日本民族は、この世に弥勒浄土を造ることを目指してきた

 日本民族の意識の根底には、弱肉強食に陥り殺伐とした社会を招きかねない自由競争の資本主義には賛同しきれない嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には専横独裁に陥りかねないという違和感があるようだ。どちらも「良し」とできないもののようである。

 2014年米国のピュー・リサーチセンターが行った自由市場についての世論調査によると、主要先進国のうち、日本だけが自由市場を支持する人が50%を切っている。日本は自由市場を支持するという人がわずかに47%で、自由市場を否定する人の方が上回っています。主要国の中で自由市場を支持している人の割合がもっとも高かったのはドイツで、73%の人が自由市場を支持。ついで米国が70%、英国が65%という結果でありました(ベトナム95%、韓国78%、ギリシャ47%、スペイン45%)。
http://thepage.jp/detail/20141023-00000012-wordleaf

 歴史を振り返ると、日本の社会は共に生きて助け合う共同体であったことがわかります。お互いが助け合って生きていく相互扶助社会だったのです。日本民族は、「共存共栄共生」の持続性ある平和な社会を築いてきたのであり、その社会を築くことを理想としてきたのです。

 古代縄文日本人は、紀元前後大陸の動乱から逃れて弥生人と呼ぶ人々が移住してきたとき、「共に生きる」という共存融合の道を選びました。また、外国からの侵略の危険があると、日本は交易を閉ざして自国の文化と精神を守ってきました。

 しかし、江戸時代末期にはそうした選択は不可能でした。それゆえ、明治維新の時の海外への開国は一大事であったのです。日本民族が歴史的に培った文化と精神が根絶やしにされかねない国難だったのです。混乱が必至であったがゆえに、多くの神の啓示が地上に降ろされて、西洋の思想の中には容認しがたいものが含まれているから気を付けなければいけないと警告したのです。明治維新期、大正期に多くの新興宗教が誕生した背景には、こうした歴史事情があったことを理解することが大切です。

 日本という国家は、聖徳太子の17条の憲法、594年の大化の改新天皇号が明記された689年飛鳥浄御原令を経て701年大宝律令(日本という国号が初めて制定されたという説もある)によって中国の王土王民思想にならった国家制度が成立します。班田収授の法によって国家の根幹となる国民への田の支給を定めましたが、前提となる土地の原資は時の豪族が提供(奪ったのではない)したようです。支配、被支配という観念ではなく、相互扶助、共存共生という感性がその時からあったようです。

 このような民族意識は、民族の心を育む信仰として現れて来ました。

 (1)宗派を超えて信仰されてきた弥勒信仰

 弥勒信仰は、日本人にとって根幹にもあたる共通の信仰です。推古天皇の時伝来し、奈良・平安時代、戦国時代に特に栄えました。奈良中宮寺太秦広隆寺弥勒菩薩像を思い浮かべる人が多いのではと思います。弥勒信仰は仏教だけにとどまらず、各地に土着の信仰として広まりました。各地に残る地蔵信仰は、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間衆生を救う菩薩として信仰を集めてきました。生前弥勒の化身とされていたという七福神の布袋(ほてい)様も、多くの人々に信仰されてきました。富士講の中興の祖 伊藤伊兵衛は、「食行身禄」と称し貧しい庶民の救済に尽力しました。

 では、弥勒信仰とはどのような信仰なのでしょうか。
兜率天(とそつてん)に住んでおられた釈迦牟尼仏は、われわれ衆生を救わんとして、兜率天から地上に降りて来られて、インドの釈迦国の浄飯王の妃である摩耶夫人の胎内に入られ、シッダ-ルタ太子となって誕生されました。釈迦牟尼仏は、兜率天を去る直前、弥勒菩薩を未来仏にノミネート〈指名)されました。自分はこれから人間界に行って仏陀となり、衆生を教化するが、自分のあとは、弥勒菩薩よ、そなたが人間界に行って仏陀となってほしい・・・・。その依頼によって、弥勒菩薩は、56億7千万年後に仏陀となってわれわれのところに来現されるというのです。(弥勒下生経〈羅什訳〉)』

 古代インドにおいて、弥勒信仰は熱狂的に流布し、多くの弥勒像が造られていきました。弥勒下生の地とされるゲートマティという都市は、仏教の描くすばらしいユートピアとして知られ、後世の極楽浄土に比定されるものでした。信者たちの弥勒浄土への憧憬は、「弥勒浄土変相図」によく示されています。仏はこの地上に悪が充満している時に、悪行・非法をなすものを救済しようとして現れたのに対して、弥勒はこの地上から悪が一掃される時にはじめて、大衆とともに成仏したいというのです。

 このように弥勒は、仏陀が未来仏として救済を託した仏であり、この地上を救うために降臨すると予言されたものでした。地上の救いを実現するという使命を持っているため、熱狂的に信じられてきました。日本でも、古代、弥勒信仰が隆盛して弥勒菩薩像が崇拝されました。弥勒信仰とは、古代インドに現れたユートピア思想だったのです。
 しかし、弥勒が降臨するのは56億7千万年後というとてつもなく遠い未来であったため、いつしかその期待はしぼんで、阿弥陀信仰に変わっていきました。弥勒は菩薩で兜率天におられるが、阿弥陀仏如来である。浄土では阿弥陀仏の方が上の世界におられるのだから阿弥陀仏を信仰した方がいいと考えたようです。ここから阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が始まるのです。

 弥勒信仰は、仏教においてだけでなく神道においても大切にされてきました。日本仏教においては、観音経(法華経の経典の一つ)が愛されるように、この世の幸福が願われてきました。日本民族は、大乗仏教という在家仏教を通してこの世に浄土を造りたいものだと願ってきたのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/3/19 「弥勒信仰の発生と起源」より)

 (2)日本の村社会は、信仰共同体

 国家機構が出来上がる大化の改新(646)前後から血縁集団としての氏が崩壊していきます。その後村落は、律令体制下での班田収受制、荘園公領制を経て、鎌倉時代末期変質し始めます。
 その中で百姓は、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、まず畿内・近畿周辺において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていきました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれるようになりました。惣村の内部は、平等意識と連帯意識により結合していました。惣村の結合は、村の神社での各種行事(年中行事や無尽講・頼母子講など)を取り仕切る宮座を中核としていました。惣村で問題や決定すべき事項が生じたときは、惣村の構成員が出席する寄合(よりあい)という会議を開いて、独自の決定を行っていきました。
 葬式も、共同体としての氏が崩壊してから氏から村で行うものになっていきました。村が大きくなると葬式を一緒にできないので、村の中をいくつかの組に分けて、村の運営がされるようになりました。
 この組のもとになっていたのが二十五三昧念仏講です。二十五三昧講(三昧会)は、986年(寛和2年)に比叡山内横川にあった首楞厳院で、25人の僧が結集して結成された念仏結社です。この結社は、極楽往生を希求する念仏結社であり、月の15日ごとに僧衆25名が集結して念仏を誦し、極楽往生を願いました。彼等は、発願文に「善友の契りを結び、臨終の際には相互に扶助して念仏する」ことを記していました。「往生要集」の作者でもある恵心僧都源信、942~1017)が始めました。講を結成するときに約束をするのが12か条の約束【横川首楞厳院(よかわしゅりょうごんいん)二十五三昧式】でした。

 民族学者の五来 重氏は、「日本の村は、二十五三昧講の結成により血縁社会から一種の信仰集団に変わっていった。村は、信仰的なつながりをもって運命共同体になった。ですから、日本の村落には多数決はありません。必ず全員で決め、一人でも反対があったら否決だという慣習ができています。そのかわり、一人二人の頑固者がいて承知しないと、縁のある者がみな寄ってたかって『よし』というまで説得します。運命共同体には、多数決で少数の人を犠牲にしてはいけないという観念が昔からありますが、それは宗教的な集団であったからです(五来 重著「先祖供養と墓」角川書店1992 p140)」と言われています。
 日本の共同体精神は、宗教によって啓蒙され、村は運命共同体となったのです。
(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2013/8/21「日本の共同体精神の源流〈ニ十五三昧講〉」より) http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-b928.html

 (3)茶室と茶道は、仏国浄土を目指した

 茶室というのは、お茶をたてるために、最小限の空間、亭主と客、お道具がおさまるだけの極小空間を囲んだもの、たったそれだけのものですが、そこに本来の究極の人間社会の姿を表現しようとしたものが茶室と茶道です。主人と客人、そして二人の間を取り持つ最小限の道具をもって、あるべき本然の姿を創り出そうとしたのです。村田珠光武野紹鴎千利休という茶人の創意工夫によって草庵茶室と茶道が完成されていきますが、豪奢を排したありふれた自然の中に美を発見し仏国浄土を築こうとしたのです。

 茶室に向かう客人は、日常生活から離れ、茶の湯の世界へ入るための庭園、露地に入ります。まず、外腰掛で心をしずめます。そして、一歩一歩飛び石をつたって、手水で浄めて躙口(にじりぐち)をくぐって席入りをします。客用の小さな出入口である躙口(にじりぐち)から中に入るには、誰もが身をかがめて入らなければなりません。この世の上下関係、立場を捨ててお互いに無垢のありのままの姿の一人の人間として対峙する。それを、何をいわずとも、空間の所作によって教える、それが躙口なのです。茶室は、小宇宙、あるいは母親の胎内であるとよく言われますが、躙口から入ったらそこは浄土なのです。心でみる美しさ」の茶道の世界なのです。

 茶の湯の教えや道具扱いの心得を教示したといわれる「利休居士道歌」では、どんな道具でも、手順で他の道具にうつる時は、その前の道具を恋しい人と別れるように、名残惜しく扱わなければならないと教えています。一連の作法のなかで、茶碗に水や湯、抹茶を入れる時、どんな道具であれ、なにか自分自身の全責任をもって、新しい世界を切り開くのです。茶の湯は、誠心誠意心を込めて客人をもてなすことを教えているのです。

 茶道では、一期一会という言葉が頻繁に使われます。同じ茶会が開かれることはないからこそ、「誠心誠意を込めて客人をもてなそう」と考える精神につながっていくのです。茶道では、茶会によって用いられる花が違い、テーマによって掛け軸を変えます。そうすることによって、まったく同じ茶会は二度と開かれないことを暗に演出しているのです。

 茶道の言葉に「和敬清寂」という言葉があります。主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にするという意味です。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間を生むのです。茶道は、茶室という狭い空間の中に仏国浄土を築こうとしたことを忘れてはいけません。

 村田珠光は、「心の文」の冒頭で、茶の湯の修行において最も障害となるのは、心の我慢(われこそはと慢心すること)、我執(自分に執着して我をはること)であると述べました。しかし、最後になって「かまんなくてもならぬ道也」、つまり茶の湯は「我こそはと思う気持がなくては成就しない道である」と、反対のことを言っています。仏国浄土は、自らの手によって切り開かなければできないと言っているのです。

(参考:www.digistyle-kyoto.com/study/culture/chashitsu/chashitsu09.html

 (4)禅が教える還相の役割

 禅では、「悟るだけが禅ではない。悟った後、還相(げんそう)して本来の主体(神仏)のもとに役目を果たすことが重要である」と説きます。還相とは、この世に戻ることです。出家したままでは何もならない、世間と隔絶することがすべてはないというのです。あくまでもこの世を神の世界に変えていかなければならないというのです。この考え方は、おそらく日本に特に強いものではないでしょうか。
 「極楽というところは久しくとどまるべきではない。とどまってもしようのないところだ。ありがたいかしらんけれども、ありがたいだけでは何のためにもなりゃしない。ただ自己満足ということになる。それだから、どうしても極楽を見たらただちに戻って来なければならない。還相の世界へ入らりゃならん。」(鈴木大拙)

 「徳雲の閑古錘、幾たび妙峰頂を下る。他の癡(ち)聖人を傭うて、雪を担うて共に井を填(うず)む」(白隠『毒語心経』)
(
解釈:武村牧男氏 白隠は、修行の跡も消し去って、とがったところもまったくなくなった境地にある者が、その利害打算を超えた立場から、報いを求めずに黙々とひたすら働きつづけるあり方こそ、「兼中到」という至高の境地にふさわしいと見たのです。どんなに雪を放り込んでも、井戸は埋められることはありえない。そのような無意味のことに、せっせとはたらいてやまないところに、禅のこのうえなく深い味わいがあると。)

 「ただはたらいてやまない」というのは、自我にしがみついてはたらくというのではなく、本来の主体(超個あるいは神・仏)そのものに目覚めてこのかけがえのない主体を自覚して、その主体の下にやってやってやりぬく(真空妙用)ということなのです。還相して本来の主体そのものに目覚めて、やり抜けと言っているのです。

 秋月龍珉氏は、『従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである』と語り、還相して自他不二の人間関係を築くことに努めなければいけないと説いています。禅の修行によって得た覚りは、覚りの終着点ではないのです。アガペーの愛の実践だけではない。さらなる覚りの世界を目指さなければいけないというのです。禅は、還相(娑婆)の中に自他不二の世界(地上天国)を創り出そうとしているのです。

 禅は、特定の教義をもたず、自由な立場にあることから、多くの宗教間対話に参加して主導的な役割を果たしてきています。世界のさまざまな宗教の対立が深刻になる中で、禅は宗教間の対話の重要な役割を果たすことができるのではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

(5)武士道精神が培った生死の呪縛からの解放と忠孝

 17世紀の武人著者大導寺友山は、その著書「武道初心集」の初めに、「武士にとって最も肝要な考は、元旦の暁より大晦日の終わりの一刻まで日夜念頭に持たなければならぬは死という観念である。この念を固く身に体した時、汝は十二分に汝の義務を果たしうるであろう。・・・」と記しています。日本人の、特に武士の『潔く死ぬ」という死の哲学・態度は、禅の教えから来ました。禅の修行は単純・直裁・自恃・克己的であり、この戒律的な傾向が戦闘精神とよく一致するのです。
 禅は、武士に道徳的哲学的二つの面から支援しました。道徳的というのは、一たびその進路を決定した以上は、振り返らぬことを教えるのが禅であり、哲学的というのは生と死とを無差別に取り扱うからです。禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではありません。ただそれは、人を生死のきずなから解こうとするのです。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのです。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性をもっていて、極めて抑揚に富んだものになるのです。

 武士道の有名な書「葉隠」には、こう記されています。「葉隠の意味は、〈葉の陰に隠れる〉の意で、わが身を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽くすのが、武士の徳の一つだというのです。いつにても身命を捧げる武士の覚悟を強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べています。この力はときとして悪魔的であるかもしれぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えません。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ち上がり、死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのは実にこの点にあるというのです。

 生死を超えた毅然とした態度と不断の精進、一度決断したことは翻さない、こうした修養が武士に武士たる威厳をもたらし、武士道という精神を造り上げたのです。

 日本の精神とされている忠孝の精神は、武士道が儒教(朱子学)と結びつくことによって、どの民族にもない「忠孝」-滅私奉公という主君との主従関係を創り出しました。私という観念を拭い去って主人のために尽くすという精神は尊いものです。しかし、それは礼を守るという姿勢だけが極端に強調されて、江戸時代の儒教武士道(武士は君主のためなら自己犠牲をいとわない)とか国粋主義(国のためなら家族を犠牲にすべきだ)という国や君主のために死ぬのは当然だとかいう倫理に変質したのでした。

 日本民族の武士道の精神は、世界から称賛されています。それは、武士道が私という観念、生死という観念を超越して公(全体)のために生きるという、信仰の自己犠牲、自己否定と同じ道を啓発しているからです。ここに武士道がもつ素晴らしさがあるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/6/26「(鈴木大拙氏とともに)禅と武士道」より)

 (6)日本教(人生と修行)

 松永尺五、石田梅岩とともに日本型資本主義の精神の形成に大きな役割を果たしたといわれているのが江戸初期の曹洞宗の僧侶、鈴木正三です。正三は徳川家康に仕えた元旗本で、日々の職業生活を大切にすることが仏の道に通じると説きました。「何の事業も皆仏行なり。人々の所作の上におひて成仏したまふべし。仏行の外なる作業有るべからず。一切の所作、皆以て世界のためとなる事を以てしるべし。仏体をうけ、仏性をそなはりたる人間、意得あしくして好て悪道に入ることなかれ」。正三は、職業の中に仏教を生かすことが大切だと主張したのです。
 鈴木正三は、山本七平氏によって高く評価され、近代の日本人の人生観、勤労観に大きな影響を与えた人物です。日本人が好きな「人生修行」という観念は、この人から生まれているといってもよいでしょう。この世のすべての職業がすべて仏行である。人間はそれぞれの職業生活において成仏できると肯定したのです。日本のプロテスタンティズムを作った人物と呼んでもいいと思います。
 「正三の思想は、仏は気(機)であり、天地はその仏である気で満ちているという、画期的な仏理解が上げられる。つまり、仏である気が、十方に、満々と満ちており、その仏の働き(徳用)によって世界・世間のものごとが生成している。仏は、万徳円満の仏、言い換えれば、気である仏の計り知れない働き(万徳)によって、森羅万象が形をなし、一切世間の人々の所作・事業、すなわち鍛冶、農業、医業などの具体的なる活動(万徳)が生成して、世界を利益するのであると、その一端を測ることができる(公益財団法人中村元東方研究所研究員 加藤みち子氏)」と捉えたのです。何と近代的な神観ではないでしょうか。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/7/15「禅の世界と禅の未来(5)現世における自他不二の世界の創造」より)

 (7)近代神道が目指した地上天国

 幕末明治維新の時代は、13世紀鎌倉時代と並ぶ宗教の一大変革期でありました。この時代に、習合神道系、仏教系、山岳信仰系等の多くの宗教運動が新たに成立してきました。如来教黒住教天理教金光教、冨士講身禄派、丸山教、本門仏立講(のちの本門仏立宗)などが生まれました。村上重良氏は、「これらの新興宗教は封建宗教にはもとめえなかった個人の主体的信仰に基づくもので、同じ信者の強固な結合がはぐくまれた」と述べています。この時期に起きた宗教にはいくつかの共通した特徴があります。

 まずあげられることは、強力な一神教的な最高神による救済の教義であるということです。如来教如来黒住教天照大神天理教の天理王命、金光教の天地金乃神、丸山教大祖参神(もとのおやがみ=太元の父母)等です。

 第二は、各宗教はすべて現世中心主義で、病貧争のない「この世の極楽」が語られ、病気なおし等の現世利益が一貫して強調されていることです。天理教では、死を出直しと呼び、その教義には、来世も祖霊信仰も原理的には意義を認めない徹底した現世中心主義がみられるのです。

 第三には、民衆の全生活的な救済の使命感を支える素朴な人間愛であり、人間の本性への信頼でありました。天理教では、「一列はみな兄弟」とされ、金光教では、「神の氏子」として人間はすべて階級・身分・性の差別なく平等でありました。自主的な信仰によって結合した民衆宗教の信者たちは、互いにたすけあい学びあって、共同の信仰生活の場をつくり出したのです。

 『大別すると、政治と社会の変革によって「よふきぐらし」(天理教)、「日の出に松の代」(丸山教)とよばれる理想社会の実現を目指す政教一致型の世直しの宗教と、「実意丁寧神信心」(金光教)をもとめて信仰をどこまでも個人化し内面化していく、内面指向型の宗教が見られる(村上重良)』のです。

 幕末明治維新期の民衆宗教の勃興は、外国から入って来る思想の中に邪悪なものが含まれていることに対する警戒と宗教が究極的に目指している現世での理想社会の実現という目標に向かって準備されていた一つの方途であったと思われるのです。

(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2014/10/14「幕末明治維新期に成立した民衆宗教の展開と特徴」より)

(8)弥勒仏の降臨を準備した大本教

「神が表に現われて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下太平に世を治めて、万古末代続く神国の世に致すぞよ」(お筆書き)

 大本教は、明治末出口なおによって始められた宗教です。なおの「お筆書き」により、艮(うしとら)の金神の世直しを唱えて、「みろくの世」(神の国)の到来を唱えました。
 「お筆書き」には、この地上に神国の世(みろくの世-理想世界)を建設するため、精神界・物質界のいっさいを立替え立直しするという神の誓約が記されてありました。今の世は、“われよし”“強いものがち”の悪魔の心になっており、世を乱してきた悪霊を改心させ、善一筋の神の世、平和の世にすると宣言しているのです。そしてもし人類が改心しなければ世界に大難が来て、人類が3%に減じると予告されていたのです。

 王仁三郎も、明治37年(1904年)の「道の栞」の中で、次のように述べています。(松本健一著『民間日本学者3 出口王仁三郎』リブロポート1986年より)
「世界の各国はいずれも皆、おのが国の利益を中心として働きおれり。わが国は真理のため、文明のため、平和のために日本魂を中心として働くべきなり(第3巻上60)
国と国との戦いが起こるのも、人と人との争いが起こるのも、みな欲からである。神心にならずして、世界のためを思わずして、わが国さえ善ければ他の国はどうでもよい、わが身さえ善ければ他の人はどうなってもよいという自己愛から、戦いや争いが起こるのである。これらはみな悪の行為である。(第1巻下58)」
人類はすべて神の子、神の宮であり、したがって人類はすべて兄弟であり、世界は一つの大家族であるという真理を、世界の人類に自覚させることが肝要や。世界の人類が兄弟であれば、貧富の差があってはならず、そのためには私有財産の観念を否定し、すべてが神のものであるという認識に立たねばならん」と語っています。

人類はいまや救主の出現を待ちて無明暗黒の世界を模索しつつあるにあらずや

 王仁三郎は、大本教の万教同根の思想と宗教による精神的な世界の統一の方法として、世界宗教連合の実現に努力していきます。この理想は、大正14年(1925年)5月、普天教、道教、救世新教、仏陀教、回教、仏教、キリスト教の一部からなる世界宗教連合会の設立となって実現します。大正14年6月には、「人類愛善会」を発足させます。ここを母体とする人類愛善運動は、非常な勢いで国内だけでなく海外へ発展していきます。総本部は亀岡に置き、その下に東洋本部・欧州本部・東京本部を置き、あっというまに日本だけでなく満蒙、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカ、南米、南洋諸島などに支部が設立されていったのです。ヨーロッパにおいても賛同者が続出し、入会者がひっきりなしであったといわれています。各国各地には愛善堂、愛善農園、愛善保育園、愛善診療所、愛善語学校などが作られていきました。

 大本教は、日本だけでなく世界という舞台で宗教の連合、人類の救済活動を実践しながら、救い主の出現を待ちわび、みろくの世が到来することを願っていたのです。昭和52年(1977年)2月3日には、再建された綾部のみろく殿で、キリスト教との共同礼拝式がモートン神父、日本聖交会の関本肇神父らによって行われたように、世界の諸宗教の連合に努めています。
(参考:筆者ブログ ぶっだがやの散歩道2013/3/31「出口王仁三郎と理想世界、世界平和ー1、2、3」より)

 

 冒頭でも述べたように、日本民族には弱肉強食に陥りかねない自由競争の資本主義には嫌悪感があり、神仏を否定した共産主義には違和感があるのです。

 二宮尊徳は、「道徳のない経済は悪であり、経済のない道徳は寝言である」という言葉を残しています。倫理道徳からかけ離れた経済は、決して平和で幸せな社会を築くものではなく、むしろ反対に悪に染まった地獄を造ることになるのだと述べているのです。尊徳は、至誠を尽くし勤労に努め贅沢を慎むことを教えます。人間としての節度を保つこと(分度)こそが正常な心と行いを保つ上で非常に大切なことで、これを過ぎるととてつもない災いが襲ってくるのだと警告しています。また、至誠・勤労・分度の結果としてもたらされた富の剰余は、他の者に譲る〈推譲〉ことを啓蒙し実践したのです。こうした節度ある生活をすることによって、人間ははじめて物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるのであると説いているのです。この地上に浄土を築く道を追求してきた苦悩と心意気が伝わって来るではありませんか。

 しかし今、日本民族は立ち往生しています。海外から押し寄せてきた横暴な思想・価値観に翻弄され、古くから育まれ培ってきた民族精神が内外ともに汚染され、崩壊の淵に立たされています。日本民族は、弥勒降臨と弥勒浄土を熱望してきたのです。資本主義や共産主義には、何かおかしいと直感的に感じているのです。弥勒が携えてくる救い(キリスト教でいう再臨主)を学び受け入れることによって、民族の新しい時代が始まるでしょう。それは、同時に日本民族が育んできた精神と文化が世界の新しいモデルとして広まる出発点になると思われます。 

≪産業化の始まりを担った国(英国)と産業化の終わりを担う国(日本)≫

 私は、産業化(工業化)の始まりが英国であり、産業化(工業化)の安着を実現するのが日本であると主張しています。日本は、地球上にばらまかれた産業化の遺産(環境負荷も含めて)を地球上で持続性あるものに秩序づけする役割をもっていると考えています。

 外国生活から戻った日本人がほとんど全員、いや外国人でさえも、世界で一番生活しやすい国であるという感想を述べています。現代日本は、気づかないうちに人々が手を携えて生きる相互扶助・共生社会を作り始めているようです。この目に見えない雰囲気が、伝播して新しい時代を告げるのではないでしょうか。日本人は、生活の豊かさと安定・持続性という新時代の価値観を創造しようとしているのです。自信をもって新しい時代を切り開いていきましょう。

(参考:筆者ブログ キヴィタス日記2016/5/13「日本人は資本主義が嫌い?日本人が願う社会は、共存共栄共生社会である」

http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-e73d.html)