悪霊現象と救い (1)悪霊現象の仕組み

(1) 悪霊現象と悪霊憑依現象
  悪霊現象というと、悪霊と思しき者が憑依したとしか思えない現象を想像されると思います。突然異言を吐くとか奇怪な行動をする人を見ると、悪霊現象なのかなと思われることでしょう。麻薬をやって人為的に異常な世界に入る人もいますが、それも一つの悪霊現象と言えるでしょう。このような現象は、日常的な姿でないため悪霊現象であると理解している人は多いと思います。
 しかし、どうしてそのような現象が起きるのかとなれば皆目見当がつかない人が多いと思います。現在、社会には悪霊現象かと思われる奇怪な現象があまりにも多いので関心だけは強いのではないでしょうか。悪霊が憑依して心を乗っ取られた場合でも、自分の心は片隅に残っています。しかし、どうすることもできず悪霊のなすがままになすすべなく翻弄されていきます。異常行動を起こした人が「〇〇しろ」という声が聞こえてきてどうしてもそうしなければいけないように思ったと供述していることがありますが、理不尽な犯罪の背後には悪霊の働きが関与しているのです。
 悪霊に憑依されやすい人は、霊界と通じやすい体質をもっている人です。いわゆる霊的能力、霊能者体質です。こうした体質の人は、霊界とコンタクトできやすいので霊界にいるいい人も悪い人もコンタクトしてくるのです。いい人がコンタクトしてくる場合は、素晴らしいひらめきやアドバイスを受け取って自分の力になっていきます。しかし、悪霊にもコンタクトされやすいので注意する必要があるのです。修行を積んだ霊能者といえども注意しなければいけません。霊能者は悪霊に対抗する力を取得して、善霊の協助のもとに悪霊からの救いの役目をなしています。しかし、霊界とコンタクトしやすいという体質は一面危険なものです。自分本位に使用していると、悪霊にやられてしまいます。悪霊には親玉サタンから地縛霊など末端の悪霊までいるので、自分の心が悪に傾けばすぐに悪霊に乗っ取られてしまいます。このため、修行をおろそかにすることは致命傷になりかねません。
 霊能力のない私たちには関係がないと思われるかもしれません。しかし、悪霊現象は皆さんが考えているような特殊な現象だけではありません。我々は日常的に悪霊の攻撃を受けています。我々が悪霊だと感じないのは、異常な形でなく普通の形で入って来ているからです。私たちは、普通に頭が重いとか肩が重いと言っています。こういう時には体が思うように動かず難儀をします。今日は体調が悪いということで処理しています。しかし、人間は本来頭が重いとか肩が重いということはありません。悪霊が来ていない状態では、頭はすっきりして体は軽いのです。そういう状態はほとんどないというならば、もう既に悪霊に入り込まれているといっていいでしょう。
 それが進んでくると、精神的疾患と言われる状態になってくるのです。信仰生活を積み重ねて少しずつ悟りの世界が開けてくると、良くない思いが悪霊を引き寄せてくるのが感じられるようになります。頭が重いとか肩が凝るという状態は本来の姿ではないこともわかってきます。頭はすっきりしていて体は軽いのが普通です。修行を積んだお坊さんが元気なのも、悪霊を屈服させてきたからなのです。

 

(2) 普段の日常生活の中でいつも悪霊は活動している
 では、われわれの日常生活の中で悪霊はどのように活動しているのでしょうか。悪霊と言っても様々な悪霊がいます。悪霊には親玉(サタン)から末端の地縛霊、犯罪者の霊まで多種多様です。神の存在を知っているものから神様のわからないものまで。地縛霊にいたっては死んだことさえ分かっていません。その悪霊の数たるや、人類歴史の期間を考えると、膨大な数いることだけは確かです。親玉サタンは、悪霊の棟梁としてこの世を牛耳っています。(サタンの目的はこの世の支配なので、よほどのことがない限り姿を現すことはありません。)
 それらの悪霊がひとりひとりの人間に入れ代わり立ち代わり日常的に入り込んでいるのです。日々心が変わるのは、入り込んでいる悪霊が変わったからだともいえるのです。
 ちょっとした思いの瞬間、悪霊は入って来ます。私の思い、言動をサタンと配下の悪霊はいつも見つめています。入る条件があるならばいつでも侵入することができます。従って、自分の心を制御できない人は悪霊の思うつぼになります。怒りやすい人、平常心を失いやすい人、落ち込みやすい人、自己顕示欲の強い人、こうした性格の人は気を付けないといけません。自分の感情に踊らされると、それを悪霊がもっていくのです。おお喜びした後、しばらく経って急にさみしくなるのは悪霊があなたの情を奪ったのです。不安な状況に陥れられていくのです。
 自分の心を制しない人は、城壁のない破れた城のようだ。」箴言25-26)
 この聖句は、まさにこのことを言っています。あなたの体は悪霊の出入り自由なお城になっているのです。このような状態ですと、悪霊が必要な時に訪ねてくることができることになります。
 「私はあなたがたにいう。誰でも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5-28)
 この聖句も、誰もがちょっとした瞬間に思う情さえ、おろそかにできないといっています。この瞬間、悪霊が囁いてきてそそのかしたならば、あなたは罪を犯すことになるかもしれません。
 何も知らずに生きているならば、まず悪霊にやられていると思っていいでしょう。イエス様の言葉に「聞いて悟るがよい。口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである。(中略) 口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15-11~20)
 私たちの日常の思いが具体的な罪を起こす原点であることに気づく必要があります。私たちの周りの環境はあまりにも悪なる誘惑に満ちています。我々は知らず知らずのうちに悪霊にしてやられているといっていいでしょう。あまりにもそのことの重要さに気づかないのは、ささいな当たり前の日常のことなので、悪霊の影響を受けているなど少しも感じていないからです。
 ギャンブルでビギナーズラックという現象がありますね。はじめてギャンブルをした人が偶然大当たりを引き当てるという現象です。一見いいことのように思いますが、このことが引き金になってギャンブルにのめり込んでいき、ギャンブルの虜にされていくことがあります。知らず知らずのうちに私の心を悪霊たちが支配していくのです。当人は、自分で判断したと思っているのでそれが悪霊の仕業であると思うこともありません。気づかれないでその人の心を支配していくのがサタンと悪霊の怖いところです。
 自分本位、プライド、おごり、悲観、邪悪な思い、それらはすべて悪霊の好むものです。平常心を失ってはいけません。厳密にいえば「私」という観念はサタン(悪魔)であるともいえるのです。悪霊の醸し出す波動は、イエス様が見抜いているようにわかるものです。悪霊が入れる条件ができると、いつでも入りたいときに入るようになります。悪霊が侵入権をもったといっていいでしょう。この段階でも表面的には変わりませんので、だれも変だとは気づきません。しかし、この思いがエスカレートしていっていつしか誰の目にもわかるような罪を犯します。
 聖書に次のような言葉があります。
「強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その分捕品を分けるのである。わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」(ルカによる福音書11-21~23)
 今は大丈夫でも、悪霊の強力な奴が出てきて、私の守り神に打ち勝ったならば、私は悪霊に乗っ取られるのです。さらにイエス様は、神の守りがないならば、悪霊が集団でやって来てひどい状態を創り出すとも言っています。
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰ってみると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである。」(ルカによる福音書11-24~26)
 悪霊の住処になってしまっても、何ら神の防護をしない限り、状態は悪化していくのです。

 

(3) 善霊の業と悪霊の業(善神・悪神とも呼ばれている)
 私たちの思い、言動はすべて神側の善霊とサタン側の悪霊によっていつも見つめられています。この基本的な仕組みがわからないと、私たちは悪霊に対処することはできません。自分の思いで自由に生きているのではないのです。では、どういう仕組みなのでしょうか。
 神と神側にいる善霊たちと天使たちが協助する業が善霊の業であり、サタンとサタン側にいる悪霊たちが協助する業が悪霊の業です。善霊の業と悪霊の業は形としては差異がありません。違いは、悪霊が協助した業は動機が自分中心なので時間が経つにつれて不安と恐怖と利己心を増加せしめ、また健康を害するようになります。反対に、善霊の業は動機が神の御心に適うため時間が経つにつれて平安感と正義感を増進せしめ、健康も向上させていきます。  
 たとえば、祈願して運よく宝くじにあたったとしましょう。普通に考えれば、神様が応援してくださった、ありがたい、良かった良かったと善霊の業と解釈するでしょう。まさか悪霊の仕業であるなどと誰も思わないでしょう。しかし、宝くじに当たったことで、気持ちが大きくなり、有頂天になり、その後の人生が波乱万丈になったとしたら、どうでしょうか。悪霊は、一見良さそうな現象を起こして人間を引き込むのです。宝くじに当たることで、心に変化が起きるのです。自分の心に起きる変化を狙って悪霊は攻撃をしかけているのです。20世紀終わりのバブル経済の時、悪霊は日本人に金こそすべてという価値観を擦り込んで多くの日本人を狂わしてしまいました。
 もう一、二、例を挙げてみましょう。不幸が続き詐欺にまであって大金を失ったとしましょう。不幸の連続は悪霊の仕業には違いありません。周りの人からは、何とお人よしなんだと馬鹿にされて立つ瀬がないでしょう。不運が続くことは悪霊にやられたことに間違いありませんが、不運を耐え忍んで甘受すれば、そこで悪霊の攻撃は止まります。不運を甘受することによって罪を拡散せず罪を止めることになり、その後健康的に運も好転することがあります。わざわいは転じて福になるのです。表面だけで判断してはいけないのです。
 もう一例、家族の関係についてあげてみましょう。子供がいうことを聞かないで親に乱暴ばかりするケースを考えてみましょう。子供が乱暴するのは、悪霊の仕業であることは間違いないでしょう。乱暴をふるう子供は、ただ衝動に駆られてやっているだけでしょう。止めようがありません。自制心を失い、もはや自分で自分を律することができない状態です。完全に悪霊に支配されている悪霊現象です。子供は、自分の力で立ち直る力を既に失っています。(悪霊の力が強烈である場合、子供の心は乗っ取られていきます。) 家庭DVという問題ではこうしたケースが多いのではないでしょうか。
 こうした場合、暴力をふるう悪霊人と親との間で信仰の闘いが始まるのです。よく、「この子は悪いのではありません。この子に加担している悪霊が悪いのです」といって親は子供をかばいます。その通りです。子供の背後にいる霊(多くの場合先祖)が子に乗り移り、悪事を再現しているのです。
 このような場合、親子が一つになって悪霊と闘わないといけないのです。子供だけの問題ではありません。悪霊は、子供と親の関係を突き付けていることに気づかないといけないのです。

 

(4) 人類の救いの歴史-現代の救い
 お釈迦様は、苦の続くこの世の生活から出家して修行を積まれて悟りを開かれました。お釈迦様は、修行を通じて悪魔の挑戦を退け悟りにいたりました。最後の色魔の誘惑は誰もが知るところです。
 悟りを開かれたお釈迦様は、四諦を説かれました。「この世は無常なるがゆえに苦なり」ここにこの世で生きるうえでは、苦から逃れられないというこの世の限界を述べています。だから、この世の苦から完全に逃れるためには出家することが必要だと説かれたのです。在家の人についは、他者への施しと戒(戒め)を守ることを教えます。そうすれば、布施の功徳を積んで悪事をせず、来世は天界に生まれると教えたのでした。
① 苦諦・・・われわれの生存は苦である。一言付け加えるならば、無常なるがゆえに苦なり、である。生・老・病・死が基本的な苦(四苦)である。この四苦に加えて、a愛別離苦、b怨憎会苦、c求不得苦、d五陰盛苦(物質界と精神界の一切の事物・現象が苦である)。ここから四苦八苦という成句ができた。
② 集諦(じったい)・・・苦の原因に関する真理である。自己愛があるが故に執着するのであり、苦しむのである。a欲愛(感覚的・物質的な欲望)、b有愛(来世の幸福を願う欲望)、c無有愛(死後の世界の虚無を願う気持ち)
③ 滅諦・・・原因の滅に関する真理である。医学の方法によく似ている。
④ 道諦・・・方法に関する真理である。治療の段階である。八正道(実践)を教えられている。a正見、b正思惟、c正語、d正業、e正命(正しい生活)、f正精進、g正念(教えを忘れないこと)、h正定(精神の集中と解放)
*八正道の教えは、基本的に出家者に対する教えである。

 お釈迦様の教えは、当時の人々の灯明となりました。しかし当時の時代圏では、出家という方法が不可欠で、この世で心に平安を保ち幸せを得ることには限界がありました。それゆえに、この世での救いは後の仏と呼ばれる弥勒の降臨に希望を託さざるをえなかったのです。キリスト教でも、イエス様の十字架をもってしてもこの世の救いは完全には実現されなかったため、再臨主の降臨に引き継がれました。世の東西両洋でメシア降臨が期待され続けられてきたのです。メシアが降臨されるとき、この地上で私たち人類ははじめて救われると信じられてきたのです。弘法大師空海も、弥勒降臨の時には私も降臨して協力すると述べています。
 悪魔の領袖サタンは、この世の君と言われます。メシア降臨の終末の時、この世の支配者であるサタン(悪魔)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まると言われてきました。そして、終末に降臨すると予言されていたメシアは現実に来られてサタン(悪魔)との壮絶な闘い(愛と忍耐の闘い)に勝利されて私たちに救いの道をもたらして下さいました。私たちは今、メシアにつながることによって、この地上においてこの世の主サタン(悪魔)から逃れて神のもとに戻る道が開かれたのです。わかりやすくいえば、この地上に地上天国を築く道筋が開かれたのです。
 現在悪霊現象が頻発しているのは、地上にメシアの救いがもたらされる時が来たために、その恩恵に浴しようと善霊人、悪霊人がこぞって霊界から降りてきているのです。いい人が苦労したり悪霊現象に悩まされたりしているのは、こうした背景があるからなのです。霊界にいる霊人たちも、地上にいる縁ある人(子孫が多い)がメシアにつながることを期待しているのです。メシアの価値を分かっている霊人はあまりいないと思いますが、協助している地上人がメシアにつながるならば喜び、無視するならばがっかりしていることでしょう。そして、メシアと関係がもてないならば救いは先延ばしされてしまうのです。
 既に、メシア以降の千年王国時代は出発しています。しかし、その恩恵にあなた自身が浴するのか否かは、あなたの価値観と生き方次第です。今までこの世を牛耳ってきたサタンの価値観にとらわれるならば、サタンと共に滅ぶ運命にいたるでしょう。反対に、神様のもとに帰ることを選択するならば、希望の未来が切り開かれていくことでしょう。しかし、神様のもとに戻る道は、自らの中に侵入しているサタンと悪霊の条件を払しょくすることなくしては現実のものとなりません。すべては人間次第です。おそらくほとんどの人がいままでの価値観のもとにとどまるでしょう。その場合、人類に大きな悲劇が来ることは避けられないものとなります。