量子物理学の世界では“意識の不滅”が論争になりつつあるようだ

 現在の科学の常識では、意識は脳の中にあるとされている。この前提に立つと、意識の独立はなく霊界・死後の世界というものは存在しないことになる。物質が根本である。このことについて、量子物理学では疑問が提起されている。量子物理学においては、量子は粒子性(物質の性質)と波動性(状態の性質)をあわせ持つ。この量子独特の性質を論争する中で、意識と物質の関係について新見解が出されている。いよいよ、科学と宗教が頭をつき合わせて議論する時が来たのかもしれない。

新見解を紹介する前に量子物理学(力学)の世界について認識を深めておきたい。

科学雑誌「ニュートン」2017年2月号―光の量子論―より

 

(1)光の粒子説と波動説の歴史

 300年前変幻自在にふるまう光について、アイザック・ニュートン(1642~1727)とクリスティアンホイヘンス(1629~1695)が光についての仮説を発表した。ニュートンは、「光は粒子であり、光が起こす現象は粒子の運動として説明できる」と粒子説を唱えた。当時科学者の多くがこの粒子説を支持した。一方、同時代のオランダの物理学者ホイヘンスは、「光は波であると考えると、光の現象は説明できる」と波動説を主張した。光の波動説は、当初あまり支持がなかったが、イギリスの物理学者トマス・ヤング(1773~1829)が1807年に光が「波の干渉」と呼ばれる現象を起こすことを示す実験を行って、光が波であると考える人が増えていった。イギリスの物理学者ジェームズ・マクスウェル(1831~1879)は、電磁気学の理論から電気を帯びた粒子が振動すると、電磁波と呼ばれる波が生じ周囲に拡がっていくことを明らかにした。またその速度は、光の速度(30万キロ/秒)の値と高い精度で一致し、光の正体は電磁波であると考えられるようになった。こうして、「光は波動である」ということで決着するかに思われた。

 ところが、20世紀に入ると、光が粒子であると考えたほうが理解しやすい現象が次々に発見され、再び大論争が起こった。朝永振一郎博士は、「もし光が波なら、3メートル先のろうそくは見えないだろう」と語った。その理由は、ろうそくから3mはなれると、1mはなれている時に比べると同じ面積に当たる光のエネルギーは9分の1になる。計算してみると、3mもはなれると網膜のなかの細胞「視物質」を変形させるだけの光のエネルギーが視物質に当らなくなる。そのため、ろうそくの光が見えなくなってしまうはずと。光が粒子だとすると、その分布はまばらになるが、粒子1個のもつエネルギー自体は変わらないため粒子自体のエネルギーは薄まらない。粒子は十分なエネルギーをもっていれば、光の粒子が当たった視物質の分子は変形するので、ろうそくを感知することができる。このことは、遠く離れた星々を見ることができる理由でもある。

 アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は、「光電効果=光を金属板に当てると、電子が飛び出す現象」の原理を説明するにあたって、「光量子仮説」を唱えた。光には最小の粒「光子(光量子)」があり、光子1個のもつエネルギーは波として見たときの「振動数」に比例して大きくなると考えた。また、電子はエネルギーを少しずつ蓄積することができず、1個の光子だけで電子を飛び出させるエネルギーをまかなう必要があると考えた。

 こうして、光は波の性質をもつとともに粒子としての性質ももつという仮定から出発した「量子力学」は、さまざまなミクロな粒子の振る舞いを説明するのに成功してきた。電子や光、分子や原子などの振る舞いについて説明した量子力学の成果は、半導体やパソコンとなって我々の生活を支えるものとなっている。だが、光が「波と粒子の両方の性質をあわせもつ」とは結局どういうことなのか?」再び大論争となって来た。

 

(2)光の二面性=ホイーラーの「遅延選択実験」(1987年)

 「遅延選択実験」=光が出発後に、粒子としてではなく波として振る舞うことを選択したように見えるため、こう呼ばれた。

 アメリカの物理学者ジョン・ホイーラー(1911~2008)は、光を放出する時、出力をどんどん絞っていくと、最終的に光子1個分のエネルギーしかない光がぼつぼつ出るようになる非常に弱い光を「ハーフミラー」という特殊な鏡に通す実験を行った。ハーフミラーは、光の半分を透過し、もう半分を反射する特殊な鏡である。ハーフミラーでは光はaとb二つに分かれる。二つに分かれた光は、それぞれ普通の鏡で進路を変えた後、光子の検出器AとBに到達する。

 光子の検出器は、光子の半分のエネルギーをそれぞれ検出しそうに思える。しかしホイーラーが考えたのは、「量子力学が正しいなら、光子1個分のエネルギーが、必ずAとBの片方の検出器だけから検出される。検出の確率はそれぞれ50%で、どちらの検出器が検出するかは予想することはできない」と考えた。実験の結果、ホイーラーの予想通りの結果が出た。

 光子1個分のエネルギーが片方の検出器だけで検出されるということは、光子が「それ以上分けられないエネルギーのかたまり」であり、粒子であることを示している。もし光が波であるならば、いくらでも細かく分けることができるはずなので、光はハーフミラーで半分に分けられ、光子のエネルギーが半分ずつ両方の検出器で検出されるはずである。

 

 次に、ホイーラーは、今度はほぼ同じ実験装置で光の波動性を示す実験を行った。

光子1個分のエネルギーをもつ非常に弱い光を、ハーフミラーに向けて放出する。波としての光は二つ(aとb)に分かれた後、それぞれ普通の鏡で進路を変える。この実験では、分かれた光の波がすれちがうところに、もう一枚ハーフミラーを置く。ハーフミラーの先に検出器Aと検出器Bがある。

 aから来た光の波はハーフミラーで二つに分かれ、二つの検出器(AとB)に向かう。bから来た光の波も同様にハーフミラーで二つに分かれ、二つの検出器(AとB)に向かう。あらかじめ鏡とハーフミラーの距離を微調整しておくと、検出器Aに向かう二つの光の波を、互いに弱め合い、打ち消し合うようにできる。すると、検出器Bに向かう二つの波は、必ず互いに強め合うようになる。その結果、検出器Aでは光がまったく検出されず、逆に検出器Bでは必ず光が検出されるようになる。

 この実験から、光は検出器の直前まで二つの波が重ね合って弱め合ったり強め合ったりする波動性をもっていることが証明された。

 

 ホイーラーの三つ目の実験は、二つ目のハーフミラーを置かない状態で光子1個を放出するものである。この実験は、光は出発した後に粒子か波かを選択できるという仮説を検証するものである。この二つ目のハーフミラーがない装置では、光は光子(粒子)として振る舞い、50%の確率で検出器Aで見つかり50%の確率で検出器Bで見つかるはずである。そうしておいて、光が検出装置に到着する前に、二つ目のハーフミラーを素早く追加するという実験である。すると光は、必ず検出器Bでは見つかり検出器Aでは見つからないという結果になった。これは波の重ね合わせが起きたことを示した。光はハーフミラーがふえたことに途中で気づいて粒子から波に変身し、干渉を起こしたのか、あるいは時間をさかのぼって波として出発し直したのか?いずれにしても、「はじめから波か粒子かが決まっている」と考えることはできないことを示した。光が出発後に粒子としてではなく波としてふるまうことを選択したように見えるため「遅延選択実験」と呼ばれている。

 

(3)光の波と粒子の二面性の不思議さを示す「二重スリット実験」

 ヤングが行った二重スリット実験装置(板に細かい隙間スリットを左右二つ開け、光源とスクリーンの間に置く)で、左右二つのスリットを両方開けて光子を一つずつ飛ばすと、スクリーンにはボツボツと一つずつ光子が到達した跡が残される。この段階では、光子は粒子としてふるまっているように見える。しかし実験を続けていくと、スクリーンにはたくさん到達した場所と、到達しない場所が交互に並んだ「干渉縞」が現れる。干渉縞が生じたということは、波が二つのスリットを同時に通過し、スクリーンの手前で干渉を起こしたということを意味する。光子をひとつずつ飛ばしたのだから、光子は一つのスリットしか通過していないはずである。しかし、光が波だとすると波は広がって存在するので、二つのスリットを通り抜け干渉縞が現れることの説明がつく。

 

 次に、スリットに偏光板(ある方向に振動する光だけを通し、他の方向に振動する光は遮るもの)を置くという実験である。

 二つのスリットに偏光板を右のスリットには横方向に振動する光を通すものを、左のスリットには縦方向に振動する光を通すものを置き、スクリーンに当たった時の振動によって左右どちらのスリットを通り抜けてきたかをみようとする。不思議なことに一つのスリットを通った光がつくる像を重ね合わせただけの像が現れる。(縦方向のスリットは青の跡。横方向のスリットは緑の跡)。しかし干渉縞はできない。光は波としてふるまわなくなる。

 更に不思議なのは、スクリーンの手前にスクリーンと同じ大きさのななめ45度の偏光板を置く。偏光板を置くと、縦に変光した光も横に偏光した光も、一部が通り抜け、弱いななめの偏光になり、どちらのスリットを通ったかわかなくする。そうすると、干渉縞が復活する。「どちらのスリットを通ったか」という情報が消えると、観測されていない光と同じように波としてふるまうのである。

 

 

<確立解釈(コペンハーゲン解釈)>

 この実験結果をみて、光が粒子の性質と波の性質をあわせもつことをどのように説明すればいいのか?

 1926年イギリスの物理学者マックス・ボルン(1882~1926)が、現在標準的解釈とされている「確率解釈」を提案する。「コペンハーゲン解釈」とも呼ばれているもので、「ある場所の波の揺れ幅(振幅)は、粒子がそこに出現する確率と関係している」というものである。

 光子は、見ていない(観測していない)間は波としてふるまい、(観測すると)粒子としての姿を現す、ということになる。光子がある場所に出現する確率は、出現する直前のその場所での波としての振幅(波の高さ)が大きいほど高くなる、という解釈である。<ほかにもいろいろな解釈が出されている。>

 光は、観測されないかぎり波としてふるまい、二つのスリットを同時に通過し、最終的には1個の粒子として現われる。粒子性と波動性は同時には現れず、粒子的な振る舞いをする場合には波動的な性格を失い、逆に波動的な振る舞いをする場合には粒子的な性格を失うのである。

 量子(極微)現象とは、純粋数式世界(高次元幾何学世界)と、物質物理世界(3次元世界)の中間の現象なのである。

 

(4)「双子の光子」実験-量子のもつれ(量子エンタングルメント)

 特殊な光学機器を使うと、同じ方向に偏光(振動)した「双子の光子」を放出することができる。実験では、二つの光子の前に、それぞれ偏光板と検出器を置く。そして、片方の光子Aを偏光板と検出器に飛び込ませ、時間差をおいて、もう片方の光子Bも偏光板と検出器に飛び込ませる。すると、不思議なことに、先の光子Aが偏光板に到達した瞬間、離れた場所にいるもう一つの光子Bの偏光方向が偏光板Aと同じ向きになる。光子AとBが、まるでテレパシーで通信しているかのようにふるまうのである。

 このように、はなれた二つの粒子の間に相関がある状態を「量子のもつれ」という。かつてアインシュタインは、この現象を「不可解な遠隔作用」と呼び、そんなものがあり得るはずがないと批判した。しかしこの現象は実験で確認されている。何光年と離れていても一瞬で伝わる。量子のもつれによる粒子間の遠く離れた相関を予言する量子力学の性質のことを「量子力学の非局所性」と呼んでいる。この現象が、量子コンピューターや量子暗号通信に応用可能と期待されている。

【光子、電子、原子といった極小の粒子、つまり量子には、徹底的に直感に反する「非局所性」がある。たとえば遠く離れた二つの量子は、まるでコインの裏表のように運命を共有した状態になることがある。一方の量子の物理量が観測されたと“同時”に、もう一方の物理量も時空を飛び越えて決定されるという性質だ。】
出典とある理論物理学者の「量子重力理論」への探求:量子もつれには「質量」があるのか? « WIRED.jp

 実際に量子の世界ではテレポーテーションの実験が成功したという報告がなされている。テレポーテーションの成功例として報告されているもっとも大きな物質は原子だという。(京都産業大学 工学部・情報通信工学科 外山 政文教授)

 以上みてきたように、光子などのミクロな粒子のふるまいを説明する量子力学では、遅延選択実験や二重スリット実験、量子のもつれなど奇妙な現象が実際に起こることが確認されてきているのである。

(以上、科学雑誌「ニュートン」2017年2月号―光の量子論―より)

 

(5)量子力学において、「観察」という行為がもつ影響力の背後にある真理

 光は、観測されないかぎり波としてふるまい、二つのスリットを同時に通過し、最終的には1個の粒子として現われる。観察・観測という行為が、量子の行動を調べる上で重要な因子になっている。量子力学の世界では、「観察」という“意識的な”行為が、量子レベルでは大きな影響力を持っているのである。この世界は波動・振動でできており、その根本には結晶があり、振動が現実化したものが物質なのではないかといえまいか。

 量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

 観察という行為を介在して、意識と物質の関係について問題が再度提起されているのである。現在、脳科学が進めば人間の意識・思考・感情は解明されると考えられている。しかし、それは人間の妄想であるかもしれない。脳は、意識の受け皿にすぎないかもしれない。意識は、肉体に付属するものではなく、別々のものであるかもしれない。そう考えると、死後の世界は論理的に実在して当然である。肉体から解き放たれた意識が存在するということになる。

 いずれにしても、宗教と科学とは頭を突き合わせて論議する時を迎えたのではないだろうか。

 

 二つのニュースリリースを転載して、現代の主張・論争の一端を示す。

 

トカナ 【ガチ】「死後の世界」が存在することが量子論で判明!米有名科学者「脳は意識の受け皿に過ぎない」

http://tocana.jp/2017/01/post_12042.html

 米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」にも選ばれた、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士が、死後の世界を肯定する発言をしていたことが判明した。

意識が物質世界よりも根源的

 米ニュースサイト「Collective Evolution」(1月14日付)によると、ランザ博士は著書「Biocentrism: How Life and Consciousness Are the Keys to Understanding the True Nature of the Universe(生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための鍵であるか)」において、物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素であると断言、意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している。

 量子論の世界では、最も基本的な思考原理である矛盾律(AがB、かつ非Bであることはない)が通用しない状態である「量子の重ね合わせ」が長らく世界中の科学者を悩ませてきた。「二重スリット実験」では、2つのスリット(細長い穴)を通った電子が壁に衝突して作る痕跡をもとに電子が波なのか粒子なのか確定されるはずだったが、観察者がいない場合、電子は“波”の性質に見られる干渉縞を作り、観察者がいる場合、“粒子”に見られる痕跡を残すという “非科学的な”事態が生じたことで大問題となる。つまり、電子は「波であり、波じゃない」、「粒子であり、粒子じゃない」という矛盾する性質を抱えていることが判明したのだ。

 ここで問題となるのは何より「観察者」の存在だ。物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない「観察」という“意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっているのである。このことを量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

 この論理に従うと、肉体(物質)と意識の因果関係が逆転する。つまり、意識が現実を生み出しているならば、発生の順番が脳(物質)→意識ではなく、意識→脳(物質)でなければならないため、肉体(物質)が死んでも、意識まで消滅する必要はない。こうして死後の(意識)世界が認められるというわけだ。

 ランザ博士によると、肉体と意識が別個のものだとしたら、肉体がアンテナのように意識を受信していると考えることもできるという。

 

トカナ 【ガチ】ついに臨死体験が科学の常識に!複数の物理学者「死んだら意識は宇宙に放出され、未知の世界に行く」

http://tocana.jp/2017/01/post_12053_entry.html

 

意識は量子情報として永遠に残り続ける

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7の細い管がマイクロチューブル「Wikipedia」より引用

 英紙「Express」(2016年12月7日付)などが、世界的に評価の高い複数の物理学者が「意識は肉体の死後も残り続ける」という驚きの発言をしていたと報じている。たとえば、米アリゾナ大学のスチュアート・ハメロフ教授によると、「意識は量子レベルに貯蔵された単なる情報」である可能性が極めて高いというのだ。

 それだけではない。スティーブン・ホーキング博士とともにイギリスを代表する数理物理学者ロジャー・ペンローズ博士も、細胞中に見いだされる直径約 25 ナノミリメートルほどの「マイクロチューブル(微小管)」が量子情報を準―原子レベルで貯蔵していると主張。

博士によると、肉体が死に行く過程で、マイクロチューブルが保持する量子情報が宇宙空間に徐々に放出されていくという。ただ、この過程の途中で蘇生した場合、量子情報はマイクロチューブルに回収され、意識を取り戻す。この量子情報の回収にともなう現象が、いわゆる臨死体験であるという。もし運悪く蘇生できなかった場合、放出された量子が永遠に宇宙空間に存在し続けることになる。つまり、魂(=量子情報)は不滅なのだ。

世界最高レベルの量子物理学研究機関である、独「マックス・プランク研究所」の研究者らもペンローズ博士らに同意しており、知覚を司る肉体が滅びれば、まったく未知なる宇宙が待ち受けている可能性もあるという。

「我々が“今、ここ”と認識しているもの、つまりこの世界は物質的に理解されただけのものに過ぎません。物質世界の向こうには、無限の現実が横たわっているのです……肉体は死にますが、精神的な量子場はなくなりません。そういう意味で、我々は不死身なのです」(マックス・プランク研究所元所長ハンス・ペーター・デュル博士)

「我々の思考、意志、意識、感情は、精神的な性質です。これらは物理学が取り扱う自然界の基礎的な力(重力、磁場など)とは直接的な関係はありません。一方、量子的世界では精神的性質との驚くべき一致が見られるのです」(マックス・プランク研究所クリスチアン・ヘルウィグ博士)

科学と宗教は、同じ土俵で議論する時を迎えたのではないだろうか。