摂理として働く神とサタン (2)神とサタンの基台の奪い合い

1、神の摂理と基台

 宇宙は、単なる容器にすぎないと考えている人であっても、根源に見えない力が存在して作用しているのではないかと考えておられる人は多いのではないでしょうか。その根源の力を神、究極の力(意思)と呼ぶのです。

 今まで人間は、神とは人間のように一つの意思ある存在(人格身)としてとらえてきました。人間に奇跡をもたらし、啓示をおろして人々を導く存在として考えてきました。その御方が神自体かそれとも神の代身なのか知る由もなかったが、人間は一括りにして神と呼んできました。

 しかし、科学が発達し、一方においてスウェーデンボルグシルバーバーチなどによってスピリチュアリズム(心霊科学)が進展するにつれ、神を人格神としてとらえることに無理が生じてきました。ブログ「神と霊界の存在形態<神はいかなる御方か、そして霊界は>」(2016/6/25)において記したように、私たちの現実世界の背後には霊的世界が存在し、霊的世界は人間の霊と霊的世界だけの存在である霊的実体(キリスト教でいう天使と万物)によって構成されているとおぼろげながらわかりかけてきました。霊的世界は、想念の世界なので現実世界のように時間空間に縛られていません。また、霊的世界は単独で存在しているのではなく、霊的世界で生じた想念は一人一人の人間を通じて現実世界に作用していることもわかってきました。我々人間は地上での生活を終えると、霊的世界に旅立ち、また霊的世界から地上世界に生まれ変わりというような形で戻ってくることもわかってきました。仏教でいわれてきた縁の世界は、霊的世界を理解するようになってだいぶ分かりやすくなってきたのです。

 このような姿がわかってきて、神は霊的世界に一つの意思ある存在(人格神)として存在しているのではなく、霊的世界の更に背後に存在して、霊的世界の善霊を通じて現実世界に力を及ぼしているようだと理解されてきたのです。

 神の摂理とは、霊的世界の背後に存在する無形の神が現実世界に働きかけるにあたっての時間空間的展開の形なのです。そこに神が姿をあらわす時間的法則、空間的法則が存在するのです。歴史においてしばしば現れる歴史の繰り返し現象や占い(易)で予言として語られる現象は、摂理的展開として現実世界に現れる事象を過去の経験から導き出してきたものなのです。

 

 2 サタンの介在と摂理

 神の摂理だけが作用しているのであれば、現実世界は宇宙のように整然とした秩序に満たされた世界になったはずです。しかし、現実の地上世界は苦に満ちた住みにくい闘争の世界であります。その根源は、すべての宗教が語っているように、我々人間の心に問題があり(仏教では煩悩と呼んでいる。キリスト教では罪と呼んでいる)、人々を対立と闘争に向かわしめていることにあるのです。すべての宗教は、そこから脱却する道を必死に探求してきました。それがどんなに大変なことか、宗教がこのことに費やしたエネルギーを考えればわかると思います。

 お釈迦様は、悟りに至る最後の段階で色魔の誘惑を受けます。この色魔は単なる妄想だけなのか、それと実体ある存在なのか、疑問に思われている方も多いと思います。聖書の創世記には、天使長ルシファーがイブを誘惑して堕落させたことにより地に落とされサタンになったと記されています。キリスト教は、霊的実体としてサタン(悪なる力)の存在を認めています。

 妄想は単なる思いだけなのか、それともそれ以上のものなのか。霊的感覚のある人ならば、霊的世界にいる霊的存在としての人間(幽霊など)あるいは天使その他の存在を感覚的に感じると思います。そして、霊的存在から何らかの波動を受けると実感しておられるでしょう。私たちは、霊的存在から影響を受けているのです。霊的スポットといわれる場所は、霊的波動を強力に発している所です。非業の死者を多く出した場所は重々しく、聖なる神社、教会はすがすがしいのです。人間の妄想に霊的存在の力が加わると、妄想は制御できないくらい強力になって人間を苦しめることになるのです。

 人間の堕落と原罪という人類始祖の物語は、このことが分からないと絵空事になってしまうのです。人類始祖を堕落させた存在、霊的存在であるサタンは、神に反抗するもう一つの主人として、人間とは自分中心的な存在であると主張して、自分の配下に組み込もうとしているのです。サタン(悪なる力)とその配下の悪霊団は、神が摂理を通して働くように神の摂理を利用して働くのです。神とサタンは、摂理という時間空間に作用する法則を通じて対峙しているのです。

 摂理の時というのは、神とサタン(悪魔)の双方が領有権を争う瞬間であり、人間が神を選択するかサタン(悪なる力)を選択するかの時なのです。サタン(悪なる力)は、人間は自分中心の存在であると主張し、神は人間は利他愛に満ちた存在であると主張するのです。選択の主権は、人間にゆだねられているのですが、いつも人間はサタンの主張通りの選択をしてきたのです。歴史は、ほとんどサタン(悪の力)の勝利で終わってきたのです。それゆえ、この世界から苦しみも対立も闘争もなくなることはありませんでした。

 神は、そうした中で数少ない神の勝利圏(義人聖人の信仰の勝利)を土台にして人間を救う摂理をされてきたのです。

 

 3、神の基台醸成とサタンの基台つぶし

3-1、個人基台(自灯明)

 「自らを灯明として生きなさい(自灯明)」。この言葉は、お釈迦様が最後に言い残された言葉です。自分自身を拠り所として、世を照らす光となって生きなさいという意味です。

 人間誰もが、自らの中に森羅万象、宇宙とつながる唯一の存在としてのすばらしい自我を有しています。お釈迦様は、それを「天上天下唯我独尊」と呼ばれました。誰もが自分の中にかけがえのない灯明を持っています。それを発見することこそが自分の人生なのです。それを発見し、その道を懸命に歩むことがここでいう個人基台なのです。それは他人と比べることはできません。あなたの代わりはいないのですから。

 しかし、それを発見しそれに尽力することは至難の業です。今までほとんどの宗教がこのことに専心してきたのは、これがいかに難しいものであるかを物語っています。自分を主管する、自分を律するということは、世界のことを考える以上に難しいものなのです。

 私たちの心の中に煩悩・罪が宿っているからです。生老病死や愛別離苦・怨憎会(おんぞうえ)苦・求不得(ぐふとく)苦・五陰盛(ごおんじょう)苦だけが煩悩ではありません。

 お釈迦様は、瞑想の中で「人間は無明である(根本的に無知である)。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まる」ことを発見しました。私は何も知らないということに気づいたのです。空の存在なのです。それなのに私たちは、ごく普通に「自分は」という言葉を発しています。「自分は」という言葉の中に、「自分は正しい」「自分の意見としては」という観念がはりつき、こころを支配しているのです。自分という観念は、煩悩そのものなのだと気づくことが重要なのです。自分という存在は、単独で独立して存在しているものではないのです。デカルトの「我思う、故に我有り」という命題は、私たちの心に「自分」という観念が正しいように植え付けてしまいました。

 「私」という観念は空虚なものなのです。仏教では、無我を説きます。それは通常、「我をなくせ」という風に解釈されています。それは正しくありません。もともと「我はない」というのが本来の意味です。

 個人基台を醸成するということは、私という観念を滅却して私の背後にある存在-神とか仏-につながろうとすることなのです。それは、新しい自分に目覚めるということであり、生かされているということに気づくことなのです。神につながっている、天宙の呼吸に合わせられている、すべての身の回りのものが貴重に見えるというかけがえのない世界を体感することなのです。そのことを追求しなければいけません。

 その道から外れたならば、サタン(悪なる力)が待ち構えていて煩悩と罪の世界へ導いていくのです。そうなると、どんどん深みにはめられていくのです。

 

3-2、家庭基台

 家庭は、人間が地上生活をおくるにあたっての最小単位であり、生活の基盤となるものです。誰もが幸せな家庭を願うのは当然のことなのです。人間の一生を考えた場合、祖父母、父母、子の最低三世代が同居して生活するのが基本であり最も安定する形であるといえましょう。この姿が家庭の基台なのです。

 しかし、人間はこの形を崩してきました。夫婦が仲違いし兄弟が仲違いし、親子が仲違いしてきました。人類歴史を振り返ると、仲違いと対立、分裂の歴史であることがわかります。

 仲違いと分裂は、世代間の摂理として子孫に受け継がれることになっていきます。このことは、ブログ「家系の法則(1)」「家系の法則(2)」「家系の法則(3)」で詳しく説明してきました。先祖の失敗があると、子孫は先祖が失敗したのを復元する必要があるので、同じような状況を再び迎えることになります。先祖が失敗した形なので、なぜそのような状況を迎えるのかわからないと再び同じ失敗を犯すことになりやすいのです。その結果、代々同じ失敗を繰り返すことになり、〇〇家の業として子々孫々に語り継がれていくのです。

 家が代々続いてきたということは、先祖が家庭の基台を守り、逸脱した行為を最小限に抑え、先祖の失敗を清算してきた賜物であることを忘れてはいけません。

 家庭基台を取り戻すためには、祖父母、父母、子の三世代の相互の間で、先祖が失敗してきた状況(夫婦の仲違い、親子の仲違い、兄弟の仲違い)から犯した罪(浮気、殺人、離婚など)を清算するために、同じような状況の中でお互いが仲違いしかねない情の対立を乗り越えて一つになることが必要となるのです。

 近年、家庭内で親子の相克、家庭内暴力、子供の閉じこもりを始めとした精神疾患が急増していますが、これも先祖の失敗に起因している可能性が高い現象なのです。それゆえ、当事者個人の問題としてではなく、家族が一つになって立ち向かわなければならないのです。家族一人一人にその役割があるのです。

 さらに、現代では、個人主義の風潮の中で核家族が普及して三世代同居がほとんど見られなくなっています。このことがどんな弊害をもたらすかも考えてみることが大切です。核家族は、家族をばらばらにしかねないということを念頭に置かなければなりません。経済的な面だけでなく、家族の孤立(老人の一人暮らしなど)、相互扶助の欠如、家庭の伝統継承の断絶という問題が起こることを懸念しなければならないでしょう。

 家庭の基台だけでなく、一族、地域社会も同じことです。禅の秋月龍珉は、今後の禅の役割はこの現実世界の中で唯一無二の人間関係を築くことにあると語っています。誰しも人生を生きてきて感じることは、自分の身の回りの世界は広いようでいて狭いということです。人生の中で築き上げる人間関係の中に、唯一無二の関係を築くことが人生の目的となり、自らの幸せをもたらす基となるのではないでしょうか。

 

3-3、国家基台

 私の心が神につながれば、そして周りの人もその輪に入れば国は護られるといえば、ほとんどの人がそんな馬鹿な!と思われると思います。しかし、ここで取り上げてきた神とサタンの摂理が、霊的世界という想念世界を経由してこの現実世界にもたらされていることを知るならば、否定することはできないのではないでしょうか。

 国家の命運についても、摂理を通して働く神とサタンの激突があるのです。上で述べたように、神の摂理は無形なる根源の神の愛と力が霊的世界の善霊を通して現実世界に働きかけてきます。サタン(悪なる力)も霊的世界から悪霊を通して現実世界に働きかけてきます。それゆえ、霊的世界においてサタン(悪なる力)を抑えることができれば、現実世界をサタン(悪なる力)から護ることができるのです。

 私は、ブログ「日蓮の警告が受け入れられていれば、蒙古襲来という悲劇は避けられていただろう」(2015/7/27)で、日蓮という日本の霊的支柱であった存在と主張を受け入れていれば、元寇という蒙古襲来の国難は防ぐことができたはずだったと述べました。日蓮は、国難を予知して「立正安国論」を書いて、鎌倉幕府に訴えたのですが退けられ迫害を受けて佐渡島流しにされてしまいました。日蓮が受け入れられたのは、蒙古襲来が起きてからでした。最初の蒙古襲来は防ぐことができなかったのです。

 江戸時代末期にも再び日本に国難が襲ってきました。西欧の文化と価値観の襲来であり、日本植民地化の危機でした。この時も、霊的世界を通じて神は啓示によって国難の到来を知らせ、人々を霊的支柱に導こうとされたのです。金光教天理教黒住教という神道新宗教は、神の願いを受けて設立されたのです。それぞれの宗教が、人々を国難から護るべく普及に努めました。幸いなことに人々は導かれ、そして現実世界である日本は、西欧の植民地になることなく護られて近代化を達成することができたのです。

 しかし、第二次世界大戦の時には逆のことが起きてしまいます。大正・昭和初期、国民の誰の目にも国難と感じられる状況が出現します。この時、国難を予見して活発な活動を行っていたのが大本教でした。出口王仁三郎の活動により教勢を拡大し、知識人・軍人の入信、新聞社の買収、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになりました。1934年(昭和9年)には昭和神聖会を結成します。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼりました。教勢が急速に拡大したとき、国家権力による迫害が起きたのです。

 1921年(大正10年)第一次大本事件と1935年(昭和10年第二次大本事件です。本殿は叩き潰され、王仁三郎は捕えられます。天皇制と国家神道との国家観・歴史観の対立が原因でした。その後国家神道固執した日本は太平洋戦争に突き進み、多くの戦死者を出して敗戦し日本は焦土と化したのでした。終戦出口王仁三郎は、戦争に協力しなくてよかったと述懐しています。

 この大本教の活動に神の摂理が働いているのです。出口王仁三郎は、多くの予言を残していますが、その中に、「ひな型の理論」というのがあります。大本教で起きたことは、日本で起きるという教義です。あまりにもあてはまったので、こわがられていました。その例を挙げてみましょう。

 王仁三郎が徹底的な弾圧を受けたのは、昭和10(1935)年の12月8日です。この日、警官隊は綾部、亀岡、そして王仁三郎のいた宍道(しんじ)湖畔の松江別院を急襲したのですが、連合艦隊特別攻撃機が真珠湾を急襲したのは、ちょうどこの日から6年後の12月8日でした。
 しかも、日時だけでなく、宍道湖(しんじこ)→真珠湾(しんじゅわん)という地名まで符合しているのです。昭和11(1936)年4月18日、綾部、亀岡の聖地はその所有権を取り上げられ、全国の大本関係の施設が次々と破壊されます。ちょうど6年後の昭和17年4月18日、アメリカの爆撃隊による最初の本土空襲が行なわれ、やがて全国の主要施設が空襲によってくまなく破壊されるようになるのです。
 また、昭和20(1945)年9月8日、王仁三郎は大審院において無罪を言い渡されます。ちょうど6年後の昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、第二次世界大戦は法的にも終結するのです。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1482212839

 

 大本教でいうひな型の理論は、心の基台(霊的基台)と現実世界とは連結していることを表しています。心の基台(霊的基台)が失われれば、現実世界も崩壊していくという結果を招くのです。宗教は、国家の霊的基台を醸成しているのです。もし、その宗教を迫害すれば、国家の命運は尽きてしまうのです。

 現在、日本は亡国の淵に立たされています。亡国の淵にあるのには理由があるのです。霊的基台が失われているのです。国難の背後には、国の霊的支柱である存在を迫害しているがゆえに、神の愛と力がさえぎられているのです。国を護るためには霊的支柱を立てその輪を広げる必要があるのです。それが何なのか、答えは皆さんが考えてください。ただし、もう時間はほとんど残されていません。