哲学者中村 元先生が語る仏陀の教え(2)「私は皆を導くなど思ったことはない」

中村 元先生が、マハー・バリニヴァーナ・スッタンタ(漢訳大般涅槃経)(パーリ語)を中心に語られている一部分を紹介してみます。このお経は初期仏教中で釈迦の最後の旅から始まって入滅に至る経過を記述したもので、釈迦の生きた時代を色濃く残しています。当時の様子がよく描写されていると受け取られています。

私は、人々のよるべき真理をあきらかにした。真の生き方を明らかにしたそれだけなのだ。だから、私が亡くなったからといって嘆き悲しむな。およそこの世のものでいつかは破れ消え失せるものである。
そこにある一貫した真理を解き明かしてきたではないか。それに頼れ。変転きわまりない世の中では、まず自分に頼れ。自分に頼れとは、その場合その場合に考えること、何を判断基準にするかというと、人間としての道「法」、インドの言葉でいうと、「ダルマ」、この人間の理法というもの、これに頼ることである。
しかし、私は自分が皆を導くなどと思ったことはない。また、皆が私を頼りにしているとは思わなかった。自分は教祖ではない。教師ではない。人間としての法を生きてきただけである。(親鸞も弟子を一人も持たなかった。)
「自己に頼れ」「法に頼れ」これが釈尊の最後の教えであった。

釈尊と弟子の親族アーナンダとの会話は、きわめて人間的であり2500年前のインドであり現代のインドである。「私は、29歳で出家して真理を求めて真理を実践する。正理(八正道)と正しい法に生きてきた。(釈尊は教義は説いていない。それは後代の教義学者が作ったもの。)人間の真実を説いただけである。諸々の事象は過ぎ去るもの。努力して修業を完成させなさい。」

釈尊は、人間としての「法」を道しるべに人間としての真の生き方を示しただけである、と語られているのです。普通のことをしただけであると語られているのです。悟りとは、特別のことではない。また、「自分に頼れとは、その場合その場合に考えること」とも語られています。この言葉の中に、「悟り」というものは固定したものではなく時空の中で変転するものであり、悟ったといえども宇宙とのつながりの中で、人間としての「法」に頼って考えることが必要であるといわれるのです。悟ると、瞬時に解答が訪れるのではないことをお釈迦様自身が語られているといえないでしょうか。

また、皆を導くなどと思ったことはないとも言われています。教祖ではない。教師ではない。この言葉のもつ意味は大きいといえませんか。宗教の教えは、あくまで人間として法を学ぶ一助とわきまえるべきでしょう。人間個人が、みずからの意志で「法」によって、自らが灯明になるべく精進することが大切であるといえるでしょう。