再臨主の御言葉(2)地上生活と霊界

 人間の霊人体と肉身の関係について見てみるとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。肉身は百年くらい生きて死にますが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。いくら地上界で良い服を着て、良い物を食べ、裕福に暮らす人も、結局、死ぬのです。したがって、皆様の人生は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を成して暮らしてから逝かなければなりません。現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させるべき責任があるということです。

 ところが、霊人体の完成は自動的にやって来るのではありません。必ず真の愛の実践を通して、体と心が完全一体となった人生の土台の上で、初めて完熟した霊人体が結果として実っていくのです。

 皆様、秋になって、倉庫に入っていくよく熟した果物になるためには、春と夏という過程を経ながら、自然界が提供してくれる栄養素と、主人の細やかな世話が絶対に必要です。無精で見識のない主人に出遭った果樹園の果物は、あらゆる疾病と悪天候に悩まされ、熟すこともできないまま落果したり、虫に食われた果物として分類されたりしてしまうでしょう。果物は果物ですが、同じ果物ではありません。市場に出して売れる完成品にはなれないのです。

 木の上で完熟した果物は、自動的に主人の倉庫に入っていきます。同じように、人間の霊人体は、木と同じ立場にある地上界の人生で完成してこそ、自動的に無形世界である霊界の天国に入っていくのです。言い換えれば、人間は、肉身をもって暮らす地上界の人生で、完熟した人生、すなわち、この地に天国を成し、楽しく暮らしてから逝ってこそ、自動的に天上天国に入城するようになるのです。

 地上界で暮らす間、皆様の一挙手一投足は、このような天の公法を基準として、一つ残らず皆様の霊人体に記録されます。したがって、霊界に入っていく皆様の姿は、肉界での人生を100%収録した霊人体の姿です。よく熟した善の人生だったのか、虫に食われ腐った悪の人生だったのかは、皆様の霊人体に赤裸々に現れるのです。神様が皆様の審判主ではなく、皆様自らが自分の審判官になるということです。このような途方もなく恐ろしい天理を知れば、どうしてあえて地上界の人生を、あらゆるサタンの誘惑に陥り、利己的で、快楽ばかりを追い求める背徳の人生で終えることができるでしょうか。皆様の霊人体に傷を負わせ、傷跡をつけることは、命を懸けて慎まなければなりません。天国行きと地獄行きが、きょうこの時間、皆様の考えと言行で決定されるという事実を、はっきりと肝に銘じてくださるよう願います。

 ところが、霊人体自体が真の愛の人生を主導し、実践できるのではありません。皆様の霊人体は、必ず体と心の円滑な授受作用によって展開する肉身の人生を土台とした真の愛の人生を通してこそ成長し、完熟し、完成するのです。

 しかし、皆様の中では、外なる人と内なる人が絶えず葛藤し、争っていることを否定しえないでしょう。あとどのくらいこの争いを継続されますか。十年ですか。百年ですか。宇宙のすべての存在には、厳然とした秩序があります。神様は、私たち人間を、そのように不完全な状態で創造されたのではないというのです。外なる人である肉身の誘惑を果敢に振り切ってしまい、内なる人である良心の道に従って人生の勝利を達成することが、皆様の人間たる義務であり、責任だということを知らなければなりません。このような人生を生きる人には、天運が共にあり、霊人体の完成も見ることができるのです。〈2006年10月14日平和メッセージ「天宙平和統一王国創建の真なる主人Ⅱ」より〉

 

(解説)

 私たち人間は、この世の人生を終えるとどのようになるのか、誰もが考えることではないでしょうか。人間はいつの時代も、死後の世界はあるのかないのかから始まってこの地上での行いが死後の世界にどのように関係するのかと、関心を持ち続けてきました。

 このことについては、今までの人類歴史の中で様々な宗教が多くのことを説いてきました。亡くなった後のことは知っても意味がないから今を生きるのだとか、神様、仏様を信じて逝けばその世界に行けるとか、死後生前の行為の審判があって天国か地獄か行先が分かれるのだとか言われてきました。

 本当のことは、誰にもよくわからないというのが多くの人の正直な感想でしょう。しかし、スエーデンボルグが霊界日記を著わしたように、また霊界からのメッセージが霊媒者を通じてもたらされているように、どうやら霊界という存在は荒唐無稽のものではないかもしれないとも思ってきました。

 最近では、生前記憶を持っている子供が生前の記憶を語る例もみられています。また、量子物理学の世界では、私たちの記憶・意識は死後も無くならないといわれるようになりました。(このことについては、ブログ「量子物理学の世界では意識の不滅が論争になりつつあるようだ」で記述した。)

 では、どうして私たちは死後の世界にそこまで関心を持つのでしょうか。それは、私たちの意識は消え去るものではないのではないかという本能的な感覚があるからです。本心は知っているのです、「意識はなくならない」と。

 私たちが感じている感覚、「死後の世界はあって私たちの意識は続く」というのが真実だからです。再臨主が語られているように、この地上生活のすべては霊人体に刻み込まれて、そのすべてを持って私たちは霊界に旅立つのです。今の私の意識と今までの行為が死後の世界を決定するのです。死後の世界は、自らの意思で自分の住処を決めるのです。閻魔大王が決めるのではないのです。神様を信じて真の愛に生きた人は神様に近いところが住みやすい住処でしょう。反対に、神様と真の愛に遠ければそのような世界を選ぶことになるでしょう。こうして自然に天国に近い住処と地獄に近い住処に分かれていくようです。