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宗教経済(神社・寺の宗教ビジネス今昔物語)

「お金で救われるはずがない」と宗教否定論者は語る。しかし、お釈迦様の衆生救済の出発がお布施であったといわれるように、布施・浄財は神仏との縁をもつ最初のきっかけ、信仰の出発点である。布施・浄財による功徳・救済の実感は、宗教成立の原点であり発展の原動力である。しかし草創期を過ぎた宗教教団は、今度は逆に俗世の社会秩序、教団の経営に束縛されることになる。現在寺の檀家の減少が寺の経済を困難にしているが、社会の変化に対応して宗教的な使命を見つけないと存続が難しくなる。

宗教が存続していくためには、その時代時代にあった宗教上の使命を悟り、布教活動を変革していくことが欠かせない。しかしこれは、教団成立の宗教教義があるため大変むずかしい。歴史が示しているところによると、社会の進展に対処できず、新興宗教にその使命を譲り、自らは取り残される場合が多い。また、教団内における信仰的な堕落・教義解釈の硬直性、教団運営の俗世間化のため、あるいは庶民の信仰姿勢の変化によって、しばしば危機に瀕している。特に、宗教教団自体が浄財として集めたお金の扱い方を誤り堕落していくことが多い。お金は、宗教の堕落の大きな原因の一つである。

日本の宗教歴史を経済面からふりかえると、社会の変革期に寺社それぞれが知恵を絞って生き残ってきたことがわかる。五来重氏は、名著「高野聖」の中で、日本の宗派・教団の経済活動を「荘園経済」「勧進経済」「檀家経済」「観光経済」と移り変わってきたと述べられている。生き残っていくためには、いかに庶民を感化し受け入れられるかにかかっている。

五来重氏の説を簡単に説明すると、古代日本の寺は国家によって庇護されていた。国家のお金によって寺院の運営はなされていた。平安時代には、寄贈された荘園から上がってくる富によって賄われていた。しかし、古代の体制が力を失ってくると、寺院は存続のために方策を講じる必要が生じた。勧進経済である。高野聖に代表されるように各地に赴き、お参り・納骨の意義を説き、勧誘するのである。丁度浄土信仰の浄土詣りと霊場納骨がブームとなっていたので、そのブームに乗るのである。勧進経済の有名な例は、奈良時代の行基の奈良東大寺の大仏建立である。国家財政の窮地の中で聖武天皇は、庶民の中で呪術と布教、社会事業で人々を救っていた三昧聖集団の頭目・行基に「大僧正」の位を与え、大仏建立の勧進をまかせるのである。中世は勧進経済の時代なのである。

近世にはいると、江戸幕府の切支丹禁令の宗教政策によって寺檀制度が確立する。すべての人はどこかの檀那寺に属すことが義務付けられる。檀那寺は、檀家からの布施で成り立つことになった。寺院の経済は安定することになった。しかし、明治時代になるとまた大きく変転する。神仏分離政策によって、神社は守られる一方、寺は独立を余儀なくされる。末寺は檀家があるためそれほど大きな影響は受けなかったが、本寺は下層僧(葬儀を担当していた伴僧など)が独立して一寺を持つようになったため、檀家がなくなった。また、寺領を政府に上知(知行を奉る)したため、一時困窮する。のちに返還されるが、戦後進駐軍によってふたたび取り上げられた。一部は返還されたが、その結果本寺級のところが経済的に苦しむこととなった。

最期の「観光経済」は、もうわかるように拝観料を取って寺の経済を賄うものである。本寺級は経済的に苦境になっていたので、拝観料は貴重な収入となっている。時代とともに寺の経済的な支柱が変わってきている。四つの宗教経済は、相互補完的なものとして布教を支えている。

宗教経済の歴史を振り返ると、不浄なお金を扱うということが難しく、お金を扱うことによって信仰の道を踏み外した例が無数にあることがわかる。俗世間との間合いはいつも難しかったのである。「高野聖に宿貸すな。娘とられて恥かくな」と俗謡にうたわれていることは、、宿を貸した挙句、強姦強盗にあってしまったケースが多かったということの伝承であろう。お金に目がくらみ、俗世間の誘惑に負けて信仰の道を踏み外す修行者は多かったのである。現在と同じように、お金にまつわる堕落は枚挙にいとまがない。

 

歴史上の宗教ビジネスの事例を四つあげてみた。

佐野厄よけ大師ー寺名改名と厄除け宣伝ビジネス

神社ビジネスといえば、最近でもある。関東三大厄年大師といえば、川崎大師と西新井大師と佐野厄年大師で、前者二つは弘法大師を祀っており、佐野厄よけ大師は天台宗の元三大師を祀っている。

実は、佐野厄年大師は神社ビジネスの成功例なのである。東北自動車道が1972年栃木の宇都宮まで開通したとき、「佐野藤岡インターチェンジができる」、そのことを見越して、佐野厄年大師の住職は、1965年頃当時惣宗官寺と呼ばれていた寺を佐野厄年大師と改名して売り出していくのである。住職は、厄年を迎える人々の住所と名前をリストアップして佐野厄よけ大師への正月参拝を呼びかける手紙を送ったのだった。これが当たり、参拝客が増えるようになった。その後、メディアを通じて宣伝を行うようになり、今は正月三が日で50万人が参拝に訪れるようになっている。当初は、不幸の手紙を送っている寺院として叩かれたこともあったという。しかし、初詣はどこに行ってもいいわけで、東北縦貫道の完成で便利になった佐野厄よけ大師は選ばれたのだった。厄年が気にされ始めたのもちょうどこの頃だった。(島田裕巳*1)

伏見稲荷正一位稲荷大明神ビジネス

天皇の授与する正規の神位は、平安時代の『延喜式』の法令書に則った文書形式による授与である。その証書は、多くの公家が連署し、『天皇御璽』印の捺された、巻物仕立ての立派なものである。多くの公家の関与を必要とするため、煩雑な手続きと、きわめて多額な経費を要するものである。1816(文化13)年の時、勅許の神位の対価は75両(現在の価格に換算して940万円)であった。

このような形での神位の授与は、朝廷の衰微した戦国時代には行われなくなった。神社に神位を記した「勅額(天皇直筆の額)」を下賜して代用した。吉田家の宗源宣旨による神位授与は、このような背景があったため、需要を伸ばしていった。

吉田家の権威失墜が起きて、さまざまな神位ビジネスが起きてくる。有名なのが伏見稲荷社の『正一位稲荷大明神』ビジネスである。江戸時代は平和が長く続いて、商人が経済的に力を持ちはじめ、自前で神社を持つほどになっていた。 稲荷神社は本来穀物の神であったが、それに関連して豊作・商売繁盛を司る神として選ばれ、商業地に広がった。 ついには江戸の町中はコンビニのように稲荷神社でいっぱいになったという。江戸では、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれてどこにでもあるものの代表であった。今日でも、デパートの屋上に祀られている。屋敷神、家々の守り神として敷地内に祀っている神様は圧倒的に稲荷が多い。(岡山・島根両県では、屋敷神として荒神を祀ることがほとんどで、稲荷は稀である。)江戸時代、田沼意次の出世が、居宅内の稲荷の祠の霊験と伝えられ、武家がそれにならって稲荷の祠を設け、商人も勧請するものが多くなったといわれる。

当時の時勢を見て、伏見稲荷社が諸国に祭神の分霊を勧請、分け与えるというビジネスを展開したのである。京都の南郊古代以来朝野の崇敬を受けていた伏見稲荷社の祭神稲荷大明神は、天慶5(942)年朝廷から正一位の神位を受けていた。伏見稲荷祭神正一位稲荷大明神である。この正一位稲荷大明神が分霊を与えるのだから、どこへ行っても神様は正一位稲荷大明神になるわけである。伏見稲荷社は、神位を与えるという方法ではなく、正一位をもった神様の分霊を与えるという方法で、各地の神社の神位に対するニーズを取り込んだのである。(井上智勝*4)

元興寺の再興(浄土信仰隆盛便乗による再興)

奈良時代元興寺興福寺と並ぶ当時最大級の国家寺院としての威容を誇っていた。その元興寺も、古代国家の解体に伴い財政的な基盤を喪失して存亡の危機に直面した。

元興寺には、智光が描いたと伝えられる一幅の曼荼羅が伝えられていた。極楽浄土の光景を記した智光曼荼羅を掲げて、当時流行していた浄土信仰に便乗して危機を乗り切り、13世紀半ばに行われた大規模改築以降は、納骨霊場として積極的に納骨信仰を推奨した。その結果、鎌倉時代の後半には、高野山と並ぶ西日本屈指の納骨霊場へと成長を遂げるのである。

今も元興寺に残る無数の納骨容器は、この寺が納骨の寺であった時代の名残である。中世、極楽坊本堂の内部は、中央に惣供養塔としての五輪塔が鎮座し、長押という長押、壁という壁には木製の五輪塔の納骨容器が打ち付けられ、床の上には足の踏み場もないほどに骨壺が置かれていた。

しかし、元興寺の納骨信仰は戦国時代をピークに終息に向かい、江戸時代には完全に途絶する。代わりに、地域の墓所、墓標の立ち並ぶ市中の墓寺に再度転身するのである。(岩城隆利「元興寺の歴史」吉川弘文館1999より*2)

比叡山を堕落させた祠堂銭ビジネス

中世、高野山など霊場への納骨が盛んになった。主人にもっともかわいがられた召使が骨を首に掛けて納骨する寺に運んだ。亡くなった人の形見を寺に納めることもあった。これを祠堂持(死導持)と呼んだ。祠堂銭とは、亡くなった人の形見として寺にかなりのものを寄付することです。後には、着物を納めるだけになるが、当初は祠堂銭あるいは田畑を死者のために寄進した。

比叡山が中世非常に堕落したのは、祠堂銭のためであるといわれている。鎌倉時代の末期ごろから、比叡山は祠堂銭を京都市中の金持から集めたのである。その集めたお金を、当時の金貸し(酒屋・土蔵)が預かってこれを貸し付けていたということがわかってきた。金貸しのパトロンは実は寺で、しかもそれは人が死んだとき納める祠堂銭だったのである。(五来 重*3)

宗教教団は、浄財という形を通して衆生の救済を図りながら、一方では泥まみれの俗世間の中で教団の存命を図ってきた。何と不条理なのであろう。人々が宗教教団に感じているいかがしさは、この不条理なお金にある。お金は、聖俗合わせ持つ厄介なこの世の支配者である。お金を如何に扱うか、そこに宗教教団が堕落するか衆生救済の指導者になるかの分かれ道があり試練がある。大本教の創始者である出口なお氏は、信者からの浄財で暮らしてはいけないと戒めている。お金によって個人の信仰が堕落し、宗教団体そのものが堕落することをよくわきまえていたからであろう。宗教家であるなら尚更、公私混同は慎み、衆生の救済に心を砕かなければいけない。

社会の変革期である現在、宗教教団はその存在意義を問われている。それぞれの教団が存在する意味を熟考し意義を見出すことが何としても重要であろう。

(参考文献1:島田裕巳著「『厄年』はある!」三五館 2005)
(参考文献2:佐藤弘夫著「死者のゆくえ」岩田書院 2008)
(参考文献3:五来 重著「先祖供養と墓」角川書店 1992)
(参考文献4:井上智勝著「吉田神道の400年 神と葵の近世史」講談社2013)