宗教と信仰ー出口日出麿氏とともに(3)私という存在は、歴史の結実体である。

「人民からみれば苦労人に見えるなれど、此の世の苦労と申すのは、前の世からの因縁によって、世界に外に無い苦労せんならぬ因縁の身魂であるぞよ。それと申すのは、昔、稚日女君命の折に天の規則を破り、重き罪を負ひ、それでなおの罪は肉体の重量よりも罪が重いと申してあるぞよ。天の規則破りは罪が重いぞよ。(「筆先」明治35年9月26日)」

この啓示は、出口なお氏に降りた啓示である。出口なお氏が苦難の人生を送ることになったのは、昔天の規則を破ったという過去からの因縁に依っていると語っている。天の規則とは何か、そのことについては、別の啓示で「我を通しすぎた」と語っている個所がある。天の規則から外れた選択をすると、その咎が巡り巡ってくる。仏教が説くように、すべてが縁によって生じてくる。

私という存在は、歴史をかけた縁によってもたらされている歴史の結実体であるのであり、私という肉体と魂は、時空の交差する一点に存在し他の事物と連関して生きている。この一点を感じ取ることができるならば、私という人間は立つ位置が定まり、他人と比較する必要もなく、自分の人生を生きることができる。天宙の秩序法則の中に私の位置がある。その中で、いかに立ち居振る舞いをなすかが重要である。私という存在は、時間的には過去からの連続の中での再現の生を過ごしているのであり、空間的には全世界の動きの一点としての生を送っている。したがって、どんな人間も貴重なかけがえのない存在であり人生であり、時間的に空間的に私の判断・行動は意味をもつものである。それゆえ、私は天宙にとって神にとってかけがえのない存在である。釈尊は、「天井天下唯我独尊」と語られたが、まさしくその通りである。もし、私の判断が天宙の秩序法則に合致しているならば、そして他の人の判断も天宙の秩序法則に合致しているならば、天宙の法則(神の摂理)は順調である。

しかし、この状態に異変が起きた。お筆先の「昔、稚日女君命の折に天の規則を破り、重き罪を負ひ、それでなおの罪は肉体の重量よりも罪が重いと申してあるぞよ。天の規則破りは罪が重いぞよ」という言葉は、はるか昔に先祖が天の秩序法則を破ったから、重い罪を背負った。それゆえ、苦労しなければならない身魂となったという。

時空の交差点に立っているわれわれ人間は、天の規則を破ったがゆえに立たされている位置が理解できない状態になった。このため、思い苦しみ六道輪廻の世界をグルグル回らざるを得なくなっている。この思いは、この苦労は、この不幸は、この成功は、の背後にある意味を感じ取れない。自分の身に起きている現象が理解できないのだから、その対処方法を誤るのも致し方ない。

では、どんな失敗をしたのであろうか。艮の金神(出口なお氏に降りた神)は、御筆書きの中で「我を通しすぎて失敗した神である」と述べている。天宙の法則から外れた選択をしたといっている。選択を誤った時、時空に波紋が広がる。艮の金神は、この地上を任せられていた神なので、この地上は調和に欠けた状態が広がった。対立と争いという不調和が支配する世界が出現した。

「禍福はあざなえる縄のごとし」ということわざがあるが、脱線してしまったならば、復元に努めなければならない。復元を行うには、脱線の逆の道を行う必要がある。脱線が「我を通しすぎた」ということならば、復元は「我を一切抑える」ということが必要である。宗教が「自己犠牲と自己否定、奉仕」を教えるのも、我を通しすぎて失敗したことを復元するために必要不可欠であったのである。その方法を通してしか本然の立つ位置と行動ができない。このことができないならば、禍福は繰り返すことになる。それは、因縁として繰り返し人間を苦しめることになる。個人の人生も、そして、社会そのものもである。釈尊がすべてが縁によって生じていることを知り出家という形でこの世の縁を捨てるという方法により悟りに至ることができたのも、この原則を知るならば納得できることである。

また、個人の襲い掛かってくる因縁は、社会とともに生じたものである限り、社会も同様に禍福を繰り返すことになる。釈尊のようにこの世から離れて因縁の歯車から逃れることができたとしても、この世においては因縁の歯車の只中にあり、人間の苦悩は絶え間なく続く。大乗仏教は、仏(神)が釈尊の死後信者の苦悶に対して示してくださった成仏の道であり、この教えに勇気づけられて、仏教は広まった。しかし、成仏はいまだ実現していない。この世は依然因果応報の葛藤の世界にある。苦難は、個人だけでなく社会全体をも苦悩に巻き込むことになる。「なぜ、歴史は繰り返すのか?」という歴史家の疑問も、この説明で理解されるであろう。

私たち一人一人は、偶然に今の世の中に生きているようにしか理解していないが、全世界のすべての関わりある人々との関係の中で復元の道を歩もうとしていることに気付かなければいけない。私の思い、私が受けている苦しみは、私個人だけのものではない。時代のをかけた産物である。そして、復元の選択を怠るならば、もっと激しい復元方策の道が待ち受けていることも知る必要がある。抹消である。絶家ということは古くから忌み嫌われていたが、それは復元の道を誤ってしまった場合、復元のむずかしい状態にいたるということである。

現在私たちが置かれている状態とは次の通りである。苦難の境遇にある人は、復元の道にあると悟り、神を崇め、従順に忍耐強く歩むことによって、元の状態に帰ろうとしている過程であると自覚することである。この道は、自分勝手な人にはできない。霊界からは、忍耐強く使命を果たしてくれる子孫を選んで使命を託している。「いい人ほど苦労する」ということわざは、このことを指している。反対に、成功を収めている人は、その先に過去の失敗の二の舞があることを自覚しないといけない。なぜなら、歴史は何度も同じ誤りー自分勝手な選択をして失敗した歴史ーを繰り返しているからである。

最期に、出口日出麿氏の言葉で締めくくりたい。

「霊界で罪科に苦しむ霊魂を救うには、神への祈念とともに、その霊魂と因縁のある者が、なんらかの形で、代わって罪のつぐないをせねばならない。その霊魂の負う罪の多寡、また救済する者の祈念力の大小で、“あがない”の規模、期間に差違はあるが、いずれにしても、この形はふまねばならない。このことなくして現界からの霊魂の救済はない。」