人類理想社会建設への道【多くの日本人は、共産主義を理想主義と混同している】

 共産主義を信奉する人にとって、共産主義は資本主義に代わる理想主義社会であると思われているだろう。共産主義=理想社会と考えておられるようだ。唯物史観で説かれているように、歴史の必然として共産主義に至ると信じられている。

 共産主義を掲げている日本共産党は、理想社会「共産主義」の前段階「社会主義」への体制移行を暴力革命によるのではなく平和裏に行うと主張し、共産主義に付きまとっている暴力性を極力否定しようとしている。この方針を採用することによって、日本共産党社会主義建設は理想社会の建設を目指すものであって、世界各地に見られる共産主義国の成立過程と一線を画す平和主義者であることを認識させようとしているようである。

 確かに、危惧される暴力性が否定され、政権運営が民主的に行われるとすれば、共産主義の平等の理念が前面に押し出されて大変印象の良い政治思想になる。しかしこの主張は、共産主義の成立過程に目をつぐんだ欺瞞に満ちたものである。

 

1、共産主義社会の前段階である社会主義は、反逆と粛清、暴力的独裁管理社会であるという事実を直視すべきである

 誰も、独裁が許され、反逆と粛清が容認されている恐怖社会を支持する人はいない。北朝鮮金正恩政権の統治の姿に賛同する人は誰もいないであろう。金正恩政権は、国際社会との公約を反故にして核ミサイル開発を推進し、政権内部では兄弟を殺害し、伯父を虐殺し、幹部を粛正して、恐怖政治を行っている。

 この姿は、北朝鮮だけの共産主義の姿であるとみなしたいかもしれない。しかし、共産主義という思想が成立して普及した過程を振り返ると、この姿は特異な姿なのではなく、典型的な姿であることを知らないといけない。

 

2、共産主義思想は、資本主義のアンチテーゼとして生まれた鬼子である

 資本主義が内在した富の格差は、社会の中に多くの不満と憎しみをもたらした。資本主義社会の中で、この不平等は温かい愛の奉仕によって解決されることはほとんどなされなかった。過去の歴史の中で、社会の指導者である有力者たちは、社会の構成員たちの安寧と幸福に力を注ぎ、社会の安定に努めてきたが、資本主義社会においてはこの仕組みはあまり働かなかった。この欠陥を共産主義が埋めたのである。

 富の格差とそのことから派生する社会秩序の不安定化を改革して平等で良き社会を築きたいという願いと主張は、実に正当で人間味あふれるものである。愛の精神があまり実践されない世の中にあって、共産主義という思想がこのような理想を掲げて登場したことは歴史の必然であった。 

 古来、社会に不満が充満すると、自由平等を掲げて革命が行われてきたことを思い起こしてほしい。そこに過去の革命と同じように、共産主義が自由平等の理想を掲げて登場したのだ。しかも共産主義は、過去の革命思想と同じような理想社会建設を掲げるだけでなく、建設のための方法として富める者と貧しき者の対立をあおり、憎しみを駆り立てるという方法をとった。階級闘争であり、革命思想である。

 憎しみのエネルギーをまとめ、一人一人の不満の力を大きな一つの不満の力にすることによって、体制改革を実現しようとしたのである。「万国の労働者よ、団結せよ(共産党宣言)」というスローガンと世界革命思想は、このことをよく表している。

 

3、平等社会の建設という理想社会建設思想は、昔から存在していた 

 共産主義が提唱されるはるか前から、人類は平等社会の建設の理想を抱いていた。平等社会の理想は共産主義だけのものではない。

 理想社会に対する人間の夢は古くはプラトンの『国家』、さらに近世初頭のトーマス・モアの『ユートピア』、トマソ・カンパネッラの『太陽の都』、フランシス・ベーコンの『新アトランティス』などにみられる。中国儒教思想においても、理想社会として「大同世界」と「小康世界」が示されてきた。(*1)

(*1)ぶっだがやの散歩道(2015/8/10) 「孔子が目指した理想社会」

http://higurasi101.hatenablog.com/entry/2015/08/10/190811

              

 実際の歴史の中でも、農耕地を全て公有とし、農民に均等分配して公平を図る唐の均田制や、奈良時代から平安時代にかけて行われた班田収授法、インカ帝国の生産手段の公有(私有の禁止)制度が存在した。日本の中世、浄土真宗本願寺教団は、地域宗教的自治として強固な信仰組織を形成していた。

 K・マルクスとF・エンゲルスは、これら従来の理想社会、ユートピア思想を空想的社会主義として一括りにして一蹴し、自らが提案する理想主義「共産主義」はまったく新しい思想であるとして「科学的社会主義」を提案した。最終的な目標はほとんど変わりないが、その過程―共産主義社会に至るステップと方法論―が科学的であるとした。このことが、K・マルクス科学的社会主義として提唱した新機軸である。(このステップと方法論については後程述べる。)

 K・マルクスが提起した理想社会の姿は、従来のユートピア思想と大きな差異はない。共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことである。生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざすことである。別の見方では、「共産主義社会」とは、国家権力が死滅し最後は政府も必要なくなるという人間が自主運営する社会であるとされている。

 なるほど、誰もが納得するすばらしい理想郷である。

 

4、K・マルクスの説いた唯物史観―《資本主義→社会主義共産主義

 K・マルクスとF・エンゲルスが説いた唯物史観は、「人間社会にも自然と同様に客観的な法則が存在しており、無階級社会(原始共産制)から階級社会へ、階級社会から無階級社会(共産主義)へと生産力の発展に照応して生産関係が移行していく」とする歴史発展観である。この中で、現代の資本主義社会は階級社会の最後の段階であるとする。次に来る社会は無階級社会であり、そこに至るステップとして《社会主義》→《共産主義》の段階を踏むとした。

 「マルクスエンゲルスによると、資本主義から社会主義への移行は革命を必要とし、勝利した労働者階級は、社会主義を組織し、生産力を急速に発展させるため自分の国家を必要とする。彼らは、階級闘争は革命後も続き、旧支配階級の抵抗をなくすため、移行期にはプロレタリアート(労働者階級)の独裁が必要であると説いた。社会主義では生産手段は社会の所有に移され、もはや搾取はないが、社会の構成員への生産物の分配は、『各人はその能力に応じて働き、各人はその働きに応じて受け取る』という原則に従い行われ、そのため社会的な不平等はまだ残る。社会の生産力がさらに発展し、人々の道徳水準が向上したとき『各人はその能力に応じて働き、各人はその必要に応じて受け取る』という共産主義の原則が実現され、そのときは権力の組織である国家がなくなるだろう。」([稲子恒夫]日本大百科全書(ニッポニカ)とされている。

 このようなK・マルクスに始まる唯物史観の主張は、荒唐無稽なものとして一蹴して済ませばいいというものではない。宗教を毛嫌いし神を否定した共産主義思想には、キリスト教の終末論の影響が濃いという指摘がある。実は、宗教(特にキリスト教に明確に表れている)の歴史観にもほぼ同じような歴史認識がある。人類歴史の終末と救世主の降臨である。

 キリスト教歴史観によると、人類は、アダムとイブの誕生の後、二人が成人して家庭を築き「エデンの園」という理想郷を築くように神によって創造されていたとされる。しかし、人類始祖の「堕落」と呼ばれる自分勝手な行いによって人類は原罪を有する身となり、エデンの園から追放され、人類社会は対立と抗争の続く暗い社会になってしまった。人類の抱えたこの苦しみは、終末が訪れた時現れるとされてきた救世主によって解放され、理想郷(エデンの園)が再興されると伝えられてきた。(この伝承は日本にも存在する。)

 唯物史観は神を否定しているが、来るべき社会として無階級社会が到来するということにおいては同じ見解なのである。問題は、そこに至る道筋である。

 

5、K・マルクス共産主義思想は、憎しみから生まれている

 K・マルクス共産主義思想は、すばらしい人類の理想郷建設を謳っていることは事実である。そのことだけを見れば、大変好ましいものである。しかし共産主義は、表面をすばらしく飾り立てているが、その内側に怖い本音が隠されていることに気づくべきである。それは【憎しみという情】である。憎しみが原点になっているのである。憎しみによって愛と平和と平等の理想社会が築かれるだろうか。誰もが否と答えるであろう。共産主義思想には欺瞞があるのである。

 K・マルクスは、1837年19歳の時、神を憎悪する「絶望者の祈り」という詩を書いている。

 下記にこの詩を掲げた。この詩を読むと、神を呪い神に復讐することを誓っている。どんなことがあったのか不明だが、神に反逆すると宣言しているのである。(神の存在を否定しているのでもない。毛沢東にも同じような言葉がある。「私は孔子様にはならない。始皇帝になる」と語ったという有名な言葉がある。(*2)

(*2)キヴィタス日記 (2011/7/27)「文化大革命毛沢東の意図(神への挑戦)

http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-6bda.html

 

 K・マルクスは、後に、「宗教とは民衆のアヘンである」「人間が宗教をつくるのであって、宗教が人間をつくるのではない」という有名な言葉を残したが、神と宗教を毛嫌いした何らかの事件があったのであろう。ただ、この原点によって神と決別をしている。

「神が俺に、運命の呪いと軛だけを残して
何から何まで取上げて、
神の世界はみんな、みんな、なくなっても、
まだ一つだけ残っている、それは復讐だ!
俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい。
高いところに君臨してゐるあの者に復讐したい、
俺の力が、弱さのつぎはぎ細工であるにしろ、
俺の善そのものが報いられないにしろ、それが何だ!
一つの国を俺は樹てたいんだ、
その頂きは冷たくて巨大だ
その砦は超人的なもの凄さだ、
その指揮官は陰鬱な苦悩だ!
健やかな目で下を見下ろす人間は
死人のように蒼ざめて黙って後ずさりをするがいい、
盲目な死の息につかまれて
墓は自分の幸福を、自分で埋葬するがいい。
高い、氷の家から
至高者の電光がつんざき出て
俺の壁や部屋を砕いても
懲りずに、頑張って又立て直すんだ。」

(Karl Marx and Fredrick Engels, Collected Works [New York; International Publishers, 1975-], 1:563-64. 改造社版『マルクスエンゲルス全集』第26巻)

 

6、唯物弁証法階級闘争を正当化するために

 共産主義運動は、労働者階級の「階級闘争(生活の資を得ようとするところから「唯物的」「経済的」な運動)」であるとされている。その運動を理論づけるために、マルクスは、「階級闘争」という新しい観念をヘーゲル弁証法フォイエルバッハ唯物論を結合させて編み出した。

 まず、弁証法という概念について整理してみよう。弁証法とは、「ドイツ語のテーゼThese、アンチテーゼAntithese、ジンテーゼSyntheseの訳語である定立、反定立、総合を略したものである。フィヒテが『全知識学の基礎』(1794)で用いた概念で、その統一・総合により一層高い境地に進むという運動・発展の姿によって、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法」である。(弁証法は、ヘーゲルによってはじめて定式化されたというものではなく、ギリシャ哲学以来議論されてきたものである。)
 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)されると説明する。対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあって、決して独自の実体として対立しあっているわけではないという。また別の言い方では、矛盾は自然の事物と現象にかならず内在し、古いものと新しいもの、死滅するものと生成するもの、・・・・その闘争が発展過程の内容を構成するという。
 この説明は正確ではない。己の内に矛盾を含んでいるのではなく、時の経過とともに己の内に不完全さが生じるため、不完全さを補完するために新たな存在を必要とするのであって、このため相互に規定し相互依存的な関係が生まれるのである。ここで重要なことは、弁証法においては時間という観念が重要な要素を占めており、事物は時間の流れの中でエネルギーを受けて変化・発展するということである。
 太陽系を取りあげてみよう。太陽系は、巨大な分子雲の一部の重力による収縮が起こった約46億年前に始まったと推定されている。収縮した質量の大部分は集まって太陽を形成し、残りは扁平な原始惑星系円盤を形成してここから惑星、衛星、小惑星やその他の太陽系小天体等ができた。巨大な分子雲が重力収縮というエネルギーによって、時間の経過とともに太陽と惑星その他の太陽系の天体を形成する。太陽系はこうして進化してきた。そこに見られるのは、物質が時間の経過とともに弁証的に発展しているという姿である。
 しかし、問題は弁証法を人間社会に適用しようとした場合である。人間社会は、自然界と大きく異なる点がある。自然世界は調和のとれた矛盾のない世界であるのに対して、人間社会は矛盾に満ち溢れた世界であるという点である。弁証法の定義においての「己の内に矛盾を含んでいる」という説明は、人間社会を念頭においたものである。自然界において矛盾というものは考えにくいのではなかろうか。矛盾は人間社会固有のものである。
 唯物弁証法論者によると、「精神とは弁証法的に運動する物質の機能であると考える。物質が本来的で根源的な存在であり、人間の意識は身体(例えば大脳、小脳、延髄など)の活動から生まれる」と説明する。自然界はまだしも、人間社会において人間の意識を身体から生まれるとして精神とは弁証的に運動する物質の機能であるという見解は、人間精神をないがしろにしたものである。その中で、毛沢東は精神の役割を認めている。「社会の変化は、主として社会の内部矛盾の発展によるものであり、これらの矛盾の発展によって、社会の前進がうながされ、新旧社会の交代がうながされる。唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。鶏の卵は、適当な温度を与えられると、ひよこに変化するが、石ころに温度を加えてもひよこにはならないのは、両者の根拠がちがうからである。(毛沢東「実践論・矛盾論」『毛沢東選集 第一巻』日本共産党出版部、1965年、P.421〜472))」と述べている。変化の根拠として、人間精神に根拠を与えている。主観的表象としての想念・理念が外的条件に作用して、変化を引き起こすということである。

 

7、「憎しみの情」の弁証法的展開

 K・マルクス共産主義の出発が神に対する憎しみの情から出発したことは前述した。「憎しみの情」は、誰もが経験しているように他者との間に壁を築き、交流を妨げるだけでなく対立を引き起こす。これを闘争と呼んでいる。そこには冷ややかで沈滞した暗い世界が現出される。人間同士が疑心暗鬼になり、互いの心を詮索する重苦しい世界となる。憎しみの情とそのエネルギーは、反発・対立・分裂を引き起こし、そのままにしておくと分解する方向に展開していく。唯物弁証法が説明するような「対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立ち、相互依存的で相関的な関係にあって、その統一・総合により一層高い境地に進む」ということにはならない。
 憎しみの情から出発した弁証法的展開は、発展ではなく衰退に向かうのである。そこには、マイナスのエネルギーが働く形になる。共産主義各国において、時間とともに生産性が向上するどころか停滞し衰微していったのは当然の帰結であった。社会が停滞し衰微していくという現実に対処していくためには、絶えず運動のてこ入れをすることが重要となる。弁証法唯物論という名称は G.プレハーノフによって命名され、レーニン,スターリン毛沢東などによって発展させられてきたものであるが、このように社会主義社会は、社会を守るために人為的に鼓舞されなければ社会は衰退しかねないのである。唯物弁証法が「革命の哲学」とされてきたのは、実にもっともなことなのである。

 

8、宗教的に見たとき、無神論は悪魔に魂を売り渡すもので、悪魔に歴史の主導権を任すものである

 宗教的見地から見た場合、共産主義は決定的な過ちを犯している。神を否定し宗教を否定することによって、共産主義という思想は宗教的擁護(神の擁護)を完全になくすことになっている。このブログを読まれてきた人にとっては、当たり前だと思われる霊界の存在を否定することによって、霊界からの援助がなくなるのである。それどころか、悪霊の跳躍を許すことになるのである。

 宗教は、霊界の存在を前提にして構築されている。霊界には善霊と悪霊、そしてその背後に神と悪魔(サタン)が実在している。どんなに否定しようともそれは事実である。そして、神を否定することによって神と善霊(天使など)の協力がなくなり、悪魔が主導権を握る世界が構築されるのである。共産主義国家がすべて悲惨な現実に向かうのは致し方ないことである。

 共産主義者は、社会主義から共産主義への移行は、「生産力が発展し、人々の道徳水準が向上したとき」という。現在の共産主義国家を見ると歴然とするが、強権・弾圧・粛清国家に道徳の向上が考えられるだろうか。ますます疲弊して困窮するだけではないか。人間関係は信頼とは反対に、疑心暗鬼が蔓延し誰も信用しようとしない暗黒の社会が来るだけである。道徳水準の向上は、宗教が指導してきたことであることを忘れてしまっている。

 社会主義は、共産主義社会に至るステップであるという科学的社会主義は、社会を暗黒の醜い姿にとどめて崩壊に至らしめるだけである。世界初の共産主義国ソ連が疲弊して崩壊したように、ほかの共産主義国家も同じように疲弊して崩壊するのが宗教的見地から見た結論である。社会主義という政治体制は、悪魔が支配する強権体制であり、そこからは何の希望も繁栄も幸福ももたらされない。

 

9、共産主義は革命と社会主義によってではなく、神と救世主によって実現されるものである

 強権とは反対の論理、(北風と太陽の逸話を思い起こしていただきたい)愛の論理によってしか共産主義者が唱える理想の共産主義社会は実現できない。大本教の出口日出麿氏は次のように述べておられる。仮に共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていない限りすぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である。(大本教 出口日出麿)」

 宗教本来の目的は、地上天国の建設である。人間が、神を賛美し、ともに愛し合いながら闘争や蔑視のない平和で平等な世界を建設することにある。共産主義と同じ理想に立っている。それを実際に行うのも共産主義と同じく人間であるが、それは共産主義者が述べるように自動的に実現されるものではなく、人間一人一人の魂の改心と向上によってしか実現できない。そして、その理想が今まで実現できなかったのは、人間の堕落という罪によって、この地上世界が悪魔(サタン)の支配下に置かれてしまったからである。(一人一人の人間の内面には、自分という観念が根底に居座り、自分と他者を差別している。釈尊が、「人間は自己中心的である。それゆえ、他人に危害を与えてはいけない」と述べたと伝えられているが、それほど自分という観念は根深いのである。共産主義では、根底にある自分という観念が原因で作り出した対立・差別社会を「階級社会」と呼んでいる。)

 このことをよく認識した世界中の宗教家は、この世を悪魔(サタン)から解放してくれると予言されてきた救世主(メシア、弥勒、真人など)の出現を待ち望み、救いの希望を託してきたのである。共産主義者は、神と霊界の存在を認めて、悪魔(サタン)と縁を切り、本物の共産主義建設に向かうことが不可欠である。そのために、まず、「共産主義」という悪魔に魅入られた言葉を捨てて、神を受け入れて本物の理想社会を目指すことが必要である。

 最後に、人間にとって、理想社会(地上天国)を築くことが最終目標ではないということを付け加えておく。理想社会建設を通して一人一人が愛の完成者になることこそが最終目標である。