摂理として働く神とサタン(1)   占いと予言の背後に秘められた摂理

(1)占い・易とは

 誰もが、信じる信じないは別にして、占いの世界に無関心ではいられないのではないでしょうか。これだけ科学が発達して目に見えない世界を信じる人が少ない現代でも、多くの人が占いに関心を持ち、占いの言葉に耳を傾けます。手相、四柱推命、気学、水晶占い、風水など多くの占いが地球上あらゆる場所で行われ、どこでも生活の一部となっています。人間は、何か行動を起こそうとする時、いつも占いを判断の参考にしてきました。理由はわからなくとも、無視することはできない存在です。

 占いは、当たることもあれば外れることもあります。それゆえに信じ切ることもできなければ、無視することもできません。どうしてこういうものが存在するのか、なぜ歴史上ずっと続いてきたのか、首をかしげる人が多いのも事実です。しかし、続いてきたのには訳があります。それは有用だったからです。無視できないものがあることを知っていたからです。

 では占いとは何でしょうか。一言でいえば、人間が生きてきた姿を分析した統計学であると言ったらいいでしょう。人類の歴史の中で起きた様々な現象の共通点を分析してまとめたものが占いです。〇〇の天体の配置の時には△△の現象が起きた、手相にこういうラインが出ると不吉であるとかを学んできて集大成したのです。

 易経では、こう述べています。易経は「変化の理」について書いたもの。人生で起こるあらゆる場面を著わし、その解決法<陰陽の組み合わせによる64種類の卦と384の小話を使って>を著わしたものです。この中で、時の変化の兆しを感じ取ることが重要だと教えています。目に見えないが、実際にものごとが起こる前にはかならず兆しがあるので、それを感じ取ることが大切だというのです。

 さらに次のようにも述べています。恐れおののくような事態に遭遇しなければ、人は改めないと。「震(うご)きて咎无(な)きものは悔に存す」(易経)とは、背中が震えるような恐れ震えるような思いをしないと、人は改めないものだという意味です。震えが人を正常な感覚に戻し、凶を吉に、或いは凶に至る前に未然に転換させるのです。心の中に芽生えた傲慢さや、惜しむ、けちるという吝(りん)の兆しを察知することが大切だと教えるのです。

 ある宗教の教祖が、厄年で相談に来た信者に「お役に立つ時が来ましたね」と言われたといいます。厄年という年回りは、人生の変化の時(転換期)であり、不幸なことが起きがちです。こういう時は、人生を大きく変える変化の時なので、人の選択如何によって人生が大きく変わってしまうのです。犯罪を犯した人の年齢を見るたびに厄年という人生の転換期を迎えていたことがよくあります。この教祖は、変化の時は過去の行いの清算をする時が来たので、艱難を感謝して受け入れて神様のもとに帰りなさいと教えたのです。そうすることができないと艱難に飲み込まれて転落していくといいたかったのです。

 一人の人間の人生から始まり、家族一族の歴史、民族国家の歴史に至るまで、秘められた「変化の理」があります。このブログの中で、厄年の話、家系の話などを述べてきましたが、すべて「変化の理」なのです。地球の1年に春夏秋冬の季節の変化があるように、個人の人生だけでなく、家族の行く末、国家世界の歴史も易経の世界が作用しているのです。ノストラダモスの予言や聖書のヨハネの黙示録という言葉を聞いた方も多いでしょう。これらの予言は、世界の未来の姿を「変化の理」として予言したものなのです。

 

(2)占い(易)の背後にあるもの

 占いが統計学であると前に述べました。また、その現象が現れる前に前兆があるとも述べました。現実世界で現象が起こるためには、その原因があるのです。原因があって、占いで予感された現象が起こるのです。

 その原因は、現実社会の背後にある世界及び人間社会の外にある世界なのです。一つは、霊界と呼ばれている世界であり、もう一つは人類の手を超えた自然・宇宙の世界なのです。ここに原因があり、その見えない世界の姿がこの世界に現れる時、その前兆として示されたものが人相、手相などの相であり、誕生日占いであり、姓名判断であり、天空の占いなのです。

 私たちは、生まれた瞬間から生まれるにあたって予定された運命を背負って生まれています。誰一人として例外はありません。生前記憶のある人がいますが、その人は生まれる前に自分の人生の運命を予め決めて地上に誕生したことを覚えているのです。すべての人が固有の人生の使命をもって生まれてきているのです。ほとんどの人は、何の生前記憶もなく生まれて人生を歩んでいますが、一切記憶のない人でも自分の運命を記されたものからいくらかは知ることができます。それが相(手相・骨相・人相・姓名・誕生日)です。それゆえ、相を見れば過去の統計によってどういう人生を歩むかがある程度わかるのです。

 もちろん一人一人の運命は、決定しているものではないことはいうまでもありません。手相が変わっていくように、一人一人がどのように人生を歩むかによって変わっていくものです。できるだけ平安な人生を歩みたいと願うのは誰しもでしょう。しかし、平安な人生は安楽に見えても、必ずしも実りある人生になるとは限りません。人生の目的は楽に生きることではありません。「かわいい子には旅をさせよ」という言葉ありますね。私たちは、人生という荒波の中で、多くの辛さ喜びの心情を経験して愛を完成することが目的なのす。高山右近という戦国時代のクリスチャン大名が、最後にイエス・キリストのように十字架にかかる心情を分かち合いたいと願い、切支丹弾圧にあっても信仰を曲げずルソン島に島流しにされます。苦境にあればあるほど愛の深みに触れ、愛が深まるのです。苦楽を通して心情を深めることが大切なのです。「子をもって知る親の恩」ということわざがありますね。子育ての苦労の心情を知るためには、親になって同じ経験をしなければわからないという言葉です。心情は、同じ境地を通過して初めて会得できるのです。苦しい時を通過し苦しい心情を感謝に感じた時、私たちは聖人や神の心情に近づくことができるのです。

 

(3)神への信仰と占い(易)

 占いが記す「変化の理」が厳然と働くのであれば、信仰によって救われるということにならないのではないかと疑問に思われる方が多いのではないでしょうか。占いと信仰とはつながりが見えにくいのです。

 私たちは、誰しも何がしかの業を背負って誕生し、善悪のはざ間で善を選択するか悪を選択するかで生きています。その業の歴史、善悪のはざ間の歴史の姿を分析したのが占い(易)なのです。占い(易)の世界では、「禍福はあざなえる縄のごとし」で、繁栄しそして疲弊し没落していくのは避けられないと教えます。それゆえ、時を感じて構えを教えるにとどまるのです。あなたを取り巻くこの世の主人悪魔(サタン)支配下の論理(業の論理)にとどまっているのです。ですから、事態を大きく好転させることはできません。栄華の頂点では没落が待っていることになります。四柱推命による占いでは、ほとんど場合よくない結果になるといいます(もちろん当事者にはオブラートに包んで伝えるのですが)。占い(易)は、「変化の時」(転換期)を教えてくれるだけなのです。変化の時をどのように乗り越えるかは教えていないのです。それを教えてきたのが宗教なのです。宗教は、この世の主人サタンから人間を解放する力(神の救い)をもっているのです。

 宗教に入るのはほとんどの場合転換期であり、苦境のどん底の時です。生き方を変える必要を感じた時です。知らず知らずのうちに変化の時に、新たな道を選択することになるのです。そうすることによって神の光が差し込んでいくのです。宗教始祖がサタンを屈服させた勝利圏を信じるという行為によってその恩恵を受けるのです。キリスト教の洗礼には、イエス様を信じたというただそれだけの条件でイエス様がサタンに勝利した恩恵を受けることができるという意味があるのです。このように、宗教と関係を結ぶことによって、今までの占いは外れるかまたは軽減されていくのです。もちろんそうさせまいとしてサタンは邪魔してきます。宗教が迫害を受けるのはこのためです。

 実は、何がしかの業を背負って生まれるということを計画されたのは神なのです。一人の人間の背後には長い人類歴史の業(罪)の歴史があるのです。その業を清算できなければ、この地上に天国を築くことはできません。それゆえ、多くの義人聖人に苦難の道を歩ませ、イエス・キリストに十字架の死を甘受してもらうことによって、人類の業を清算してきたのです。

 「いい人ほどなぜ苦労するのか」というブログを書きましたが、人間は罪を犯して本来の状態から外れてしまった時、それを本来の状態に戻すためには必ずそこにその必要を埋めるに足る条件を立てなければなりません。苦難の人生を送るというのは、先祖の失敗を償い本来の状態に戻すための穴を埋める条件なのです。仏教で布施(財施)をするとか身施(行)、法施(法を説く)は、本来の状態に戻る道として教えてきたのです。失敗を償うことなくして未来を切り開くことはできないのです。それは、俗にいういい人でないとできないのです。

 変化の時はあらかじめ定まっています。その時を最善の策で乗り越えるためには、その時をどのような心で臨むかにかかっているのです。このことは、個人だけでなく国についてもいえることなのです。東日本大震災は、不幸な避けがたい自然災害だったとしか受け止められていませんが、そうではありません。日本人の心が本然の状態からあまりにもずれていたため、そのことに気づかせるために起きたということを知る必要があります。現在も日本人の心は本然の状態から大きくずれています。このことに気づかなければ、残念ながら大規模な自然災害が起きることは致し方ないことです。何を間違えているか、そのことに心を砕いて日本の国の心情を正してほしいものです。