共産主義では、何故地上天国は実現できないのか?

(1)K.マルクスは、イエズス会パラグアイ理想郷建設を知って共産主義に確信をもった

 K.マルクス共産主義という理想社会を確信をもって提唱したのには、ある一つの歴史事実を発見したことが大きいのです。イエズス会パラグアイ理想郷建設です。それまでのK.マルクスは、ユートピア思想に懐疑的であり世人の世迷言にすぎないと思っていました。

 イエズス会によるパラグアイ理想郷建設とは次のようなものです。

 17世紀、イエズス会は、それまで森林で遊牧生活を行なってきたグアラニー族に対し、トーマス・モアが描いた「ユートピア」の生活を実現しようと、宗教的な教えだけでなく、政治、文化、社会 教育(読み書き)だけでなく、農業、畜産、工芸品の製造などについても教える理想社会建設を行いました。イエズス会の伝道所は、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどに30箇所ほどで、17世紀から18世紀にかけて150年にわたって繁栄しました。財産を私有せず(貴金属、特に金は軽蔑された)、必要なものがあるときには共同の倉庫のものを使う。人々は勤労の義務を有し、日頃は農業にいそしみ(労働時間は6時間)、空いた時間に芸術や科学研究をおこなっていました。伝道所は、農業や工芸で大きな利益を上げ、住民はみな美しい清潔な衣装を着け、集落は、住民が平等に食べ物や財産を分け合い、貧富の差がない理想郷だったといいます。一帯は「パラグアイイエズス会国家」と呼ばれていました。

参考:拙者ブログ:地球村創造ブログ2018/4/15「トーマス・モアユートピア』のモデルとして建設された『パラグアイの理想郷』」

 ユートピアは実現できるのだ。イエズス会が示したパラグアイの実験は、地上天国建設を勇気づけるものであったのです。

 

(2)J.M.ケインズも、共産主義の理想主義は評価した

 多くの人が共産主義に惹かれるのは、人類はみな平等であり、すべての人が手を携えて幸せに生きるという社会の建設に賛同するからです。

 共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことです。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことです。それだけでなく、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるともされています。

 この共産主義が提唱する人類社会の理想像については、J.M.ケインズも評価していました。しかし、現実の人間は、他人を押しのけてでも競争に勝とうとする欲得が深い性をもった自分中心の人間であり、他の人間を従属させることに何ら矛盾を感じない性をもっています。この人間の性を知るとき、共産主義という思想は社会改革の方法としては現実的なものでないといえるのです。ケインズの経済理論が発表された時、当時の人はこれで共産主義の脅威から逃れることができると安堵したのです。

 

(3)理想社会「共産主義」の前段階とされている社会主義こそが癌

 K.マルクスは、従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」として提案しました。最終的な目標はほとんど変わりないのですが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとしました。土地及び生産手段を社会所有にして能力に応じて人々に分配するとしたのです。しかし、この段階に欺瞞、問題があるのです。

社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)

とされています。この考えには、二つの致命的な問題があります。

 一つは、生産手段を社会の所有にして計画主義経済を採用すると、社会が窒息死するということ、もう一つは、道徳水準は自動的には向上しないということです。この結果は、現実の社会主義国の状態を見れば明らかです。経済は停滞し、道徳水準は向上するどころか粗野になっているではないですか。

 

(4)全面的に計画主義経済を採用すると、人々はやる気を失いロボット化する

 毛沢東が、1950年代大躍進時代、一切の私有を廃止して子供の教育も集団で、食事も共同食堂でという人民公社化(共同化)を進めた時、人々は自主性、創意工夫をなくして生産力は逆に低下して飢餓をもたらしました。

 また、共産主義社会の街は、北朝鮮平壌のように整然としたものになっていますが、どこか人の住む息遣いが感じられません。死の街なのです。モンゴルの首都ウランバートルでも同じような姿でしたが、一歩裏に入ってみれば、人々はささやかな菜園を囲って耕していたそうです。

 人々から自主的に創意工夫によって生活する自由を奪ってしまうと社会は死滅していきます。計画主義経済社会がつくる社会は、人々の生気が消え失せた死んだ社会になりかねないのです。

 為政者、計画立案者が把握できるものは限られています。この限られた情報に入りきらない側面を人々に解放しなければいけません。人々の自主的な活動、工夫を禁じてしまうと、社会から活気は消え失せて停滞し、人間はロボット化してしまうのです。官僚主義が冷たい生気を失った社会をもたらすのは、規制に縛られてしまうからです。

 こうした弊害を乗り越えるために、社会主義各国は経済の自由化という方策を採用するのですが、この方策は計画とは異なる価値観を生むため、計画者、為政者に刃を向ける勢力が生まれ緊張が高まることになっていきます。

 

(5)神の否定は人間の謳歌のように思われているが、人間社会の背後には神と悪魔が住む霊界がある。神の否定は、悪魔にひざまづくものである

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらしました。資本主義社会の中で、この不平等は残念ながらキリスト教の温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどありませんでした。そこに共産主義が登場したのです。共産主義は、このようなキリスト教徒の無慈悲な態度に怒りを覚えて誕生したのです。

 唯物弁証法によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明します。観念の世界を否定する結果、心は物質に従属するものとなり、心の自由、自主性が軽んじられることになりました。環境を変えると心は自然に変わるのだという観念が支配するのです。それは、一面人間主義であり人間の力を誇示する考えです。

 ここに問題があります。心の自主性、魂の向上は環境を変えれば自動的に変わるものではありません。魂の改心、魂の向上は単純ではありません。そして、魂の改心ができなければ、地上天国は実現できません。

共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 共産主義が道徳を教え啓蒙しても限界があります。形としての道徳は教えても、義務としての強制的な実践にしかなりません。形だけの道徳は、悪魔も模倣することができるという言葉があります。そこには何の喜びも生まれません。道徳水準は愛によってしか高まりません。神の愛に触れて人々が改心した時、はじめて心の魂の水準が向上するのです。心が洗われるという経験を通して道徳水準は高まっていくのです。心を変えることができるのは、神のみです。神を否定した共産主義には、道徳水準の向上は不可能なことなのです。それどころか、行き詰まるので独善と強制に陥っていくことになるのです。

 

(6)正反合の弁証法からは、調和のとれた社会は生み出されない

 弁証法では、「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される」と説明します。

 この説明は正確ではありません。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのです。

 正反合の論理は、不完全さを補完する存在を対立関係として捉えています。対立関係として捉えるということは、反発関係として捉えることであり、反発から生まれるものは憎しみであり、力による屈服ということになります。決して二者が和解して一つになる合体ではないのです。

 共産主義は、正反合を旗頭に憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのです。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表していると思います。

 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうことに気づく必要があります。そこには、マイナス(破滅)のエネルギーが働く形になります。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結でした。正反合という弁証法は、正反合ではなく正反滅であり、合に向かうには両者の和解というまったく別の手法が必要なのです。それは、歴史的に宗教が示してきたことです。「汝の敵を愛せよ」という聖書の言葉こそ真実を著わしているのです。