読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (二) 宗教は、地上に天国をもたらすための訓練として存在してきた

 大本教の出口日出麿氏は、「宗教本来の目的は、現界的にいえば、地上天国建設にある。すなわち、すべての人類がたがいに愛し愛されながら神を賛美し、その業を楽しみ、闘争や蔑視反目のない真に住み心地の良い世界を造ることにある」。そして、「信仰とは、宗教の教義をそのまま信じて実行することではない。信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することである。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教なのである。神と対話することが難しい原因を知り、元の姿に戻るために、その方法の手段として学び実行するのが宗教の教理であり、宗教的修行である」と語られている。
 ここに宗教の存在目的と信仰の目的が簡潔に述べられている。宗教は、神と対話できる状態に人間が復帰するための方法を学び訓練するためのもので、その方法を通して神と対話できる状態に復帰してこの地上に争いのない地上天国を造ることが究極の目的である。

 

(1)宗教は、本来不要のものであった

 人類始祖といわれるアダムとイブが堕落しなかったならば、宗教は本来必要なかった。本然の人間は、空気を感じるように神を感じ、神の意図を感じ取ることができるはずであった。そこには、修行などという宗教行為は必要なかった。聖書の記述を見れば、アダムとイブが堕落したその時でさえ、二人は神の言葉を聞き取れることができたと書かれている。神との関係が切れた瞬間においても、まだ神の言葉は聞き取れたのである。

 しかし、世代が移っていくにつれ、神の存在、言葉はわからなくなった。神がわからなくなった人間は、自分が立っている位置(本来、人間は天上天下唯我独尊といわれるように、天宙での自分の位置がわかる)がわからなくなり不安に駆られるようになった。そうして、神を忘れ、自分本位に生活し、他人と対立し、地上に争いの王国を打ち立てていった。その結果、地上は争いと暴虐で満たされることになった。

 

(2)義人の召命と神の教えの流布
 神は、義人を探し求めた。聖書には「ノアは義人であった」と記されている。堕落した人間は、サタンの所有物である。(サタンは、人間は所詮自己中心的であると主張している。)それゆえ、アダムとイブの子孫によって建設された地上の人類は、サタンのものである。神の恩恵圏には入ることができない。それゆえ、神の恵沢圏に戻るために宗教的行為が必要であった。聖書が記述している神の最初の義人は、ノアである。ノアは、人類最初の信仰者である。世界が乱れて暴虐が地に満ちていた時、神の召命を受けて120年間あらゆる暴虐と嘲笑を受けながらも、神の命令に絶対に服従して箱舟(供え物)を造った。そして有名な洪水審判が起きた後、ノアの家族は生き残ることができたというのが聖書の記述である。ノアは、神の命令に従順に従って箱舟を山の上に造った。ノアの信仰は、人間には及びもつかない神の命令を信じてついて行ったことにある。残念ながら、洪水審判の後、ノアの家族内での不一致が神の救いを延ばすことになった。

 人類歴史を通して神は、聖人・義人を召命して聖人・義人の信仰と苦役の犠牲の上で、人類全体を救済するという摂理をされてきた。歴史上に名を残している宗教上の指導者・義人・聖人は、例外なく神の召命を受けて苦難の人生を歩むことを余儀なくされながら、神の救いの摂理に貢献してきたのであった。宗教上の義人・聖人の歩みは、神の救済の恩恵をあまねく広めることにあった。一つ一つの宗教あるいは義人・聖人の召命は、全く関係がないように見えるが、神が周到に準備した奥深い摂理として関連性をもって進められている。だからそれぞれに存在理由がある。そして、召命した義人・聖人を通して、人間としての生きる道理・規範が伝えられてきたのである。

 

(3)なぜ、供え物が必要とされたのか

 供え物が宗教行為として必要とされる理由は、霊界の実在と霊界に実在する悪魔(サタン)という存在がわからないと理解できないものである。科学に慣れ親しんだ現在人には空想に思えるであろうが、人類は創世以来供え物を神に捧げてきた事実が示すように、人間は直観的に神の前に供え物が必要であることを感じてきた。

 聖書の記述では、人類最初の供え物をした人物は、人類始祖アダムの長子カインと次子アベルである。「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。 主はアベルとその供え物とを顧みられた。(創世記 第4章3~4節)」人類始祖の段階から神への供え物は、あったのである。
 考古学の研究においても、ネアンデルタール人は宗教儀礼を行っていたといわれている。

 約 30 万年前、現生人類の祖先として誕生したてネアン デルタール人(優秀な狩猟採集民であって、ヨーロッパを中心に熱帯、温帯の広い範囲に適応して生存した。人口は最大時で50 万人ほどに達したと推測されている)は、脳の大きさが1400ml に達し、超自然的なものや死後の世界を考えた最初の人類と言われている。イラク北部のティグリス川上流の山中にあるシャニダー ル渓谷の洞窟で発見されたシャニダール4号人骨は、明らかに土を掘り 下げて「埋葬」されており、さらに遺骨の周辺からは花の破片と花粉の 化石が多数見つかった。仲間を埋葬し、何種類もの花々を野山から摘んで帰り、死者に供えて埋葬儀式を行ったと見られている。この人骨は「花と共に埋葬された最初の人類」と称されたが、死を悼み、死後のための 埋葬品を飾る葬送儀礼の始まりとも考えられる(赤澤, 2000:227-234)。*1

*1:創価大学教授 中野 毅論文「宗教の起源・再考 ―近年の進化生物学と脳科学の成果から―」現代宗教2014  2014年3月4日発行 発行者 (公財)国際宗教研究所

 

 このように、人類誕生とともに人間の超自然に対する畏敬の念と宗教儀礼は、存在していたことがわかっている。なぜ、仲間の葬送儀礼を行い、豊穣の供え物をしてきたのか。人間は、人間を超えた超越した存在(神、天宙の根源的存在)を確信していたのであり、神に守られなければ生きていけないとわかっていたからであろう。何故供え物をしなければならないと感じたのかは、人間が神と離れてしまったことによって、心に不安が生じ不安が心を支配したからであろう。神の御心を感じ取れなくなってしまった人間に残された方法は、供え物をして神にとりなしを乞うことだった。ただ供え物をする以外に守られる術はわからなかった。そして供え物をした人間にとっては、神が供え物を取ってくださるかどうかが重大な関心事であった。

 しかし、神は全ての人間から平等に供え物を受け取ることはなかった。人類最初の供え物をしたのは、アダムとイブの息子アベルとカインである。この時、神はアベルの供え物は受け取るがカインの供え物は受け取らなかったと記されている。平等に受け取るのが筋ではないかというのが人間的解釈であるが、供え物に対する神の考えは、アベルの供え物によってアベルが神につながることを願うとともに、カインについては、弟アベルと一つになるということを通して神につながることを願われていたのである。神の救いには、供え物を通して神につながることと人と人が一つになることの二つのことがなされることによって成就するようになっていたのである。宗教の役割も、宗教始祖の神に対する信仰と信徒たちの教祖に対する忠誠によって救いが成就するようになっているのである。

 

(4)なぜ、出家が尊重されたのか

 人類始祖の堕落により、人間は自己中心性という堕落性をもってしまった。自分を優先するという自己中心性の堕落性は、如何ともし難い人間の本性であるように受け止められた。それゆえ釈尊は、「人間は自己中心的である。それゆえ、他人に危害を与えてはいけない」と語られたと伝えられている。サタンのものとなった人間には、神の意志を感じて行動することができなくなり、自己中心という煩悩が取り去り難く心の中心に居座っているのである。

 自己中心性を有した人間によって築かれるこの世の中も、当然ながら自己中心的な人間と人間の対立の世界となる。「サタンはこの世の支配者」といわれるのも、自己中心的な人間によって築かれた世界は神のものではなく、この世における自己中心的な人間の欲望に寄り添っている悪魔(サタン)のものだからである。だから、神を求め善を求める人が「神はいない。善をなす人がいない」と嘆いて現世に失望してしまうのは、至極あたりまえのことである。

 神を求め善を求めた人が、サタンの手を逃れる方法としてこの世を捨てるという方法を取ったのは罪ある人間が取り得る有効な方法だった。釈尊が「出家」という方法を選択して悟りの境地を開かれたのは、実に意味あることであった。この世では、サタンの手を逃れることが難しかったからである。

 その釈尊でも、悟りの境地に達するためには、苦行と瞑想を経て色魔というサタンに試されることが必要であった。それを退けて初めて、悪魔(サタン)は立ち去ったのだった。しかし、この世で生存しているかぎり、いくら出家しているからといっても、この世との接点がある。だから、折を見つけては、サタンは誘惑をかけてくるのである。釈尊スンダリー事件などはいい例である。

 また、出家により心の安定と煩悩からの脱却に成功したとしても、人間にはこの現世にて幸福を得たいという捨てがたい願望がある。だから、宗教はどうしても現世での生き方に道を探すことになる。人間には誰にも仏性があるという経典の言葉は、現世における救いを願う根拠となった。観音経が根強い信仰を集めるのも、弥勒の下生を願うのも、この世における救いを待ち望む人間の姿なのである。

 

(5)宗教にはなぜ迫害がつきものなのか

 新しい宗教が打ちたてられると、必ずといっていいほど迫害が起きる。その宗教が教える教義がこの世の常識に合わないからである。宗教に降りた神の啓示は、悪魔(サタン)に支配された既存の観念を打ち破り神の世界に一歩ずつ近づけるものであるため、激しい抵抗を受けることになる。宗教は、単なる道徳の教えではない。
 出口王仁三郎は、こう述べている。「信仰のためならば、地位も財産も親兄弟も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功名心や自己愛の精神では、どうして宇宙大に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした絶望的な決心がなくては、この広大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神さまに触れることができようか。」

 この地上の支配権は悪魔(サタン)が有しており、信仰を味わうというような道徳的な関心やヒューマニズムでは悪魔に取り込まれ、神につながることができないのである。自らの内に存在する悪魔(サタン)の存在に気づき、これを払拭する努力が欠かせないのである。多くの宗教が必ず迫害を受けてきたのも、悪魔の支配権から脱却するためには、必ず悪魔の誘惑を振りのけて前に進むという過程が必要だからである。釈尊が悪魔の誘惑を忍んで断ったように、宗教は耐え忍んで悪魔の誘惑に勝つ必要があるのである。「耐えて勝つ」というのが宗教の戦法である。

 一人一人の信仰を考えた場合、苦行・苦役という外的な努力を自らに課すことによって悪(サタン)と闘い、行いの中にある悪しき行為を取り除いている(行儀)。さらに、瞑想・祈りという内的な努力を自らに課すことによって内的な悪(サタン)と闘い、神の光につながることよって心の罪を取り除いている(信義)。釈尊の修行が最初に苦行があり、最後が瞑想であったという伝承は、人間一人一人が罪を脱却して解脱に至るには内外両面の苦難の信仰路程を通過しなければならないことを示しているのである。

 

(6)宗教は何故対立するのか

 「人類が誕生して以来、宗教の対立と抗争は常識であった。神と人間は親子の関係であるといいながら、地上に天国を建設するといいながら、自分の属する宗教こそが正しく他の宗教は間違っていると主張するのが常であった。どれほど多くの迫害と抗争が繰り広げられてきたことだろう。平和を目指す宗教が、対立と抗争の原因であったことは数限りない。そして、今も多くの抗争の原因が宗教に根ざしている。なんと残念な事なのか。(出口日出麿)」

 宗教は、一つの宗教を作ることで満足し、宗教というものが地上に神の王国を築くための一里塚として存在しているということを忘れがちである。しかも、宗教教団自体が絶対的なものとして自認するものであるから、その教団に属す人は、教団本位という自己中心性に陥り他を排撃しやすい。また、信仰という行為が信じるという盲目的なものであることも問題を複雑にしている。出口日出麿氏が言われるように、十分な内省が不可欠である。そして、宗教の目的が人間が神と対話できるようになることであることを鑑みると、啓示に従うことは信仰の第一歩ではあっても、信仰のすべてではない。信仰が深まると、天宙において唯一無二の存在である自分という存在は、神と対話して行くべき道を教えられるまでもなく悟るようになる。

 「なぜ、宗教が抗争の原因になるのか。その第一原因は、信じるという行為にある。信じるという行為は、盲目的である。理性ではなく、魂の要求のままに従順に従うためである。それは、宗教的行為のすばらしさであり、誰にも平等に行える神へつながる道であるが、十分な内省を伴わずに他のものを盲目的に排撃するという傾向を持っている。(出口日出麿)」

 宗教は、この地上に天国を築くために神が準備してきたものであることを理解して、お互い寛容に相互理解に努めるべきである。

 

(7)なぜ、メシアが必要であるとされたのか

 メシア思想は、ユダヤキリスト教だけでなく、世界各地の宗教に散見される。仏教の弥勒降臨待望論もその一つである。メシアは、ユダヤ教において救い主として待望された。イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。人々を苦難から救済し神の支配を確立する者としている。エレミアは、バビロン捕囚のような苦難は律法を守らなかった人々への神からの罰であると説いた。しかし神はユダヤ人たちを許して、救い主(メシア)をこの世に送る事を約束した。

 メシアは、外的世界の混乱を収拾し神の支配をもたらすものと期待されているが、その解釈は表面的である。どんなに信仰を重ねてもぬぐい去れない自らの内にある罪の意識を払拭してくださる神と人間との間の仲保の存在である。外的世界の混乱は、その世界を造っている人間の意識に問題があるのであり、それを正す道を示すことがメシアの使命である。人間の意識に罪の意識が乏しいならば、メシアによる救済は遠いといわざるを得ない。

 聖パウロは、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ人への手紙第7章22~23)と慨嘆した。我々は善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする罪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。このように存在するものがそれ自体の内部に矛盾性をもつようになれば破滅せざるを得ない。

 人間は、信仰を重ねてもなお、邪心からくる悪の欲望にとりこにされている。人間は、堕落して自己破滅に瀕しているのである。多くの人間が現在苦悩の中で自己破滅に陥っている状況は、メシアなくしては解決しえない問題である。ここに、メシア待望論がある。

 

(8)日本人と宗教

 ところで、日本人の大部分の人は、宗教とは八百万の神に供え物を捧げて祈り、先祖を供養し、この世においては倫理道徳を守れば事足りるという観念をもっていると思われる。この考え方は、日本という国が海によって世界と隔てられ、しかも気候が温暖であるため、大自然に抱かれて生活するという環境にあったゆえに育まれてきたものであると思われる。しばしば起きる天変地異は、人間の力を超越した恐怖であり、神に祈るしかないものであった。日本人は、大自然という神(産土神)に守られて純朴に生きてきたといえるだろう。

 しかし、それではやっていけない時代がやって来た。西洋文明という黒船の来襲である。当時、神から啓示を受けた新宗教は、日本民族の精神上の危機が訪れたことを警告している。西洋文明は、日本に自由平等博愛とともに個人主義・民主主義という価値観を持ち込んだのである。島国で平和に暮らしていた日本人に個人の自立という価値観をもたらしたのである。人間の思春期に自立・自我の形成がなされるように、日本人に自立・自我の形成の時が訪れたのである。

 西洋の個人主義・民主主義という価値観は、日本人の自己意識を啓発し、自己と他己という二者間の人間関係、自己意識・自分中心という価値観を眠りから揺り起こした。それはまた、心の奥底に潜む闇(無明、罪)を呼び覚ますものであった。西洋の価値観には「神のもとに」というキリスト教の前提があったが、日本に持ち込まれた西洋思想は「神のもとに」という前提が抜け落ちてしまった。神なき自由平等と神なき個人主義・民主主義が広まることになった。このことは、人間の心の奥底に隠されていた自己中心性の思いを呼び起こし、個人の欲望を肥大化させ、個人の権利をわが物顔に主張する風潮を作り出した。日本の伝統にはない弱肉強食の論理が容認された。

 このため、社会秩序を安定させる必要が生じた。儒教倫理をベースとする倫理道徳教育が行われた。この教育は、儒教社会特有の上下関係の秩序を重んじるものであったため、硬直的で息苦しいものになりやすい面を有していた。現在でも日本の組織社会に陰鬱な影を感じる人が多いのは、この儒教倫理の影響が大きい。儒教倫理の社会では、表面的な秩序が重んじるため、その中で生活する人間は、自分の心は隠して表面だけを取り繕い、他人の心を察しながら生活するという葛藤を抱えるのだった。倫理道徳の啓蒙は、人間の行動を律し心の底にある闇(罪)を一時的に抑制することはできても消滅させることは難しいものなのである。

 心の内面に潜む妬み、怨み、不満といった醜い心はそのままにされた。心の救済には手は差しのべられなかったのである。キリスト教では、キリストが私の中に共にいるという実感をもたらし、キリストの故に赦しの気持ちが湧いてくるという。人間の心を罪(サタン)から解放して平安に導くのは、神の光(救い)である。今、自我と自立に目覚めた日本人に必要なことは、心の罪をぬぐい去り心に神の光を届けることによって心を解放して、自我の健全な成長を促すという宗教的な救いなのである。日本社会が変わるためには、宗教的浄化・感化が欠かせないことを知らなければならない。