仏教のミニ知識3-釈尊入滅後の歴史(インド)2(龍樹以後)

1、中後期大乗仏教の主題

中後期大乗仏教は、龍樹(150~250ごろ)以降の時代を示す。龍樹は、「空」の哲学の完成者で、大乗仏教を基礎づけた。龍樹以降の大乗仏教の特徴は、初期大乗経典が声高らかに謳いあげた「大乗仏教こそ、釈尊の真の教えを反映した仏教である」というスローガンを受けて、新しい主張を展開した。
「一切衆生悉有仏性(一切の衆生が、ことごとく仏性を有する)」(涅槃経)
初期大乗仏典の後を受けて後期大乗仏典は、仏性という凡夫の成仏の理論根拠を提出する。われわれ凡夫のすべてが「仏性」をもっているが故に成仏可能であるという主張である。
仏性の考え方は、涅槃経の前の「如来蔵経」の中にも、如来蔵という用語で登場する。煩悩に汚れた凡夫の身の中に、如来の身体、如来の智慧、如来の光明が宿っていると教えた。煩悩を追い払えば、内なる仏性が現われてくる。煩悩が多いほど得られる仏性も大きいと説明する。いや、生きとし生けるもの、すべてに仏性があって欲しいという願望でもある。一切の衆生を救わずにはおかないという大乗仏教の菩薩の精神から見て当然の考えである。

(現実には、表面的に仏性があるとはとても思えない人間もいる。「一闡提(いっせんだい)」と呼んでいる来世を否定し現世的快楽を貪欲に追及する人たちである。現世主義者で、来世を考えない人間である。この人たちをどのように見るかは大きな問題であった。涅槃経では、一切衆生悉有仏性と言いつつ、ただし一闡提(いっせんだい)を除くと例外を認めた。「一切」にならないじゃないかという批判に対しては、一闡提に仏教を信じてほしいからそういったのだといった弁明をしている。後の「解深密教(げじんみっきょう)」や「楞伽経(りょうがきょう)」では、この一闡提(いっせんだい)の問題が深く追求される。一闡提(いっせんだい)は、言うなれば無精卵で仏になる可能性がない人という見方もある。)

釈尊入滅から1000年が経過して、釈尊は遠い過去の存在になった。そこで人間一人一人が仏性を持っているという「仏性」理論が必要とされたのではという見方もされている。存在感が希薄になった釈迦牟尼仏の存在性をもっと高めなければいけいない。それを宇宙仏と呼びたい。宇宙に遍在する仏、宇宙そのものである仏、そのような宇宙仏がいずれ出現する。(ひろ さちや氏)。ひろ さちや氏はこう述べている。

2、無著(むじゃく)と世親(せしん)兄弟

小乗学者として小乗仏教の教義を集大成した名著「倶舎論」を著したヴァスバンドゥ(世親ーせしん)(400~480頃)と、弥勒菩薩に見えて弥勒菩薩から大乗仏教の教理を学んだとされる兄のアサンガ(無著ーむじゃく)(395~470頃)は、5世紀の仏教界のスターであった。

小乗仏教にあきたらなくなった無著は、大乗仏教に転向するのだが、この時の逸話が弥勒菩薩から大乗仏教の教理を学んだというものである。無著は、兜率天に行ってそこで弥勒菩薩に見え、弥勒菩薩から大乗仏教の教理を学んだというのである。(瞑想・禅定時に兜率天弥勒菩薩と出会ったと解釈すればいい。)実は、弥勒菩薩の著作とされるものが多数存在する。
(1)「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」(百巻、玄奘訳)
(2)「大乗荘厳経論」(13巻、波羅頗密多羅〈はらばみったら〉訳)
(3)「中辺分別論」(2巻、真諦〈しんだい〉訳)         など
この逸話には、別の解釈がある。ひろ さちや氏は、当時、マイトレーヤ(弥勒)・ナータという弥勒菩薩の熱烈な崇拝者グループがあって、無著はそこから教理を学んだのではないかと推測されている。

3、大乗仏教における学僧の出現

大乗仏教の信者は、仏を観じていた。そうすると、彼らの前に仏が出現し教えを説かれた。大乗経典をつくったのは、瞑想体験にあって仏陀に見え、仏陀から教えを聴聞して書き記した修行を積んだ宗教詩人であった。大乗経典の一行一行は、民衆がエクスタシーのうちに歌う宗教詩である(ひろ さちや氏)。
大乗仏教は、民衆仏教である。だから「学問仏教」とは無縁であった。しかし、大乗仏教においても、理想主義と現実主義が相剋してくると、大乗仏教の理論に没頭し始めた。「一切衆生悉有仏性」に対して、「五性各別」の理論であり、「一闡提(いっせんだい)」の存在の主張であった。

無著と世親の出現に相前後して、4世紀のグプタ朝以降、大乗仏教にも教理研究を専門とする学僧が活躍してくるのである。無著と世親が樹立した唯識説は、多くの後継者を輩出し、学派を形成した。「瑜伽論者(ゆがろんじゃ)」「瑜伽師」と呼ばれる人たちである。唯識論者たちにも「無相唯識派」と「有相唯識派(阿羅耶識派)」の二つの派があり、対抗して龍樹の「中論」を継ぐ「中観派」が形成されて活躍した。

しかし、仏教の学問化はじつは悲しむべき兆候であった。民衆から遊離して学問研究に没頭した大乗仏教はやがて滅亡する運命にあった。7世紀初め、ハルシャ王の時代を最後に大乗仏教はヒンドゥー教の教理を取り入れた密教になるのであった。

中期経典:龍樹以後、無著・世親まで
「涅槃経(ねはんきょう)」
「楞伽経(りょうがきょう)」
「勝鬘経(しょうまんきょう)」
「解深密教(げじんみっきょう)」
「如来蔵経」

後期大乗経典:無著:世親以後のもの
「大集経(だいじっきょう)」
「地蔵十輪経」
「大日経」-密教経典(7世紀中葉~8世紀)
「金剛頂経」-密教経典(7世紀中葉~8世紀)
「理趣経」-密教経典(7世紀中葉~8世紀)
これ以後も数多くの密教経典がつくられたが、チベットに伝わっただけである。

4、インドでの仏教最後の繁栄

後期グプタ朝ハルシャ王(戒日王)(605~647)の時代、北インドでは兵乱は起こらず平和で安定していた。熱心な仏教徒となったハルシャ王は、倹約に努め福徳を行い慈善を施した。その当時インドを訪れていた玄奘は、ハルシャ王治世の仏教繁栄の様子を次のように伝えている。

五印度中に令して肉を食べることを禁じ、もし生命を絶つものがあれば誅罰を受けることがあっても赦されることはなかった。ガンジス河のほとりに数千のストゥーパの高さ百余尺のものを建立した。五印度の城邑村落の人通りの多い町筋や四つ角には精廬(しょうろ)を建てて、飲食物を貯え医薬品をおき、貧しいものたちに施し、あまねく供給して怠らなかった。仏陀の聖跡のある所には、どこも伽藍を建てた。五年に一度無遮大会を行い、国庫を傾けて群衆に施しをしたが、兵器だけは残しておいて喜捨には充てなかった。年に一度諸国の沙門を集め、三七日(二十一日)の間、四事(飲食・衣服・臥具・湯薬)の供養をし、法座を荘厳し、議論の席を広く飾り、互いに論議させて、その優劣を比べさせ、成績良好のものは褒賞し劣悪のものは退けた。戒行を守ること固く、徳行の著しきものは獅子の座に昇らせ、王も自ら教えを受けた。(大唐西城記)

しかし、これが最後の繁栄であった。ハルシャ王が没すると、王国はたちまち瓦解してしまった。多くの歴史家は、ハルシャ王の死の647年をインド古代の終末としている。仏教もそこで一つのピリオドを打たれ、まったく新しい仏教が誕生してくるのである。密教である。