既に救世主は地上に生まれ役割を果たして天国に帰られた。救いの道は示されている

 人類歴史の中で、多くの宗教指導者が神の願いにこたえてその時代その時代その場所その場所において人々に多くの救いの恵沢を授けてきました。それは、多くの人々の苦悩を取りのぞき心に安らぎと活力をもたらし、生きる勇気と希望を与えることにありました。信仰は、人間にとってかけがえのないものとして生活に根付いていきました。世界中で神と信仰のない世界はありません。人間は、歴史の中で神のもとに帰るために宗教という準備された階段を一歩ずつ上ってきたのです。
 しかし、科学文明が全盛を極め人間が力を謳歌するようになった現代、人々は神と信仰を疑うようになりました。神と信仰は、必要なものに思われなくなってきたのです。神と信仰は、人間が作り出した妄想ではないかとさえ考えるようになりました。人間は、自らの力によってこの地上に天国が築けると過信するようになったのです。しかし、科学技術が発展した現代においても、人々の中には苦悩はなくならず、この世が対立と抗争に暮れる住みにくい世界であることには変わりはありません。地上を科学技術で快適なものにできると信じていた人たちも、地球環境の悪化の前にたじろぐばかりです。神を不信した人間にとって、この世界の苦悩からの救いは共産主義という社会革命にゆだねられました。神は必要ない立場に追いやられたのです。神はもうその立つべき位置さえもなくしてしまいました。
 しかし共産主義は社会体制を変革するものの、神を否定し人間精神の救いをないがしろにしたため息苦しいものにしかなりませんでした。社会の形をいかに整えたとしても、人間が改革前と同じような自分中心の考えをしている限り、そこに調和ある社会が築かれるはずはありませんでした。社会を無理やりに統治するには、権力による弾圧、粛清という方法しかありません。それは新たな抗争(内部闘争)を引き起こすのです。共産主義という理想を掲げても、体制が出来上がると恐怖社会が現出するのは当然のことなのです。
 人間の心が愛に満たされ正しく清らかなものでない限り地上に天国は訪れません。自分よりも他人のことを心配する、わが身を捨ててでも全体のことを気にかけるという心情がなければ、地上に天国など築けるはずもありません。しかし一人一人の人間はそうなっていません。人間は罪深いのです。罪深いということを自覚するところから天国建設は始まるのです。この地上は、今も苦悩が充満したままなのです。人々に喜びはもたらされてはいません。人々は心を変えてくださる救い主が必要だということに気づかなければいけません。
 人類歴史の中で人間は、この地上の救いは救世主によらなければ難しいと悟り、救世主(再臨主・弥勒)の降臨に託してきたことを思い出してほしいのです。弘法大師空海も、弥勒下生の時には自分も下生して協力すると語ったといわれています。宗教の究極の目的は、この地上に天国浄土を建設することにあるのですが、その鍵は救世主(再臨主・弥勒)の降臨にゆだねられてきたのです。
 降臨する救世主(再臨主・弥勒)には二つの使命があります。一つは、人類歴史の中で拭い去ることのできない罪とされている原罪(罪の根)の贖罪の道を示すこと、そしてもう一つは、地上における家族、氏族、民族、国家という対人関係の修復方法を教えに来ることです。人間は、この地上で生活する時、内外両面にわたってさまざまな対立抗争を繰り返しています。家族の中で、本当に全員が仲の良いかけがえのない家庭があるでしょうか。私たちは、多くの人間関係の苦しみの世界にまみれているのです。救世主は、こうした人間関係の軋轢が生まれた原因とその修復方法を教えに来るのです。この二つの道を信徒たちが実践することによってはじめて、この地上に救いが現実のものとなり、喜びに満ちた地上天国が実現していくのです。
 そんなことはありえないと思うことでしょう。これは、人類歴史にかつてなかった奇跡的な慶事なのですから当然です。黙示録の中にある「子羊の婚姻」は、この救いの姿を象徴的に表しているのです。このような救いが訪れるのですから、人々にとっては喜び以外の何物でもないはずです。しかし、そこに大きな障害があるのです。救いへの道を妨げる力が自らの内に働くのです。自らの内にある悪の力(罪)とは、自分中心の考え方です。人間を誘惑した悪魔(サタン)は、「人間は所詮自分中心の考えをする。だから、その考えに力を貸す」といって邪魔をするのです。自尊心・我が自らを救いへの道から閉じ込めてしまうのです。私と他人を不二のかけがえのない関係にすることを妨げるのです。
 このようなことが起こるため、救世主(再臨主・弥勒)が来られた時、心砕かれ苦悶の中で神を求め救い主を求める環境にある人のほうが幸いなのです。反対に栄耀栄華を謳歌している人は災いとなるのです。救いを必要とせず、神を求めようともしないからです。イエスの言葉、山上の垂訓は、最後の時に処すべき人々の態度を戒めています。

山上の垂訓(マタイ5-3~12)
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
1 2喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 終末の時は、神の救いに入る人と神から離れていく人に分かれるといわれています。終末というのは、神と今までこの地上の支配権を有している悪魔(サタン)が激突する時なのです。個人から始まり、家族、民族、国家、人類全体が激突する時なのです。この世の支配者である悪魔(サタン)―対立と力による支配―のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味しています。古き天地が滅び新しき天地が始まるのです。
 「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(出口日出麿)」。どのような形になるかは別として、混乱は避けられないのです。救世主(再臨主・弥勒)の降臨は、この地上に救いをもたらし神の国を実現するという人類歴史を大転換させる事件であり、この慶事を通して人類は新たな時代に踏み出していけるのです。

 しかし、降臨された救世主(再臨主・弥勒)も、やはりイエスの時と同じように虐げられ苦難の人生を歩まれました。既に、救世主(再臨主・弥勒)は、その役割を終え、天上に帰られましたが、どれだけの人がその価値を知っていたことでしょうか。その人生は、イエス・キリストの時と同じように虐げられ迫害を受け、その姿は栄光の主どころか泥まみれの宣教師にしか見えません。それどころか、怪僧ラスプーチンのように世を惑わす怪物として警戒されてしまったのです。その名を知ってはいるがその教えもその活動も知らない。風評だけに左右されて危険なものとして近づこうとしない存在になったのです。人間という存在は、歴史をかけてあれほど救い主を待ち望みながら、時が満ちその待ち望んだ人が来た時、信じることもついていくこともできないのです。それどころか、反対し虐待してその存在を消し去ろうとするのです。
 救世主(再臨主・弥勒)は、虐げられてみじめな末路を迎えるために来られたのではありません。そのようにさせたのは、救世主の行く道を妨げたその時代の人々の信仰や行いのためです。救世主(再臨主・弥勒)の救いを拒否したではありませんか。行くべき道のなくなった救世主には悲しい最期しか残されていなかったのです。イエス様が、迫害する人々に向かって「あなた方は何をしているのかわかっているのか」と慨嘆する場面がありますが、受け入れてもらえないもどかしさ口惜しさを抱えたイエス様の悲痛な心痛がいかばかりであったことかと察します。すべての人を救いに来たのに、人々は罵倒し石を投げつけてくる。そのことがどんな結末を迎えるのか。十字架にかけられたイエス様が、大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れに向かって、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。 不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだと言う日が、いまに来る。」(ルカ23-27~29)と語られます。イエス様の脳裏には、ユダヤ民族の過酷な未来が見えていたのです。
 それでも、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです」(ルカ23-34)と祈られました。エス様は、十字架の上で、自分を取り囲み、この十字架へと導いた者達を赦してくださるようにというとりなしの祈りをされたのです。
 イエスを十字架につけることについて、民衆は「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい(マタイ27-25)」とピラトにこたえました。ユダヤ人は、自ら選んでイエスを十字架につけたのでした。「イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した(マタイ27-30)」のです。言い訳はできません。自らメシアによる救いを拒否したのです。そのことにより、その後の歴史におけるユダヤ人の過酷な未来はいたしかたないものとなったのです。

 救世主(再臨主・弥勒)もやはり同じような道を歩まれました。人間は何と罪深いのでしょうか。神という究極の愛の主人から遣わされた独り子を無視し不遜な態度を取る姿は見苦しいとしか言えません。名前は知られてはいても、その教えも活動もほとんど理解されていません。人々は警戒し色眼鏡でみて近づこうとさえしませんでした。その結果、イエス様の時と同じように、そして同じように罵倒され、敬遠され、救いの道は閉ざされていったのです。
 しかし、その教えは正しいのです。教えに従って歩むことによって、救いは実感されていきます。救いの道は示されているのです。日が暮れる前に、救いの道を求めることが重要ではないでしょうか。現代は誰もが未来が見えにくくなっています。今の社会の価値観は音を立てて崩れ去ろうとしているのです。救世主(再臨主・弥勒)によって示される新しい天地につながれなければ未来は開かれていかないことに気づいていただきたいものです。