綿々と続けられてきた中国皇帝の儀式

中国の皇帝がどのような祭祀を行ってきたか、今やほとんど知る人もいないであろう。共産主義中国になって65年、祭祀は何の意味ももっていないだろう。しかし、中国に皇帝が君臨していた時代、皇帝の儀式はとても重要な意味をもって行われていたのである。

中華帝国の繁栄は、皇帝が自ら行う国家的祭祀を正しい方法で執り行うかどうかにかかっていて、人事と天の意思が完全に和合するよう保証するのが皇帝の務めであった。皇帝自身が中華帝国の第一の司祭であった。しかし、清王朝滅亡後はこの祭祀もなくなってしまった。また、各家庭には、もう一人の司祭-父親-がいて、孔子の時代よりもはるか前から祖先の名を記した位牌を祭壇に安置し先祖崇拝の祭祀を行い、祖先に報告するのであった。儒教を奉じている中華民族の家庭では、現在も熱心に行われている。皇帝の行っていた儀式について、トーマス&ドロシー・フーブラー著鈴木博訳「シリーズ世界の宗教 儒教青土社1994(p127~147)より、中国皇帝の天に対する儀式を紹介する。

 

◆皇帝の儀式

冬至の前夜、中華帝国の皇帝は一年のうちでもっとも重要な儀式の準備に取りかかることになっていた。皇帝とその一族が暮らしている紫禁城の城門が開けられ、皇帝は金竜の刺繍を施した布で飾った輿に乗り、十六人の貴族に担がれて南下する。皇后、大臣、官僚や派手な礼服を着た召使を含む二千人余りが、広大な都城を南北に縦断する。砂金を撒いた大通りを歩み、旗手が二十八宿〔二十八星座〕、五星〔五惑星〕、五岳〔五大名山〕の旗幟を掲げ、都城の南門を出て6.4平方キロメートルもあった天壇に向かう。

天壇に入ると、皇帝は祖先の神主(位牌)を拝し、ついで斎宮に引き篭もり、翌日の祭祀にそなえて斎戒する。夜明け前に斎宮を出て、天と相対している漢白玉石造りの三段の祭壇「園丘壇」に登り、自分の天命を更新する年に一回の恒例の儀式を執り行う。

儀式は古代からの伝統にのっとって進められる。皇帝は竜の刺繍を施した藍色の長大な礼服をまとい、真珠の飾りを施した冠をかぶって、天を象った円形の祭壇の階段を登り、積み重ねられた柴に火をつける。立ち昇る煙によって、その儀式に臨む神がみを神降ろしするのである。

ついで、皇帝は祭壇に香、青い絹布、青い玉の円盤を供える。中心をなす犠牲―いかなる欠陥もない雄牛―は慎重に選ばれ、前夜のうちにすでに屠殺、解体されており、皇帝はその肉の一片を取って玉座に供え、さらに他の肉片を玉座の傍らに置かれている祖先の位牌に供え、丁重に九回ひれ伏してから祭壇を下りる。そして、皇帝が下から見上げるなか、供物を青い紅のなかで燃やす。

皇帝がこれらの務めを果たしているあいだ、笛、鐘、磬(けい)の音が祭壇の周囲に響きわたり、儀式の一部をなす荘厳な踊りが演じられる。古代から1916年まで何世紀にもわたって、この情景―王朝が交代しても、遷都が行われても、平和なときでも、戦乱のときでも―には、まったく変化がみられなかった。「五経」の一つである『礼記』に書き留められているので、この祭祀の方式は細部にいたるまでまったく変化しなかったのである。

<『礼記』礼運第九>

聖人礼の以て已む可からざるを知ると為す。故に国を壊り家を喪ぼし人を亡ぼすは、必ず先ず其の礼を去(す)つればなり。

―聖人は、礼の欠くべからざるものであることを万人に先んじて充分に知り、制定したのである。みずから国を滅ぼし、家を破り、わが身を失う人がいるのは、必ずまず礼を捨て去るからなのである。

 

文字通り、中華帝国の繁栄は皇帝がこれらの祭祀を正しい方式で執り行うかどうかにかかっており、人事と天の意思が完全に和合するような保証するのが皇帝の務めであった。それをなしうるのは、天子たる皇帝だけなのである。

皇帝によって執り行われる冬至の儀式は陽気の蘇生を意味するが、その陽気の蘇生は目に見える天と、冷と暗を意味する陰気の冬のあとにやって来る太陽を象徴しているのである。夏至にも、皇帝は同じような祭祀を都城の北方―あらゆる生命の源をなす「地」の方角―で執り行った。陽気が最高潮に達するので、夏至は時計の平衡論を戻して陰気を敬う日なのである。北側の祭壇は「地」の形である方形をしていて、皇帝の礼服、供物、輿は「地」の色である黄色を基調にしていた。また、供物は燃やされず、地中に埋められた。

国教である儒教の祭祀は、大祀、中祀、小祀に分けられ、政府の礼部には皇帝から楽師にいたるあらゆる列席者の指導にあたる官僚が配されていた。皇帝は、小祀と中祀については名代を送って行わせることができ、実際に全国の省や県の中心地にある孔子廟では、官僚が皇帝の名代として中祀や小祀を執り行った。中祀の供物には、孔子を祀る廟で孔子に捧げられるものもあった。

中祀には都城の南西方にある先農壇で皇帝によって定期的に執り行われるものもあった。農民が作物の植え付けを始める旧暦の3月の一の亥の日に、まず皇帝が六畝の神田を耕し、ついで皇后と高官が耕す。皇后は、黄帝の妻〔るい(女ヘンニ累)祖〕を祀る祭壇でもう一つ別の儀式を執り行うのであるが、その黄帝の妻〔るい(女ヘンニ累)祖〕は蚕の保護者と考えられている。というのは、伝承によれば絹の作り方を発見したからである。

皇帝しか執り行うことができない大祀が四つあった。天を祀るもの、地を祀るもの、それに、皇室の祖先を祀るもの、土地と作物の神を祀るもので、いずれも孔子の時代よりもはるか前から行われていたが、何世紀も経つうちに儒教の風習になったのである。それらの祭祀は絶対に公開されず、大祀で特定の役割を果たす人しか加わることができなかった。トーマス&ドロシー・フーブラー著鈴木博訳「シリーズ世界の宗教 儒教青土社1994(p127~147)

 

現代中国では、すでにこの祭祀は完全に捨て去られている。はるか昔よりどの時代でも最も大切に考えられてきた中華帝国の天に対する儀式は喪失してしまい、天との間を取り繋ぐ司祭ももうどこにもいない。中国人は、礼を捨て去ってしまっているのである。このことは、『礼記』に述べるように中国を滅ぼしかねない問題となりはしないだろうか。