宗教はなぜ儀式と浄財を重んじるのか?(3)

  (2) 浄財の否定論の根拠

宗教がこのように昔から供え物・浄財を説いてきたにもかかわらず、現代では浄財に懐疑的な人が多数派である。特に合理的思考に慣れてしまっている現代人は、信仰の論理そのものが理解できない。信仰とは心の問題である、心が浄財や儀式で救われるはずがないという論拠によって完全に否定する。

浄財・献金をすることによって心が変わるはずがない。ものと心がつながっているなどという論理は非科学的であるとされる。心理学と脳科学の研究は、人間の思考と記憶、感情の問題をだいぶ解明してきており、脳の役割が解明されると心が何であるかわかると思われている。ノーベル賞受賞者である利根川進理化学研究所理研)脳科学総合研究センター 理研-MIT神経回路遺伝学研究センター、センター長>のグループは、「光遺伝学によってマウスのうつ状態を改善―楽しかった記憶を光で活性化―(2015/6/18)」を発表し、うつ様行動を示すマウスの海馬の神経細胞の活動を操作して、過去の楽しい記憶を活性化することで、うつ様行動を改善させることに成功したと発表されている。脳科学は、人間の意識変革さえ可能であるようにも思われている。このような科学研究の状況下において、浄財と心の変化の相関性があるなどという研究は荒唐無稽であろう。科学は霊界の存在に否定的であり、浄財の効能についても懐疑的である。神からのメッセージ、霊界からのメッセージというものもほとんど信じられないことである。

 

否定論の論拠となっているのは、頭ごなしに「この世界は我々が感じ取っている現世(現実世界)だけである」という認識であり、霊の存在と霊的世界を妄想であると断定することにある。このように否定することによって、人間は心の不安を取り去り心の安定を保っているともいえる。

もし、世界がこの現実世界だけでできているとしたら、浄財の否定は正解である。しかし、私たちは現世の他にわれわれがまだよく知らない世界があることを感じ取っている。死後の世界の有無、幽霊とかお化けとかとか言っている霊的世界について完全否定できる人は少ないだろう。うすうす気づいている方の方が多いだろう。

科学も、超常現象について関心を深めている。生前の記憶を持つ子供の研究とか疑似死後体験の後生き返った人の調査などの研究が積み重ねられている。また、地球意識プロジェクトでは人間が意識を集中させると、意識のパワーが確立1/2の世界を変えるということを証明している。(ブログ 2014年4月29日 「祈りと祈りの力、そして意識連鎖」参照)
スピリチュアリズムが人々に受け入れられる日はすぐそこまで来ているといってよい。
霊界は実在しているのである。

 

(3) 霊界から現世の人間の行動が見えているとしたら

 大正時代初期に大本教で本田式鎮魂帰神術という霊媒術が流行した。霊界から霊を降ろし降りてきた霊(神)に必要な質問を浴びせ、もしそれが邪霊・邪神の類であると判断された場合には、戒告、なだめすかしたりした。しかし、あちらの世界から戻って来れなくなったりして、多くの問題が生じたため原則禁止になった。この霊媒術は、比較的簡単にできたため大変はやった。

ここで言いたいのは、霊界との交信は科学的方法としてはまだできないが、宗教的方法としてはできるということである。

つまりこの現実世界とは別に霊的世界を多くの人が実感できたのである。大本教の出来事は、日本に心霊科学協会の設立を促し、スピリチュアルの世界に多くの人の関心を引き付けていった。

ただここで問題なのは、やみくもに交霊すると問題が生じるということである。霊界には、神(善霊)が存在する一方、悪霊(邪霊)が存在していて、こちら側に影響を与えてくるのである。かつてのブログで、「煩悩の背後に悪魔は存在する。そしてこの世を支配している」と書いた。神(善霊)だけが霊界にいるわけではない。悪魔(悪霊)も存在していて、現世の人間に影響力を及ぼしているのである。守護霊とか憑依霊という形で影響を及ぼしてくるのである。

神(善霊=善霊、神の側にいる天使)が働くと、時間の経過とともに人間に平和感、すがすがしさ、正義感を増進させ、健康も増進させる。一方、悪魔と悪魔の側にいる悪霊が働くと、時間の経過とともに不安と恐怖、利己心を増殖させ、健康をも害するようになる。自らの心の中を省察すると、善霊と悪霊が入り混じりながら存在していることに気がつくだろう。

 

さて、表題の「浄財」という現世での人間の宗教的行為であるが、この行為はその人が悪霊側から神側に移りたいという意思表示の行為である。生命の次に大切な「お金」を捧げることを通して、悪魔の支配から神に仕えるという選択を示すのである。お金はこの世で生きていくために欠かせないものであり、お金には蓄われる過程の多くの思いが込められている。それだけに決意が固いとみなされる。心の決断だけではすぐ心変わりしてしまいやすいし決意は定かではない。

もし、霊界から見ている存在があるとすると、浄財・儀式という形にすることで決意が本物であると認めることができよう。「浄財」という儀式を通して、神側と悪魔側が取引をしているのである。

仏陀も言っているように、「布施の功徳を積むことによって、心が浄らかになる。正しく世界を見られるようになる」。浄財を通じて悪魔側から神側へと、心が転換するのである。浄財にあたって大切なことは、霊界には神(善霊)と悪魔(悪霊)がともにいて、自分がどちらの声に耳を傾けているのかをよく熟慮・自省し、自分自身が十分納得したうえで行うことである。私は、神側か悪魔側かのどちらかにつこうとしているのである。

 

最後に、供え物がすべて条件として神に受け取られるのではないということも付け加えておきたい。神への供え物は必ず受け取られるとは限らない。受け取られない場合もある。

人類最初の神への供え物として聖書に記述されているアダムとイヴの息子、カインとアベルの供え物の内、神(主)は、アベルとその供え物は顧みられたが、カインとその供え物については顧みられなかった。カインは大いに憤って顔を伏せた。そこで神(主)はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか、正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しいことをしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければありません」。(「創世記」4-4~7)

 

受け取る時期ではないとか条件が足りないとか方法が違うとか心情が不純であるとかの原因があると、受け取られないことがあることを付け加えておく。