六道輪廻からの解脱は、堕落(罪)の反対の経路を通してしか成されない

 六道輪廻の世界からの脱却、解脱は簡単ではありません。信仰という抽象的な行為だけでは完全には解決しないのです。堕落(罪)を犯した時の反対の経路を通してしかなされないのです。家族内のいざこざは、いざこざの場面が再現した時、それを治めてはじめて解脱するのです。問題が起きた時が解決するチャンスの時なのです。一つ一つ解決していかないといけないのです。

(1)六道輪廻とは

ウェブ「チャンディーの精神世界へようこそ」の説明を見てみましょうhttp://chandi1813.sakura.ne.jp/ess3rokudourinne.html

 六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界を指し、そして六道輪廻とは、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることを言います。人間である私たちの寿命が尽きて赴くところは、生前において私たちが為したカルマ(行為)、すなわち善行、悪行によって決まるようです。大罪を犯したり、悪事を重ねた人間が霊界における地獄や餓鬼や修羅の領域に落ち、凡庸なる生を終えた人間は人間界という領域に赴き、より多くの善行を為した人は天界という領域へと昇って、そして再び物理現象界での人間としての生を享けるまでの間、それぞれの霊性領域で迷妄の生を送るのでしょう。人間とは意識という霊であって、肉体ではありませんから、人間が肉体生を終えて赴く先は、現世において個々の人間が培った意識状態に基づくところの霊性領域であるのは当然のことでしょう。(中略)

 肉体を脱ぎ捨てて意識そのものとなった霊は、自己の波動と同様な意識波動が発せられるところへ引き寄せられて行きます。<類は友を呼ぶ>という格言どおりに、死者は自己の意識波動と調和する意識を有する霊たちが集まったところへと引き寄せられるのです。(中略)

 この世界では、悪人であろうと善人であろうと表面的には同じ人間として、すべての人間が集合共存していますが、あの世では悪人は悪人同士、善人は善人同士で寄り集まり、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界などという、意識の稠密性がそれぞれに異なる領域界が多種多様に形成されていることでしょう。もし、霊が肉体を持たないで意識そのものとして存在するだけならば、霊は同一の意識レベルに留まってしまい、その意識レベルから抜け出て上昇することが可能ではないために、霊はこの物理現象界に生まれ出て種々様々な意識レベルにある人々の中に交わり、そして人間が霊性において進化していくことの重要性を悟り、自己を霊的に成長させることができる機会を得て意識進化を果たしていくのでしょう。従って、人間がこの世に生まれ出ることの本当の意義とは、意識進化の機会を与えてもらうことなのです。

         表ー仏教で説く六道の世界

  善道  or
三善趣

  天

人間の世界より苦が少なく楽の多い世界。

  人

生病老死の四苦八苦がある世界。

   修羅

独善的な世界。怒りに我を忘れ戦いを繰り返す世界。欲望を抑えることが出来ない世界。
三悪道
or
三悪趣

   畜生

弱肉強食が繰り返され、互いに殺傷しあう世界。人を蹴落としてでも、自分だけ抜け出そうとする世界。

   餓鬼

嫉妬深さ、物惜しみ、欲望の塊の世界。この世界から抜け出るため、さらに無理を重ねる世界。

   地獄

さまざまな苦しみを受ける世界。六つのうち最も苦しみの多い世界。

出典:http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/6dou.html

(2)お釈迦様が発見された解脱の道
 六道輪廻はお釈迦様が発見されたといわれています。厳密にいえば、五道輪廻を発見され、後に阿修羅界が組み込まれて六道輪廻になったといわれています。

 お釈迦様以前のバラモン教にも「五趣(ごしゅ)」「五道(ごどう)」「天界」、「人間」、「畜生(ちくしょう)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」という輪廻思想があり、初期の仏教ではこれを踏襲していた形跡がありました。ところが、バラモン教の下では、この死後に関わる「五趣」の思想を、現世の社会階級にまであてはめていきました。その結果、天上の神々の下にバラモン(司祭階級)、クシャトリア(王族、武士階級)、バイシャ(庶民階級)、スードラ(奴隷階級)という4つのカーストが制度化されたのです。

 こうしたバラモン社会に疑問を抱き、社会の底辺の人たちを救済するために新しい宗教哲学を創始したのがお釈迦様だったのです。バラモン教では、輪廻界のなかで生まれ変わるだけだったものが、仏教の輪廻思想では六道輪廻を解脱すれば、仏界という光にあふれた悟りの世界に入ることができると説かれたのです。

 お釈迦様が説かれた解脱の方法のポイントは、出家という道でした。現実社会で生じる六道の意識―煩悩の世界から逃れ出るためには、押し寄せてくる煩悩から身を引き離して関係をもたないで世を捨てるという方法を編み出されたのです。関係を断ち切るのですから、煩悩は押し寄せてくることができません。仏教がもたらした解脱は、業の呪縛や輪廻、迷いの世界などの苦の世界を脱して魂が自由の境地に到達することを目指したのです。

 お釈迦様の説かれた解脱は出家を前提にしているので、在家の信者に対しては啓蒙によって六道輪廻の最上界天界への転生に至る道を教えています。因果応報の法を教え、解脱の道として三宝(正しい認識、正しい知識、正しい行為)をすることを教えます。そうすることによって、来世において天界に生まれると教えられたのです。お釈迦様が最初に教えられた在家信者は、ベナレスの富豪の息子サヤで、因果応報の法を説き、戒の善い習慣を身につけ、戒を犯した時には自分の弱さをわきまえ懺悔すること、そして布施(慈善は他人のためにする行為であるが、布施は自分の大切なものを他人にもらっていただく)をすることによって心を安らかにすることを教えました。布施の功徳を積むことによって心が清まり世界を正しく見ることができるようになると教えたのです。

(3)現世における解脱への道―具体的なる罪の反対の経路

 現世への輪廻転生は、意識進化の機会を与えられたものであると仏教は教えています。お釈迦様の教えに従って、戒を守り布施を実践することが基本となります。

 しかし、お釈迦様の教えは出家を前提にしており、在家の場合啓蒙にとどまっていました。お釈迦様の教えでは、現世での完全な救い(解脱)はもたらされていません。情がどのように表出するのかどのように抑えるのか、どのようにして解脱するのかは詳しくは説かれていないのです。

 六道輪廻の原因は、無知・貪欲・憎しみという人間の情ですが、人間の情は現世の物質的・具体的な人間関係、人間活動によってもたらされていることを再認識することが出発点です。人間の情は、単独では生じません。何かの対象にふれ合う時に発動されていきます。美しいものを見て美しいという情が起きるように、ある対象との触れ合いの中に情が生まれていくのです。無知・貪欲・憎しみという好ましくない情が生じてくるのも、そういう情を引き起こした原因があるのです。自分自身であったり、先祖の因果応報であったりしているのです。その関係をもとに戻さない限り解脱には至らないのです。

 こうした因果があるため、単に戒を守り布施を実践するだけでは解脱に至らないのです。しかもその情を悪神(死神またはサタン)が牛耳っているため、ほとんど同じ失敗をしてしまうのです。因果応報は乗り越えることの難しい難題として定着したのです。

 罪を犯した(堕落と呼ぶ)人が本来の位置・状態に戻るためには、罪を犯したことの反対の経路を通ってしか戻ることができないという原則があります。家庭に不和が生じているならば、ただ祈っているだけでは解決しないのです。当事者同士が仲直りする以外に方法がないのです。この解決の道を通してはじめて現世における因縁の清算と意識進化が成せるのです。解脱への道は具体的なのです。曖昧なままで成就することはないのです。逃れる術はありません。その情を背後で悪神(死神またはサタン)が牛耳っているため、より解脱は困難なものになっているのです。

 堕落への危険、死神に操られた憎しみ、恨み、貪欲、傲慢などの醜い情が沸き上がってきたら、その時にその情に操られないように忍耐しないといけません。人類歴史は、99%そのことに抗しきれず同じ過ちを犯してきました。聖書の創世記には、アダムの息子カインに対する神の忠告が記述されています。人類始祖からの罪の因縁が我々を縛って苦しめているのです。

「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう
もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています
それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」(創世記4章6~7)

        罪(堕落)からの復帰の道

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 ほとんどの人は、この話を聞いて「自分は大して悪いことも他人を苦しめたこともないし、時には世の中のためにいいこともしたから、人界か良ければ天界に行けるのではないか。解脱できなくてもそれで十分だ」と思われているかもしれません。そう思われているなら、それは良き人生を送られたものと思います。

 しかし人生の中で、離婚、不倫、兄弟対立、親子相克、知人との対立などがあったとしたら、その因果は必ず子孫に現れてきます。親子孫三代が平穏な人生を送れることはほとんどありません。ほぼ100%家系の問題が表面化して、子々孫々を苦しめることになるのです。これが先祖から引き継いでいる因果なのです。「転ばぬ先の杖」という言葉がありますが、具体的な形として堕落(失敗)する前に堕落しかねない情が沸き起こってきたならば、「耐えること・忍耐すること」これが大事なことなのです。この一点が先祖と同じ轍を踏まず、因縁を清算する道なのです。

 そしてもう一つ、一人で先祖の失敗を償うことはほぼ不可能であるということです。この手助けのためにあるのが宗教なのです。宗教創始者の功徳を頂きながら乗り越えていくのです。