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神と霊界の存在形態<神はいかなる御方か、そして霊界は>

人間が神と宗教を信じようとしないのは、神の実在と来世の実相を知らないからである。このことを実感するなり体験するなりまたは客観的に実証されるならば、受け容れざるを得ないであろう。一方、この世界は日常私たちが見ている現実世界だけで出来ていると信じている人にとっては、人生の目的が現実世界だけにとどまるがゆえに、人生の大半を送ったあと誰しも最後には肉体の消滅によって無になるのかという虚しさを味わうことになるのではなかろうか。この虚しさの背後には、「それは事実ではないのではないか」という懐疑心が宿っている。

すべての宗教が主張してきたこと、「神は実在し、そして来世は実在する」のは事実である。

 

神を知るには、一神か多神かの問題を解決する必要がある。生長の家創始者の谷口雅春先生の神に対する論考をもとに、『神』とはいかなる御方かを考えていきたい。(谷口雅春著『生命の實相』第一巻p380~382 日本教文社 昭和35年

 (1)創造の原理神―創造主(唯一神

【日本語でカミと申しますのは、第一に創造神のことをカミと申すのであります。この語源は『噛む』と云って『上』と『下』とは和合すること、天と地とが結び合うこと、陰と陽とが触れ合うことによって事物を生み出す愛の働きを云うのであります。歯で噛むと云うことも上下相和すると云う同じ語源から来たのであります。ありとあらゆるものを陰と陽との和合、すなわち愛のはたらきによって造り出し給う霊妙なる『創造の原理神』が第一義のカミであります。】

≪日本の「神」のいう言葉の語源は、陰と陽の二性が相対関係を結んで一つになるということからきており、愛によって陰と陽の二性が相対関係を結んで和合することが根本である。そこに顕れている神は、「創造神」ともいうべきもので、「無形の創造の原理神」ともいうべきものである。

パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた被造物において知られていて、明らかに認められるからである。従って彼らには弁解の余地がない」(「ローマ人への手紙」1-20)と記しているように、私たちは無形の神を無形であるが故に直接感じることは出来ないが、神が創造した被造世界を通して(自分も含む)明らかに感じることができるようにできている。

現実世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性が明らかに展開されている。それゆえ、私たち人間は、被造物の中にそのすばらしい出来上がりに感動し神を感じるのである。こうして創造された被造世界は、愛という創造の目的によって和合された動じ静ずるひとつの完全な有機体となるべきものである。それゆえ、神は被造世界の一切の被造物の中に遍在しているということができる。

東洋哲学の中心思想である易学思想は、宇宙の根本は「太極」であり、その太極から陰陽が、陰陽から木火土金水の五行が、五行から万物が生成されたと主張している。そして陰陽を道と称し(一陰一陽之謂道)、その道は、即ち、み言(道也者言也)であるといった。太極から陰陽、即ちみ言が、このみ言から万物が生れたという意味となる。従って、太極は、すべての存在の第一原因として、陰陽の統一的核心であり、その中和的主体である。≫

 (2)発光神としての神

【第二に、吾々がカミと申しますのは『輝く身』即ち一つの発光身を云うのであります。一燈園などでは「お光り」と云っています。仏教では「不可思議光」と云ったり「無礙(むげ)光如来」と云ったりしています。キリスト教では創世記に「神、光あれと云い給いければすなわち光ありき」と書いてあるのがそれであります。この神は本来それは真如法身(観自在原理)そのものであって相(かたち)がないのであります。ただ救うて下さいと呼ぶ者があるので、真如界から救いの求めに応じて発光身となって観世音菩薩の如く機に応じて色々の姿に顕現せられる如来であります。キリスト教で云うエンジェル(天使)の多くはこれで、唯一根元神から投げかけられた「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。皆さまが霊眼に同時に御覧になった「生長の家の神さま」もこの「救いの霊波」が形体化して顕現したものであります。いづれも元は一つ、その働きによって名前が違う。例えば観自在菩薩と云うのは観察自在のお働きをして衆生を教化になるので、そうお名前を申し上げ、阿弥陀如来と云うのはアミダ即ち無量壽無量光の働きとあらわれ、死後までも衆生を摂取し給うからそう申し上げ、天照大御神と申し上げるのは「渾珠(あま)」即ち「宇宙」を、限りなく遍照し給い一切のものを育み育て給う働きとなって顕れてい給うからそう申し上げ、「生長の家の神」と云うのは、狭義に於ては家々、家庭々々を生長さす一つのおハタラキであり、広義に於ては「宇宙」全体に満ちみちている普遍的真理を世界に宣布し給う救済力として顕現になっているから、そう申し上げる。神そのものの本質本体から云えば一つでありますが、その救いの働き(即ち霊波の種類)から云えば異なる譯でありまして、霊波が異(ちが)うから、霊眼で見てもお姿が異なる譯であります。丁度それはもとは一つの太陽光線でも三角帽子で光を分散させて見れば七色にも八色にもなり、その各々の光波は別々の作用を人体に及ぼすようなものであります。】 

≪中国の易学では、太極から陰陽、即ちみ言が、このみ言から万物が生れたという。陰陽の交わりが道であり、み言である。旧約聖書の創世記の初めは、次の言葉で始まっている。『はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった』(「創世記」1章1~2)

即ち神は陰陽の根源として存在しており、陰陽の交わりが光、道、即ちみ言を生み、み言から万物が創造されたということになる。だから、【神は光であり、道であり、み言】である。

神による啓示が、光であり、言葉であるのは、このことによって明らかであろう。すべての宗教にもたらされている神の啓示は、見えない神(太極)から発しているさまざまな波長の光を受信したものである。ただ、私の経験あるいは感じるところでは、如来とか天使、中国の天上の生命「麒麟」「鳳凰」「龍」は、光としての存在「発光神」というだけではなく、霊的に実在している。キリスト教では、「天使は人間に仕えるために創造された。天使の属する霊的な世界は我々の物質的な世界に先立って創造された」といわれている。天使が神のお告げを伝える伝令としての役目を負っている姿はしばしば描かれているように、光だけの存在ではない。後に述べる幽体(死後の人間の姿)と同様に霊界で実在している。ただ、東洋の阿弥陀如来や鳳凰、西洋の天使がすべて別の存在であるか、感じる姿・呼び方が異なるだけなのかはまだ判然としない。

私は、「金神七殺」方位の吉凶ー恵方祭祀と艮の金神」(2013/12/1)において、「金神七殺」といわれ疫病神の筆頭にされてきた艮の金神とは、ひょっとするとキリスト教でいう堕落した天使長ルシファーなのかもしれないと書いた。金神は、金気の精・太白の精とされる。太白星とは金星のこと、金神は星に例えると金星。西洋のユダヤ教キリスト教では明けの明星金星というと、堕落した天使長ルシファーを指す。三大天使長のひとりで知恵の天使長ルシファーを指す。同じ霊的存在かも知れない。

別の角度から論ずると、堕落した天使長ルシファーは神の意図とは違うささやき・誘惑をしているのだから、神の意図とは違う明確な別の霊的存在が実在していることになる。いづれにしても、人間が受けている神の啓示は、発光神としての作用の発現作用のようである。

付け加えて一言言っておきたいことは、堕落した霊的存在が存在しているが故に、啓示は神からだけくるのではなく、別の存在【悪魔=サタン】からも来るということである。≫

 (3)幽り身・幽微な身(霊界での姿)

【第三に吾々がカミと申しますのは幽(かく)り身の略称であります。即ち肉眼で見える体を備えてはいないけれど、体がないのではなく幽微(かすか)な身をそなえているのであります。此の階級のカミの種類は千差万別であって、低きものにはまだ悟りを開かない人間の亡霊や動物霊などがあり、高きものにはズッと高い神界に住む神格を得た人体があるのであります。仏説では此の世で善因を積んだものは「天」に生まれると申しますが、この諸天にいます神々はすべてこの幽(かく)り身に属する神々であります。】 

≪人間は死を迎えると、肉体を捨てて幽体として霊界に旅立つ。幽体離脱である。幽微(かすか)な身・幽り身は、幽体あるいは霊人とも呼ばれ、死後肉体から切り離され、霊界で生活する体である。神仏との縁をもち善行を積み、愛の完成に努めた人は、同じような人がいる霊界(神界・天界)に行く。神道では、すべての霊人を『命』と尊称で呼んでいるが、弔い上げが済んだといっても自動的に神界に至るのではない。

スウェーデンボルグの霊界日記に表されているように、天界・中間界・地獄界に分かれている。神の波動と無縁な霊界も存在している。昔から地獄と呼ばれてきた世界は、空想の産物ではない。当然ながらそこには神の光は届かない。

もちろん天界にいる聖人からは多くの啓示・霊的護りがもたらされる。過去の聖人がこの世にいる人間に多くのメッセージを送ってきていることはよく知られている。一方、地獄で苦しむ霊人も、この世に救いのメッセージを送ってくる。苦しみを背負ってくれといわんばかりに苦痛・不幸をもたらすのである。

人間は、現実世界に於いて善行を積むことによって、或いは悪行を重ねることによって、幽り身(魂)の善化あるいは悪化をもたらす。現実世界における行動が死後の世界を決めることになる。人生の目的は愛を深めることにあるという啓蒙は、幽り身(魂)を善化することが死後の世界においてかけがえのないものになることを意味している。

天国でも地獄でも、人間が死後行くことになる場所は、神が定めるのではなく、人間自身が決定するものである。愛を育んだ人間は、神の懐に近い天界に行くが、犯罪行為や過ちのために不完全な愛の姿になった人間は、愛の主体である神の前に立つことが苦痛となり神とは遠い距離にある自分の心に似た霊界(地獄など)を自ら選択するのである。

このような法があるから、人生の第一の目的は神を知り愛を完成することなのである。≫

 (4)まとめ

【この三種のカミを神と呼んでいます。神か一つだと主張する人は、神と云う言葉で宇宙の創造者としての唯一の神を指して云われるのでありますから唯一つと云うことに決して間違いがないのであります。そして神は多神だと主張する人は救いの化身たる第二類以下の神々を含めて云われるのでありますから、これも間違いがないのであります。同じ言葉で別々のものを指して、互いに「一神」だ「多神」だと論争していても結局解決の果てしがないのであります。

このように神は一神であると共に、時と所と人に応じて、場所次第、時代次第、救われる相手次第で、そのあらわれ方が千差万別して来るのでありまして、時代により、そこに住んでいる人間の発達程度に応じて色いろに変化して現れ給うて人をお救いになるのであります。】(谷口雅春著『生命の實相』第一巻p380~382 日本教文社 昭和35年 

≪神は創造神として唯一神であり、愛の原理によって<光・み言>を発している存在である。その発する形態が千差万別の形となって具現化している。その姿を見れば多神といっても間違いはない。神は全ての被造物に遍在して、巨大な平安な宇宙を築き上げているのである。人間は、神との関係を保持することなくして安寧と幸福を保つことはできないことを知らないといけない。そうでなければ、反逆児として神の創造世界を壊す役目をすることになる。また、堕落と呼んでいる現象は、悪魔と一体となって、神との関係が切れた状態のことをいっている。そこには神の光は条件なしではとどかない。≫

 

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。その日になると、家を守る者は震え、力ある人はかがみ、ひきこなす女は少ないために休み、窓からのぞく者の目はかすみ、町の門は閉ざされる。(旧約聖書「伝道の書」12章1-4)】自らの魂が願うところに救いを求めよ。