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日本は八百万の神々の国ではない(1)吉田神道の天下と失墜

日本は八百万の神々の国であると誰もが思っているが、雑多な神々の国ではない。少なくとも神道関係者の間では、秩序付けようとする試みが行われてきた。儒教の天、道教の太極、仏教の大日如来という宇宙の真ん中に位置する全知全能の神という概念の影響を受けて、天之御中主神を宇宙の真ん中に位置する全知全能の神の中心的な神と位置づけ、神社信仰や神道をきちっとした体系としてとらえようとしてきた。たとえば、伊勢神宮外宮の神官の度会(ワタライ)氏が創始した神道説に基づく度会神道や、朝廷の神祇官を務めた卜部家の子孫、吉田兼倶(カネトモ)が大成した神道説に基づく吉田神道などがそうである。 また、江戸時代の国学者によって提唱された復古神道(仏教や儒教の影響を排除した古代からの純粋神道を唱える神道説)などでも中心的な神格とされている。

13世紀に成立したとされる両部神道書「中臣祓訓解」では、神を「天然不動の理」「法性身」として「大元尊神」(中国の老子の大元の節に基づくもので、天地に先立ち、陰陽を超え、始めも終わりもなく、宇宙のすべてに顕現する)と呼び、その顕現が「天照皇大神」であるとする。他方、この書の影響を受けた13世紀の伊勢神道度会神道)では、国常立尊を「大元神」あるいは「虚空神」と呼んで、世界生成の根元に位置づけていた(「豊受皇太神御鎮座本記」「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」)。これを受けて吉田神道は、国常立尊を太極と同じと考え、太元尊神と名付けた。(遠藤潤「神観念の歴史」*1)

現在は聞くこともなくなった吉田神道であるが、江戸時代吉田家は、「神使い」として神道界を牛耳っていた。吉田家は、神道の大御所として君臨していたのである。

吉田家(卜部氏の流れを汲む家柄)の吉田神社は、奈良の藤原氏の氏神である春日神社の分社である。この藤原氏の一族にいた中納言山蔭が分霊を受けて一族の守り神として祀ったのが吉田神社の始まりである。だが、山蔭の曾孫が天皇の女御となり間にできた子が一条天皇になって、一挙に国家が祀る神社になっていく。

しかし応仁・文明の乱のとき、応仁2(1468)年吉田神社は兵火で焼け落ちるという事件が起きる。その時、吉田兼倶は、神社の再建を優先せず、自宅にあった斎場所を吉田山に移した。この斎場所は、「日本最上神祇斎場」ともいい、神武天皇が日向から東に進んで奈良の橿原に都した際、その近郊の鳥見の山に日本国中のすべての神様を斎(い)き祭って以降都の近郊に設置されてきたという神社の総本社なのである(日本国内のすべての神様が揃う神社)。斎場所の中心には、八角形をした茅葺きの大元宮が設置され、天地開闢(かいびゃく)に伴って現れた諸法の根源である国常立尊(くにとこたちのみこと)、別名太元尊神が祀られた。そしてこの大元宮を囲むように左右に三千を超える日本全国の神様が祀られている。斎場所の遷宮時、天皇は、「日本国中三千余座、天神地祇八百万神」の勅額を下賜、「神国第一之霊場、本朝無双之斎庭」とその素晴らしさをたたえた。天皇のお墨付きを得て、斎場所の存在を根拠にあらゆる神様の分霊を分け与えていく力を持つことになった。

吉田神道をさらに天下にした事件がある。神道の聖地である伊勢神宮が1486(文明18)年、内宮の門前町宇治と外宮の門前町山田が争い、外宮が炎上するという事件があった。この混乱で、外宮の御神体の安否が知れなくなった。伊勢神宮から知らせを受けた朝廷は、対策を協議し、神祇権大副(神祇官次官)吉田兼倶に御神体の安否を確認させることになった。しかし、外宮の神官たちは調査を拒絶。これに対し、朝廷は御神体の安否が確認できないという理由で神官の位階昇進の願いを退け、祈祷の使いも送らなかった。

この頃、伊勢の神様が伊勢神宮内の争いに愛想を尽かして風雲雷雨に乗じて各地に飛んでいくという(飛神明)という現象がはやった。神様が飛来したところには、伊勢神宮の分社が建てられ、「今神明」と呼ばれた。伊勢から飛んできた神様は願い事をなんでも叶えて下さるとして多くの参拝者を惹きつけたのだ。

吉田兼倶は、「1489年3月25日激しい風雨に見舞われた京都吉田山斎場所に目映い光とともに不思議な物体が落下した。その年の秋10月4日には、今度は天から光が降り注いだ。光が消えた後には、やはり不思議な器物が多数残されていた。二度にわたる不思議な現象があった」と、御土御門天皇に報告したのだ。天皇は、「これは、お伊勢さんの御神体に、間違いあらしません!」。天皇の言葉は、吉田山斎場所を権威付けるものとなった。飛神明に慣れていた京都の人たちも、「伊勢の神さんが都に移って来なはったって。あの混乱では、仕方ないわな」と、何の違和感もなく受け入れたのだった。

こうして、伊勢神宮をも包摂する全国の神様を祀る斎場所となったのである。以後、吉田家は「神使い」と呼ばれ神道界を牛耳っていき、吉田兼倶は伊勢から神敵と呼ばれ怨的になっていくのである。

吉田家は、朝廷の国家祭祀を担う機関「神祇官」の高官「神祇権大副(神祇官次官)」と「神祇管領長上(神道界の技能者の最高位)」といういう肩書きを持っていた。(神祇官長官ー神祇伯ーは、白川家である。)神祇官は、白川家と両頭体制によって運営されていた。

「当家は、祖先神天児屋命(あめのこやねのみこと)の妙業を受け継ぎ、代々これを伝えてきた。その妙業は神国の根源であり、朝家の枢要であつて、他に代えようがない。当家はまさに神道の棟梁と呼ぶにふさわしく、実際に神祇官を差配している。だから神祇官に参列するときは、律令制度の序列に関係なく、最上席を占めてよい。上皇陛下はこのようにお考えである。」この文書は、「院宣」と呼ばれる六条上皇の側近が主人の意向を伝えたものである。(天児屋命は、天上世界で神事を司った神様で、天孫降臨に際して、お供として地上に降り、神道の面で天孫を助けたといわれる。つまり、天上世界の神道を地上に持ってきた唯一の存在である。その妙業をただ一人受け継ぎ伝えてきたのが吉田家である。)

吉田兼倶は、上記の「院宣」の写しを大切に保管していた。そしてもう一つ嘉禄3(1227)年の「綸旨(りんじ)」文書である。そこには「昔から他の家の人と交えることなく、天児屋命の大業をただ一人受け継いできた」と讃えられていた。

吉田兼倶が作り出した神道ー吉田神道は、「元本宗源神道」あるいは「唯一神道」とも呼ばれる。兼倶は、神道には「本迹縁起神道」「両部習合神道」「元本宗源神道」の三種類があるが、「元本宗源神道」こそが国常立尊ー天照大神天児屋命と伝承されてきた由緒正しいものであると主張したのである。

吉田兼倶の神道革命(仏教の混濁がない神代直伝の神道)により、仏教や僧侶に従属を余儀なくされてきた神道家は勇気づけられ、神道を独立させたのであった。吉田家は、「宗源宣旨(高い神格を示す称号や位階を授与・承認する文書)」「神道裁許状」「鎮札」という護符などの各種証状を一手に付与する権限を有することになった。これが江戸時代吉田家を「神使い」にしていく手法の始まりである。神様を鎮め、なだめるマジックをなして神の祟りが避けられるとしたのである。そして人間の都合で多くの証状が発給されていく。今に続く神社ビジネスである。商売繁盛・家内安全・学業成就・厄除け祈願など。(古代の神社は、天下国家の泰平や豊穣を祈ることが第一義で、個人の祈願を込めるだけの神社は、“淫祠”として否定されていた。)

しかし、吉田家はその後零落する。徳川家康の死去とその葬儀、神格「大権現」を天台宗僧侶で山王一実神道を奉じていた天海に敗北したためである。行く末に暗雲が漂うこととなった。吉田神道では、秘事(最高奥義ー神籬磐境伝)は一人にしか伝授されない。実は更に吉田家を苦しめたのは、吉田神道の奥義を継承することなく当主が亡くなったのである。この時、吉田神道を再興したのが、分家萩原兼従のもとに勉学に来ていた吉川惟足(これたり)である。

江戸時代、吉田神道を神道界の天下人としたのが、1665年江戸幕府が発布した神職統制の法令「諸社禰宜神主法度」当時の語で「神社御条目」である。吉田家の再興を託された吉川惟足が将軍後見役保科正之に懇願して実現したものである。この定めは、次のとおりである。

定め

一、諸社の禰宜・神主等、専ら神祇道を学び、その敬うところの神体、いよいよこれを存知すべし、有り来たりの神事・祭礼これを勤むべし、向後怠慢せしむるにおいては、神職を取り放つべきこと

一、社家の位階、前々より伝奏をもって昇進を遂げる輩は、いよいよそのとおりたるべきこと

一、無位の社人、白張を着すべし、その外の装束は、吉田の許状をもってこれを着すべし

一、神領一切売買するべからざること、付けたり、質物に入れるべからざること

一、神社小破の時、それ相応常々修理を加えるべきこと 付けたり、神社懈怠なく掃除申し付けるべきこと

右の条々、堅くこれを守るべし、もし違犯の輩これ有るにおいては、科の軽重に随い沙汰すべきものなり

第三条の吉田の許状とは、吉田家が出している神道裁許状のことである。「無位の社人」とは、位階を持っていない神職のことで、朝廷から与えられる階級なのだが、この時期位階を受けた神職は、京都に近い有名神社の神職だけでほとんどいなかった。この定めは、白張(無地の真っ白な服)ではない装束を着たいと望むなら、吉田家の許状を受けることを定めているのである。

神使い」吉田家の体制は整った。しかし、このことに反感を持つ人々は存在した。吉田家の神道裁許状独占によって困窮に陥った公家や伊勢神宮などである。

応仁・文明の混乱期、吉田山に伊勢の御神体が舞い降りたということに何世代にもわたって怒りが収まらなかったのが伊勢神宮の神官たちであった。伊勢外宮の権禰宜、出口延佳は吉田家を批判した書物「神敵吉田兼倶謀計記」を、そしてその子延経は「弁ト抄」を著して、吉田家の権威の基盤に隠されたウソを暴いていった。1698~1712の間とされる。この書物は、信頼できる文献に基づいて論証されたもので、吉田家に白刃を突きつけることになった。内容は次のようなものである。

・吉田家は天児屋命とは無関係、つまり吉田家の系図は捏造されたものである。

・吉田家は、もともとは亀の甲羅を灼いて占いを行っていた神祇官の下級技術吏員である。

・吉田家やその祖先が神祇伯に就任したことは、過去に一度もない。

・「神祇管領長上」の職は、亀の甲羅を灼く技術者の長にヒントを得た吉田家の創作である。

・吉田家が活動根拠とする綸旨・院宣類はニセモノである。

・斎場所の由緒はウソである。

・宗源宣旨は神に位を授ける正規の文書ではない。

吉田家は、歴代天皇の宣旨(本物)を示さなかったので、吉田家が依拠する正当性への疑義が生じた。吉田家の正当性の根拠が崩れ去ったのであった。

これ以降、公家並びに白川家の逆襲が始まる。神位を授与する宗源宣旨は、天皇の裁可が必要になり独占できなくなったのである。白川家は、経済的に発展してきた村の神社の宮座、宮守あるいは都市の中に生まれてきた神道者まがいの人(占い者、祈祷師、神社参りの斡旋者など)を勧誘していったのだった。だからといって、吉田家の威光がすぐに衰えたのではなかった。

明治維新になったとき、天皇はその権威どころかその存在さえも十分知られていなかった。天皇の全国各地への行幸などは、天皇を認知させる試みであった。繰り返し行われたのは、知名度が低かった証拠である。また、次の東北地方に出された告諭の冒頭は、吉田家の知名度を利用したものである。江戸時代吉田家が行ってきた神道裁許状(宗源宣旨)の実績と権能をベースに天皇の権威を構築しようとしているのである。

天皇陛下天照大神様の御子孫で、この世の始めより日本の主におわします。皆の地域にも正一位の位を持った神様がいらっしゃるであろう。実はこれはすべて、天皇陛下から御許しになられたものなのだ。だから天皇陛下は、皆の地域の神様より尊い御方なのである」と。

信仰対象としての神社の歴史が垣間見えるようである。

 

(参考文献:*日本史小百科「神道」東京堂出版2002)

(参考文献:**井上智勝著「吉田神道の400年 神と葵の近世史」講談社2013)