浄土信仰と本地垂迹説(神への菩薩の授与)

1052年末法の時代の始まりに仏教は衆生の救済に入る。(この年についてはブログ「都合よく改ざんされた末法時代」を参照してください。)日本において仏教が急速に広がり定着するのは、衆生に対して仏の慈悲を説いてからである。仏教が日本人の中に浸透してくるのは、最澄空海からである。それまでの仏教は主として国家守護の宗教であった。

日本に入ってきた仏教から見た場合、日本は仏教世界の辺土(辺境の地)でしかも時代は末法という救いがたい根性の曲がった悪人ばかりの世とされていた。このままでは衆生は、誰一人浄土に行けないことになる。このことを哀れんだ仏は、衆生救済のために誰もがその実在を認識できるような姿をとってこの世に出現し、生々しい力を行使することによって浄土への関心を向けさそうとした。仏教は、日本の衆生救済のためにある方法を取った。それが神への菩薩授与という方法(本地垂迹)であった。菩薩授与は、まず神宮寺の創建から始まる。

○神宮寺の創建と神身離脱(救済を求める神々)

仏教と日本の神祇習合が現れてくるのが8世紀神宮寺(神社に付属する寺院)の登場である。平安時代までに全国の主だった神社におかれた。8世紀の創建とされるのは、気比神宮寺、若狭比古神願寺(神宮寺)、多度神宮寺などであるが、その創建の由緒によると、神が己の身の苦を脱して、仏による救済を願ったと伝えられている。

氣比神宮寺の場合、藤原武智麻呂の夢中に気比神が現れ、「吾れ宿業に因り、神と為ること固より久し。今仏道に帰依せんと欲し、福業を修業すれど、因縁を得ず。故に来たり告ぐ」と神身の苦を訴えて、武智麻呂に造寺を要請したとされる。(藤原武智麻呂伝)」。日本の神という存在もまた苦であり、仏教の力によって救済される衆生の一つと理解されていた。

神宮寺建立と並んで行われるようになったのが、神身離脱(救済を求める神々)の祈願あるいは法楽のために行われる神前読経や書写奉納である。一方、仏教と結びついた神が現れる。八幡神である。欽明天皇32年(571年)に初めて宇佐の地に示顕したと伝わる。応神天皇誉田別命)を主神として、比売神応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀っている。奈良時代に突如登場して東大寺大仏建立を契機にして急速に国家的神格としての地位を獲得する。(伊藤 聡)

○神への菩薩号授与と宮寺

神と仏の接近が高まる中で現れてきたのが、神に対する菩薩号の授与である。最初の神への菩薩号授与は、延暦17(798)年の太政官符にある「八幡大菩薩」である。神への菩薩号授与は、神が単なる衆生ではなく、衆生と仏の中間的存在と認識されるようになったことを意味する(伊藤 聡)。平安時代前期の神への菩薩号授与は、ほぼ八幡神に限定されるという。

859(貞観元)年、宇佐八幡宮に参詣した大安寺の僧行教が、八幡大菩薩の託宣を受けて石清水八幡宮を勧請する。同宮は、僧侶が中心となって運営され、神社と寺院が融合した特殊なものであった(宮寺という)。

次に確認できるのが、寛弘元年(1004)熱田神に対し権現の呼称を使用していることである。以後、熊野・白山など修験的要素の濃い神格を中心に権現号が広く使用されるようになり、それぞれの諸神の本地仏が特定されるようになってくる。12世紀前後になると広まり、八幡神の場合は阿弥陀(あるいは釈迦)、日吉神は釈迦、熊野本宮は阿弥陀、熊野新宮は薬師如来那智は千手観音などというように特定されてくる。この動きが中世にかけて全国に広がる。(伊藤聡)

○浄土信仰の普及と霊場納骨

仏教の普及により、来世の彼岸の世界の観念が拡大していった。この世は、所詮仮の宿に過ぎない。来世の浄土こそこそが願うべき本当の世界であり、浄土への往生を実現しなければならないと考えられた。吉田兼好は「徒然草」の中で次のように詠んだ。

人間の営み合へる技を見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀珠玉のかざりを営み、堂をたてんとするににたり(「徒然草」)

中世になると、現世の無常と人間の世の有限が強調され、一方で他界浄土(阿弥陀仏のいる西方極楽浄土)の観念が形成される。本来、この世にいながら成仏を目指す密教においても、中世では浄土往生のウエイトが強まり、「『霊魂を救って極楽に送る』という機能でも、密教の陀羅尼や光明真言の方が念仏に勝る(沙石集)」と、述べている。

古代の再生と魂の浄化を願う「(モガリ)」は、完全に意義を失い、仏教の往生思想に取って代わられた。末法の世、衆生は、誰一人浄土に行けない。このことを哀れんだ仏が、衆生救済のために誰もがその実在を認識できるような姿をとってこの世に出現し、生々しい力を行使することによって浄土への関心を向けさそうとした。

これが、仏教が日本での布教にあたって重要な役割を果たす神を仏の化身とみなす本地垂迹である。古来日本にあった神々は、仏教的世界の普及に伴って、他界の仏(本地)がこの世の衆生を救済するために顕現した存在(垂迹)であるとされた。神だけにとどまらず、聖徳太子最澄空海などの聖人にも存在(垂迹)した。

高野山の復興に尽力した覚鑁(かくばん)は、弘法大師空海について「本地は十万諸仏の能化である大日如来であり、垂迹は六趣の衆生が帰すべき三地の菩薩である(高野山沙門覚鑁申文)」と記している。聖徳太子の廟所である磯長に伝えられる「聖徳太子廟窟偈」では、聖徳太子観音菩薩の化身とされるとともに、その母は弥陀、妃は勢至の化現とされる。その上で、「末世のもろもろの有情」を済度せんがために、父母から受けた「血肉の身」をこの廟窟に留めている、と記されている。

中世の日本人は、極楽浄土の阿弥陀仏のような目に見えない「あの世の仏」を、私たちが五感を通じて存在を認識できる聖人・神・仏像や仏舎利などの聖遺物といった「この世の神仏」との関係として把握していたのである(佐藤弘夫

12世紀頃から、寺院や神社の由緒と霊験を説く寺社縁起や垂迹の場の聖性を主張する垂迹曼荼羅・宮曼荼羅が数多く制作されるようになり、霊地を踏むことの重要性が盛んに宣伝された。垂迹の中でも特に人気を集めたのが聖人で、平安時代後期の「往生伝」には、人々が聖徳太子を祀る四天王寺や磯長の聖徳太子廟に詣でて、自身の往生を願うという話が収められている。聖徳太子阿弥陀仏の脇士である観音菩薩垂迹であるがゆえに、人々を浄土に導くという任務を負っていると信じられていた。

この時期、寺側には国家の庇護が弱くなり自力で生きていかなければならない事情が生じていた(神社も同様だった)。そのため、寺は民衆の中に入っていって信者を寺に呼び込むことが必要であった。この切り札になったのが人々を極楽に誘う仏の垂迹だったのである。そして極楽往生を願う参詣者に対応すべく、聖人ー垂迹を祀る施設を寺内に設けた。もっとも奥まった見晴らしの良い場所に「奥の院」と現在呼ばれる施設を設けた。各地にある奥の院は、こうして作られたのである。

こうして彼岸と此岸を結ぶ通路としての霊場が出現し、大勢の人が霊場に向かって巡礼と参詣、納骨を行うようになる。浄土往生に至高の価値を見出した中世人にとって、最大の関心事はいかにすればそれを実現できるかという問題だった。その一つの解答が「垂迹」への結縁だった。

本地垂迹

本体の仏菩薩がこの世の衆生を救うため,神への菩薩授与という形式をとって仮に神となってあらわれる。中国では、儒教の聖人や道教の神などについて本地垂迹が説かれた。日本では,今まで述べたように奈良時代にすでに仏教と神祇との習合が行なわれ、平安時代中期には本格的な本地垂迹説が成立し,次第に本地仏を定める神社が多くなっっていった。

本地垂迹」の根拠は『、法華経如来寿量本第十六の、「この世に現れて悟りを開いた釈迦とは実は仮の姿で、その本身は永劫の昔より存在していたという条りで、このことを中国の天台教学が釈迦の仏身論の中で、本地((本体)と垂迹(化身)との関係として説明したことに基づく。インドで成立した仏教は、その伝播の過程で在地の神々や重要な歴史的人物を仏・菩薩の化身とすることでその地に根付いていったのである。(伊藤聡)

和光同塵」、仏が神の姿を借りて衆生救済に赴くこと、仏が光を和らげて俗世の塵にまみれた姿となって顕現したのである。

本地という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身(ほんちほっしん)という〈この考えは一神教である〉。後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念である。末法の世の日本の人間は堕落していて救済されがたく、正当な教化の方法では救済できないとされた。そこで仏が仮に神の姿をとってこの辺土に現れ、厳罰をもって人々を教化し救済を志向したというのが、本地垂迹説の意図するところである。こうして神々は、共同体の神から個人を救済する神へと変貌を遂げた。

室町時代、仏は既に仏・菩薩自身の姿で衆生に利益を施しているにもかかわらず、その上であえて神としても顕現したのである。

垂迹神本地仏の一例を以下に示す。(Wikipediaより)

 天照大神大日如来、十一面観世音菩薩
八幡神阿弥陀如来応神天皇
熊野権現阿弥陀如来、善財王とその妃・王子(熊野曼荼羅
日吉 = 天照大神大日如来市杵島姫= 弁才天
愛宕権現智明権現 = 勝軍地蔵菩薩秋葉権現観音菩薩
素盞鳴 = 牛頭天王薬師如来大国主 = 大黒天 
東照大権現徳川家康) = 薬師如来

○正神・邪神の区別

日本の神仏習合の思想は、神身離脱・護法善神により神への菩薩号授与を経て、本地垂迹説へと発展していった。しかし、すべての神が仏の化身(仏、菩薩の垂迹)と見なされたのではなかった。仏とは無縁の煩悩にまみれた存在の神(邪神)もいると認識されていた。

権神・実神の二分法の主張である。垂迹神(化身・権現)としての神=権神と、本地を持たない衆生の一つ(鬼神・竜蛇神)としての神=実神である。神は仏・菩薩の化身であると同時に蛇身であるというのだ。仏教では、蛇とは煩悩を生み出す三毒(貪欲=むさぼり・瞋恚(しんい)=いかり・愚癡(ぐち)=無知)の象徴であるから、実神と位置づけられる。

神々を弁別する認識が対概念としてはじめて文献に登場するのは、鎌倉時代初期の「興福寺奏状」においてである。これ以後中世においてたびたび登場して神の属性をかたる説明原理となった。注目すべきは、神とは崇高な存在なのではなく、煩悩にまみれた衆生と同じ存在とされているのである。

権神・実神の二分法を積極的に唱えたのは、浄土宗であった。専修念仏・余行不拝を基調とする浄土宗や、親鸞に始まる浄土真宗にとって、神祗信仰を全く排除することなく、専修念仏を守っていくのにこの二分法は極めて有効なものであった。

親鸞の曽孫、存覚は、「諸神本懐集」の中で、「神を『権社の霊神』と『実社の邪神』とに分け、権社を『往古ノ如来、深位ノ菩薩、衆生ヲ利益センガタメニ、カリニ神明ノカタチヲ現ジタマヘルナリ』と定義し、実社を『生霊・死霊等ノ神ナリ。コレハ仏ノ垂迹ニモアラズ、モシハ人類ニテモアレ、モシハ畜類ニテモアレ、タタリヲナシ、ナヤマスコトアレバ、コレヲナダメンガタメニ神トアガメタルタグヒナリ」と説明している。そして、権社の霊神を信仰することが背後にいる本地阿弥陀仏を信仰することになる。実社は死霊等の神で仏の垂迹はない。祟りをなし悩ますために神としているにすぎないといっている。(伊藤 聡「中世の神観念」より日本史小百科「神道東京堂出版2002所収)

日本の神々には、衆生と同じように煩悩にまみれた邪神・鬼神(悪霊と呼んだ方がいい)もあると認識されていたのである。

(参考文献:佐藤弘夫著「死者のゆくえ」岩田書院2012)

(参考文献;伊藤聡/遠藤潤/松尾恒一/森瑞枝著「日本史小百科=神道東京堂出版2002)