本居宣長の禍津日神論(宣長は、悪神《悪魔》と出会っていた)

「さて世間にあらゆる凶悪事邪曲事(あしきことよこしまなること)などは、みな元は此ノ禍津日(まがつび)ノ神の御霊より起るなり(『古事記伝六』)

「禍津日(まがつび)ノ神」と名づけられた悪神は、悪霊を意味しているのではない。もっと根源的霊的存在として宣長は認識している。現在、「悪魔」と称している存在を認識したといえるようだ。しかし、そこからの対応が多くの宗教始祖の対応と違っていた。

 

宣長は、世の中のことはすべて神のしわざであり、「神の御心はよきもあしきも」これに従わなければならないと主張したのである。「あしきこと」とされる禍や凶事(道徳的な悪も含む)も神のしわざとしてこれに従うべきであると主張したのだった。宣長の心にあったのは、「神の御心はよきもあしきも人の心にてはうかがひがたき事にて、この天地のうちのあらゆる事は、みなその神の御心より出で神のしたまふ事」であり、「よろづの事はただ神の御はからひにうちまかせて、をのがさかしらを露まじへぬぞ、神の御国のこころばへには有ける」(「石上私淑言」)という観念だった。(相良p134)

禍津日神の存在を強く認めるに至った宣長は、「直毘霊」の草稿である『道テフ物ノ論』(「古事記雑考」所収)において、禍津日神が「枉津日神ノシワザコソ、イトモカナシキワザナリケレ」と記している。思わしからぬことがあっても、それが神のしわざであるからそれに従わざるを得ないという姿勢と思想が形成されていくのである。(相良p134)

悪神のしわざにも神の御はからひがあるという受け止め方は、善悪二元論人為的に分けるのでも退けるのでもなく、悪神をも受け入れるというところに複雑な思いを抱かせる。私は、「イトモカナシキワザナリケレ」という言葉の中に、宣長のやるせない心情を感じる。

 

(1)「悪神」という観念は、宣長の独創的な考えだった

相良氏は、宣長が強調した禍津日神的な考え方は、宣長の前にはほとんどなかったといわれる。近世の儒者たちにも、このような発想は見当たらない。宣長もまた「さてかの世の中にあしき事よこしまなる事もあるは、みな悪き神の所為なりといふことを、外国にはえしらずして」「云々は儒者の常の論なれども、(中略)これ神には邪神も有て、よこさまなる禍のある道理を知らざる故のひがごとなり」(「玉くしげ」)などと、儒教にも仏教にも禍津日神的な思考が存在しなかったと主張している。(相良p255~256)

国学者の中にあっても禍津日神的思考をもった思想家を相良氏も知らないといわれる。宣長の影響を強く受けた平田篤胤も、「人として、穢き事悪き事を悪み怒らぬものなく、怒りては荒ぶる事をも為ぞかし。これ禍津日の神の御霊を賜有ればなり」(「霊能真柱」)と、宣長におけるような禍の根拠としての禍津日神は姿を消し、むしろそれは善神として捉えなおされている。近世のみでなく、中世の神道思想においても宣長禍津日神なあたるものは見いだせないのではなかろうか。(相良p256)

宣長の、禍津日神という思考はきわめて独自のものである。(中略)石川雅望の「ねざめのすさび」の中に「(記紀が成ってから)世は千年ばかりにやなりぬらむ、その間に博学多識なる人あまた出たれども、つゆかかる説をいひ出たる者なし」といっている。宣長禍津日神論が特殊なものであった証拠であろう。(相良p256)

 

(1)禍津日神とは何か

「世間に、物あしくそこなひなど、凡て何事も、正しき理ㇼのまゝにはあらずて、邪なることも多かるは、皆此ノ神(禍津日神)の御心にして、甚く荒び坐時は、天照大御神高木ノ大神の大御力にも、制みかね賜ふをりもあれば、まして人の力には、いかにともせむすべなし。かの善人も禍り、悪人も福ゆるたぐひ、尋常の理ㇼにさかへる事の多かるも、皆此ノ神の所為なるを云々。(「古事記伝」序文『直毘霊(なほびのみたま)』)

宣長は、正しい道理のままではないこの世の事態、尋常の道理に反している多くの事態の原因としてあるのが、禍津日神の所為だというのである。宣長は、この世に悪や邪なことのあらざるをえないことの、また善人が不運な目に会い、逆境に立ったり、その反対に悪人が幸運をつかみ、繁栄したりするというこの世の〈背理〉の原因が禍津日神にあるというのである。(子安p101)

この主張は、人間社会の不合理に対してのさまざまな宗教的救済議論を混ぜ返している。「善人が禍り、悪人も福ゆる」というこの世のもっとも代表的な不合理な事態に対し、《積善の家に余慶あり》とか、《三世応報の理》というような倫理的行為者を不合理な事態から救う議論を絶望させるように〈背理〉の事実を突きつけるのが、宣長禍津日神(悪神)なのである。(子安p102)

「世中の万の事は、善悪の神有て、その御所為なること、いささかも疑ひなし。善人は福え悪人は禍るは、これ善神の御しわざ、又悪人も福え善人も禍ることあるは、これ悪神のしわざにて、かくのごとく、御国の伝へは、善神と悪神とある故に、世人の禍福の事、道理のままにはあらざるも、その理いと明らかなる物を、何を疑ひてか、実は神はなき物と思はん。」(『くず花』)」(子安p103)

正理は善神の所為、背理は悪神の所為だという。続けて、〈天命〉の説(儒教)の説などは、「聖人のさかしら心にて、道理を以て、此方より作り設けたる物」であるから、一見それはよく道理にかなっているように思われるが、世の中の事実に合っていない。むしろ悪神の存在を記しているわが古伝の方が、世の事実に合っているのだというのである。(子安p103)

宣長が言うように、この世は背理が大半である。それゆえ、多くの人間が苦しんでいるのであり救いを求めているのであるが、宣長は背理をも真理と言ってやむなきこととしてしまった。

 

(3)禍津日神の起源

宣長は、「古事記伝」において、「貴きも賤きも善も悪も、死ぬればみな此の夜見(黄泉)に往」(巻之六)くが、この夜見の国は穢れたきたない国である。「世の中の諸の禍害をなしたまふ禍津日神は、もはら此の夜見国の穢より成坐るぞかし、あなかしこかしこ」(巻之六)と書き、上述の言葉となる。人間だれもが死ぬと、夜見(黄泉)の国に行くという。

宣長によれば、世の中のあらゆる禍事をなす根元はこの禍津日神であり、その禍津日神は死者のゆく夜見(黄泉)国の穢よりなったものであるというのである。(中略)しかうして、死に準ずる世の中のあらゆる好ましからざることがこの禍津日神のしわざとして捉えられている。勿論、人の死そのものもこの禍津日神のしわざである。「凡て死ぬる所由は、病にまれ、何にまれ、みな凶悪ぞ」(巻之七)

すべての禍悪は禍津日神のしわざである。様々な禍悪をなすのは直接的には悪神のしわざであるが、「悪神と申すは、かの伊邪那岐大御神の御禊の時、豫美(黄泉)国の穢より成出たまへる、禍津日神と申す神の御霊によりて、諸の邪なる事悪き事を行ふ神」(「玉くしげ」)である。禍津日神はすべての禍事の、悪神の総元帥なのである。(相良p257)

その禍津日神は、神代より諸の邪なる事悪しき事を行っている。それゆえ、神代の「事どもの趣き」から、人の世における私たちの見方を規定するような「妙理」を捉えようとした宣長によれば、記紀の神代に書かれていることがそのまま真実であり、神代の記述を見るならば、悪神の行いは今後も変わらない。人間は、ただ神に従順に従うだけであるということになる。

「人は人事を以て神代を議(はか)るを【世の識者、神代の妙理の御所為(みしわざ)を議ることあたはず。此を曲て、世の凡人のうへの事に説なすは、みな漢意に溺れたるがゆゑなり、】我は神代を以て人事を知れり。いでおもむきを委曲(つばら)に説むには、凡て世間のありさま、代々時々に、吉善事凶悪事(よごとまがごと)つぎつぎに移りもてゆく理ㇼは、大きなるも小きも、【天ノ下に関かる大事より、民草の身々のうへの小事に至るまで、】悉に此ノ神代の始メの趣に依るものなり。(『古事記伝七』)」(子安p93~94)

 

(4)人は死ぬと皆、夜見の国へ行く《安心なき安心》

宣長は、死が間近に迫ったころ、次のような歌を詠んでいる。

「よみの國 おもはばなどか うしとても あたら此世を いとひすつべき」

「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの國を ねがふおろかさ」

この歌を引用した小林秀雄氏は、宣長という一貫した人間が、彼に最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたといふことであると語られている。(小林p38)

ほんとうにそうだ。人は、皆穢れた黄泉の国に行くのが定めなのだという達観とも諦観とも言えるような歌を詠んでいるところに、宣長は何を見ていたのであろうかという疑問が生じる。「宣長の主張は彼の遺言書に集約されている。敢えて最後の述作と言ひたい趣のもの」と、小林秀雄氏は言われる。宣長には、死の前年1800年に書いた風変わりな遺言書がある。遺業の継承、教訓的言辞もなく、葬送、墓地、祥月の墓参などの指示だけである。彼岸への観念的あるいは情緒的な架橋のうちに自らの死をとらえることはまったくされていない。(子安p133~138)

淡々と事務的に書き記された遺言書から、何があろうと善神にも悪神にも従順に従うのが定められた道なのだという意識のなせる技なのであろうか。

この世の不合理な事実を突きつける宣長は、死の問題について「人々の小手前にとりての安心は何か」という問いに、有名な〈安心なき安心〉という論が展開される。

「小手前の安心と申すは無き事に候。其故は、まず下たる者はただ、上より定め給ふ制法のまゝを受けて、其如く守り、人のあるべきかぎりのわざをして、世をわたり候より外候はねば、別に安心はすこしもいらぬ事に候。然るに無益の事を色々と心に思ひて、或いは此天地の道理はかやうかやうなる物ぞなど々、実はしれぬ事をさまざまに論じて、己がこころこころにかたよりて安心をたて候は、皆外国の儒仏などのさかしら事にて、畢竟は無益の空論に候。(『答問録』)」

宣長も、死後への不安がだれにもあることを、そして仏教が安心論を組み立てていることに理由があることは認めている。このことに対して、次のように述べる。

神道の此安心は、人は死候へば、善人も悪人もおしなべて、皆よみの国へ行くことに候。善人とてよき所へ生れ候事はなく候。これ古書の趣にて明らかに候也。・・・・儒仏等の説は、面白くは候へ共、実には面白きやうに此方より作りて当て候物也。御国にて上古、かかる儒仏等の如き説をいまだきかぬ以前にはさやうのこざかしき心なき故に、ただ死ぬればよみの行物と思ひて、かなしむより外の心なく、これを疑ふ人も候はず、理屈を考える人も候はざりし也。(『答問録』)」

宣長は、漢意批判を繰り返して、死ねばだれしも黄泉の国に行かざるを得ないのであって、悲しさの中に身をゆだねきて、安心を見ようとした。宣長は、死を予め覚悟のうちにとらえて、生を律しようとしているようである。凝固した姿勢のうちに己の生を収縮させず、己の眼差しをたえず生へと翻転させ、生に向かって己を十全にひらけと語っているように思われる(子安p138)。

 

(5)結びにかえて

宣長にとって、禍津日神(悪神)の発見は悲しむべきことだったのではないだろうか。禍悪が人間の行為から出ただけではなく、「禍津日神」という実体(悪神)が存在しているということを実感したことは、人間には如何ともしがたいという観念を抱かせたのではないだろうか。そして、神代より善神と悪神によって織りなされてきた人間の歴史というものは替えがたく、悪神も活躍する禍福のあざなえる歴史とならざるを得ないという結論となったのではないだろうか。これが、善神だけでなく悪神にも従順に従うという思想になったとも理解できる。

神道において、この後悪神という存在を正面から取り上げるのは大本教出口王仁三郎である。出口王仁三郎の「悪神論」については、このブログでも書いているので参照していただければいいが、悪神・悪魔あるいはサタンと呼ばれてきた存在と宣長は対面したといえそうである。

禍津日神という悪神がいかなる存在であって、人間はその力を降伏させることができるのか、実はこのテーマがキリスト教の《メシア待望論》である。

 

(参考文献1:相良 亨著「本居宣長講談社学術文庫2011)

(参考文献2:子安宣邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社2001)

(参考文献3:小林秀雄小林秀雄全集第十四巻 本居宣長」新潮社2002)