東洋陰陽思想の核「太極」

「太極」という言葉は古代からあったが、宋学朱子学)以降極めて重要な概念となった。朱子らが編纂した宋学朱子学)の入門的教科書「近思録」の開巻冒頭に、北宋儒学者周敦頤(しゅうとんい、号は濂渓れんけい。1017~1073)が載せられている。

朱子学は、人間の心の微細な動きから、宇宙の全体的な力動までをすべて説明する壮大な体系である。そのミクローマクロを貫通するのが理と気である。宇宙のしくみや力動を説明するときには、理は往々にして『太極』という言葉で表現される。太極とは、理のさまざまな側面の内、究極的で、もっとも包摂的で、もっとも全一的で、完全に統合的な性格を指し示すときに使われる語である。(小倉紀蔵

小倉紀蔵氏が著書の中で、周濂渓の『太極図説』(「近思録」巻之一)を載せ解説されている。「太極」の概念をかみしめてみたい。

       

       陰陽魚太極図

この形をした太極図は、陰陽太極図、太陰大極図ともいい、太極のなかに陰陽が生じた様子が描かれている。この図は古代中国において流行して道教のシンボルとなった。白黒の勾玉を組み合わせたような意匠となっており、中国ではこれを魚の形に見立て、陰陽魚と呼んでいる。黒色は陰を表し右側で下降する気を意味し、白色は陽を表し左側で上昇する気を意味する。魚尾から魚頭に向かって領域が広がっていくのは、それぞれの気が生まれ、徐々に盛んになっていく様子を表し、やがて陰は陽を飲み込もうとし、陽は陰を飲み込もうとする。陰が極まれば、陽に変じ、陽が極まれば陰に変ず。陰の中央にある魚眼のような白色の点は陰中の陽を示し、いくら陰が強くなっても陰の中に陽があり、後に陽に転じることを表す。陽の中央の点は同じように陽中の陰を示し、いくら陽が強くなっても陽の中に陰があり、後に陰に転じる。太極図は、これを永遠に繰り返すことを表している。〔Wikipedia

 

【周濂渓の『太極図説』(「近思録」巻之一)】

濂渓先生曰、無極而太極<濂渓先生曰く、無極にして太極なり。>

「無極にして太極なり」という哲学にきわめて重要な言葉において、「にして(而)」という語の意味に関してさまざまな議論がある。これを「から」と解釈すれば、道家のように「無から有が生まれる」という意味になってしまう。これは儒家としては絶対に認められないところである。したがって「であって」とか「でありながら」と読むのが穏当である。太極は朱子学では理を指すが、理は有の性格を持ちながら無の性格をもつのである。なぜなら理が一個の実体としての有であるなら、万物に浸透できないからである。理が無の性格を持つ(無そのものではない)からこそ、万物(気)に浸透できるのである。このような意味で、「無極而太極」というきわめて道家的(非儒教的)な言葉が、宋学においてはアクロバティックに重要な核心的キーワードとなるのである。

 

太極動而生陽<太極動いて陽を生ず。>

太極は動きを通して陽を生む。朱子によれば、太極に動静があるのは、天命の流行である。

 

動極而静<動くこと極まって静なり。>

動きが極限に達すると、静まる。

 

静而生陰<静にして陰を生ず。>

静を通して太極は陰を生む。大極は形而上の道であり、陰陽は形而下の器(物質性のあるもの)である。

 

静極復動<静なること極まって復動く。>

静が極限に達すると、ふたたび起動する。

 

一動一静、互為其根、分陰分陽、両儀立焉<一動一静、互に其根と為り、陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。>

動と静がこのように交替し、互いに相手の根となりながら、やがて陰と陽という区別が生じて、そしてふたつの様態(二気)が成立する。陰と陽とは、ふたつの別個の実体を持った存在なのではない。ひとつの気(一気)が帯びるふたつの様態なのである。これは、陰陽の図において、陰の部分と陽の部分のそれぞれ中央に丸い穴が空いていることからもわかる。これはどこに続いている穴かというと、相手(陰だったら陽、陽だったら陰)に通じているのである。二項対立でも二分論でもない。陰と陽とはつながっているのだし、明確な区分はないのである。

 

陽変陰合、而生水火木金土<陽変じ陰合して、水・火・木・金・土を生ず。>

陽が変じて陰と合し、水・火・木・金・土という五行を生む。

 

五気順布、四時行焉<五気順布し、四時行わる。>

五つの気(五行)が調和をもってあまねくゆきわたると、四つの季節が順番にめぐってくる。

 

五行一陰陽也、陰陽一太極也<五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。>

五行はひとつの陰陽である。陰陽はひとつの太極である。陰陽が太極なのか、それとも陰陽する道が太極なのか、に関しては陸象山と朱子の間に論争がある。陸象山は陰陽そのものが太極だといった。それに対し朱子は、陰陽は気(形而下)であって太極は理(形而上)だから、陰陽がそのまま太極だということはありえないと考えた。

 

太極本無極也<太極は本無極なり>

太極は元来、無極である。

 

五行之生也、各一其性<五行の生ずるや、各(おのおの)其の性を一にす。>

五行が生まれると、それぞれの性質は異なる。

 

無極之真、二五之精、妙合而凝<無極の真、二五の精、妙合して凝る>

本源的な無極と、精緻な顕現としての陰陽の二気、そして五行が絶妙に合わさって、あらゆるものごとの本質部分が形成される。

 

乾道成男、坤道成女<乾道(けんどう)は男を成し、坤道(こんどう)は女を成す。>

天をあらわす乾道は男性的な性質を生み、地をあらわす坤道は女性的な性質を生む。

 

二気交感、化生万物<二気交感して、万物を化生す。>

このふたつの性質(男性的・女性的)を持つ気が互いに感じあって、相互作用を起こすことにより、宇宙の万物に生命と形を与えながら、それらを生み出す。

 

万物生生、而変化無窮焉<万物生生して、変化窮まりなし。>

宇宙の万物はつねに生命力にあふれて生みつづけ、生れつづける。だから生命も宇宙もその変化は一瞬たりとも止まらずに終わりがない。

 

惟人也、得其秀而最霊<惟(ただ)人や、其の秀を得て、最も霊なり。>

そのような万物の中で人間だけが、宇宙の気の中のもっともすぐれた部分を受け取ってできあがったものである。したがって人間こそがもっとも霊性に満ちている。「人間は天地の心なのである。だから人間の心が正しければ、天地の心もまた正しいし、人間の気が順であれば、天地の気もまた順である。」(李栗谷『天道策』)

 

既生矣、神発知矣<形既に生じ、神発して知る。>

人間の形が徐々に形成されて人間が生れるや、霊的能力が発現して知的能力が現実化する。

 

五性感動、而善悪分、万事出矣<五性感動して、善悪分れ、万物出ず。>

人間に内在する五つの道徳的本性が外界の刺激を感じてそれに反応し、現実的に発動する。それにより善と悪がわかれ、すべての事が起こる。

 

聖人定之、以中正仁義、而主静、立人極焉<聖人之を定むるに、中正仁義を以てし、而して静を主として、人極を立つ。>

聖人はこれらのすべての事に、それにふさわしい位置を与える。それは聖人が中庸であること(中)、正しいこと(正)、人間愛にあふれていること(仁)、正義のかたまりであること(義)によって可能なのである。また、動ではなく静を基本として人間の標準を打ち立てるのであり、その聖人自身がまさにその最高の標準なのである。

 

故聖人与天地合其徳、日月合其明、四時合其序、鬼神合其吉凶<故に聖人は天地と其徳を合せ、日月と其明を合せ、四時と其序を合せ、鬼神と其吉凶を合す。>

それゆえ聖人は天地とその徳を合一させる。聖人は太陽・月とその明るさを合一させる。聖人は春夏秋冬の四季とその順序を合一させる。聖人は鬼神とその吉凶を合一させるのである。

 

君子修之吉、小人悖之凶<君子は之を修めて吉なり、小人は之に悖(もと)りて凶なり。>

君子はその聖人の道徳的標準性をしっかりと自分のものにするので良い方向に進む。だが小人はその聖人の道徳的標準性に背馳するので悪い方向に進む。

 

故曰、立天之道日陰与陽、立地之道日柔与剛、立人之道日仁与義<故に曰く、天の道を立てて陰と陽と曰(い)い、地の道を立てて柔と剛と日(い)い、人の道を立てて仁と義と日(い)うと。>

それゆえ次のようにいわれるのである。天の道を立てて陰と陽といい、地の道を立てて柔と剛といい、人の道を立てて仁と義という、と。

 

叉曰、原始反終、故知死生之説<叉曰く、始めを原(たず)ねて終りに反(かえ)る。故に死生の説を知ると。>

また、次のようにもいわれる。始めに立ち戻って終わりにかえってゆく。つまり始めと終わりはつながっている。それゆえに死や生とは何かということを知るのだ、と。

 

大哉易也、斯其至矣。<大なるかな易や。斯(こ)れ其の至れるなり。>

このような宇宙の大きな真理をすべて含んだものが『易』である。ここにこそ、すべての真理の究極がある。

 

〔引用文献:小倉紀蔵著「入門 朱子学陽明学」ちくま新書 2012

p97~p106〕