日本の風習「人が何故神として祀られるのか?」

外国人が首をかしげ理解に苦しむ日本の風習、[人間が何故神様になるのか?]、西洋では立派な信仰者が聖人として敬われることはあっても、神様としてではない。外国人にとって、人間が神様になるということがとても不思議なことのようである。立派な信仰者がその死後、聖パウロとか聖ヨハネとして敬われることはあってもそれは神様としてではない。また、遺体が別のところにあって立派な墓がつくられているのに、全く別のところにその人が祀られているのも理解しがたいことである。

しかし日本では、年忌の法事が1年、3年、7年と続けられ、33年忌もしくは50年忌は最終年忌(弔上げ)として重視され、死者はこれ以降神様になるのだという。

浮世は夢   人生は夢のごとし 人生は朝露のごとし 夢幻泡影

つらい娑婆より気晴れの浄土

日本では簡単に神として祀られる。「人が神として祀られる条件とは何か?」、このことについて、国立歴史民俗博物館名誉教授、國學院大學教授の新谷尚紀氏がまとめられているので紹介する。

柳田国男以来、民俗学が指摘してきたことは、人が神として祀られることについて、普通死の場合と異常死の場合によって分かれるとされている。普通の死者の場合、一連の葬送供養の儀礼を経て死者はやがて子や孫たちから「御先祖様」として祀られ、ホトケともカミとも観念される。家の繁栄や無事平穏を「御先祖様」のおかげと考えたり、不慮の事故や不運の連続を「御先祖様」を粗末にしたためだとしてその知らせとか祟りだと考えたりするのは、すでに「御先祖様」を一定の霊威をもつカミと観念している証拠である。しかし、すべての人の霊が無条件に神となるのではない。多くは御先祖様として一緒にされる運命にあり、多くの人に影響を与えた人物だけが特別のパワーを有した霊、人格神として祀られてきた。

一方、異常死の場合、普通の葬送供養や祭りだけでは十分ではなく、特別に慰霊鎮魂の儀礼が行われる。そしてその結果、安定した死者としてその後一般の死者の仲間入りをして供養と祭りが続けられる場合と、特別な神として祀られる場合とがある。

前者の御先祖様が国家レベルで神となったのが豊臣秀吉の富国大明神、徳川家康東照大権現であり、明治天皇であり、軍神広瀬中佐、乃木希典などである。また聖人としては空海弘法大師)、最澄伝教大師)、聖徳太子などである。これらの神格化(神様)は、一定の利害関係にある祀り手がいて利害関係のもとに生み出される。他の国でも専制君主がなくなると、遺体を永久保存して支配者の権威のバックボーンとするように、日本では神格化するのである。神様としてこの世を見守り、この世を治めている人々のバックボーンになって欲しいと願うのである。霊的な権威である。このような意図であるから、神と呼んではいるが、霊威があるとは限らない。(私見)

後者の特別な神として祀られる事例はたくさんある。死者が神に祀られる事例に共通している点は、死後、その死者が激しい祟りをなすという点である。死者が祟りをなす、死後起きた事故や事件がいずれもその死者の非憤と怨念に原因があると人々が考えた。平安時代にはその霊を鎮めすために御霊会と呼ばれる儀式を行った。そして祀りあげられて有名になったのが、菅原道真である。菅原道真北野天満宮に天神様として祀られた。死者が祟りをなすということで、神社に祀られた例を示す。

事例=伊予宇和島和霊神社の伝承

伊予宇和島の家老山家清兵衛が祀られている神社で、漁業や農業の守り神としてその信仰圏は四国一円から瀬戸内海地方にまで伸びている。この神社に次のような言い伝えがある。

山家清兵衛宇和島藩の家老で、元和元(1615)年仙台藩伊達政宗の長男秀宗が宇和島藩主として入場した際、仙台からもう一人の家老桜田玄蕃らとともにやってきた人物である。仙台時代には伊達政宗の新任も篤く、宇和島に来ても初期の困難な藩政にあって総奉行として活躍し、領民の衆望をあつめたといわれる。しかしこれに嫉妬した悪家老桜田玄蕃とその一味がその失脚を企て、主君秀宗にしきりに讒言をした。その讒言に心を動かされようとする秀宗に対して清兵衛は必死の諫言を行ったが、逆に不興をかってしまい、ついに閉門を仰せ付けられてしまった。

元和6(1620)年6月29日深夜、雷鳴もまじる風雨の中で桜田玄蕃一味による清兵衛暗殺が決行され、寝所にふせていた清兵衛や子供らは不意をつかれてことごとく斬殺された。

かねて懇意にしていた日振島の庄屋の清家久左衛門は、暗殺計画を聞きつけて舟で知らせに向かったが、着いたのは翌朝で、すでに惨劇のあとだった。久左衛門は涙しながら遺体を長持ちに納め、ひそかに正眼院金剛山の西の谷に密葬した。

その後、桜田玄蕃一味には不慮の事故や災難があいついだ。
まず、この事件の年の年末には一味の64人全員が傷寒病にかかり、正月の宴には誰も出席できなかった。つづいて元和8(1622)年5月、江戸参勤の帰路に難船し、そのとき大勢の一行のうち、落雷によって一味だった一人だけが不思議にも水死した。また、6月晦日の清兵衛三回忌法要の最中に落雷があり、みんなが逃げまどう中、一味のものたちばかりが惨死した。

人々は山家清兵衛の祟りだと噂した。
その後も災難はつづき、寛永9(1632)年8月6日、秀宗公の正室桂林院殿の三回忌法要の際、大暴風雨が襲い一味の首謀者桜田玄蕃自身が梁の下敷きとなって圧死した。

秀宗はこの前後から、自分の不明を悔い、清兵衛の霊を和らげるため、児玉明神を建立した。その建立の後およそ10年を経て、承応2(1653)年6月23日、24日、京都から吉田家の奉幣使を迎えて神事を行い、正式な神社として祀り、以後名前も山頼和霊神社と名乗ることとなった。

そして元禄14(1701)年には神輿三座が奉納され和霊神社の祭礼がはじめられて、今日に至っている。

人が神として祀られるのは、利害関係者の意図があってはじめて創り出されるものである。偉大なる指導者の権威を借りて跡を継いだ人が地上で権力を行使するというケースは、諸外国でもよく見られる現象であるが、日本の場合「神」として霊性・霊威・霊験を獲得したものと考えられ崇拝されるため、その時々の時代で意味づけが拡大され、利用されていく宿命がある。その意味では、『神』とは危険な膨張装置であるといってもよかろう。

(新谷尚紀著「日本人の葬儀」紀伊國屋書店1992より)(以下私見)

このような日本人の亡くなった人を神にするという風習は、亡くなった人が霊魂として存在しているという民族共通の観念があることが前提にある。そして死後も、一定の霊威を発揮してこの世に影響力を良くも悪くも及ぼしていると考えていることによる。神として守護するだけでなく、時には災い・不幸を巻き起こす。睨みを効かせているという意味にすぎないもので、この世に生存している人の都合に過ぎない。この世に生存している人の目的だけであって霊威とは関係ない。

日本の「神」という観念は、霊威をもつもの、言い換えれば霊力をもつものがすべて神としての条件である。従って、死後霊的に実存するという観点に立つ場合、すべての人間が神になりうる存在である。一言付け加えれば、祟りを畏れて人(菅原道真のように)を祀るという観念の中には、神の前に人間が犯した過ちを謝罪するという意味があるので、人を介して神の前にひざまづいているということにもなる。

西洋の神(god)観念をベースに分析すると、神及び神に仕えた聖人だけでなく、サタン(悪魔)及び配下の悪霊もその霊威が強ければ神として祀られることになる。この世で生きている人間は、この世における幸福を願う現世利益の追求心が強いゆえに、実は神ではなく悪魔を祀っていることもありうる。神と悪魔の見分けがつかない神観念が日本の信仰の特徴である。古事記の神話は、神代の人間をそれぞれ神としている。ユダヤ人流にいうと、アブラハム・イサク・ヤコブの神=ヤーウェとなるのではなく、アブラハムもイサクもヤコブも神となるといえばわかりやすいであろう。