悪魔の実在と攻撃の目的

悪魔の実在については、このブログでも「煩悩の背後に悪魔は実在する。そしてこの世を支配している」と題して記述し、人間が苦悩する執拗な善悪の闘いには敵対する実体があることを指摘しました。私たちが心の中にある罪を自覚しても、心の闘い、魂の闘いが止むことがないのは、相手が実体を有しており、エネルギーを供給し続けていることに原因があるのです。宗教が歴史的に迫害を受けるのも、悪魔が牛耳っているこの世の支配権を脅かし削ぐことになるからです。

悪魔と悪魔の手下たちは、巨大な統治ピラミッドを作り上げていて、巧妙に人間世界を支配しています。しかもとても賢いのは、悪魔本体は姿をめったに見せない。多くの場合、現れるのは手下の悪霊です。それとて霊的存在であるから、多くの人にとっては察知できません。人の言動・行動の背後にあってそっと誘導するのです。ほとんどの人は、背後に悪魔(サタン)の存在があることがわからないため、災いが起きて初めて恐れおののき震え上がることになります。悪魔にとって存在を知られないとういうことは、警戒されないため戦略上とても都合がよいのです。こう記しても、悪魔と出会ったことがなければ信じることができないでしょう。

では、なぜ悪魔は人間を攻撃するのか。聖書の創世記に、悪魔(サタン)のイヴ(人類最初の女性)を誘惑する物語が記述されています。イヴに、悪魔(サタン)はこうささやく。「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか。」イヴが、「・・・園の中央にある木の実についてはこれを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと神は言われました」と答える。悪魔は、イヴに「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです」と誘惑する。その言葉を聞いて、イヴは木の実を食べ、共にいたアダムにも与えてアダムも食べたと記されています。

悪魔は、なぜイヴを誘惑したのか。神はなぜ食べると死ぬような木を置いていたのか。それは「善悪を知る木」という言葉の中に重要なヒントがあります。「善悪を知る木」を食べることによって、人間は無邪気な人間から「自我」に目覚めた人間になるという意味があったのです。「自我」に目覚めた結果、人間は自らの意思を持つことになりました。これは予期せざる出来事であった(時期が早すぎた。思春期の惑い)とされているが、いづれこの地上世界の主となるために必要なことでした。しかし自我の目覚めは、人間固有の意思をもたらし、神の意図とは別に人間の意思によって地上世界は支配されることになったのです。

悪魔(サタン)は、そこに神と賭けをしています。人間は、神の願いに応える神の愛の体恤者なのではなく、利己心を有する存在であり、神とは一歩距離を置いた存在に過ぎないと主張したのです。ここから悪魔(サタン)の攻撃は始まるのです。悪魔(サタン)は、人間を題材にして神と対決しているのです。人間がどちら側に就くかによって、この戦いは決まるのです。人類歴史は、今まで悪魔(サタン)の勝利といっていいでしょう。人類が築いた歴史は、悪魔(サタン)が主張するように罪悪と闘争の歴史でした。

神とてこの人類歴史に終止符を打つことは出来ません。人間が悪魔(サタン)の主張に従ったのであって、人間が悪魔(サタン)の主張をその通りだと受け入れる限り、神の出番はないのです。そして、人類歴史は罪悪と闘争の歴史に終始して結末を迎えるのです。すべては、人間がどんな選択をするかにかかっているといえるでしょう。「艮の金神」(金神七殺といわれる恐ろしい鬼門)は、かつて我を通しすぎて失敗した神であると語っている〈金光教大本教〉)の反省のように、人間一人一人がどちら側に就くかによって今後の人類歴史は決まるのです。人間に決定権があるから、悪魔(サタン)は離れて行こうとする者には邪魔をし、留まる者には力を与え、従うものがいる限り存在し続けるのです。しかも悪魔(サタン)が怖ろしいのは、不要になったならば捨て去るのです。

 

悪魔(サタン)は、人間に災いをなしているのではなく、人間が災いある存在だと主張しているのであって、人間が違う選択(神の愛にもどろうとする)をする場合のみ決然と姿を現して敵となるのです。

久保有政氏が「神はなぜサタンの誘惑を許容されたのか」の中に核心的なことを記述されています。http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/044kamiwa.htm

サタンは人間は利己心の故に神を愛しているにすぎないとした

旧約聖書の中にヨブという義人を記した「ヨブ記」がある。ヨブという人物は、神に「彼のように潔白で、正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は、ひとりも地上にはいない」と言われるほどの、義人でした。けれどもサタンは、それに異議を申し立てたのです。サタンの主張は、つぎのようなものだった。「彼は、いたずらに神を恐れましょうか」人間が神を恐れ、神を愛しているのは、利己的な願望があるからに過ぎない。神が物質的に祝福されるから、神を愛しているに過ぎない。彼の信仰はご利益信仰にすぎない、という非難だったのです。

あなたは、彼の財産を増し加え、家畜を増やし、豪華な家を与え、物質的に富んだ者とされたではありませんか。ためしに、ヨブを貧乏のどん底に、つき落としてみて下さい。ヨブはきっと、あなたをのろうでしょう"。
そのような異議をサタンが申し立てると、神はサタンに一定の期間、ヨブの持ち物を任せる、と言われました。神は一定の枠内で、ヨブの生活に災いが下ることを、許容されたのです。しかし、ヨブは義人でした。あらゆる艱難に対しても神に対する信仰を捨てませんでした。サタンは、去るしかありませんでした。

サタンは神の支配や導きの妥当性についても異議を唱えた

サタンがエデンの園で発した誘惑の言葉は、
         「あなたがたは(禁断の木の実を食べても)決して死にません」
         そしてその実を食べれば、
         「あなたがたは神のようになる」
でした(創世三・四~五)。
まずサタンは、「それを食べると必ず死ぬ」と神が言われた木の実を食べても「決して死にません」と言うことによって神の命令や助言、導きなどは、不用のものとしたのです。主権者のようにふるまう者の意味です。それは他に依存せず、自らの意志を貫く主権者のことなのです。
すなわちサタンは、「あなたがたは神のようになれるのだ」と言ったことによって、次のようなことを言おうとしました。
あなたがたは、神(God)の支配なしでも、幸福になれます。神中心に生きる必要はない。神の支配や導きのもとにある必要はない。自分で自分たちの社会を築きなさい。人間自身が神になってこそ、幸福になれるのだ、と言うかのようにです。

そうすればあなたがたは、自分の好きなことをすることができ、賢い、力ある主権者としてふるまうことができます。ですから、そのようにしなさい!"
何という巧妙な誘惑でしょう。サタンはこうして、まことの神の支配や導きを拒んで、独立するように誘惑しました。サタンは、神中心ではなく、自己中心な生き方こそ幸福の道だとしたのです。
神中心に生きる必要はない。神の支配や導きのもとにある必要はない。自分で自分たちの社会を築きなさい。人間自身が神になってこそ、幸福になれるのだ、と言うかのようにです。

神は、「女のすえ」と呼ばれる人々のことを心に留めておられた

「女のすえ」(女の子孫)と呼ばれる人々のことを、御心に留めておられました。「女のすえ」とは、キリストを頭とするキリスト者たちのことです(黙示一二・一七、創世三・一五)
神は彼らが、神に従うことがたとえ逆境や苦難を意味する場合でも、なお神を愛することを知っておられました。
彼らが利己心の故ではなく、神を神であるがゆえに拝し、愛するということを知っておられたのです。
神は、人間の命と幸福は、神の支配の導きにかかっているのであり、人間自身やサタンによる支配は決して人間に幸福をもたらさないことを、全被造物の前に実証できると知っておられました。
神なしの世界は、結局、悪と不幸が絶えず、真に平和で幸福な社会とはなり得ないからです。

いかがでしょうか。悪魔(サタン)の価値観に翻弄されていませんか。悪魔(サタン)は実に巧妙です。悪魔(サタン)の匂いを感じることができなければ簡単にやられるでしょう。宗教の修業の中で、最後まで苦しめるのが色欲(原罪といわれるもの)とプライド(仏教の修業の中で相当遅くまで闘いの相手となるといわれている)であるといわれています。このことは、人間の利己心がいかに災いであるかを物語っているのです。悪魔(サタン)の降伏は、自らの内面の悪魔の価値観の拒否(自己犠牲・自己否定)であり、神の愛の実践であるとされています。しかしそれは人間が本来の姿、神の愛の世界にもどろうとする信仰という努力の姿であり、その行為が即信仰の勝利につながるのではありません。人間の信仰の条件を見て、悪魔(サタン)がその勝利を認めたならば、離れていき、神の光が届くのです。言い方をかえると、悪魔(サタン)の降伏は、人間には自力ではなそうとしてもなし得ることは出来ず、悪魔(サタン)がその信仰を認めてはじめて成立するのです。イエスの悪魔の試練も、お釈迦様の悪魔の試練もそのことを示しています。