覚りと悟り(解脱)とは同じではない

(1)釈尊の悟りと解脱

釈尊は、菩提樹の下で瞑想に入り、想いの世界において悪魔の挑戦を受け、最後色魔との闘いに勝利をおさめ、悟りを得たとされている。その境地は無上のものであったという。この伝承が、悟りを得ると解脱し、涅槃の境地に入るという仏教の教えに結びついている。仏教の伝えるところによると、釈尊生存中に同様の悟りの境地に達した修行者は500人を下らないという(悟りの境地に達した修行者は、阿羅漢と呼ばれる)。

釈尊は、悟りの境地を「天上天下唯我独尊」という言葉で表された。

そして釈尊が悟りを開いた時、悪魔はやって来て、次のように囁いたという。

「(45年前)、おまえが悟りを開いて仏陀となったとき、わしはおまえにすすめた、さっさと涅槃に入れ、と。たいていの聖者がそうする。せっかく聖者になったのに、愚かな人間と接触して汚れてしまえばなんにもならない。けれども、おまえは変わり者であった。」

一方では、梵天が現れて、「釈尊よ、お前は至上の悟りを得たが、そのまま満足するだけでいいのか。衆生に伝えないのか」と、伝道を促したとされている。

釈尊は熟考し、45年間の真理を伝える道に入る。

釈迦の最後の旅から始まって入滅に至る経過を記述したマハー・バリニヴァーナ・スッタンタ(漢訳大般涅槃経)(パーリ語)によると、「私は、人々のよるべき真理をあきらかにした。真の生き方を明らかにした、それだけなのだ。だから、私が亡くなったからといって嘆き悲しむな。およそこの世のものでいつかは破れ消え失せるものである。そこにある一貫した真理を解き明かしてきたではないか。それに頼れ。変転きわまりない世の中では、まず自分に頼れ。自分に頼れとは、その場合その場合に考えること、何を判断基準にするかというと、人間としての道「法」、インドの言葉でいうと、「ダルマ」、この人間の理法というものこれに頼ることである」、と語ったとされる。(中村 元)
また、弟子の親族アーナンダとの会話でも、「私は、29歳で出家して真理を求めて真理を実践してきた。正理(八正道)と正しい法に生きてきた釈尊自身は教義は説いていない。それは後代の教義学者が作ったもの。人間の真実を説いただけである。諸々の事象は過ぎ去るもの。努力して修業を完成させなさい」。「悟り」というものは固定したものではなく時空の中で変転するものであり、悟ったといえども宇宙とのつながりの中で、人間としての「法」に頼って考えることが必要である(中村 元)。

 

そういう釈尊なのだが、一方で経典は、悟りを得た後も魔の誘惑があったことを伝えている。既に勝利したことであっても再び誘惑されるのである。もちろん、既に勝利した内容なので乗り越えることは容易であるのだが、試練は悟りを得た後も訪れる。有名なスンダリーの迫害」マーガンディヤーという娘の話」はその一例である。もしも釈尊の心に魔がさしたなら、悟りは水泡に帰して堕落してしまうことになる。

『マーガンディヤーという娘の話』とは、次のような物語である。マーガンディヤーという美しい娘がいた。その両親が釈尊にひと目でほれてしまい、自分の娘を釈尊に嫁がせたいと思って申し入れをした時の話である。釈尊は、苦笑されて、「私は天女の誘惑にも負けなかった人間です」と、語られる。「そうした浄らかな天女の誘惑にも打ち克ったわたしが、どうして人間の女性に誘惑されることがあろうか・・・・」と、釈尊は言われるのである。しかし、その言い方に問題があったため、憎しみを与えてしまうのである。2013年2月4日ブログ 「仏陀は、悟りを得た後も最高の真理を求め続ける。そして、悟りを得た後も魔の誘惑は続く」を参照)

釈尊の覚りは、魔を降伏させた悟り(解脱)であったと思われるが、悟りを得たとしても、社会は不浄に満ちており、悪の誘惑からは逃れられないということを伝えている。

ところで、表題のテーマ、「覚りと悟り(解脱)は同じではない」であるが、釈尊の悟り(解脱)の中には、修行上の二つの内容が渾然と入り混じっていることを指摘したい。つまり悟りには、①神の召命と、②悪魔の解脱承認、の二つの要素が内包されているのである。

 

(2)覚りとは何か。覚りとは、知的レベルの飛躍であり、神の召命である。

「覚り」という言葉は、禅の修行でよく使われる。禅の公案でもっとも有名な「無門関」第一則「趙州無字」は、趙州和尚、僧の『狗子(しし)にも還た仏性ありや』と問うに因って、州云く、≪無≫』というものである。無に集中して次第に一心に統一され、推し進めていくと突然覚りを開くという。

この無字に集中して坐禅修行の実際について、川尻宝岑は次のように述べている。「この打成一片の地位を喩えてみると、厚い氷の中に閉じつ込められているようなものじゃ。上下四方、前後左右、悉く透き徹っていかにも見事な美しいものではあるけれども、わが身は氷に閉じ込められているゆえ、身動きをすることのならぬようなもの、この時に至って少しも退却の心を発さず、一念も動かさず、ただ一向に「州云く、無無無無で、無二無三で押し込んでゆくと、頓て時節到来して豁然(かつねん)として真の悟りが開けるのである。(川尻宝岑『坐禅の捷径(はやみち)』(*1)」

 

なるほど、そのように修行すればいいのかと思われるだろう。ほとんどの人は、覚りを開くとすべての迷い、煩悩が亡くなり解脱して聖なる境地に至ると思われていることだろう。煩悩と闘い、苦難の歩みの中で長い苦しい修業を超えて得た光は、すべての達成であるかのように。

しかし、その願いと覚りの境地とは少し違っている。鈴木大拙氏は、「『禅と俳句』の中で、覚りは『狂う』こと、すなわち通常の意識レベルたる知的レベルを超えることだといわれている。覚りには別の一面があって、それは通常に異常を見、平凡な事物に神秘的なものを感知し、創造全体の意味を一気に領得する一点を把握し、一本の草の葉を採ってこれを丈六の金身仏に変ずるのである」。絶対マイナスの先には、神に出会って神の愛に触れて絶対プラスに転じるという大転換が起こるというのである。このような大転換を体験するがゆえに、絶対者の愛に応えてはたらく主体へと転ずるのである。無の境地とは、空の境地であり、そこに神が存在していてそこが神と出会える場なのである。

また鈴木大拙氏は、禅について次のように言われている。「禅はどうしても芸術と結びついて、道徳とは結びつかぬ。禅は無道徳であっても、無芸術ではありえない」と、語られている。(*2)道徳とは必ずしもこのようにはならない。「無」に徹しきったならば、神・仏の大慈悲が顕現して道徳的に直結しても不思議ではない。しかしそうならないと鈴木大拙氏は述べている。

禅の覚りは、自然との間においては、問題なく直結するが、対人間の関係においてはそれが難しいといわれているのである。個を超越したとしても、人間同士の関係においては、神・仏が直截に入り込めない。覚りと道徳は直結していないのである。

 

(3)覚りに至っても、煩悩はしつこく付きまとう。

覚りと道徳は直結していないのである。それゆえ、覚りに至ってもすべてが解決されるわけではないのである。楞厳経に、「理は頓悟するも、事は漸修す」という言葉がある。煩悩は、しつこく付きまとうのである。

中国の禅僧袾宏は、「一念に自理を頓悟しても、無始以来の習気は頓に除きがたいから現業流識(現在の業づくりとしてはたらいている意識)の払拭にはげめ、という潙山霊祐の語をひき、「経、少し悟るところがあると、すぐに一生参学の目的は達せられたというのは、何たることだ」と厳しく戒めている。中国明代末の禅僧達観は、心に巣くう情のしつこさへの注視をおこたるべからずと、「道は頓に悟るべきだが、情は漸々に除かねばならぬ」(紫柏老人集、巻二)と示し、徳清も、「頓悟するといえども、漸修を廃せず。仏祖の心、もとより二なきなり」(夢遊集、巻一二)の語を残している。陽明学王陽明も、「もしわれわれの凡夫心がまだのこっているなら、いくら悟りを得たとしても、まだ随時、漸修の工夫を用いねばならぬ。そうしなければ、凡夫を超えて聖人に至ることはできぬ」(『伝習録』巻下)と述べている。(*3)

 

情(煩悩)のしつこさは、聖書の中にも記載されている。回心して伝道に邁進したパウロは、「ローマ人への手紙」の中で、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな存在なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」(『ローマ人への手紙』7-12~25)と語っている。

パウロでさえ、煩悩に悩まされているのである。現世で歩む我々人間は、当然ながら煩悩に翻弄されている。

 

(4)なぜ情(煩悩)はしつこく付きまとうのか

上で述べたように、修行僧の煩悩との闘いは、現世での欲望をすべて断ち切って出世間での修行に入っても、煩悩はしつこく付きまとい苦しめることを伝えている。

 

情は、本然のものであれ煩悩であれ、対象と触れ合うことによって生起する。対象に反応して心に対象の情報が入ると、そこに一つの情が生起してくる。その場面場面によって湧き上がる情は異なる。その中には、善きものもあれば悪しきものもある。孟子は、幼児が井戸に落ちかけているのを見たら、どんな人でも驚きあわてて、いたたまれない気持ちになろう。孟子はこうした素朴な心情の存在を根拠として、人間の本来性を「四端」<「惻隠の心」、「羞悪の心」、「辞譲の心」、「是非の心」>が備わっているとして性善説を主張した。

一方荀子は、人間の本来の性質には生まれながらにして自分中心で憎悪の心がある。その心をそのままにすると、他人に危害を加えるような行為をしてしまいやすい。また、自己の欲望にしたがい感情の赴くままに行動すれば、人の道に外れた行為が横行し、秩序が崩壊することになると主張した。古来より人間の心には善悪両面の心が備わっていて、善なる心よりも悪なる心の方が圧倒的に強いことが知っられていた。その悪なる力が人間を苦しめて来た。パウロの嘆きは、まさにこれゆえであった。

 

宗教者は、悪なる心-仏教では煩悩と呼んでいる―をいかに克服するかと闘ってきた。そして煩悩を払拭するために、宗教者は出家という方法(出世間)を見出した。出世間においては、欲望が生起する環境を極力なくしているのだが、それでも煩悩の解脱が一挙にできず困難なのである。それは、情が己と対象の関わりにおいて生起して、己を虜にし苦しめるからである。その煩悩の力が弱まわらず苦しめ続けるのは、煩悩に力を与えている存在(悪魔とか悪霊と呼ばれている霊的存在)が、その都度姿を現して容易に消え失せないからである。知的に人間存在の高みを覚ったとしても、わきあがる情をコントロールしにくいということは、情というものが我々個人の心の中から発しているだけではないことを暗示している。

 

現世の場合は、それははるかに難しくなる。煩悩は、清浄な出世間の環境では制御しやすいが、現世においては欲望が渦巻いており情が揺れ動いて悪魔に誘惑され罪を犯しやすい。自己の情を律することはとても難しい。しかも、人間関係が複雑に絡み合っており、その内容の多くは因果応報という先祖からの因果に由来するものが多い。煩悩はぬぐってもぬぐっても沸き起こってくるのである。それだけではなく、対立となりけんかとなって再び新しい罪を作り出す。何と嘆かわしいことか。

しかし、自ら湧き上がる欲望には本然の好ましいものもある。それゆえ、宗教者といえども、現世での幸福を願ってきたし、現世において解脱できると信じて来た。人間にはすべての人に仏性があるという教えこそが希望であった。しかし、いまだこの願いは達成されていない。

 

(5)現世での解脱への道―魔を退けて、「天上天下唯我独尊」に至ること

仏教が伝えるところによると、解脱の最終局面での試練は、色情と自尊心(プライド)であるという。この二つの煩悩は、人間の有する根源的な煩悩であり、心の病の原点だともいえよう。それは、煩悩の根であり、仏教はそれを無明と呼び、キリスト教は原罪と呼んだ、始原の問題である。人間は煩悩の根を抱えているがゆえに、業を抱えて輪廻するという道を歩む悲しい存在となってしまっているのである。

 

それではなぜ人間は、煩悩から一挙に解放されず付きまとわれるのか?それは、人間にこの地上世界を創りかえることのできる力、「人間の裁量権」ともいうべきものが与えられているからである。人間がこの力をどのように用いるかによって、人間が住むこの地上世界は不浄な悪の世界にも幸せな善なる世界にもなりうるのである。すべては人間次第なのである。もし、幸せなる地上世界を願うならば、煩悩に働きかけて来る悪魔の囁きにイエス・キリストのように答えなければいけない。「神のみを愛せよ」と。

そして、釈尊が「天上天下唯我独尊」と語られたように、神・宇宙とのつながりの中で、変転する時空の中に自らが存在する位置を自認して、宇宙の秩序の中で生きる道を選択することが重要なのである。

 

*1:竹村牧男著「禅の思想を知る事典」東京堂出版2014

*2:鈴木大拙著 北川桃雄訳「禅と日本文化」岩波新書 1940

*3:荒木見悟著 「仏教と陽明学第三文明社レグルス文庫 1979