スピリチュアリズムの死生観と葬送・供養

 スピリチュアリズムの主張は、霊界からの霊界通信によって知らされてきた情報を積み重ねて研究されてきたものです。一人の宗教始祖が啓示として受けた内容と大きく異なり、170年にわたる多くの霊界通信の事例を整理してまとめてあることに特色があります。その中には、三大霊訓と呼ばれている(シルバーバーチ、モーゼス、アラン・カルデック)の霊界通信も含まれています。

 これから紹介する内容は、このウェブサイト【スピリチュアリズム普及会第一公式サイト・第二公式サイト・第三公式サイト】から引用しています。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/

 

1、スピリチュアリズムの死生観

 スピリチュアリズムでは、死は悲しみではありません。死によって霊は、肉体から開放され、自由になるからです。この考え方は、死後人間は霊的存在として存続するということが信じられないと理解できないものです。最初に述べたように、スピリチュアリズムは霊界からの霊の通信によって確立したものであることを考えると、「霊と霊界はある」ことは自明のことなのです。

 「霊界に行った人間(霊界人)は、もはや地上人の死を悲劇とは見なしません。それどころか“死”は、人間にとっての喜びであり祝福であり、苦しみからの解放であると考えるようになります。それが霊界人の常識となっています。(スピリチュアリズム) 」http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-5.htm

 スピリチュアリズムでは、死は賛美されています。死によって霊は肉体から開放され、霊界での霊の誕生ということになるからです。私も、ブログ「2013年11月15日  日本人の死生観(産育と葬送の類似性)」の中で、国立歴史民俗博物館教授 新谷尚紀氏が指摘された日本人の独特な死生観「人の誕生と死亡をあの世からこの世へ、この世からあの世へのそれぞれ移行であると考え、そこでは同じような段階を経てその移行が完了するものだと考えていたのではないかといわれる」を紹介し、日本人はこの世の死はあの世での誕生であると薄々感じていたのではないかと伝えた。日本人の多くの人にとっては、死後の世界は当然あると思っているのではないでしょうか。この直感は、スピリチュアリズムによって裏付けられたようでもあります。

2、地上人の肉身と霊人体

 ところで、死によって霊はどのように誕生するのであろうか。死の瞬間、霊体が肉体から抜け出すということがよく言われています。『シルバーバーチの霊訓』が明らかにした地上人を構成する仕組みは次のようなものです。

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  これを地上人サイドの視点、すなわち地上人(霊能者)に見える状態として示すと次の図のようになります。肉眼に映る「肉体」に重複して「霊的身体(霊体)」が存在しています。そしてそれらの身体からは“オーラ”が放射されています。オーラとは人間から放射されるエネルギーのことで、“肉体オーラ”と“霊体オーラ”と“霊の心のオーラ”があります。

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http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-02.htm

 

3、死の瞬間と死の直後

 死の瞬間と死の直後の状態について、スピリチュアリズムは次のように説明しています。「死とは肉体と霊体を結ぶシルバーコードが切れること」である。米国の心霊研究家で優れた霊能者でもあったハドソン・タトルは“死の瞬間”を霊視して、次のように述べています。「徐々に霊体は手足から抜け出し、頭の方に凝縮する。やがて頭頂から後光(ごこう)が現れ大きくなる。次第にそれは形を現し、ついに抜け出した肉体と全く同じ形になる。霊体は高く上がり、一個の美しい霊が私の前に立つ。他方、肉体は下に横たわっている。だが一本の細いコードが霊体と肉体をつないでいる。このコードは次第に薄れていき、やがて消滅する。こうして霊は永久に地上と縁を切るのである。」

 他界した人たちの話によれば、皆“死の瞬間”は一様に、深い眠りに入るような状態――ただただ深い眠りに落ちていくような状態になると言います。痛みや苦しみを感じることは全くありません。やがて死の眠りから覚めると、自分とそっくりな人間が横たわっているのが見えます。実は、すでに本人は肉体から離れ、霊体となって自分の肉体を見ているのですが、そのことにはまだ気がついていません。そして抜け殻となった自分の遺体の傍(そば)に立っていたり、空中に浮揚していたりします。このとき大部分の死者は、思いもよらない環境の変化に戸惑うことになります。さらに、自分の死の知らせで集まっている家族や親戚の姿も見えるようになります。

 やがて死者は、地上の日数にして数日くらいで、少しずつ自分が死んだことに気がつくようになります。死を自覚するようになると、内在していた霊的意識と霊的感覚が急激に蘇(よみがえ)ってきます。このとき大半の者が、身体がすがすがしく軽やかになっていることに気がつきます。いつの間にか病気の苦しみや身体の痛みも完全に消えています。

 しかし中には、いつまでも自分が死んだことに気がつかない者もいます。相変わらず地上生活を送っているのだと思い込んでいるのです。周りの霊たちが「あなたはもう死んだのですよ」と教えてあげても、「とんでもない、私はこの通り生きています」と、死んだことをいっこうに認めないばかりか、教えてくれた人に対して怒り始めることもあります。戦争や事故でアッという間に死んだ者は、なかなか自分の死を悟ることができません。また激しい憎しみや恨みの感情を持って死んだ者も、悪感情が災いして、いつまでも死の自覚を持つことができません。また自殺した人間の場合も、長期にわたって自分の死に気がつかないのが普通です。自分は死んだつもりでいたのに実際には生きていることを知って、何度も自殺をはかろうとします。その時、たまたま地上に霊媒体質者(幽体質素が多い人)が通りかかると、無意識のうちに霊はその地上人に憑依し、自殺へと引き込んでしまうことになります。http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_02.htm

 

4、霊界への旅立ち

 死の眠りから覚め、死の自覚を持つようになると、いよいよ霊の世界(霊界)に入って行くことになります。霊界といっても最初に赴く所は、霊界の最下層で「幽界」と呼ばれている世界です。初めて幽界に足を踏み入れた新参者は、幽界での生活を通して地上臭を拭い去り、本格的な霊的世界へ行くための準備をすることになります。

 幽界に入ったばかりの他界者は、その環境があまりにも地上と似ているため一様に驚きます。そこには山もあり川もあり、野原や海や湖もあります。村も町も家もあり、大人も子供も、犬やネコもいます。幽界には、地上世界に存在しているものが何でもあるのです。幽界が地上とそっくりな所であるため、他界者の多くが「自分は本当に死んであの世へきたのだろうか?」と思うのです。

 幽界に存在するすべてのものが、地上世界と同じように感じられます。感触も地上と同じで堅さもあります。叩けば音を出すこともできます。水に触れれば冷たさも伝わってきます。死によって肉体はなくなっても、霊体に属していた心(精神)はそのまま幽界に持ち越されます。死んでも人間の心は、すぐに変わるわけではありません。したがって死後もしばらくは、地上時代と全く同じ考え方・性格・癖・人間性を維持します。地上時代の人格を、そのまま保ち続けます。

 さらに驚くべきことは、本人の願望や好みが、その人間を取り巻く環境をつくり出すということです。もはや肉体はないので睡眠をとる必要はありません。地上での病気や身体の不快感や重苦しさ・疲れは一切なく、身体は軽くて風呂あがりのようにすがすがしく、爽快そのものです。さらに大切なことは、すでに肉体はないので、この世界ではもう飲食の必要がないということです。お金も必要がない、欲しいものは何でもすぐ手に入るのです。 

 実は「幽界」は、さらに次の段階である霊界へ行くための準備をする場所なのです。幽界について最も重要なことは――「純粋な霊的世界(霊界)へ行くための準備をする所である」ということです。それは幽界が、他界した人間が永遠に住むことになる霊的世界に無理なく適応することができるようにとの「神の配慮」によって造られた世界だからです。このように「幽界」とは、地上臭を拭い去り純粋な霊的存在となって、次に行くことになる「霊界」での生活に向けて準備をする所なのです。

 また、霊界には地獄と言ってもいいような醜悪な場所・暗黒の場所があります。地獄を「邪悪で醜い悪人が集まる所」と定義するならば、地上に最も近い幽界の最下層の一部が、それに相当します。幽界の下層には、現実に“地縛霊や低級霊”が集まっている醜い境域(世界)が存在します。そこには魂の中身が極悪で、利己性がきわめて強い者がたむろしています。いつまでも地上的感覚を拭い去ることができず、享楽・快楽に耽溺(たんでき)したままの醜悪な霊たちが大勢いるのです。そうした醜い心の持ち主の思念は、醜い環境をつくり出します。当人たちには、それが一番心地よく感じられるのですが、外部から見れば、そこは暗く醜悪性に満ち満ちた“暗黒地獄”となっています。自分自身の地上的欲望がつくり出した地獄です。地獄は神が造ったものではなく、人間の心がつくり出したものなのです。地上時代に利己的な生き方をしてきた者、他人を苦しめてきた者、善行をするチャンスがありながらそれを無視してきた者は、死後、霊界(幽界)に行ってから、その愚かさのツケを払わされることになります。

 幽界では、地上時代になした愚行によって自分で自分を責め、後悔の念で苦しむことになるのです。“地獄の苦しみ”とは、そうした魂の苦しみ・心の苦しみのことを指しています。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_03.htm

 「死霊は初め穢れに満ちた荒ぶる存在であるが、あの世とこの世を往来し、家族・親族の供養を受けている間に次第に穢れと個性を脱し、やがて清浄化して祖霊群と融合一体化するに至る。そして没個性的な祖霊(カミ)として子孫を見守るために時(盆・正月)を定めて現世を訪れる。さらにはその祖霊は、新しい肉体に入り込み生まれ変わる(*柳田はそれを「魂の若返り」と言っています。すなわち肉体を借り物として、祖霊としての霊魂が繰り返し肉体を遍歴することになります)。」

柳田が述べている日本人の伝統的死生観は、スピリチュアリズムが明らかにした死生観ときわめて類似しているのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

 

5、スピリチュアリズムの「霊界通信」によって明らかにされた「死後世界観(他界観)」のまとめ

 スピリチュアリズムが伝えている霊界通信の内容をまとめると次のようなものです。

  • 霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れる時が“死の瞬間”である
  • 人間は“死”によって肉体を脱ぎ去り、霊体だけになって死後の世界(霊界)で新たな生活を始めるようになる
  • “あの世”と呼ばれてきた死後の世界とは、「霊界」のことである
  • 死の直後に入る霊的世界を「幽界」と言う(*幽界は「精霊界」や「アストラル界」や「ブルーアイランド」などと呼ばれることもある)。幽界は、本格的な死後の世界である霊界と地上界との中間領域・境界的世界であり、霊界の最下層を指す。他界者はここで、生前の反省をしたり休息を取ったりすることになる。休息にともなって、大半の人間は“死の自覚”を持つようになる
  • 幽界では、思念でつくられた環境の中で、地上時代と同じような生活(地上時代の延長的生活)を送るようになる。幽界の環境が地上とそっくりなのは、そこの住人の思念が環境をつくり出した結果である。
  • 人間は死後も地上時代と同様に感情を持ち、思考活動をすることになる
  • 幽界には、自分の死を自覚できない者もいる。そうした者たちはしばらくの間(死を自覚し地上臭を拭い去るまで)、幽界に留まることになる。彼らの中には“地縛霊”となって、地上人に対して悪い働きかけをする者もいる。しかし、これまで伝統宗教で説かれてきた“サタン”や“魔王”といった悪の勢力の支配者は存在しない
  • 幽界は、本格的な死後の世界である霊界に入るための準備の場所である。幽界での生活を通して地上臭を拭い去ると、自動的に霊界に入っていくようになる。特殊なケースとして、地上時代から霊性が高く、霊的世界のことを正しく理解していた人間の場合には、幽界を素通りして初めから霊界に入ることもある
  • 幽界は地上世界とよく似ている点も多いが、全く異なる点もある。例えばお互いのコミュニケーションは以心伝心(テレパシー)でなされ、地上のような言語は用いなくなる。また、思念がそのまま外部に現れるようになる。心の中で願えば、好みの衣服や食べ物・家・持ち物などがそのまま実物として現れるようになる
  • 死後は肉体がないため、幽界では飲食をしたり睡眠をとる必要はなくなる。肉体の重さ・不自由さから解放され、病気の苦痛や疲労などは一切なくなる
  • 幽界では欲しいものは何でも自由に手に入るようになるため、お金は不要となる。地上時代のような、お金を稼ぐための労働も必要はなくなる
  • 幽界での生活を通じて地上臭を拭い去り、「もっと霊的に向上したい!」という思いが湧き上がるようになる。幽界での生活に飽きを覚え嫌気がさすようになると、霊界へ行く準備が整ったことになる。すると、自然な形で霊界に入っていくようになる
  • 霊界には幾つもの界層が存在する。本格的な霊的世界である霊界には、霊格(霊性・霊的成長度)の違いから無数とも言える界層が形成されている。他界者は自分の霊格に相応しい界層に赴き、そこで霊的親和性によって結ばれた霊たちと共同生活を送るようになる。霊界では上下の界層間の交流はなく、同一界層の間だけで交流が行われる。したがって霊界では、霊性の違いによって住み分けがなされることになる。高い界層には霊性レベル(霊的成長度)の高い霊たちが住み、低い界層には霊性レベルの低い霊たちが住むようになる。高い界層ほど素晴らしい環境となり、天国・楽園のような様相となる
  • 霊界の低い界層の住人は、高い界層の住人が輝きに満ちた美しい環境の中で幸せに過ごしていることを知っている。そのため「自分も一刻も早くそこに行きたい!」と願うようになる
  • 霊界にも仕事はあるが、それはすべて利他愛の実践・他者への奉仕活動として行われている。霊界での仕事は純粋な利他愛の精神によるものであり、霊たちはその利他的行為を通じて霊的成長を達成していくことになる。この意味で、霊界での仕事は霊的成長にとって不可欠なものと言える。霊界での仕事は完全な適材適所のもとで行われており、誰にとっても喜びとなっている。皆が生き生きと奉仕の仕事に専念しており、一人として不平を言う者はいない

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-04.htm

6、葬儀と埋葬、供養

 スピリチュアリズムでは、葬儀・埋葬・供養について次のように述べています。

 (葬儀について)

 人間の死にともなう“葬式”についても、霊的事実に基づいて考えれば、はっきりします。これまで葬式は死別を悲しむ儀式とされてきましたが、今後は霊界に旅立つ死者を祝福するセレモニーにしなければなりません。本来、葬式はしてもしなくてもどちらでもいいことであり、それほど重要性はありません。“墓”も、造っても造らなくてもどちらでもいいのです。どのような形式で造るかも問題ではありません。葬式や墓が大切なのではなく、真理に立って身近な人間の死に向き合うことができるかどうかが問題となるのです。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sb/sb-comm/sb-comm-03.htm

 シルバーバーチが語るように、亡くなった人を悲しむのは自分自身への哀れみであり、愛する人を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から開放された人のために涙を流すべきではないのです。

「皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界では、これから地上へ生まれていく人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。」

シルバーバーチの霊訓(11)』(潮文社)  p.208

 葬儀を悲しみとして行うのではなく、葬儀を祝福する宗教が一つあります。統一教会です。統一教会では、喪服も喪章もせず、祝いの礼装で式に臨みます。そこにある思想は、スピリチュアリズムと同じ霊界への旅立ちへの祝いなのです。

 統一教会では死んで葬儀をする事を「昇華式」と言います。死んだ人にすがりついて泣くのを見れば、死んだ霊が嘆息するというのです。「こんなに無知だから、私の行く道を綱で引っ張って行く事が出来ない様にしている」と言うのです。その様な事を知っている為に、統一教会では「昇華」と言うのです。高潔に飛翔するというのです。愛の力をもって押してあげなければ成りません。引っ張らず、押してあげなければ成りません。昇華式とは何ですか。変化して一段階上がって行くという事です。(文鮮明

 ただ、統一教会スピリチュアリズムの葬儀の祝福には大きな違いがあります。「堕落しなければ、人が死ぬ事は幸福です。それで今日、統一教会は、死を悲しみで迎える教会になってはならないと教えるのです。(文鮮明)」堕落という問題の解釈がポイントなのです。このことについては、別のブログ「サタンの実在について」で言及することにします。

(葬儀への参列について)

 しかし、葬儀をただ祝福すればいいというものではありません。この世の葬儀では、人々の悲しみに引き寄せられて多くの邪霊・低級霊・地縛霊が集まります。死者を迎えに来るのは、死者とゆかりのある人だけではありません。死者の想念に引き寄せられて邪霊・低級霊・地縛霊も集まって来ます。スピリチュアリズムで語るような善霊だけだと解釈してはいけないのです。したがって、霊的に敏感な人は邪霊・地縛霊を連れて帰ることになります。葬儀の場には、多くの霊が集まるのです。スピリチュアリズムでも次のように注意しています。
 この世の一般の葬式では、人々の悲しみの想念に引き寄せられて邪霊や地縛霊の類が会場に集まってきます。したがって霊的に敏感な人間は、そうした葬式への参加は避けるのが無難なのです。どうしても出席しなければならないときには、自分が守護霊とともに“霊の光”に包まれている姿をしっかりとイメージして臨んでください。http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

(供養について)

 死後、時間が経っているにもかかわらず、遺族の夢の中などに死者の霊がしつこく出てくるようであれば、その霊はいまだ「死の自覚」ができていないと思って間違いありません。また自分の墓についてあれこれ注文をつけてきたり、供養を要求してくるような場合も、地上への意識があまりにも強すぎて「霊的意識」が目覚めていないことを示しています。霊的自覚の乏しい先祖の霊に、死んだことを自覚させることが本当の意味での先祖供養です。位牌(いはい)をつくったり、読経をしたり、花や果物などの供物(くもつ)をあげても、本人の霊的意識の向上には何のプラスにもなりません。いったん本人に「死の自覚」ができれば、もはや先祖供養は必要ではなくなります。あとは指導霊の導きに任せればよいのです。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/sp-introduction1/sp-introduction1-2_02.htm

(埋葬と墓について)

 火葬にせよ土葬にせよ、死体を処理するまでに最低3日間は時を置くということが大切です。死者が生前に霊的知識に無知であった場合、霊体と肉体を結ぶシルバーコードが切れても、それまでの長年にわたる一体関係の名残で、ある程度の相互作用が続くことがあります。そして地上的感覚をしばらく持ち続けるのです。その場合、自分の肉体が処理されると、一時的であっても霊の精神に障害が及ぶことになります。“自分は生きている”というような感覚を残している分だけショックを受けるのです。もちろん生前から霊的知識を知っている人の場合は、そうしたことにはなりません。

 墓については結論から言えば――「墓はあってもなくてもどちらでもいい」ということです。墓は、不用となった肉体の捨て場所にすぎません。したがって、わざわざ墓という特別な場所を設けなくても構わないということになります。山や海に捨て去っても、川に流してもいいのです。その意味で“遺灰をガンジス川に流す”というインド宗教の在り方は、霊的事実に近いと言えます。言うまでもありませんが、大きな墓を造って故人の生前の威光を示そうなどという考えは全く馬鹿げています。散骨も文句なしによい方法です。そこには何の問題もありません。スピリチュアリズムでは、遺骨には何の意味も認めず、不用となった肉体は大地に戻せばよしとします。

 ついでに言うならば、墓ばかりでなく仏壇も位牌も必要ないということになります。死んで霊界に行った先祖が幸福であるならば、地上時代の墓が無縁化しても何の問題もありません。

 死別は永遠の別れではなく、それどころか死によって愛する人との霊的距離は、これまで以上に近くなるとします。死は永遠の別離でもなければ、悲しみの時でもありません。葬送儀式は、死者の旅立ちに対する祝福のために執り行うものです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-2/sp-thought1-2-6.htm

 

7、地縛霊と地獄

 霊的世界の実在を認められない霊は、結局、地上世界の近くに留まることになります。これがいわゆる“地縛霊”です。自分の間違った考えで自分自身を地上に縛りつけている霊という意味です。よく昔から言われてきた「幽霊」という存在は、自分が死んだことに気がつかない地縛霊のことです。幽界の下層には地縛霊が集まり、絶対数としてはかなりの数に上ります。地上近くには、こうした霊たちがウヨウヨしているのです。

 地縛霊の中には、何十年も、時には何百年にもわたって、自分が死んだことを認めない者もいます。このような人間(霊)は、長い期間「自分は生きている、死んではいない」という思いを強く持ったまま、地上近くに留まり続けることになります。生前、飽食に浸り酒色の快楽に溺れるといった本能的喜びだけを追い求めてきた人間は、死んで肉体はなくなっても、本能的欲求が習性となり心に染みついています。その結果、地上近くを放浪し、同じような欲望を持った地上の人間にまとわりつくようになります。長い間、不安や憎しみ、嫉妬や恐れ、苛立ち・悲しみ・後悔の念といった地獄の世界の中に住み続けるようになります。反省しない霊、過ちを認めない霊、自分の楽しみや快楽しか考えられない地縛霊の心は、まさに“地獄”そのものと言えます。そしてその苦しみ・拷問状態が、霊たちには永遠に続くように思われるのです。

 霊界に行くと大半の人間が、一時的であっても地上人生を後悔し、辛い苦しみの時を過ごすようになります。実はこれが“地獄の苦しみ”ということなのです。霊的視点に立つならば“地獄”とは――「魂が苦しむ場所・後悔で苦しみもがく心の世界」のことなのです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-5/sp-thought1-5-1.htm

 

 人間は、地上で霊性の向上を図り霊界へ旅立つのです。霊界は、私達の故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気の様な世界だと自由に考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。それ故に、その様に怖がる必要はありません。死は新しい出発の門を開くのです。