翌年1月17日には神祇事務科が設置され、神祇事務局に改称され、閏4月には太政官内に神祇官が設置され、幕末以来の念願であった神祇官の再興は実現された。(この時期中心的役割を果たしたのは、中山忠能と津和野派の亀井玆監、福羽美静であった。津和野藩では、先駆けて廃仏・神道振興政策が実施されていたことによる。)翌明治2(1969)年7月8には官制改革【職員令】において律令二官制が復活し、神祇官太政官の上位に班位された。神祇官の下には宣教使が置かれ、維新政府のイデオロギー宣布政策を主導することになった。 これを受けて、神祇官神殿の設置の計画も進められる。

実現されなかったが、江藤新平伊勢神宮の東京遷座に伴って、造化三神をも祀る宮中の神殿を創建し、そこでの神政政治を構想した。三島通庸は、皇居の側に一大仮山を築き、山上に純然たる黄金造りの神殿を建てて、伊勢神宮遷座し、国教の本山にしようという構想を提案している。

明治2年10月20日に太政官は神殿造営の許可を出す。工事は11月より始まり、12月竣工して12月17日に仮神殿の遷宮式が行われた。現在の皇居前広場二重橋前交差点付近である。こうして神道国教化を目指す態勢は整えられた。(仮神殿と称したのは遷都問題があったからだという。)明治3(1870)年1月3日には鎮祭が初めて行われた。しかし、神祇官が廃止されてからは祭祀は式部寮(宮内庁式部職の前身)に移った。

しかし、2年後の明治4(1971)年8月8日、官制改革の一つとして神祇官太政官内の神祇省に格下げされ、翌5年3月14日には廃止され、宣教事務は新たに設置された教部省へ、祭祀事務は式部寮へ移管された。このため神祇官神殿の建造物は、増上寺に設置された大教院の神殿として移築された。(移築後、大教院に反対するものによって、放火されて焼失した。)

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神祇官神殿(Wikipediaより)

(2)神道国教化政策の破たんと宮中三神殿体制

神道国教化政策は、信教の自由を要求する民衆の抵抗、キリスト教抑圧に対する諸外国の攻撃、寺院僧侶の抵抗といった反発の中で、時代錯誤な政策がはっきりしていった。明治4(1871)年には近世以来の宮中祭祀のあり方が再編成される。神祇官神殿に合祀されていた歴代皇霊を、宮中に新たな神殿を創建して遷座し、それを神器とともに合祀することにされた。明治4(1871)年9月に宮中に遷座賢所と共に「皇廟」と呼ばれた。明治5(1872)年、神祇省の祭祀は宮中に移され、八神殿は宮中に遷座し、八神を天神地祇に合祀して神殿と改称。賢所、全神祇を祀る神殿、それに天皇家の祖霊殿である皇霊殿という近代の宮中三神殿体制が成立した。明治22(1889)年の宮中三殿の完成によって神祇官神殿は、近代天皇祭祀に完全に組み込まれた。

この宮中への移管は、神祇官政策の行き過ぎの是正だけでなく、太政官における天皇親政・親祭体制創出のための措置であったことは間違いない(桂島宣弘*2)といわれる。そして、明治10年の教部省廃止、文部省設立により、神道国教政策は完全に敗退した。

明治天皇紀は、神祇官廃止について次のように記している。
神祇官は大宝令の旧制を復活したるものにして、太政官の上に班し、恰も王政復古の趣旨を代表せるものの如くなりしが、其勢力大に伸び、叉往々新思想と扞格して新政府の累を為すのみならず、神官の為す所亦党同伐異の弊尠(すくな)しとせず、為に所在囂々(ごうごう)として之を難ずるに至れり、是に於いて其の勢力を殺ぎ、且諸省との平衡を保たしめんとして、之れを改めたるものの如し(明治4年8月8日)」
開化思想との対立、神祇官内外での学派の対立、制度としての合理性を廃官の理由として挙げている。

また明治4(1971)年9月14日の詔書は、次のように述べている。この詔書は、より明確に天祖および歴代天皇の威霊に権威づけられた政治的君主としての天皇の地位を明確に示している。
「朕恭ク惟ル二、神器ハ天祖威霊ノ憑ル所、歴世聖皇ノ奉シテ以テ、天職ヲ治メ玉フ所ノ者ナリ、今ヤ朕不逮ヲ以テ、復古ノ運二際シ、悉ク鴻緒ヲ承ク、新二神殿ヲ造リ、神器ト列聖皇霊トヲ、コゝ二奉安シ、仰テ以テ万機ノ政ヲ視ント欲ス、爾群卿百僚、其レ斯旨ヲ体セヨ」

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」  

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf

家系の法則3-先祖の因果が子に報う

「先祖の因縁が子に報う」といわれてきましたが、どのように現れて来るのかまとめてみました。

1、蛙の子は蛙(先祖の形質を受け継いでいること)

人の才能は、一朝一夕に出来あがるものではありません。すぐれた才能を発揮している人の背景を探ってみると、先祖もやはりそのような才能の研さんを積んでいたことを発見します。

現在市長など社会の指導者となっている人の家系を調べてみると、その先祖は庄屋をしていたとか造り酒屋であったとか、やはり社会のリーダー的存在であったことが多いのです。優れた医者の場合も代々医者の家系だったり、優れた技術者の背景も家業としての技術職人の家だったということがよくあります。

頭の良い人もやはり頭の良い家系から出ています。「日本家系研究会では、いままで東大生の家系を300件余り調べたが、その八割が先祖代々学問を積んだという背景があった(与那嶺)」といわれています。又、母親が優秀だと子供も優秀だというように、学問の系統は母親の家系の影響を受けることがが少なくないようです。

2、縦横の法則に逆らった生き方をすると、人生が閉ざされる「逆縁の法則」

縦横の法則から見ると、婿養子に出る背景をもっている人は、婿養子に出ないと運勢が開かれない傾向があるそうです。跡取りとして家に残っても、病気がちになって早死したり、良縁に恵まれず運勢が切り切り開かれないようです。縦横の法則に逆らった生き方をすると、人生が閉ざされてしまうのです。このことを「逆縁の法則」と呼んでいます。

 3、先祖の代にいじめ・家庭内暴力・兄弟対立があると、子孫にもその影響が出てくる

登校拒否や閉じこもり、家庭内暴力の問題が起きている場合、背景となっている先祖の代にいじめの問題があることがよくあります。本人は知らず知らずしているのですが、先祖の怨みが乗り移ったかのように先祖の人生をトレースしていることがあるのです。

 4、夫婦関係が代々順調な家系は、家運が上昇する

没落する家系とは反対に、代々夫婦関係が円満で続いている家系は、子孫が増えて能力を発揮して社会的な地位も上がっていきます。離婚騒動などの精神的な波風がないところに、「あげまん」といわれるような素晴らしいお嫁さんの力が加わるとさらに発展していくのです。「いい家から嫁を貰え」という言葉は、自分の家系に与える嫁の役割が非常に重要であることを指しています。

なお、五代続けて色情の乱れに陥らなかった家系は珍しいといわれています。

 5、養子が切り開く家運(逆玉の運)

「米糠三合あれば養子に行くな」とかいって、養子は嫌われる傾向があります。しかし、養子は家に外からエネルギーを持ってくるという役目を持っています。優れた商人は、養子の続いた家系から出ている例が多いといわれています。二代、三代にもわたって養子を迎え入れたために、血統は元の家系とはかなり違うことになります。(三井家や三菱の岩崎家でもそうした傾向がみられる。)養子に来る「逆玉の運」をもつ男性には、多くの場合、財運がついてまわり、その子孫にも財運が受け継がれているのでしょう。

 6、離婚再婚・不倫は、家系を衰退させる

家系の流れの中に離婚・再婚が出てくると、縦横の法則はあてはまらなくなります。

日本で一番多くみられる離婚・再婚の場合、子供が早世する確率が高まるようです。三代目になると、長男に嫁が来ないとか女系になる傾向があるといわれています。(変則Ⅰ型)

また非嫡出子をつくると、長男が短命で女性が若後家になりやすく、三代目に母子家庭ができやすいそうです。(変則Ⅱ型)

このように先祖が色情問題を起こすと、その背景をもつ子孫は、頭脳明晰・才能豊かでも夭折しやすくなり、結婚生活も不安定になりがちです。

ある時期から火が消えたように家運が落ち込んでしまい、絶家に至りかねない家系の場合、先祖に深刻な色情問題があることが多いそうです。

 7、同縁(運命果)引き合いがもたらす繰り返し現象

同縁引合の法則とは、同じ縁(運命果)同士で引き合うということです。特に夫婦の場合は同じ運命果の裏表で引き寄せられ結ばれます。交際している時は、仲良くても結婚して入籍が終りますと、離婚の運命果の波長が動き出し、突然ケンカをしてみたり、離婚になるような出来事が起きたりして、結局は親と同じようになってしまうという現象です。

 8、分家が発展する家系「老親は買ってでも養え」

本家が家運衰退して途絶えても、分家が家名を継続して発展していくことがあります。分家なので財産もありませんが、夫婦が協力してコツコツと地道に田畑を耕して生計を営んでいると、子孫が増え、どんどん能力を発揮するようになり、没落する本家とは裏腹に発展していくのです。日本では、家力はなくても温厚篤実に堅実に生きて来たこのような家系が多くを占めています。

また、次男三男が長男の代わりに自分の両親を引き取って大切に面倒を見ると、その子孫は不思議と栄えて行きます。これを「隠居分家は栄える」といいます。

 9、多くの人の怨みで本家も分家もつぶれていく「四七型」絶家

多くの人の怨みを買った場合、三代か四代で男系が養子に入った系列も六代か七代で終わりになるというものです。四代で男子が絶え、七代で家が絶えることから「四七型」と呼ばれています。高利貸しや悪代官のような時代劇に出てくる悪役の末路です。

 

≪解決への道≫

  • 先祖供養をして、先祖を慰める

問題を起こしたまま人生を終えた先祖は、亡くなった後も苦しんでいます。行いや恨みは、亡くなったからといって帳消しになるものではありません。法句経に、「悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む(第1章15)」と、書いてあります。生前の行いに問題があってまだ苦しみが続いているため、供養して慰めてあげることが大切になります。

 

  • 神仏の前に条件を立てて、時が満ちるまで耐え忍ぶ

苦しみの原因がわかったとしたら、次にその解消に努めていくことが大切です。自分に降りかかってきている苦しみは、お祓いや除霊をしたからといってすぐに解消されるわけではありません。先祖が犯した罪障は、苦しみを受けた人の赦しがないと元に戻らないのが原則です。

そのため、神仏の前に条件を立てて、期間が満ちるまで粘り強く忍耐することが必要です。自分が耐え忍んだということが条件になるのです。ここに、「いい人が何故苦労するのか」という理由があります。

 

  • 夫婦が仲よくする。そして家族が協力する

家運が隆盛するあるいは逆に衰退するという場合、その節目に必ず一組の夫婦がいます。その夫婦の生き方によって、家運が上昇するか下降するかが決まっていきます。

与那嶺さんは、「仲良き夫婦は、家系のろ過装置」と呼ばれています。「自分の世代で家運をよくする。そのためには、夫婦が仲よくする」―これが二万件以上の家系調査を通じて得られた結論ですといわれています。

 

私たちは、ふだん意外と自分勝手に生きていて、自分のやったことやることに対し、家系上や生物学上の責任は感じていないものです。そして、自分が成功すると、まるで自分がすべて行ったように思います。ところが、家系の法則からわかることは、自分たちが今こういう生活ができるのは、本当に先祖の人々の涙ぐましい努力があったからなのです。とてもその背景を抜きにして、私たちの存在そのものは考えられないのです。(与那嶺)

私たちは、人生は自分だけのものではなく、今まで生きてきた先祖とこれから生まれてくる子孫を連結する「家系」という生命のリレーの一員であることを自覚して、賢明な人生を歩むことが大事ではないでしょうか。

 

参考文献:与那嶺正勝著「新・家系の科学」コスモトゥーワン 2010

参考文献:池上明昭著「繰り返される家系のセラピー」創芸社2011

参考文献:宗教法人實言寺 別格本山 蓮華院金剛寺 ウェブサイト

http://www.kongoji.org/unmei/tateyoko_hosoku.html

家系の法則2-縦横の法則

誰もが、自分に先祖の影響があることを感じていることと思います。しかし、それがどのように関係しているのかとなると、皆目わからないのが現実です。そのような状況の中で、羅針盤となるかもしれない一つの法則(傾向)があります。「縦横の法則」と呼ばれている家系の法則です。この法則は、長年家系調査を行って来られた与那嶺さんが、二万件を超える家系調査の中から発見されたものです。

与那嶺さんは、なぜ、「縦横の法則」というのかについて、家系の時間的な流れ「縦」が、ある一世代において「横」に展開するからですといわれています。先祖が行ってきたことが、ある時期その家の兄弟たちに一挙に噴出するという家系上の不思議な現象なのです。わかりやすくいえば、先祖のまいた種がその子孫のときに「実」を結ぶというものです。しかも、これにはきちんとした数理的法則性が見られるのです。

 

どうしてこのような現象が起こるのか、そのことについて与那嶺さんは次のように話されています。

「家系の中で運命の反復はなぜ起こるのか、科学的には説明できません。医学的・遺伝学的働きによるものなのか、それとも神霊学のいうように“守護霊”のように何かまだ人間のよく知らない神秘の力によるものなのか、今の学問では学者にもわかりません。推測できるのは、歴史の中で先祖たちが味わってきた悲しみや喜び、その強い感情が遺伝子として子孫に伝達され、脳の形成過程でしっかりとインプットされ、本人の気がつかないうちに先祖と同じパターンを歩むのではないか(与那嶺)」ということです。

では、縦横の法則とは如何なるものかについて紹介してみましょう。

(1)男性の縦横の法則

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男性の縦横の法則は、三人兄弟の場合、長男は曽祖父に、次男は祖父に、そして三男(末っ子)は父親に対応して、先祖の背景をそれぞれが受け継ぐというものです。長男が曽祖父の背景を受け継ぎ、次男が祖父の背景を受け継ぎ、三男が父親の背景を受け継ぐのです。曽祖父が村長など社会的なリーダーとして活躍して人望が高かった場合、長男もその背景を受け継いで社会的に活躍する可能性が高くなります。反対に、祖父がばくちに手を出して借金取りに追われてうだつの上がらない人生を送っていた場合、次男は祖父の背景を受け継いで放蕩を繰り返す人生になりやすいのです。三男の場合は、父親の背景を受け継ぐのですが、父親はまだ生きていて自分の人生が最終的にどうなるか完結していないので、父親に似ても父親のような歩みはせず、父親の背景にある先祖の内容が現れて来ることがあります。三男(末っ子)は、必ずしも先祖に対応した人生を歩むとは限らないのです。このことについては、転換型のところでもう一度述べます。

よく長男は立ちにくいといいますが、縦横の法則から見るとやはり先祖の背景を一番受ける立場にありますので、先祖に問題があるとその影響を受けてしまいやすくなります。

ところで、男性の縦横の法則では、兄弟の中に女の姉妹がいる場合女性は除外します。男性だけで考えます。女性を入れると合わないことがわかったからです。

弘法大師空海)は、5人兄弟の長男だったのですが、対応する六代前の先祖は、遣唐使小野妹子従人として中国に渡っていたことがわかっています。

 

(2)女性の縦横の法則 

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女性の縦横の法則は、女性が婿を取って跡を継ぐ場合です。三人姉妹の場合、男性の場合と異

なり、長女は母親に、次女は祖母に、三女は曾祖母に対応します。長女は、母親に対応するので、母親に似てきます。しかし、母親の人生はまだ終わっていないので、必ずしもそうなるとは限りません。

与那嶺さんは、「性格も行動も母親に似ていないというケースがあるが、その場合は父親の母親に対する行動に反発しているということがあげられる」と、いわれています。

次女は、祖母の背景を受け継いだ生き方をしていきます。祖母が幸せな結婚生活をしていた場合、同じように幸せな結婚生活を送ることができます。そして、三女は曾祖母の背景を受け継いだ人生を歩むことになります。一番先祖の背景を受け継ぎやすいといえるでしょう。

女性の場合、女性は対象的な立場であり、結婚すると夫や夫の家系の影響を受けやすいのでこの法則は当てはまりにくいといいます。

 

(3)転換型

末っ子あるいは一人っ子(一人っ子は末っ子でもあるので、一人っ子と末っ子は同じと考えます)は、一代前の先祖つまり父親の位置に対応させます。ところが、末っ子あるいは一人っ子は、上でも述べたように父親の歩みとは対応しません。父親がまだ生きていて自分の人生が最終的にどうなるか完結していないので、父親に似ても父親のような歩みとはならず、父親の背景にある先祖の内容が現れて来ることがあります。その場合、父親の背景となっている対応している先祖が、一人っ子または末っ子の背景として働くのです。これを「転換型」と呼んでいます。

転換型の場合、両親の夫婦仲が悪いと、悪性面が強調され、夫婦仲が良いと、良性面が強く出るという傾向があります。転換型は、一面学習型ともいい、後天的学習により運命や人生を大きく変えることができるといいます。このため、末っ子は、父親とはかなり違う人生を歩むことがあります。

転換型の場合、先祖の力量に関係なく、“大化け”していることが多いのです。末っ子は、上の兄弟とは異なり、飛抜けて出世したり大成功していることが多いのです。松下幸之助さんなどはその典型的な例です。

最近は、何処を見回しても、一人息子、一人娘ばかりです。要するに「転換型児」ばかりです。一人っ子は、父親の人生軌跡の影響を受けない分、両親の夫婦仲(家庭環境)に影響されるのです。

家系の法則-1、ジェノグラムで分析される家族関係(2)

(2)世代を越えた繰り返し現象

アルコール依存症、近親相姦、身体症状、暴力、自殺といった多くの症状パターンは世代を越えて家庭内に伝承される傾向があります。このような繰り返しがみられたら、自重することが必要です。

俳優のピーター・フォンダ家の場合、ピーター・フォンダは、母親が自殺して一年も経たないうちに、自分の腹を銃で撃ち、マーガレット・サリバン(父ヘンリー・フォンダの離婚した妻)の娘ブリジットは、母親が自殺して一年も経たないうちに自殺しています。自殺者が一人出ると、家族の中に自殺をしてもいいんだという風潮ができあがってしまう事があるようです。

劇作家ユージン・オニールの場合は、数世代にわたってアルコールと薬物の濫用が見られた。アルコール依存症と薬物濫用は、各世代にわたってみられ、世代を下っていくにつれ自己破壊の度も増していました。この影響もあるのか、結婚も不安定になりがちでした。ユージン・オニール自身は三度結婚し、長男も三度結婚を繰り返して40歳で自殺しています。オニールは、「過去のパワーが未来を決定してしまうことに気づいていたという。そこで、そんなことをしても無駄だということは承知の上で、現家族の影を「お祓い」しようとして、多くの劇の中で自分の家族を再現しようとしたらしい。

夜への長い旅路

タイロン(オニールの父親がモデル)「もう過去のことに触れないように」

メアリー(オニールの母親がモデル)「そんなことできないわ。過去は現在でしょう。未来でもあるのよ。みんな過去から逃れようとするけれど、人生が許してくれっこないわ。」

ジェノグラムを通じてこのパターンが認識されたら、次の世代まで持ちこさないようにすることが大事です。世代ごとにパターンを繰り返すとより強固になることがあるようです。

(3)家族変動を引き起こす臨界期(重大な出来事が重なって起きてくる時)

さまざまな問題が引き起こされるきっかけとなるのは、家族の重大な事件、結婚・出産・入学・独立・病気・失業などを契機となる場合です。そして重大事は、偶然の一致であるかのように同じ時期に重なって起こることが知られています。

フロイト家の臨界期(重大な出来事が重なって起きてくる時)

最初の臨界期は、ジークムント(精神分析で有名なフロイト自身)誕生の前後。1855年、父親ヤコブはフロイトの母アマーリエと結婚しました。7ヵ月後、ヤコブの父親が死亡しました。さらにその3ヵ月後に家族にひいきにされたジークムントが生まれているのです。1年後、次男ユリウスが誕生したが8ヶ月で亡くなっています。2年後、ヤコブの先妻との間の息子たちがイギリスへ移住し、その1年後、ヤコブは家族全員を連れてウィーンに転居しています。

二度目の臨界期は、1895年から1896年までです。フロイトお気に入りの娘アンナは1885年12月3日に生まれています。翌年、フロイトの義妹ミンナが同居し始めています。同じ年の12月23日、ジークムントの父親が亡くなっています。その死について、フロイトは男の一生の中で父親の喪失ほど重大で動揺することはないと語っています。フロイトは、この時期に最初の精神分析の論文「ヒステリー研究」を出版し有名な自己分析を始めているのです。

多くの事件が起きることによって、精神的に動揺してさまざまな家族の問題が起きてきやすいのではないかといわれています。

(4)記念日反応といわれる世代を越えた繰り返し現象

世代を越えた家族の繰り返しパターンは、記念日反応という形でセッティングされていることが知られています。家族の一員が、ライフサイクルのある時点に達すると前の世代で起きたことと同じことが起こるような予感におそわれることがあります。二世代にわたって、結婚直後に大切な家族が亡くなったとすれば、次の世代は同じことが繰り返されることを無意識のうちに恐れるようになるという。

記念日反応を研究した精神科医ジョージ・エンゲルは、双子の兄が心臓発作でなくなった一周忌の前日に心臓発作にみまわれています。また、父が58歳で心臓発作で亡くなっているため、この年齢が近づくにつれ、その年齢になったら死ぬのではないかと不安が増すのを自覚したというのです。心理的な負荷、ストレスが記念日という形で襲ってくるようです。

1963年暗殺でなくなった米国大統領ジョン・F・ケネディ家の場合、暗殺された11月22日は一家にとって特別の日であったという。その日は、曽祖父の命日であり、祖父パトリック・J・ケネディが生後まだ6ヶ月なのに、ケネディ家唯一の男性になってしまった特別な日であり、情緒負荷のかかる日となっていた。その日にジョン・F・ケネディが暗殺されたということは、心理的負荷だけでは説明できません。しかも、心理的負荷はジョン・F・ケネディの死後、家族にふりかかったのか、弟テッドは7ヵ月後飛行機事故で背骨を折り、妹パットは暗殺された日に別居しています。弟テッドは、1968年兄ロバートが暗殺された12ヵ月後、自動車事故で同乗者を溺死させています。

家族の記念日反応には、心理現象だけでは説明できない不可思議なものがあるのです。

(まとめ)

家族は繰り返されるのです。ある世代で起きたことは、たいてい次代でも反復されます。「家族パターンの多世代伝承」といわれるもので、知らず知らずのうちに同じ問題が世代から世代へと演じ継がれるのです。世代から世代へ継続的に、あるいは一世代おきに、家族の機能や関係や構造パターンをジェノグラムで探ることができます。ミニューチンはシステムが変化できる条件として次の3つのことを指摘しています。心に留めておくことが大切でしょう。

  1 適切な世代間境界の存在
  2 問題解決に主に携わる成員間に連携が存在すること
  3 問題解決に向けての力(パワー)の存在

家系の法則-1、ジェノグラムで分析される家族関係(1)

人間の生存の基本単位である家族が、平和で愛に満ちた基地であるならば何も問題はない。しかし、現在多くの家庭が問題を抱えて苦しんでいる。どこに原因があるのかよくわからないから、苦しみは増すばかりである。離婚、精神疾患家庭内暴力、病気、夭折・・・・。自宅閉じこもり症の人は数十万人を超えているという。日本全国病んでいる家庭だらけである。

2011年版「厚生労働白書」によれば、身体障がい児・者(在宅・施設)は約394万人、知的障がい児・者(在宅・施設)約74万人、精神障がい者(在宅・施設)約320万人、国民のおよそ6%が何らかの障がいを有しているという。

苦しみの中から、神仏に祈願された方も多いだろう。又臨床心理、精神科の門を叩いた方も多いでしょう。しかし、病状が回復した人はそれほど多くはないのではないか。それほど問題の根が深いのです。問題の原因と解決の道について考えていきます。

 

(1)家族分析手法―ジェノグラム

米国では、臨床心理(カウンセリング)を行う中で、「ジェノグラム」という方法が編み出されました。かつてブログで紹介しましたが、ジェノグラムは、三世代以上の家族メンバーと、その人間関係を盛り込んだ家系図(家族関係図あるいは世代間関係図)です。家族に関しての情報が図示されて、複雑な家族模様や病態や症状が家族の時の流れとともにどのように出来上がってきたかがわかるようになっています。ジェノグラムはマレー・ボーエンの家族システム論(1978)から派生したもので、今では精神医学、臨床心理学、ソーシャルワーク社会福祉などの分野でなくてはならないものとなっています。

現代の家族は、「両親と子ども」という原家庭でさえもさまざまな問題を抱えるのが普通であるのに、それが離婚再婚を含む家族になると、それは抱えきれないほどの問題を表面化させかねません。家族内で起きている問題が、家族間の複雑な情の関係とその結果起きている代償行為であることを突き止めて、カウンセリングのベースにするのです。モニカ・マクゴールドリック/ランディ・ガーソンの本「ジェノグラムのはなし」石川元/渋沢田鶴子訳1988年版東京図書(2008年に新装本が出版されている)をもとに概説します。家庭には次のような特徴があるといえるでしょう。

①片親家庭: 親のうちの一人だけで子どもを育てている家庭では、淋しさ、経済的問題、子育ての難しさ、親のもとを行き来する関係が生じる

② 再婚家庭: 親権、前の家庭との交流、嫉妬、えこひいき、忠誠をめぐる葛藤、継父母、親の違う兄弟という特有の問題がある

③三世代同居家庭: 両親がどちらかの親と同居している場合で、世代を越えての境界、連合、葛藤などの問題が起こる

④兄弟の順位: 兄弟の順位は、将来家庭をもった時配偶者や子どもとどういった関係になるかに影響する。一番上の子は過度に責任感が強く、忠実で、親代わりのようであり、末っ子は気ままで甘っ子が多い。長男は、親から特別の期待をかけられ、それが自負となったり負担となったりする。一人っ子は、大人と過ごす時が多いため社会性を早く身につける一方、不安にとらわれやすい

その家庭内で、個人が異常な行動を起こすということは、家族システムの平衡が保たれていないことを示しているのです。問題の根源は、異常行動を起こした個人だけにあるのではなく家族の間の相互関係にあるので、単位としての家族が治療的に介入する必要があるというのが家族システム論の考え方なのです。こうした考え方を家族に応用するのは、家族関係というものが単純なものではないからです。たとえば、母子の共生関係(べったり)の裏には、父親側の問題があったり、兄弟げんかの陰には、それぞれの親の代理戦争があるなど、交錯した家族模様は枚挙にいとまがないほどであり、十把ひとからげに扱いきれるものではありません。

家族システムを年代をさかのぼって検討し、どのようにライフ・サイクルの段階を辿ってきたかを見定めれば、現在の問題を家族発展のパターンに照らしてとらえることができるのです。前の世代からのテーマ(重圧、ルール、病気など)の伝承に反復パターンが見えてくると、「歴史は勝手にしゃべり始める」のです。

ジェノグラムは、家族の関係を表すことによってその家族のテーマを導き出してくれます。離婚再婚が多いとか子どもの死亡が多いとか未婚者が多いとか結婚が遅いとか。家族関係が複雑になると、三角関係も起こりやすくなってきます。子どもにとって、離婚や親の死によって原家族が崩壊する場合は、親を失う準備はできていないので、どんなにすばらしい継母、継父であっても、親の取替えはきかない事態となります。(下図は、家系図に書き込まれる内容です。)

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