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禅の世界と禅の未来(1)禅の歴史

(1)日本における禅の影響

日本文化の中における禅の影響は、他の宗教宗派とは比べもののないくらい大きいものがある。我々が日本文化と呼んでいるもので、禅の影響を受けていないものを探す方が難しいくらいである。それほど禅は、私たち日本人の精神と生活文化の中に浸透している。元は異なる出発点をもっている文化も、禅と触れ合うことによって多大なる影響を受けている。それゆえか、禅は一宗教宗派という枠からはみ出して日本精神そのものとなっている観がある。

なぜ禅がここまでの影響を日本人に与えたのか、そこには自己鍛錬を通して、生き方、芸術創造と密接に結びついた方法を提示したことにあるだろう。

 

(2)禅の始まり

仏教の修業は、戒・定・慧とされる。のちの大乗仏教六波羅蜜になると、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を菩薩行の六つの基本的徳目とされた。禅は、その禅定にあたり、覚りはその慧・智慧にあたる。禅宗の「不立文字(ふりゅうもんじ=文字を立てず)・教外別伝(きょうげべつでん=教えの外で伝えられる)」といわれている教えの方法は、釈尊の覚りにあたっての次の伝承によっている。

仏教は、釈尊が苦行の後菩提樹の下で座禅をしていた時、覚りを開いたのが始まりである。伝説によれば、釈尊はお弟子さんらを前に、一本の花を摘み上げた。だれも反応しなかったが、摩訶迦葉だけがにこっと微笑まれた。このとき、釈尊は、「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字(ふりゅうもんじ=文字を立てず)、教外別伝(きょうげべつでん=教えの外で伝えられる)にして摩訶迦葉に付嘱(言いつけて頼む)」と声をかけ、法の授受は終わったという。(「無門関」第六則)

以来、西天二十八祖を経て、菩提達磨が禅を中国に伝えたとされ、さらに六祖慧能等を経て今日まで法が伝わっている。しかし、禅宗では覚りの最初は釈尊であるとは見ていない。釈尊の前にも仏がいたと説く。過去七仏という相承である。(*1)

 

(3)中国禅

菩提達磨によって中国に伝えられた禅は、二祖慧可以降六祖慧能を経て中国全土に広がっていき、中国の禅が形成されていく。中国的な禅を「祖師禅」と呼ぶ。(それ以前のインドの禅は、如来禅と呼んで区別している。如来禅では、座禅と覚りとはとりあえず区別されている。)

祖師禅は、禅定の中に覚りの働きをみるのである。定慧一等(じょうえいっとう=禅定と智慧は一つにして等しい)を標榜する。と同時に、教理を用いず、覚りの伝達において現実の事物などを直截に扱う。「柳は緑、花は紅」など中国の文献はほとんど語録であり、論理的体系的に説くことはない。(竹村牧男)

中国禅は、唐代に発達して宋の時代に頂点を迎える。「禅は、インド思想を離れて実践的で倫理的儒教的色彩を帯びた。禅は、その実践性を儒教から得、儒教は禅の教えを通して、インド的な抽象的思索を吸収し、孔子一派の教えに形而上学的な基礎を与えることに成功した(鈴木大拙)」。禅は、中国発祥の仏教ともいうべきものとなった。「禅は、中国人の実証的(経験的)性格に、また一部はその神秘的思念に訴えた。禅は、文字の知識を軽蔑し、究極の実在を直接に把握する最も有効な手段であると訴えた。一方、華厳哲学と禅、孔子老子の諸説がぶつかり融合する中で、朱子朱熹1130~1200)が中国思想の精華となる朱子学をまとめた。

朱子の提唱した朱子学は、中国人の考え方、感じ方の一切の条件を満たしており、実践的で実証主義に終始していて、中国人の好む「秩序の哲学」であったのである(鈴木大拙)」。

 

中国禅は、北宋禅と南宋禅に分裂する。五祖弘忍の法を継いだのが、北宋禅の始まりとされる神秀である。北宗禅は、『楞伽経の禅』と呼ばれる。それに対し、六祖慧能を祖とするのが南宋禅で、『金剛経の禅』と呼ばれる。唐代以降南宗禅は栄えたのに対し、北宗禅は衰退する。日本では主として南宗禅が導入された。

南宋禅は、二つの流れに分かれていく。看話禅と黙照禅である。看話禅は、修行者に課せられる問題である「公案」を用いて修行する方法をとる。「公案」は、宗の時代の大慧宗杲(そうこう)あたりから始まったとされている。臨済宗に於いて発達した。黙照禅は、座禅そのものをひたすら深めていくもので、代表的な人物は曹洞宗の宏智正覚(わんししょうかく)である。道元の禅は、これに近い。

慧能を祖として、中国の禅宗五家七宗に分かれていく。臨済宗、潙仰(いぎょう)宗、曹洞宗雲門宗、宝眼宗の五家と臨済宗の黄龍派と楊岐派である。

宋代の五祖法演(臨済宗楊岐派)の次の説話は、禅的方法と禅の精神を理解するうえで多大な助けとなるだろう(鈴木大拙*2)という。
「人が、禅とはいかなるものかと問えば、自分は禅とは夜盗の術をまなぶに似たるものと答えるであろう。ある夜盗の息子が自分の父の年老いたるのを見て思った。『親父が商売をやれぬとすれば、この己より外に自家の稼ぎ手はないわけだ。己が商売をおぼえねばなるまい』。彼はこの考えを父親にひそかにもらし、父親もこれを承知した。一夜、父は倅を伴い、ある豪家に至り、塀を破り、屋内に入り、大きな長持ちの一つを開き、息子に、このなかに入って衣服を取り出せと命じた。息子がなかに入るや否や、父はその蓋をおろして鍵をかたく掛けた。そして中庭にとびだし、泥棒だと大呼し、戸を叩いて、家中のものを起こした上で、さて己はさきの塀の穴から悠々と逃げ去ってしまった。家人は立騒いで灯をつけたが、盗人はすでに逃げたことが判った。その間に長持のなかに固く閉じ込められた倅は、父親の無情をうらんだ。彼はひどく煩悶したあげく、名案が不意に浮かんだ。鼠の物を嚙(かじ)るような音を立てると、家人は下婢に灯を取って長持を調べよと命じた。蓋を開けるや否や、ここに閉じ込められていた捕虜は飛びだした。灯を吹消した。下婢を突飛ばした。そして一目散に逃出した。人々は彼を追いかけた。彼は路傍に井戸を認めたので、大石を抱き上げてこれをその水中に投じた。すると、暗い井のなかに、盗人が入水したのだと思って、追手はことごとく井戸の周囲に集まった。そのうちに彼は無事自家に戻った。彼は危機一髪のところだったといって、父親の非道を鳴らした。父親がいった。
『まア、憤るナ、どうして逃げてきたかちょっと話してみろ』
そこで倅がその冒険の一部始終を語り終わった時、父親はいった。
『それだ。お前は夜盗術の極意を覚えこんだ』

この過激な夜盗術の教授法によって、禅の方法論が説明される。禅では弟子がその師匠に教えを求めると、師は弟子の面を打って一喝する。『咄、この懶者奴(なまけものめ)』と。禅の鍛錬法は、心理がどんなものであろうと、身をもって体験するということであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。

(4)日本禅

日本に最初に禅を請来したのは、奈良時代の道昭であるといわれている。やがて、栄西(1141~1215)が臨済宗を伝え、道元(1200~1253)により曹洞宗が伝えられた。

鎌倉時代、禅宗は①栄西などの教禅兼修(教外別伝という禅宗禅宗以外の宗派を兼ねて学ぶ)の禅、②蘭渓道隆・無学祖元・一山一寧などの中国僧が伝えた鎌倉禅、③南浦紹明(大応国師1235~1308)が伝えた臨済宗楊岐派―我が国臨済禅の主流、④道元によって伝えられた曹洞禅である(平川彰著「インド・中国・日本仏教通史」春秋社)。この他江戸時代に隠元によって伝えられた禅があり、現在は①臨済宗栄西南浦紹明、宗峰妙超(大燈国師1282~1337=法系に関山慧玄、一休宗純沢庵宗彭盤珪永琢が出た)、白隠慧覚、②曹洞宗道元、螢山紹瑾、③黄檗宗隠元、の三つに大別される。

 

臨済宗の禅は、公案によって修行するのが通常で、それは現実社会での働きを非常に重んじるものである。白隠慧覚(白隠禅師=1685~1768)は、臨済宗中興の祖である。一方、曹洞宗は、只管打座を標榜している。曹洞宗の教団の拡張は、道元の後を継いだ孤雲懐奘(こうんえじょう=1190~1280)の弟子孫弟子に螢山紹瑾(けいざんじょうきん=1268~1325)らすぐれた弟子が輩出して教団を拡大させていった。現在も、曹洞宗が単独の宗団傘下の寺院数が最も多いといわれている。黄檗宗は、明末の禅僧・隠元隆琦(1592~1673)が日本に来て伝えた禅で、中国臨済宗の無準師範下に連なるものだった。

なお、知識習得の従来の方法に逆らうことを主なる方法とした禅が、儒教の研究を奨励し、印刷術を普及させる一因となったこと、禅僧は、仏教の書籍のみならず、儒教神道の文学類も印刷したことも付記しておく。また禅僧は、禅院に籠るだけでなく、各地の大名の顧問としても活躍した。

(*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014)

(*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940)