毛沢東の誤算 【毛沢東はなぜ「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」といったのか?】

(1)毛沢東の評価(功績70%、誤り30%)
 毛沢東については、「功績70%誤り30%(1981年第11期中央委員会第六回全体会議)」と評価されています。功績70%は、建国の父として人民主導の独立国家を建設したこと、誤り30%は、中華人民共和国建国後の大躍進政策(1958~1961)で数千万人が餓死したこと、政敵を多数粛清したこと、文化大革命(1966~1976)を発動して人民を迫害、財産没収を主導して中国を10年間の混迷に陥れたこととされています。
 中国共産党のこの評価に疑問をもたれる方は多いと思います。しかし、これから述べるように毛沢東の思想と行動を分析するならば、納得できるものでしょう。
 中国共産党が中国統一の主人公となるきっかけとなった大きな事件は、1936年に起きた西安事件です。
 張作霖の長男の張学良が、中国国民党蒋介石・軍事委員長の身柄を拘束した事件です。事件の首謀者張学良は、晩年、中国国民党中国共産党に敗北した原因について、「国民党は中心的な思想をもっていなかったからだ。それに比べて、共産党共産主義思想を信仰にまで高めており、それが革命の原動力になった」と述懐しています。
 それによると、張学良は国民党の方が共産党よりも数倍も強力な軍隊や兵器、さらに資金をもっていたが、結局、国民党が勝てなかったのは、中心的な思想がなかったためで、共産党軍は一種の信仰に近い共産主義思想をもっていたことを評価しています。張学良は後に首相になる周恩来共産党の最高幹部と接するうちに、「共産党は明確な目標があり、理想がある」として、張学良自身も共産主義に共鳴し、思想をともにするようになったといいます。
 これに比べて、国民党は孫文が提唱した三民主義民族主義民権主義民生主義)を党の指導理念としたが、党の指導者が各自自身の利益を優先し、共産主義のように信仰の部分にまで高めることができなかったと分析しています。
 毛沢東中国共産党は、共産主義の思想と理想に燃えて一枚岩になって中国を改革しようとしていたのです。明確な理想がありそれが人々を団結に導いていました。共産党が指導する中華人民共和国はこうして1949年10月1日建国したのです。共産党の思想と理想が現実のものとなりました。建国されると、共産党の主導する社会の共産化が進められました。1950年には、土地改革法が成立して全国で土地の再配分が行われていきました。
 この共産革命が中国にとって中国国民にとって歓迎されるものであったかどうかについては、次の西村肇氏の手記を読めばおのずから理解できると思います。

西村肇の手記 http://jimnishimura.jp/soc_per/chuo_koron/7911/5.html
 「人民公社の食堂にいきなり飛びこんで飯を食べてみた。附近の工場労働者が来る食堂だった。せまいたてこんだ食堂だが、みんなどんぶりにピ一ルをついでゆっくり食事していた。みんな服装は貧しかったけれど、落着いた顔で食事をしていた。みんなの間で食事をしていると、中国では食の問題が一応満足すべきレベルで解決しているのだという感じを深くした。解放前の中国を知っているものにとっては、これは瞠目すべき事実なのである。私は一般の人が毛沢東に感謝する気持が良くわかる気がした。日本流にいえば、毛沢東さまさまという気持であろう。すべての功績は毛沢東にあるとは考えない人でも、人々は毛沢東がいなければ新中国はなかったとゆるぎない確信をもっていた。」
 人々は食の問題を一応解決した毛沢東共産党に感謝しているようだった。解放前に比べて人々は生きていく土台を勝ち得たのであった。このような姿がもたらされたのであるから、功績70%と評価されることは妥当であろう。
 問題は誤り30%です。このことについて論じる前に、毛沢東の思想と心情について少し述べておくことにします。

 

(2)中国理想社会建設の夢
 日本人には、中国社会が理想としてきた大同社会と小康社会というものがあまり理解されていません。しかし、中国においてはその時代時代の革命家、改革者はみなこの理想に影響を受け念頭に置いて改革運動を進めてきました。
 「時代の思想家や革命家はみな、各々天下大同と小康社会に基づく異なった憧れの未来図を提示したし、異なる時代の思想家や政治家は皆影響を受けている。たとえば、洪秀全、康有為、譚嗣同、孫文らは皆その影響を受けた。近代の民主革命家で思想家の孫文の掲げた「民族・民権・民生」の三民主義は、孔子の大同の主張と儒家の民本思想を西洋資産階級の思想と結合したものである。そして中国の社会主義初期段階も、孔子の小康と異なるけれども、小康社会を目標としている。」
(引用文献:孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明翻訳「図説 孔子―生涯と思想」科学出版社東京株式会社 2014 p82~86)
 現代中国の英雄毛沢東も、孔子理想社会の思想に大きな影響を受けています。長沙に出て、湖南第四師範(のちに第一師範と合併)で学んだ時、「第一師範の孔子」と噂される楊昌済という教師と出会いました。毛沢東の回想によると、「楊昌済は、理想主義者で、道徳性の高い人物で、自分の倫理学を非常に強く信じ、学生に正しい、道徳的な有徳な、社会に有用な人物になれという希望を鼓吹した」と言ったそうです。毛沢東は、この教えを聞き、「いささかも自私自利の心のない精神を樹立して、高尚な純粋な道徳をもった人になろう」と手記に記しています。毛沢東は、学生時代に「心の力」という論文を書いているのですが、楊昌済はこの論文を激賞したといいます。毛沢東の最初の妻は、楊昌済先生の娘、楊開慧です。毛沢東は、儒教の教えを受けてこれを土台として毛沢東思想を展開したことを覚えておくことが必要です。
 毛沢東は、共産主義理論(マルクス・レーニン主義)と孔子儒教・大同世界思想を結び付けて毛沢東理論を構築したのです。
 毛沢東の構想した社会は、多くの都市、農村の人民公社によって構成されるものであり、人民公社は分配における平等を実現するために必要な基層組織でした。人民公社は、二つの移行(集団所有制から全民所有制への移行及び労働に応じての分配から必要に応じての分配への移行)を実現するための最もよい形式であり、大であり共有であることはこの二つの移行の実現を有利にするものであり、それは将来の共産主義社会の基層単位となるものであったのです。

 

(3)毛沢東は、神の存在を信じていた
 毛沢東は、共産主義者だから神の存在など全く信じていないと思われていると思います。確かに、表立って神のことを語ったことはないし神様を崇敬しているわけではありません。しかし毛沢東は、1965年1月スノウと会見した時、「神との対面を準備している」と語ったのです。
 毛沢東は、「神との対面を準備している」と語った。「天」への回帰である。紅衛兵の集会に臨んだ毛沢東の横顔には、そうした言葉から連想しがちな、消極的な諦観の影はない。むしろ、どこまでも人間くさく、自分が指導した中国革命の未完の事業を時代の青年たちに、しっかりと引き渡したいという、意志と執念と興奮による輝きと、そしていくらかの疲労も感じられるようである。《竹内実著 「毛沢東伝」毛沢東語録河出書房新社)所収》
 共産主義と神という絶対に相容れない両者を毛沢東は両方とも受容していたのです。驚くべき内容ではないでしょうか。

 

(4)毛沢東思想は、共産主義思想の異端
 毛沢東は、「矛盾論」のなかにおいて、「我々は、全体的な歴史発展の中では、物質的なものが精神的なものを規定し、社会的な存在が社会的な意識を規定することを認めるが、同時に、精神的なものの反作用、社会的存在に対する社会的意識の反作用、経済的土台に対する上部構造の反作用をもまた認めるし、また認めなければならない。これは、唯物論に背くことではなく、まさに、機械的唯物論に陥らずに弁証法唯物論を堅持することである」と記しています。精神的なものが物質的なものを動かすという論点を提示しているのです。これはマルクス主義にはない論点であり、毛沢東思想独自のものです。唯物論だけでなく、控えめながら唯心論をも認めていることになります。この考えの原点は、湖南第四師範学校時代に書いた「体育の研究」という論文(のちの毛沢東思想の原型があるとされている)にあります。「学校の設備、教師の指導、これは外なる客観であって、われわれには内なる主観というものがある。いったい、内において、心に断ずれば体は命令に従うものである。自分が発奮しなければ、外なる客観が善を尽くし美を尽くしても効果をあげることはできない。故に体育を重んじる人は、必ず自ら動くことから始めなければならない」と論じたのです。
 毛沢東思想は、儒教の色彩の強い共産主義だと言えるのです。前置きはこのくらいにして誤り30%に入ることにします。

 

(5)中華人民共和国建国と社会建設(この項Wikipedia)
 1949年10月1日、中華人民共和国は建国されますが、それに先立って臨時憲法が制定されます。
 1949年9月、北京で中国人民政治協商会議が開催され、統一戦線の代表により新しい政権建設についての話し合いが行われ、中華人民共和国の臨時憲法である「中国人民政治協商会議共同綱領」(1949.9.29公布)が定められました。この臨時憲法では、中華人民共和国は「人民民主主義国家」であるとしています。そして、政治と経済の体制には「新民主主義」(綱領第1条)と「国家資本主義」(綱領第31条)を掲げ、「共産党の指導」や「社会主義」といった文言は一切盛り込んでいませんでした。つまり、建国の段階では中華人民共和国中国共産党がめざす「社会主義国家」ではなかったのです。事実、国家元首である中央人民政府主席には毛沢東が、首相である政務院総理には周恩来が就任したものの、中央人民政府副主席6名のうち半数は非共産党員であり、副総理・閣僚級ポストのおよそ半数も非共産党員が占めていました。毛沢東社会主義を「将来の目標」としており、ソ連との関係強化を図っているだけです。
 1950年の全国政治協商会議第2回会議で、社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言し、建国当初、新民主主義社会の建設を目標に「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東だったのですが、1952年9月24日、突如として社会主義への移行を表明しました。急進的に社会主義を導入することに方針転換したことは、周恩来劉少奇など多くの指導者を困惑させました。しかし毛沢東は、かまわず1953年1月よりソ連社会主義計画経済をモデルとした第一次五カ年計画をスタートさせ、農業の集団化などの社会主義化政策を推進していったのです。
 毛沢東は、中華人民共和国を新民主主義国家から社会主義国家に変貌させるために、国家機構の改造にも着手しました。1954年9月、全国政治協商会議に代わる最高権力機関として全国人民代表大会が設置され、9月20日全人代第1回会議において中華人民共和国憲法が正式に制定されました。
 国家主席に就任した毛沢東は、自己に対する反対勢力を粛清していきます。一方で、1956年2月にソ連共産党第一書記ニキータ・フルシチョフが行ったスターリン批判に衝撃を受けた毛沢東は、中国共産党に対する党外からの積極的批判を歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動を展開します。しかし、多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄しました。
 1958年には大躍進政策を発動。この大躍進政策は失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出しました。大躍進政策の失敗は毛沢東の権威を傷つけ、1959年4月27日、毛沢東大躍進政策の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなったのです。
 しかしその後も毛沢東は、密かに権力奪還の機会をうかがい、紅衛兵による文化大革命(1966~1976)を起こし主導したのです。文化大革命は、毛沢東の死去と共に終焉しました。(Wikipedia


6)毛沢東の意図「孔子様にはならない。始皇帝になる。」
 毛沢東は、建国当初穏健な考えを抱いていたようです。その後の粛清ばかりの歩みだけを見るとわからないのですが、当初は異なる考えをもっていたようなのです。
 毛沢東の警護長を務めた李銀橋の回想によると、毛沢東はもっとも金銭を嫌った。毛沢東蒋介石と握手したが、金をにぎることはなかった。毛沢東は延安で金をにぎらず、陝北に転戦した時にも金をにぎらず、北京入城後はさらに金をにぎらなかった」という。毛沢東自身も「やれやれ、かねというものはまったく煩わしいものだ。私が持っていても仕方がない(権延赤「神壇を降りた毛沢東」(雑誌『炎黄子孫』1989年第2号よりの再引)と述べたそうです。
 毛沢東は、「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」と語ったと言われます。次の毛沢東の言葉は、始皇帝になる決意をした根拠ではないでしょうか。
「わたしは、現物給与制を行えば人間が怠け、創造や発明をしなくなり、積極性がなくなるなどということは信じない。解放後、全部を賃金制にして等級評定をやったが、かえって多くの問題が生まれた。」
 資本主義復活の危険性を説く毛沢東の不安が、建国後社会主義化を急ぎ不正の摘発・粛清につながったのではないかと考えます。中華人民共和国を建国したものの、周りの人間は我欲にまみれた人間だったのでしょう。そのことに対する解答が「私は穏便な教育者の孔子にはならず、粛清の始皇帝になる。自分の力で世の中を糺す」という決意だったのだと思います。
 毛沢東は、1973年頃外国人客との談話において、「秦の始皇帝は中国封建社会で最初の有名な皇帝である。私も秦の始皇帝である。林彪は私が秦の始皇帝であると非難した。中国は一貫して二派に分かれていた。一派は秦の始皇帝を良いと言う。もう一派は秦の始皇帝を悪いと言う。私は秦の始皇帝に賛成し、孔子様に賛成しない」と述べました。天に頼らず自分の手で、プロレタリア文化大革命を最後まで進めるという決意の表われであるのです。


(7)中国古来の権力闘争を踏襲した毛沢東戦略「破・立」「大乱大治」
 毛沢東は、中国古来の権力闘争と社会変革の歴史から、一つの大きな戦略を実行していきます。毛沢東の思想の「破なければ立なし」「破を押し出せば立はおのずと付いてくる」、「天下の大乱から天下の大治に至る」という考えです。旧いものを打破するためには乱を起こす必要がある。文化大革命はこの考え方に基づく一つの政治闘争、階級闘争であり、それは思想を清め、政治を清め、組織を清め、経済を清めるものであるというものです。修正主義を歩んでいる党と国家の指導的幹部は、通常の方法では打倒できず、天下大乱の情勢をつくり出すことによって逃げ場をなくして初めて打倒できる。このため、毛沢東は乱を恐れず、乱を作り出そうとしたのです。その後「立」をなそうと、党の組織工作、政権機関の工作、労働組合の工作、各種の大衆団体の工作を呼びかける。中心工作に奉仕しようと呼びかけるのだと考えたのです。
 中国の歴史は、古代春秋戦国の時代より破壊と再生の繰り返しであるといわれます。領土の奪い合いから始まり、秦の平定以降は天下の奪い合いでありました。そして奪った後の政治体制は、以前の中央集権の官僚政治ほぼ同じでした。ほとんど変わらないものでした。儒教は、その中で統治の道具として重宝されてきました。儒教は人間を教化することによって世の中を安定させようとするので、中国の指導部の意向に沿う思想でした。
 この中国歴史が、毛沢東の「破」と「立」の理論の根底にあったのでしょう。「乱」と「治」は繰り返してきた。この繰り返しこそが、プロレタリア独裁下での継続革命による共産主義社会への弁証的発展方法と考えていたと考えられます。ただ、他の人には、全く理解できていなかったようです。
 毛沢東は、この上部構造、人間の意識の革命を人間の手によって実現しようとしたのです。7~8年乱を起こして、7~8年安定させるという天下大乱・天下大治の思想は、継続的に困難な状況を作り出して人間を鍛えることによって、人間の意識をはじめとする上部構造を改革して、共産主義に近づけることができると考えていたようなのです。これが、文化大革命を最後まで誤りとして認めず、最後まで推進しようとした理由だと考えます。
 継続革命理論に基づいて展開された文化大革命は、中国社会に大きな爪痕を残しました。人間の意識を始めとした上部構造を改革して共産主義に近づけることができたのかと問えば、多くの疑問が残るのではないでしょうか。

 

(8)「継続革命理論」は、社会主義では理想社会は実現しないと言っているのと同じ
 「百家斉放・百家争鳴」運動の結果生じた党批判を封じ込めるために発動した1957年の反右派闘争を経て、再び階級闘争は重視されるようになっていきます。
 1966年には、毛沢東の「階級闘争を要とする」という「プロレタリア独裁の下での継続革命理論」によって、階級闘争が明確に推進されることになっていきます。すなわち、社会主義社会の中でも階級は存在し、搾取階級と被搾取階級との間に階級闘争も絶えず発生するというものです。絶えず発生する階級闘争は、「破」と「立」、「大乱大治」の戦略によって乗り越えていくとすると、常に社会は混乱の中にあることになり、混乱こそが理想社会を築く方法であるということになります。社会主義社会とは、解放前と同じ闘争の社会であるというのです。
 ここまで記述してきて、おやっと思われないでしょうか。社会主義革命では、理想社会は実現しないといっているのです。人間の意識の改造が必要であり、革命後も引き続き革命を継続する必要があるといっているのです。しかも毛沢東は、意識の改造は神の領域ではなく、人間の指導によって人為的に実現できるとして「大乱大治」を実行したのだと思います。おそらく、毛沢東は頼りにならない神に失望したのでしょう。結果は、文化大革命の結果を見ればあきらかです。文化大革命の混乱は、共産主義化を推進したどころか、多くの憎しみと対立をまき散らしたと言えるのではないでしょうか。

 

(9)「中国が西洋化することによって世界史が完成する
 「中国が西洋化することによって世界史が完成する」。この言葉は、現代の言葉ではありません。記号論理学・微積分学の創案、二進法の考案、エネルギー概念を発表した17世紀の科学者ゴットフリート・ライプニッツの言葉です。ライプニッツの中国を西洋化することによって世界史が完成するという終末論的歴史哲学は、その後、大きな影響力を欧米に残しました。その後ヴォルフ(Wolff),ヴォルテール(Voltaire)、ドルバック(Baron d’ Holbach)などに受け継がれ、中国人が西洋流の自由民主主義を受け入れたら、「歴史の終焉」という文明観まで生まれたのです。
 ライプニッツは、「中国人がもっとも崇高なものとして,理と太極の後に話題にするのは上帝です。そして上帝は天なる王,いやむしろ天を支配する巨大なる精神です。(中略)中国では,キリスト教の神を指すのに通常はこの天主という語を用います。(中略)重要な問題はむしろ上帝が中国人にとって永遠なる実体かもしくは単なる被造物かという点にあります。(中略)上帝と理が同一だとすれば,完全な論拠でもって神に上帝の名を与えることができます。」
 ライプニッツは、中国という国がキリスト教の教えに近い民族性を有しており、中国がキリスト教国家になれば世界がすべてキリスト教の世界になるというキリスト教的世界観に基づいた言葉です。
 しかし、そこに一つの大きな問題・相違点があります。中国思想にはキリスト教でいう「人類始祖の堕落」「サタン」という宗教上の観念がないのです。古代中国神話には悪神が登場しますが、反乱を企てたという悪人というものであって、キリスト教でいうサタンという存在ではありません。それどころか、中国社会の根幹はサタンと同居しているように見える節があるのです。中国神話に出てくる中華民族の祖「伏犠と女媧」は、蛇身人首(頭が人で体が蛇)の姿をしています。キリスト教では堕落した天使サタンは蛇で表徴されます。中国社会は、神とサタンが同居しているといっているようです。実事求是の考えと相まって、中国の統治は権力による人知主義(この世の君)が支配することになるもとのようです。儒教も、そのための道具として利用されてきたのです。この思考が変わらなければ、世界は終焉するという西洋の予感は的を射た指摘であるかもしれません。

 

(10)中国の未来を拓く鍵-メシア(真人)の解明した教えに理想社会建設のカギがある
 毛沢東が生存していた時代、社会統治の方法には始皇帝の弾圧的方法と孔子の教育的方法しか存在しませんでした。毛沢東共産党による新しい中国社会を実現したけれども、人々の意識は解放前と同じで我欲にまみれたままでありました。毛沢東は、人々の意識を変えるために「継続革命理論」という思想を持ち出さざるを得なかったのではないでしょうか。しかし、この考えでは人々の意識が向上するということはできませんでした。革命・闘争では人間の意識の向上は期待できないのです。
 毛沢東が不幸だったのは、毛沢東が生存していた当時はまだメシアの教えが世の中に出ていなかったことです。メシアは、人間の意識の向上を図り世界を一つにする術を神に尋ねながら解明して人類に示しました。
 メシアが示したのは、人類歴史は表面的には人間の対立抗争の歴史にみえるが、対立抗争の背後で神様による復帰の計画が進められてきたことを明かされたことです。それを蕩減復帰といいます。人類始祖は、サタンの誘惑によって堕落しました。(具体的な罪は姦淫です。)この結果、人間は目が開けて自分という観念をもつようになりました。それは、自分と他人という自他の区別の情です。その情は自己に執着する、自分本位に考えやすいという性稟をももたらしたのです。人間は善にも悪にもなる中間的存在になったのです。
 神様は、善にも悪にも相対するようになってしまった人間を善の存在と悪の存在に分立して、善の存在が悪の存在(サタンと配下の悪霊の攻撃)に対抗して勝利することによって、堕落した人間をサタンと悪霊側から取り戻す戦いをしてこられたのです。神様に召命された聖人・義人たちは、神様の願いに応えて懸命にサタンの悪なる攻撃に耐え忍びながら神様を賛美して神様と共に善なる行為を広めてサタンからこの世の支配権を少しずつ取り戻そうとしてきました。しかし、神様が召命した聖人・義人でさえほとんどサタンと悪霊に打たれてしまい、文明が現在のレベルに達するには長い年月がかかってしまいました。
 メシアは、聖書の中に善の存在が悪の存在を屈服させ和解して一体になる神の戦法が記述されていることを解明されました。と同時に、地上の統治権をサタンから奪い返してこられました。メシアの人生は、サタンとのこの世の覇権をかけた闘いだったのです。その道は複雑ですが、メシアの勝利によりこの世の国・民族・氏族の主導権をサタン(この世の君)から神様が奪還する道が開かれたのです。(毛沢東がこのことを知っていたならばと思わざるを得ません)。
 世界は現在混迷の中にあります。中国は経済は成長したけれども、国民を導く道が見えていません。孔子は、「富裕の後は道を教えん」と述べました。人として生きる道を教えることが現代中国に必要な政策です。民主化要求、人権問題が中国社会で問題になっているのは、人として生きる道を指導することが課題であることを示しています。中国政府は、その要求に対して粛清という圧力で臨んでいますが、この方法では混乱を深めるばかりで解決になりません。またこの方法は、この世の君といわれるサタンが混乱を助長して国を疲弊させていくということに気づかないといけません。中国は、サタンという存在を認識するとともに、解決の道はサタンに勝利されたメシアの理論の中にあることに気づくことが大切です。
 中国の善なる勢力がもしこの世の君サタンに勝利されたメシアと統一原理を受け入れることができれば、中国は劇的な変化を迎えるでしょう。1989年のベルリンの壁の崩壊のように、歴史を新しい次元に引き上げるでしょう。中国社会は覚醒して新たな次元に飛躍して、新しい価値観のもとに世界をリードする国となることができるはずです。一方世界は、中国の革新を受けて終末の恐怖から解放されることでしょう。しかしそうできなければ、世界の混乱はさらに深まり、人類は絶望の極に至るでしょう。

 

者の中国思想関連の過去のブログ一覧
筆者ブログ 「キヴィタス日記」
2010年9月16日 中国は、儒教社会主義に向かうかもしれない。
2011年7月27日 文化大革命毛沢東の意図(神への挑戦)
2011年7月27日 今、なぜ文化大革命を考えるのか。
2011年7月27日 文化大革命の展開1―革命前夜
2011年7月27日 文化大革命の展開2-序幕
2011年7月27日 文化大革命の展開3-全国的な全面展開
2011年7月27日 文化大革命の展開4-林彪事件と転機
2011年7月27日 文化大革命の展開5-終幕
2011年7月27日 文化大革命の悲劇と教訓
2011年10月8日 中国でも注目されている渋沢栄一の経済思想
2011年10月28日 他者や制度は信じられない「低信頼社会」の中国
2012年12月4日 2006年中国の論語ブーム「于丹現象」を知っていましたか?
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2013年7月1日 中国の反日運動のルーツは、1915年の対華21カ条要求
2013年10月8日 習近平国家主席から中国経済の舵取りを任された劉鶴氏とは?
2013年12月1日 中国人は、やはり現世のみを重視する現実主義者である。(日本人との違い)
2015年9月8日 中国は、アヘン戦争の屈辱を忘れてはいない。
2015年10月23日 〔中国が西洋化することによって世界史が完成する〕という言葉
2015年10月29日 中国で一番尊敬されている経済学者―青木昌彦先生
2018年6月10日 「銭聚人散、銭散人聚(お金が集中すれば人はばらばらになり、お金が分散されれば人は集まる)」

筆者ブログ「ぶっだがやの散歩道」

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2013年4月7日 都合よく改ざんされた末法思想
2014年7月15日 禅の世界と禅の未来(1)禅の歴史
2015年8月10日 孔子が目指した理想世界
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2015年9月24日 東洋陰陽思想の核「太極」
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