霊界で四大聖人・聖賢の方々がセミナーを開いているそうだ。 霊界からのメッセージ(2)【釈迦、羅睺羅(らごら、ラーフラ)、須菩提(しゅぼだい、スブーティ)、弥勒】

霊界で四大聖人(イエス、釈迦、孔子、ムハマンド)と聖賢(アウグスティヌス、ルター、ソクラテスなど)の方々がセミナーを開いているそうである。セミナーの主題は「神様は人類の父母」であり、地上に降臨された文鮮明先生が解明された『原理講論』を分析、討論しているのだという。セミナーに参加した聖賢たちが霊界から地上にメッセージを送ってきている。5回に分けて四大聖人・聖賢の方々の霊界からのメッセージを伝えてみたい。

メッセージの出典は、統一教会の教材【「平和神経 平和メッセージ1~17」光言社2015版 の中の付録霊界報告書「神様は人類の父母」】である。統一教会の教材であるから当然文鮮明氏を讃えているものであるが、このメッセージが本物かどうかは皆様自身に検討していただきたい。

なお、上記教材の中には、4人の他9人の仏教の聖賢の方々のメッセージが収録されている。(目犍連、迦葉、馬鳴、竺法護菩提達磨、康僧会、玄奘、智顗、異次頓)

 

[お釈迦様のメッセージ]

 地上の信仰者、とりわけ仏教徒たちに私、釈迦の最後の言葉を伝えようと思います。イエス様もおっしゃいましたが、私たち四大聖人は、各宗派の代表者として、人類の平和実現と救いに心血を注いで努力しています。そのことは、地上ではよく理解できないことでしょう。ここ霊界で、私たち四大聖人と聖賢たちは、常に一緒にいながらセミナーを開きますが、意見の対立や衝突は全くありません。
 私たちが一箇所でセミナーを開くまで、それぞれに原理教育などや修練会を経ました。私たちが各宗派の責任者であることを考慮すれば、このような場が一朝一夕につくれるでしょうか。祈祷し、誠意を尽くしながら、幾度か「統一原理」を分析し、検討したあと、こうしたセミナーが設けられたのです。私たちはセミナーを通して、一つの家族のように互いに話し合うので、宗派的な偏見による葛藤は生じません。そして、こうしたセミナーが進行するたびに神様は、美しい花火と、きらびやかな光で私たちを包んでくださったのです。そして、私たちの和気あいあいとした姿を見られると、喜びながら、悠々とその場をあとにされます。
 仏教徒のみなさん! イエス様は、新約時代にメシヤの使命を背負って来られたという事実を、自ら証しされました。釈迦も、そうするほかありません。旧約時代と新約時代が過ぎたのち、成約時代が到来しました。神様は、一つの時代が過ぎるたびに、新しい人物を中心に摂理を引っ張ってこられました。
 このように釈迦も当時、神様の前に方向は違っても、人類を善行の道に導くため、力を尽くしたのは事実でした。ただ、その時代は結婚しないで時を待ち、修行するのが自我完成の近道であっただけです。これは、神様の前に直接出ていける道ではないとしても、相当に価値があったと考えます。キリスト教歴史の「旧約時代」という用語は、仏教徒にはなじみがうすいでしょうが、その時代には、人類救援の恩恵がその段階まで成されるほかなかったのです。当時の状況から見ると、釈迦の生涯と教えも、相当な影響力があったのです。
 仏教徒の皆さん! 今までの皆さんの人生が間違っていたというわけではありません。当時の釈迦も、イエス様のように人類を善導することに最善を尽くしたのです。ただ、摂理が進むとともに、人類を救うメシヤが時代的に変わっただけです。
 今までの仏教徒たちの修行の結実に、新しい時代の摂理を接ぎ木してください。「統一原理」を研究してください。そうすれば、仏教徒たちにも同じ脈が流れる新しい真理が、少なからず発見できるでしょう。あまりに固陋(ころう)な考えにだけ浸らず、新しい真理を受け入れ、私たち仏教徒の真理に新時代の真理を接ぎ木させてごらんなさい。そうすれば、素晴らしい信仰の道が、もろもろの仏教徒たちに展開されると確信します。
 今、この時代には文鮮明先生が皆さんの釈迦牟尼(しゃかむに)であり、弥勒仏(みろくぶつ)です。誠心誠意、仏を供養してごらんなさい。成約時代の新しい弥勒仏とその真理について、排斥の先頭に立つのではなく、真なる仏教徒の人格を示す時であると考えます。
 謙遜、冷静にして、人の科(とが)を見ずに、磨き上げてきた様々な仏教徒の慈悲の美徳を表し、行動してごらんなさい。真の真理とは何でしょうか。時代によって生きていく人間の方向は、いくらでも変化し得るものです。自然界をごらんなさい。神様が創造された被造物は、環境によって種類はあるとしても、大きさと色合いは、季節ごとにいくらでも変わるではありませんか。信仰をする人間の本心の声を誰が妨げることができるでしょうか。しかし、人間の本性の声に従った人間の生活の姿、それ自体は、神様の前に様々な次元で喜びの対象になり得るのです。
 それゆえ、固陋として一箇所にのみ依存しないで、思考の領域を広げてごらんなさい。「イエス様と釈迦が、兄弟のように過ごす」と言えば、皆さん、仏教徒は釈迦を信じないでしょう。
 しかし、それは事実なので、信じるべきではありませんか。神様は、私たちが一つになって働くことを願われます。イエス様は、釈迦をどのように呼ばれると思いますか。常に謙遜で静かな微笑みを浮かべながら、「そうです」、「そうでしょう」、「そうしましょう」と言われながら、慈愛に満ちた語調で話されます。
 仏教徒の皆さん! キリスト教徒の皆さん! 天上で私たちがみな一つになり、平和の世界を成したので、地上でも和合すべきではありませんか! 新時代の新真理で一つになりましょう! 人類の平和運動に渾身の力を尽くされる文鮮明先生は、成約時代のメシヤであり、弥勒仏であられます。これは、四大聖人たちのセミナーにおける、一様の結論です。仏教キリスト教が互いに一つになり、神様を解放しましょう!
(二〇〇一年四月六日)

 

羅睺羅(らごら、ラーフラ釈迦の息子であり、十大弟子の一人、密行第一)のメッセージ
肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか


 世の中に生まれてみると、釈迦の息子でした。それは羅睺羅個人の意思ではなく、私には選択の余地がないことでした。私の家庭は、幸福ではありませんでした。父親の顔は見ることさえ難しく、母親の顔は常に涙にぬれ、試練の中に沈んだ姿をしていらっしゃいました。これが、私の家庭の雰囲気でした。私は、分別がつくと同時に、世の中を見る視角が変わりました。父親の立場と母親の立場を理解できるようになりました。
 そして、家庭から解放されてみたいと思いました。どの家庭を調べてみても、夫婦間や父子間や兄弟間の幸福は、見つけられませんでした。なぜ家庭の姿がそうなのか、そしてその問題をどのようにして解決しなければならないのか、私には知るすべが全くありませんでした。私の家庭も、ほかの家庭のように、家庭の平和が壊れてこなごなになってしまいました。華やかな衣装はもちろん、華やかな食卓や宮廷にも、私には何の関係もありませんでした。人生というものが何なのか、悩み、深い苦悩に陥り始めました。
 これが、私が父親に従うようになった動機でした。「統一原理」を聴講したのち、私は、胸の張り裂けるような痛みに、耐えることができませんでした。第一に、私の父親の苦労と、母親の哀れさを克服するのは、難しいことでした。このような惨めな姿が、私を非常に困らせていました。私の父親は、あらゆる苦行を、すべて経験されたお方です。生涯、過酷な肉体的拷問を自らに課して生活されました。それを通して、無我の境地に至ったのです。それが容易なことだったでしょうか! 人間の生老病死を解決するために、私の父親がこのような生涯を生きたのだとすれば、今はどうなのでしょうか。当時の時代的な状況に伴う問いが、私の家庭をばらばらにして投げ捨ててしまいました。当時のその痛みは、文字をもってしては少しも表現することができません。いかなる表現も、その状況を比喩(ひゆ)することができません。
 今、「統一原理」を知ってみると、神様は、私の家庭の和睦(わぼく)を願われたでしょう。文鮮明先生が明らかにされた「統一原理」によれば、人間は、誰もが家庭的四位基台(よんいきだい)をつくって天国理想を成し、神様と永遠に暮らすというのです。これが、神様の願いであり、人間の祝福の前提です。今、私は、どの位置に立たなければならないのでしょうか。「統一原理」の偉大性を、私は認めます。ですから、私は、様々な側面において、複雑で苦しいのです。私の父親は、既に随分前に「統一原理」を悟り、人生の方向を転換されました。しかし、私はどこに立たなければならず、私の母親はどこに立たなければならないのでしょうか。このように不思議な悲喜劇が、私の家庭を固く締めつけています。
 神様、文鮮明先生、人類の縦的父母様、横的父母様、私の家庭の問題をどのように解決してくださるのですか。私、羅睺羅は、「統一原理」のすべてのものを信じます。たとえこの道を行かなければならないと、はっきりと悟ったとしても、肉身の父母のための子女の道とは何なのでしょうか。このような立場から、天国理想を成し得る道はないのでしょうか。
 神様、文鮮明先生、私、羅睺羅の人生も収拾してくださり、新しい道に導いてください。懇切にお願い申し上げます。
 羅睺羅(二〇〇二年二月十二日)

 

須菩提しゅぼだい、スブーティ、十大弟子の一人、あらゆる法がむなしい道理だということを最初に悟る)のメッセージ
人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものではありませんでした

 天地万物の調和が人間の力で成されるものではない、ということを悟ってから既にかなりたちましたが、「統一原理」にこのような途方もない真理が内在しているとは、本当に想像することができませんでした。どうして歴史の出発が、このように誤ったのでしょうか。お釈迦様も十大弟子も、みな無念で悔しく、その惨めな心情は到底表現することができません。しかし、神様の事情のほうが、もっと無念で惨めであり、怒りで張り裂けるようなものだったのです。もちろん、そのような摂理的過程は過去のことだとしても、数千年の間、人類歴史の主人が反対になっていたとは、あたかもそれは、ある作家が作り上げた歴史的物語のようでした。しかし、これは、歴史的事実でした。
 ある日、お釈迦様は私たちに、静かに次のように語られました。「人生の生老病死の問題は、人間の力で解決されるものではありませんでした。生まれて、老いて、病んで、死に至るまで、私たちを常に見守り、保護してくださる一人のお方がいらっしゃいました。私たち仏者は、そのお方に出会わなければなりません。そのお方は、釈迦が解決し得ないすべての問題を解決してくださいました。多くの仏者が、謙遜な心で受け入れてくれることを望みます」。
 その後、何日過ぎても、お釈迦様は特別な指示を下さいませんでしたが、今、その日が近づいてきました。そのお方とは、どなたなのでしょうか。どこにいらっしゃるのでしょうか。いくら調べてみても、見ることも、出会うこともできないお方であられました。「統一原理」は私たちに、あまりにも多くの内容を悟らせてくれました。文鮮明先生は、お釈迦様よりもっと多くの修行をされたのでしょうか。どれほど、途方もないことを経綸されたのでしょうか。お釈迦様も、人間の根本的苦悩を解決なさるために、死の峠道を数えきれないほど越えられましたが、それは、神様と文鮮明先生の経綸とは比較することができません。
 お釈迦様、心を痛めないでください。須菩提は、すべてのものを整理して、新しい出発をします。私は心に決めました。どうして人が、数限りない福をすべて享受することができるでしょうか。私がその時代に生まれたことが私の意志でない以上は、水に従い、風に従って生きてきた人生の道なので、今、この場で、すべてのものを謙遜に受け入れます。
 神様が、私たち仏者を愛されて呼んでくださったので、感謝いたします。文鮮明先生、真の父母様! お釈迦様! 弟子の威信を立てながら従っていきます。過ぎし歳月のすべてのことを、寛大に配慮してくださり、私たち仏者の未来の道を導いてください。
 須菩苔(二〇〇二年二月十一日)

 

弥勒(マイトレーヤ、瑜伽行の始祖)のメッセージ

「統一原理」の来世観に深く感動し、敬服しました

 

多くの宗教人が「統一原理」を聞き、人生の正しい道に進むことを決意したようです。「統一原理」は、偉大な経典になると思います。自尊心が深く、自らの主張だけにしがみついている方々は、顔を真っ赤にし、しかめ面をしています。そのような姿をして座っている方々が、あちらこちらに見えます。

弥勒は、「統一原理」の来世観に、深く感動し、敬服しました。人間の二重構造を説明しながら、それを理路整然と説き明かしました。弥勒も共感しましたが、大部分の仏者もそれに共感したと思います。漠然としながらも、極楽世界を期待し、望み、ありとあらゆる苦難の道、険山峻嶺を越えに越えて、一筋の道を歩んできた私たち仏者が、なぜ極楽世界に行けなかったのでしょうか。

仏者たちよ、私、弥勒をののしろうと、石を投げつけようと構いません。「統一原理」を聞いてみると、私たち仏者の歩んできた道には問題があったと思います。それが何なのかを探し求めてください。私、弥勒が、この天上で「統一原理」に夢中になれば、皆さんは私を、どのようにされるでしょうか。正しい道でなければ、行ってはなりません。正しい道ならば、いくら険しい渓谷であろうと、必ず行かなければなりません。神様と文鮮明先生の根本の教えを悟るようになりました。仏者たちよ、最後まで「統一原理」を聞いてください。そして、心を空にしてください。

弥勒(二〇〇二年二月十六日)