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地球に平和を招来するためには、原罪(罪の根)の清算が鍵となる (一) 現代は、善悪二つの主権が最後の闘いをしている終末である

 多くの予言者や宗教家が20世紀から21世紀にかけて終末が来ると警告してきた。宗教的に見た場合、現代は終末であることに異論をさしはさむ人はいないだろう。

 終末とは、社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代が訪れ、神あるいは絶対者の審判と救済なくしては未来はないという宗教一般で語られる言葉である。終末という現象は、個々人の内的な生命の終わりを指すだけでなく、人類全体(民全体)にとっても最後のとき、人類全体(民全体)に対する最後の審判と義人選別救済のときをも意味している。

 では終末はなぜ起きるのか?現在が終末の状態であることに同意できたとしても、何ゆえに起きるのかが問題である。終末というのは、神とこの地上の支配権を有している悪魔(サタン)が激突する時なのである。個人から始まり、家族、民族国家、人類全体が激突する時なのである。この世の支配者である悪魔(サタン)のもとにある人類歴史が終わりを告げ、新しい時代が始まることを意味する。古き天地が滅び新しき天地が始まるのである。

 終末には、天変地異が起こり、人々が泣き叫び、もだえ苦しみ、多くの人が生命をなくすといわれるのも、以上のような理由によるのである。

 

(1)ノアの時も終末であった

 創世記第6章は、ノアを召命した時のことをこう記している。

「人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。(中略)主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる』と言われた。(中略)時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。そこで神はノアに言われた、『わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。』」

 その後、神の洪水審判がなされる。悪魔(サタン)主権下の歴史を洪水審判によって終わらせ、神のみを信奉するノアの家庭を立てることによって神主権の理想世界を建設しようとされたのであった。ノアの家庭を除いては、どの人間も生き延びることはできなかった。現代人は、この出来事を実際にあったこととは信じていない。しかし、東日本大震災のように、想像をはるかに超えた天変地異は歴史の上しばしば起き、歴史の流れそのものを変えていったことを知らなければならない。

 

(2)イエス・キリストの時も終末であった

 神が願った地上の理想世界は、ノアの時もノア以降も実現されなかった。神は何度となく預言者を使わして最後の審判がなされると予言した。「万軍の主は言われる。見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、罪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない」(マラキ第4章1)。

 イエス・キリストの時も終末であった。イエス・キリストは、ただ人類を救いに来られたのではない。審判主として来られた。

 イエスは、「わたしは火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなに苦しい思いをすることであろう。あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。というのは、今から後は、一家の内で五人が相分かれて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう(ルカ第12章49~53)」と言われたことを見てもわかる。

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すぐにきている。そして聞く人は生きるであろう。(ヨハネ第5章24~25)」と言われたのである。

 

 神の国はいつ来るのかとパリサイ人が尋ねた時には、次のような言葉を残した。

「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。ロトの時にも同じようなことが起こった。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。(ルカ第17章26~33)」と言われ、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」と言われたのであった。

 イエスの時にも、イエスを神の代身に立てて、神と悪魔(サタン)が激突したのである。残念ながらイエスは十字架につけられ、ユダヤ民族は十字架につけた報いを背負うことになり、2000年にわたるユダヤ民族の放浪の歴史が始まることになった。

 

(3)イエスの再臨の時も終末である

 イエスは、ユダヤ民族の不信によって十字架に釘けられてなくなることにより、地上に新しい天地をもたらすことはできなかった。イエスの十字架と後の霊的復活によって霊的救いのみの新しき天地が、イエスがもたらした神の勝利圏であった。キリスト教は、霊的救いの宗教として人類を導くものとなった。このため、イエスは再臨して霊肉合わせての救いの摂理を完遂する必要が生じた。イエスの再臨の予言がイエスご自身の言葉も含めて数多くあるのは、イエスが再臨する必要があることを示している。

 イエスの再臨は、この地上に神の国を実現するためである。イエス以降のサタンの悪主権にある人類歴史は、宗教・哲学・倫理によって、善を指向する人間の創造本性が喚起されるに従い、漸次悪主権から善主権のための勢力が分立され、ついに、世界的に対立する二つの主権を形成するに至っている。しかし、目的が相反するこの二つの主権(神とサタン)は、決して共存することができない。従って、人類歴史の終末に至れば、これらは必ず一点において交叉し、理念を中心として内的に衝突し、それが原因となって軍事力を中心とする外的な戦争(世界大戦)が行われ、神が勝利すればサタン主権は滅び、天側の主権のみが永遠なる神の単一主権として復帰されるのである。善悪二つの主権の歴史路程が交叉する時が来るのである。

 現在、人類歴史は世界的な文化圏を形成し、発達した交通機関にと通信網によって時間と空間を短縮させて地球を自由に行き来できるようになってきた。今や、イエスだけが再臨すれば、全人類は地球上で一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっている。

 そして一方では、人類世界の命運をかけて二つの主権がぶつかり合っている。一人一人の心の内部で、そして家庭の中において、身近なコミュニティの中で、国家の中において、そして世界の国々の中で。混乱と対立がすべてに共通するキーワードである。そして、混乱と対立の中で一人一人は身もだえしながら自ら行くべき道を模索している。神への道を選択して生き残ることができるのか、サタンを信奉して疲弊し滅んでいくのかを自らが選択しているのである。

 

(4)ノストラダモスの予言は当たっていた

 「1999年7の月、空からアンゴルモアの大王が下りてきて人類は滅ぶ」というノストラダモスの予言が、かつて大きく取り上げられた時、人々は戦々恐々としていた。しかし、その時が無事にすぎると、予言は外れたとまるで意に介しなくなった。予言とはその程度のものであると思っておられるだろう。

 それは、正しい解釈ではない。終末の現在、善悪二つの主権により綱引きが行われている。一人一人が善側に導かれるのか、悪側に残るのか、審判されている。1999年7月のアンゴルモアの大王の降臨は予定の未来の一つだった。その予言がはずれたのは、それまでにおける善悪二つの主権の闘いにおいて、ある勝利があったからである。アニメや漫画で描かれている人間と悪魔の正義の闘いは、架空のものではなく、実際に現実の歴史の背後で行われているのである。

 大本教出口なお氏の受けた御筆書きには、「人類は3%しか残れない」という啓示があった。人類ほぼ全滅というのが最悪の未来である。丁度ノアの時ノアの家族だけが残ったように。2012年のマヤの滅亡の予言の時も重大な危機であった。何もなかったかのように歴史は過ぎ去っていったが、人類の重要な岐路の年であった。そして今、2025年という岐路が待ち受けている。神の摂理歴史として、40年周期の節目を迎える。その時どのような審判がなされているだろうか。神を信じなければ、当然ながら新しい天地につながることはできない。善悪がよく分からなくなった現代人に神の審判がなされるのは致し方ないことである。

 「神さまは、“得心さして改心さす”と仰っている。“悪でこの世が続いていくかどうかということをみせてあげる”と仰っている。“渡るだけの橋は渡ってしまわねばミロクの世にならぬ”と仰っている。どうもそうらしい。せめて世界中の半分の人間が、なるほどこれは間違っているということを心の底から気づいてこなくてはダメだ。(出口日出麿)」。どのような形になるかはわからないが、審判は避けられないのである。