スピリチュアリズムの主張は、99%正しいが1%偽りがある。その1%は天地をひっくり返す偽りである

 スピリチュアリズムの主張は、霊界の高級霊からの通信であるとされる。通信は検証のうえ間違いないとされている。スピリチュアリズムが提示した内容は、今までの常識を覆し、新たな霊界像と信仰観を示してきた。私は、スピリチュアリズムを学びながらその見解にほぼ真理に近いと感じてきた。しかし、私自身が経験してきたこと合わせて考えると、どうしても腑に落ちないところがあった。ある時それがなぜなのか?はっきりした。スピリチュアリズムの目的は、サタンと悪霊集団はいないという存在そのものを消し去ることにあるのだと悟った。シルバーバーチはサタンの使いである」。

 スピリチュアリズムは、心霊現象の意味、霊界の姿、摂理を通しての神の支配、霊主肉従、利他愛の実践など、99%まで真理を語って通信内容を信用させ人々を納得させてきた。しかしそれは、残りの1%に人々を導くための伏線であったのではないか。それは、「サタンはいない」「原罪はない」「最後の審判はない」「メシアは必要ない」という見解である。サタンと日夜闘ってきた者としては、それはありえない見解である。サタンと悪の霊的集団は存在する。スピリチュアリズムの見解は、この世の君「サタン」がこの世の支配権を手放さまいとする発悪行為である。こう解釈すると、用意周到に準備された主張の一つ一つに目論見が見えてくる。

 

 (1)既成の宗教を否定するスピリチュアリズムは、悪霊との闘いを放棄させることを目的にしている

 多くの人にとって、サタンが存在するという認識はほとんどないであろう。サタンがその姿を見せることは稀である。また、霊界の事実と霊的成長なるものを示されたうえで、今まで宗教が行ってきたことを否定されると、信仰は必要ないんだという理解に至るかもしれない。そういう結論に導こうとするサタンの目論見は、ただ一つ宗教が果たしてきた本質的な役割、悪霊との闘いを放棄させることなのである。

 スピリチュアリズムの「宗教観」は、霊界にいる霊たちが地上の宗教を見たときの見解である。その際、地上の宗教の真偽の判断基準となるのが「霊的事実」と「霊的真理(神の摂理)」と「霊的成長」であるという。こう霊界という別次元から切り出されると、人間は戸惑い平伏しかねない。そこが大きな狙いである。

 スピリチュアリズムが主張する「宗教観」は、次のようなものである。

  • 地上の宗教の教え(教義・ドグマ)には霊的真理の一部が含まれているが、教えの大半は地上人によってつくり出された“ニセモノ”である。その代表がキリスト教におけ る「贖罪論」や「最後の審判説」であり、悪の勢力としての「サタン存在説」である。
  • 地上の宗教の教えの多くは霊的事実からかけ離れており、「霊的無知」の上に宗教がつくられている。
  • 霊的無知の上に築かれた地上の宗教は、「神」に対する間違った認識を人々に植えつけているため、地上人類を霊的成長へと導くことはできない。それどころか、人々を霊的成長から遠ざけることになっている。地上の宗教は「人類の霊性向上を促す」という本来の使命から見ると、明らかに失格である。
  • 地上の間違った宗教の中でキリスト教は、最も弊害の大きな宗教である。イエスの教えとは無関係な人工的教義を土台としてつくられたのが“キリスト教会”という宗教組織である。キリスト教会は絶対的な権力を獲得し、宗教的独裁によって人々を“霊的牢獄”の中に閉じ込めてきた。
  • 霊的観点から見ると、キリスト教の教えの多くは間違っているが、イエスが生前に説いたシンプルな教え(神の愛・利他愛の教え)は摂理に一致しており、それは人類にとって“最高の教え”と言える。

  http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 このように、スピリチュアリズムは既成の宗教をほぼ全面的に否定している。スピリチュアリズムは、宗教者の霊的知識がどうしても部分的にとどまる点をついて徹底的に攻撃する。霊界からの事実を告げているスピリチュアリズムこそ正しいものだというスタンスである。そこにはなぜ宗教が起きたか、宗教がなしてきた贖罪・カルマの清算について、その意味をほとんど認めていない。

 神が宗教を立てた理由は、一人の宗教始祖の信仰の勝利をもとにそれに連結することによって、多くの人間を救おうとされたからである。宗教始祖の信仰の勝利を信じる信者は、少ない苦労で罪を清算できるのである。もし人間が単独ではほとんど罪の清算をなさなければならないとしたら、誰もがイエスや釈迦と同じ苦難の道を歩まなければいけなくなる。そしてほぼ全員、信仰の勝利に辿り着くことは不可能であるだろう。

 

 (2)イエスもサタンの挑戦を受けている

 スピリチュアリズムとは、イエスを中心とする地球圏霊界の高級霊が結集して、計画的に進めている「地球人類救済プロジェクト」であるという。イエスも、私たちの仲間でありリーダーであると述べている。その一方、キリスト教の教えはイエスの教えとは別であるとして、キリスト教の教えを否定するのである。聖書の記述は、イエスの利他愛の教えだけが正しいという。聖書の中で、スピリチュアリズムのリーダーの一人であるイエスがサタンと闘っていることはつくり話だというのであろうか。

 聖書の中のイエスがサタンに試される場面(「マタイによる福音書第4章1~11」の場面)、イエスのサタンとの闘いは、釈尊の悪魔との闘いのように真実であったはずである。

 さて、イエス聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、 悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 それから悪魔はイエスエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。(出典/口語訳聖書 Public Domain)

 イエスの歩みは、イエスが利他愛を説き実践するだけでなく、サタンと対決しサタンを屈服させる闘いだったのである。上記のサタンとの闘いの場面は、この世の支配権をサタンから取り戻そうとする非常に重要な場面なのである。

 

 (3)堕落と原罪を否定するスピリチュアリズム

 スピリチュアリズムは、堕落と原罪を否定する。スピリチュアリズムの見解を見てみよう。

 スピリチュアリズムでは、霊的事実に基づいて、神とサタンに関連づけた従来の宗教の善悪観を完全に否定します。「神とサタンの対立」などというものは、霊界にも地上界にも存在しないからです。(中略)

 「霊肉の問題」「善悪の問題」「罪の問題」に対してスピリチュアリズムの霊界通信は、これまでの説とは異なる回答を示しました。キリスト教で教えてきた悪の中心的存在である“サタン”も、それから生じたとされる“悪の一大勢力”も否定します。霊界には、地上人が永い間信じてきた“サタン”は存在しません。当然、サタンによって発生したとされる“原罪”もありません。スピリチュアリズムのすべての霊界通信は、これまで地上の宗教において説かれてきた「善悪観」や「罪観」を否定します。

 シルバーバーチは、人間の内部(心)における葛藤を「罪の問題」や「善悪の問題」としてではなく、「霊的意識」と「肉体本能的意識」の対立と見なします。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-02.htm

 また次のようにも説明する。

 シルバーバーチは――「善と悪は、霊的成長のプロセスにおいて現れる相対的な状態にすぎない」と説いています。そして「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」としています。したがって、今は“悪”として現れているものも、霊的成長にともなって“善”に変化していくことになります。

 “善悪”という言葉を「利他性」「利己性(霊的未熟性)」という言葉に置きかえて人類に提示したのです。地上世界は“光と影”の両方を体験し、そこからより明るい世界を目指して歩み出すための訓練場なのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 

 「悪とは、人間の未熟性・霊性の低さによって生み出される神の摂理への不一致行為である」というのである。その悪に人間は悩まされ続けたことをどのように解釈するのであろうか。古来、悩まされ続けてきた罪、魂の癖は、仏教では「煩悩」と呼ばれてきた。物欲・色欲・名誉欲、そしてその背後にある自分が一番大事であるという我欲と自分中心主義、このことから脱却するために人間は苦悩してきたことを忘れてはいけない。

 スピリチュアリズムでは、「そもそも苦しみや困難は、人間が「神の摂理」から逸脱したために発生したものです。その苦難は、神が人間に幸福をもたらすために設けた摂理に合わせる生き方を通して消滅するようになっています」という。

 確かに、人類始祖の堕落という行為は、人類始祖が「神の摂理」から逸脱することによって生じたものである。サタンは、人間は自分中心に判断するから地上の支配者としてふさわしくないと主張したかったのではないか。人類始祖が、サタンの試練に敗北したのが堕落という行為であった。その結果、人間は神との授受の関係が切れてしまい、サタンと授受の関係を結び、それと一体となった。そのことによって人間は、自分中心という人類共通の意識をもつことになった。

 スピリチュアリズムが主張するように、もし堕落からの回復が人間の苦難だけによって消滅するというならば、もうとっくにこの世から苦しみは亡くなっていてもいいはずである。しかし、今なお人間の苦悩は続いている。「神の摂理から逸脱した」という単純な問題ではない。ほとんどの人は、イブが天使から誘惑されたことをつくり話と思っておられるかも知れない。

 しかし、心霊が霊界と相通じるようになると、サタンの誘惑という現象は実際に存在することがわかる。スピリチュアリズムは、「サタンはいないのだから、サタンの誘惑などあるはずがない」というが、サタンと対決してきた者としてはありえないことである。通常、サタンは姿を隠しその正体をさらすことはほとんどない。姿を現したとしても、巧妙にもっともらしく誘惑をかけてくる。しかも決して自分に責任があるような言い方はしない。責任逃れの天才であるといっていい。サタンの誘惑によって人類始祖が神の摂理から逸脱し、その結果人類が苦難の道を歩まなければならなくなったのはよく理解できるし事実である。

 堕落の結果人類は、自分中心・肉主霊従に陥り、対立抗争を繰り広げる悲惨な歴史を作り上げてきたのである。人類始祖が起した罪(堕落・原罪)は、「淫行」という子孫繁殖行為による罪であったがために、子々孫々血統を通じて引き継がれることになったのである。

 「サタンは遠くにいるのではありません。自分と共に連結されています。自分というのは、天国と地獄の境界になるというのです。自分に地獄があり、天国があります。良心は天国、地獄は肉身なのです。人間は堕落する時、愛の為に堕落したので性器が最も怖いのです」。この言葉に謙虚に耳を傾けるべきである。

 

(4)利他愛の実践だけでは霊性の向上には限界がある

 シルバーバーチが教える霊的成長のための実践項目とは――「霊優位の生き方(物欲にとらわれない霊主肉従の生き方)」「利他愛の実践」「苦しみの甘受」の3つです。この3つの実践こそが、霊的成長を促す“善(正しい生き方)”の具体的な内容と言えます。

 それに対して“悪(間違った生き方)”の内容とは、この3つの実践に反する行為のことです。すなわち「物欲・肉欲を追求する肉主霊従の生き方」「利己的・自己中心的な生き方」「苦しみを避ける生き方」です。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 実にもっともな見解である。利他愛の実践を皆が行えば世界はよくなることは間違いない。スピリチュアリズムの主張は世界を正しい方向に導く正当な教えであると、多くの人が賛同するであろう。しかし、そこに大きな落とし穴がある。人間は自然に純粋に利他愛を実践できる存在になっていないという現実である。

 現実の世界を見ても、利他愛の行動が世界に平和と安定、人々の幸福をもたらすものとして欠かせないとわかっていても、現実の世界は対立と抗争が続き、人々の間では貧富の差が拡大して生命が脅かされている。仏教は、「人間は誰でも自分が一番大事である。それゆえ、どうしても自分中心に物事を判断してしまう。三大煩悩(物欲、性欲、食欲)及び名誉欲に翻弄され我慢できず我欲に負けてしまう。このため、仏教の修行は《無我》(私心をなくす)に至るために厳しい修行をするのです」と説いてきた。自分中心の行動を抑制できないのが実際の人間の姿である。

 このことを考えただけでもわかるように、利他愛の実践と苦難の甘受を唱えただけで人間の霊性が向上して完成に至るとは考えられないのである。人間の自我を少しつけば、サタンはすぐにでも人間を神の摂理から外れた誤った道に追い込むことができる。日蓮は、「魔を降伏しない教えは、正法ではない」といったといわれるが、どんなに利他愛の実践に努めても、サタン・悪魔を屈服していない限り、我々はサタン・悪魔の手中にあるといえるのである。

 

(5)地上生活は愛のリハーサルだけの場ではない。愛を完成する場であり、愛の人を繁殖する場である

 原罪は淫行であると語った。そして、原罪によって人間が引き継いだものが魂の癖である。仏教でいう自分中心という間違った自我と煩悩、これが原罪によって引き継いだ魂の癖である。原罪が淫行という人間の子孫繁殖行為によるものであったため、血統を通して引き継がれることになってしまった。

 スピリチュアリズムはこのことを認めない。地上の複雑な家族関係が血統によってもたらされているということに触れない。しかし、多くの人は仏教の教えによって、因果応報という法則が我々を支配しており、血統を通じて現れてくることを学んでいる。家族関係の背後には、先祖の問題が絡んでいることを薄々感じている。したがって、地上の人間関係、とりわけ家族関係の問題はいい加減にすべきものではない。スピリチュアリズムの家族観を紹介してみよう。

 男女愛と同様、地上における「家族愛」は往々にして排他性と利己性をおびています。常に自分たちの家族の利益を第一に求めます。親は自分の子供の幸せだけを願い、自分の子供の利益を優先して求めます。“我が子だけが大切”というのが、地上の大半の親子愛の実態です。地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません。それは肉体本能による結びつきであって、霊的なものではありません。そのため大半の地上の家族関係は、霊界においては失われることになります。

 地上の家族関係の中には、人間として体験すべきあらゆる種類の愛が存在します。親子愛・兄弟愛・夫婦愛という、それぞれ異なった次元の愛を体験することで“人類愛”のリハーサルが可能となります。また他人に愛を与え、他人の愛を受け入れるという愛の基本的訓練が、家族関係の中でなされるようになっています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_04.htm

 スピリチュアリズムは、「地上の家族の結びつきは、いわゆる血のつながり(血縁)であって、どこまでも物質的つながり・物質的関係にすぎません」と、現実の家族は排他的で利己的な部分があっても仕方ないと切り捨ててしまう。家族というものは、人類愛のリハーサルの場としか見ていないようである。そうではない。家族は、先祖から私に至るまで血縁を通して連綿とつながってきた歴史の結実体であり、おろそかにできるものではない。家族は代えられないものであって、修復して人間の生存の愛の基地にしなければならないものである。愛は対象があって初めて成立するが、家族は人間が地上で愛を訓練し完成する中核的な存在である。家族を完成することが地上生活の目的であるといっても過言ではない。この原則に立つならば、スピリチュアリズムの説く地上生活の意義はあまりにも皮相的なものである。

 

(6)神の摂理は、人間の選択によって大きく変わる

 スピリチュアリズムでは、善悪の基準を「神の摂理」において、神の摂理に符合するものを「善」、反するものを「悪」としている。この見解は、多くの人の神観からみると戸惑いがあるであろう。しかし、易や占いの世界を知る人にとっては、神の摂理という考え方は納得しやすいものではないだろうか。スピリチュアリズムは、こう述べる。

 シルバーバーチは、神と人間は「神→摂理→人間」という摂理を介した間接的な関係にあると主張します。神は「摂理」を造り、それを通じて宇宙や人間を支配しています。そのため人間は常に、神が造った摂理には触れることになりますが、神と直接的に接触することはできません。神は摂理によってすべての人間を機械的に支配し、完全平等・完全公平に扱います。そこには、えこひいきや特別な配慮は一切ありません。宇宙から万物・人間に至るまで、すべてが「神の摂理」によって厳格に支配されているのです。(中略)

 人間はさまざまな摂理の支配を受けながら、「霊的成長」というレール(摂理)の上を一歩ずつ上昇していくことになります。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-08.htm

 私たち一人一人の人間は、神の摂理の中で生きている。その通りである。そして神の摂理を人間側から見た場合、日々私たちが選択する内容が世界から個人の人生に至るまでの神の摂理の方向を決めている。ほとんどの人はまったくその意識はないが、私たちが判断する選択はどちらかが神の摂理にかなうものであり、どちらかが神の摂理に反するものである。神は摂理によって世界を支配していることに間違いない。そしてその摂理の方向は、人間の選択にかかっているのである。ほとんどの場合、人間は神の摂理に反する選択を行い、その結果、苦難な状況をもたらすものになる。人類歴史や人生が苦難に満ちたものになりやすいのは、人間の選択の基準が自己中心から生じたケースが大半であるからである。(先祖の誤った選択を子孫が受けていることも多い。)

 シルバーバーチは、“悪”(神の摂理に反する選択)とは、キリスト教で説いてきたようなサタンによるものではなく、自らの未熟さが招く結果のことだという。確かに、人間の心霊の未熟さゆえであるといえばその通りであるが、ほとんどの人間が歴史上勝利できていないという現実の背後には、サタンと悪霊の働きかけがある。摂理の重要な局面に差し掛かると、サタンは姿を現し、人間を誘惑するのである。もしスピリチュアリズムが主張するように、「そういう存在はない」というならば、はるかに多くの人が悟りの境地に至っているだろうし、人類歴史はここまで悲惨なものとなっていないであろう。度重なる人間の神の摂理選択の失敗が、人類歴史の再現現象、家系の中の因縁現象をもたらしているのである。

 

(7)宗教不要論-宗教が果たしてきた役割を軽んじてはいけない。しかし、最後には宗教組織は不要になる

 スピリチュアリズムは、宗教団体のあり方に対して全否定する。確かに、宗教団体は、宗教独自の「神」に対する認識を人々に植えつけ、自分の宗教だけが真実であるという排他的な姿勢をとることが多い。その結果、その教義に固陋することになりやすく、人々を救いに導くことができなくなることもある。しかし、宗教は神がその時代その民族に必要な教えを教祖といわれる人を通して授けたもので、多くの人を救ってきたことを忘れてはいけない。今までさまざまな宗教が誕生してきたのは、時代・地域で異なる人間の状況に対応するためのものであった。

 スピリチュアリズムは、宗教組織の不要について次のように主張する。

 宗教本来の使命を知れば、これまでのような宗教組織は不要となります。不要どころか、一刻も早く地上から駆逐しなければなりません。スピリチュアリズムは、人々の「霊的成長」を促す正しい宗教を地上に確立しようとする運動です。“正しい宗教”とは、教祖も間違った人工的な教義もない宗教です。エゴ的な宗教組織も狂信じみた布教活動もありません。それは「霊的真理」を指針とし、自己責任のもとで霊的成長の道を歩むという霊的人生のことです。正しい宗教とは、「神」と「神の摂理」だけを絶対崇拝する生き方のことであり、従来のような特定の宗教組織に属して一人の人間を神格化するものではないのです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-11.htm

 真理は一つなので、最終的には宗教は一つになり、宗教組織は不要になるものではある。しかし、そこに至るには順序があって、段階ごとに人間の霊性向上をもたらす必要な教えと救いが必要である。人間は、宗教組織の教えに従うことによって霊性の向上を図ってきた。宗教者は、救いは一人ではなしえないということに気づいた。パウロが、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法があって、私の心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る。私は、なんというみじめな人間なのだろう。(ローマ人への手紙第7章22~23)」と慨嘆しているように、救いは独力では無理だと感じていたのである。

 特に原罪の清算は、人間の努力だけでは難しいというのが宗教上(特にキリスト教)の見解である。原罪の清算が済むまでは、宗教組織と教祖の恩恵なくしては困難なのである。このことを感じるがゆえに、メシア待望論が起こり、メシアに連結されることによって贖罪(救い)を受けたいと多くの宗教者は願ってきたのである。

 原罪(罪の根)を清算して唯一の真理の道を悟ったのちは、スピリチュアリズムが主張するように自らの責任で霊的成長過程を歩むことになる。(スピリチュアリズムは、この段階だけのことを述べている。)霊的成長の最期の段階は、人間は神によって神の分身としてこの世を主管するように定められているため、主人になる資格を自らの手によって誰もが独力で勝利しなければならない。旧約聖書で、ヤコブがハランの地からカナンの地に帰る途中、ヤボク河のほとりで天使と組打ちをするが、これはサタンがカナンの地に入らせまいとする妨害であるというだけでなく、ヤコブがカナンの地の主管者として認定されるための儀式でもあったのである。

 

(8)スピリチュアリズムが普及した世界は野蛮化する

 スピリチュアリズムは、宗教とサタンの存在を否定する。この思想が広まると、人間は宗教および宗教の教えをないがしろにすることになるだろう。今まで人類の霊性向上に貢献してきた宗教は捨てられるのである。サタンと悪霊集団は存在しないことになるため、サタンと悪霊に対する人間の闘いは止むになるだろう。

 そうすると、実在しているサタンは隠れたところから容易に人間を支配しあやつり続けることができるであろう。この世の君「サタン」は、引き続きこの世を支配し続けることができるのである。人間は、サタンの誘惑に翻弄されて堕落と罪の繁殖を繰り返すであろう。人間の霊性は後退し、人間社会は野蛮化するであろう。一見先見的と思われるスピリチュアリズムの普及は、人間の平等と繁栄をもたらすと期待されて主張された共産主義が辿った末路と同じように、人間を霊的退廃の世界に導くことになるのである。

 

 最後に、このブログを書こうとした瞬間から、強烈な霊的な攻撃がかかってきたことを付け加えておく。