地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (四) メシアという救世主によってのみ、罪の根から解放される

 日本にも原罪と救世主という思想は片隅で存在していた。生長の家の神想観の序に、「いよいよエデンの園再興の時がきたのである」という文章を見つけた時、エデンの園という理想郷は日本でも意識されていたのだと驚いたことがある。

 エデンの園という理想は、メシアの再臨によってもたらされるとキリスト教は伝えてきた。メシアなくして、原罪を受け継いできた人類は本然の姿に戻ることができないと伝えられてきたからである。それゆえ、メシアの再臨は信仰をもつ者にとってひたすら待ち望む希望の光である。罪の根が贖われるということは、パウロがいう別の律法-自己中心的で、名誉・淫乱・財欲・殺傷などの苦しみの根を断つことができるという希望の予言である。その暁には、人類はともに平和に暮らせる時代が来ることになる。

 

 (1)洗礼という恩恵

 もし、自らの手によって自らの罪・苦しみを救うことができるならば、宗教はこの世に出現しなかったはずである。なぜ宗教が出現したかと言えば、現世のほかに霊界が実在して救済には霊的な手続きが必要であるからである。また、人間の堕落には霊的存在である悪魔(サタン)が関与していたからでもある。神の救いは、霊的世界を通じて行われるため、霊的世界を正すことが欠かせない。

 宗教始祖は、苦難の路程を勝利して神の光を地上に届けることを可能にした。信徒たちは、その宗教始祖の霊的な信仰の勝利圏を信じることによって霊的恩恵を受け継ぐことができるのである。宗教は、こうして一人の勝利圏を多くの追随する信徒が恩恵として受けることによって広がってきた。「洗礼」というキリスト教の儀式も、イエス・キリストを信じることによってその霊的勝利圏を受け継ぐ恩賜である。

 イエス・キリストの勝利圏(十字架による贖罪と霊的復活)は、信徒たちに洗礼という宗教儀式を通じて恩恵をもたらした。イエス以降2000年のキリスト教の歴史において、イエスの十字架の贖罪の恩恵によって、数えつくせないほど多くの信徒達が罪から救われたと実感してきたのである。

 

洗礼は、イエス・キリストを信じてクリスチャンになった人が、キリストに従順な生活を始める第一歩となるからです。洗礼を受ける第一の理由は、「イエス・キリストがそう命令されたから」です。クリスチャンとは、「イエス・キリストに従う人」のことです。クリスチャンになった人は、「私はキリストを信じて、キリストと一体となった」ということを表現するために、洗礼を受けます。

一つになるということです。通常の形式では、受洗者は水の中に入って全身を浸します。その人はずぶ濡れになります。そのことが、一体化を象徴しているわけです。その一体化とは、もちろん、「イエス・キリストとの一体化」です。
ですから、「自分はイエス・キリストを信じた」、あるいは「イエス・キリストと一つになった」、ということを象徴的に表現するのが洗礼です。(中川健一)聖書入門.com  http://seishonyumon.com/movie/1794/

 人は信仰と恵み(イエス・キリストの恩恵)によって救われる」というのが、救いに関する真理である。

キリストの十字架を信じて受け入れると「不思議に」罪が清められる。心の重荷が取り去られて自由になる。過去が精算される。今生まれた嬰児のようにさせられる。

キリスト教は「罪の赦し」の宗教である。結論を先にいえば人間の努力では無理。神の霊に満たされるときに「赦しとやわらぎ」(賛美歌501)の心が与えられる。これは不思議な現象で、神の霊を頂かなければ人間はどんなに「努力」しても人を赦せない。  (高橋照男」」

洗礼を受けて、キリスト教の信徒となった人はこのような心の平安をもったのである。

 

(2)メシアの再臨と地上天国

(2-1)地上天国とは?

 地上天国とは、メシアが降臨して地上を支配するならば無条件に実現するというものではない。共産主義思想が素晴らしい理想郷としてとなえられたものの、実際革命によって実現された共産主義社会は人間が窒息するような息がつまる世界であったことは20世紀の歴史が示したことである。人間の魂が変革されていない限り、地上天国は実現できないのである。出口日出麿氏が指摘されているように、「共産主義という形で平等な社会が表面上築かれたとしても、魂が変わっていないのですぐに壊されることになる。人間一人一人の魂の改心ができるまで地上天国はできない。心の底から間違っていると気づき、正そうとすることが不可欠である(出口日出麿)」。地上天国は、人間の魂の変革なくしては難しいのである。

 地上天国とは、全人類が一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの大家族を形成していく世界である。この世界は、神を父母として侍り、人々が兄弟愛によって堅く結ばれて生きる世界である。自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合の方が遥かに大きいということを悟るときには、決して隣人を害することができないようになるのが人間誰しもが持つ共通の感情である。それ故、人間がその心の痛みから湧き出ずる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動は取れなくなる。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神ご自身が父母となられ、互いに相愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動を取ることができない。

 従って、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒たちが犯罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰がきわめて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感で捉え、犯罪を犯せば人間は否応なしに地獄に行かなければならないという天の法則を十分に知るなら、誰が敢えて罪を犯すことができようか。罪のない世界が即ち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の時間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ天国である。

 禅の秋月龍珉氏は、「従来の禅では相交わる対象がどうも自然に傾きすぎて「私と汝」という人間対人間のところで「自他不二」の境涯を練る訓練が足りなかったと思うのである」と述べられている。「一日一禅」の著作の中で、「南山に雲起これば、北山に雨下る」という句について、次のように説明している。『南山の雲と北山の雨とは不二である(二つであって二つでないこと)。それを空というのだ。空とは「自他不二」である(禅は、この不二を自覚することを説く)。平等即差別である。したがって差別即差別である。個物(微塵)と個物(微塵)とが相即相入する「事事無礙法界(じじむげほっかい=個と個とが円融交差して互いに礙〔さまた〕げない自他不二の境地の世界)」がそこにある。』自他の区別も空ぜられたとき、すべては一体化する。

 この認識も、真の兄弟愛に結ばれた地上天国のあり方を説いているものである。地上天国は、人と神との関係を元返すとともに人と人の関係をかけがえのないものにしない限りできないのである。そして地上天国の基点は、私たち人間の存在の原点である家庭から始まらないといけない。ここに天国が築けない限り、地上天国の建設は不可能である。

 

(2-2)原罪の清算は、神が地上の支配権を悪魔(サタン)から取り戻す第一歩である

「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」(ロ-マ人への手紙第7章22~24)

「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げてくださった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ人への手紙第8章1~7)

 

 イエス・キリストによる十字架による恩賜が多くの人類に救いをもたらせたことは、事実である。イエス・キリストの霊によって心に平安がもたらされ、死後楽園に行くことが約束された。しかし、聖パウロが述べているように、霊による救いは得たものの、自分の肉体には神の律法とは違う肉なる思いが厳然と残って自分を苦しめている。イエス・キリストによる救いは、完結していないのである。それ故、イエス・キリストは、再臨を約束されたのである。

 イエス・キリストの再臨によってなされなければならないことは、肉の思いの救いである。平たく言えば、この地上で生活するうえで、さまざまな状況・事態の中で神の思いと同じ思いと行いをすることができるようになれるか否かである。

 それは、人間が堕落によって神がわからず、自己中心の考えになり、互いに対立するようになって、罪を犯すようになってしまった心の中の罪の根を取り除くことが欠かせない。これがどんなに難しいことか、仏教は無明ということを教えたが、闇から完全に抜け出ることができないのが罪ある人間の姿である。まさに、この罪ある人間に救いをもたらす存在がメシアであり、人間の罪の根(原罪)取り除く救世主である。

 また、イエスの十字架の代贖によって救われたと実感している人々にあっても、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国に行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、原罪がその子孫にそのまま遺伝しているという有力な証拠である。イエスの十字架の贖罪によって完全に赦罪されたと実感している信徒たちの間でも、実際には罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかった。

 

 人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除かないかぎり、決して理想社会をつくることはできない。宗教によってどんなに人倫道徳を啓蒙しても、文明が発達して天国が近づいたように見えても、最後に残る関門が罪の根(原罪)であり淫行である。釈尊の最後の試練が色魔の誘惑であったことを見れば分かるように、性の問題が最後に我々に悟りへの道を妨げ、悪魔(サタン)の手中に陥れるのである。現在、性の問題が極度に問題になっているのも、最後の審判の時がきていることを示している。再堕落の道が準備されているといっていい。

 だからこそ、罪の根(現在)の贖罪・清算が不可欠なのである。再臨のメシアのもとで行われると予言された「小羊の婚宴」という言葉には、堕落が家庭で起きたこと、堕落が淫行であったことを暗示している。「小羊の婚宴」という言葉で言われる再臨のメシアによる原罪の清算は、実際存在するのであろうか。また、実際罪の根は取り除かれるのだろうか。

 結論から言えば、存在するし取り除かれる。再臨のメシアによる原罪の清算には、肉体が浄められたという実感がある。そして、神とつながっているという感覚を得る。ただ、罪の根のほかに先祖から受け継いできた家系の罪が積み重なっている場合、それは実感しにくいものである。その場合、罪の根を清算されても、何も感じられないことも多い。しかし、罪の根が清算されたならば、何代か後には罪なき子孫が誕生するであろう。罪の根が消えたのだから、自らの煩悩と真正面から取り組み脱却することははるかに容易になる。罪の根の清算という根源の救いを受けることによって、人間は努力すれば近い未来に地上天国を築くことが可能になることだけは確かである。

 最後に宗教は、地上天国ができた暁には不要になるものであることを述べておく。