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孔子の「忠」の思想-「忠」の発生と「忠」思想の歪曲化

儒教の教えに五倫の教え〔五倫の関係=父子関係(父子の親)、夫婦関係(夫婦の別)、兄弟関係(長幼の序)、君臣関係(君臣の義)、朋友関係(朋友の信)〕がある。五倫は、戦国時代孟子が、秩序ある社会をつくっていくためには、「孝悌」を基軸に、道徳的法則として「五倫」の徳の実践が重要であることを主張した(孟子「滕文公(とうぶんこう)上篇」)ことに始まる。五倫の中で、父子関係・兄弟関係は血縁関係で維持され、夫婦関係は愛情で維持され、君臣関係は禄位の授受で維持される。朋友(友人)関係はそれらの基盤がないため不安定である。孔子は『論語』の中で、『忠』を18回使っているのだが、最も多いのが交友関係においてである。『忠』を語ったとき、その内容は政治に参画すること、民を治めること、交友、処世、修養等についてであり、人に接する時には「忠」=誠意を尽くして力を尽くして真心を尽くすこと=することを語っている。【孔祥林著 浅野裕一監修 三浦吉明訳「図説 孔子 生涯と思想」科学出版社東京(p93~99)2014】をもとに孔子の「忠」の思想についてまとめてみた。

日本の忠孝思想は、中国の歪曲化された忠孝思想に影響を受け、日本の文化土壌と結びついて日本独特の忠孝思想ができあがったようである。

 

(1)「忠」の起源と歪曲化

「忠」という字は、歴史上遅くなって現れた文字で、甲冑文字の中には存在しない。最も早く現れるのは、戦国時代晩期の紀元前310年ごろの中山王の鼎と壷の銘文「余は其の忠(信)を智(知)る」、「志を渇(竭)くし忠を尽くす」である。文献中で使用されるのも非常に遅く、『尚書』『詩経』の中には「忠」の字はない。

『春秋左氏伝』の中には「忠」の字が数十例現れる。桓公6年(紀元前706)、季梁が隋君に勧めて言った、「所謂道は、民に忠にして神に信なり。上民を利せんことを思うは忠なり」。この例は、忠とは統治者に民の利益となるように求めることであり、統治者の人びとに対する忠なのである。春秋左氏伝に出てくる「忠」は、国・社会人びとの利益になるものであって、臣下が君主に仕えるときの道徳的要求ではない例も多い。もちろん臣下が君主に仕える道徳的要求の「忠」も描かれている。

政治理論としての「忠」の出現はとても遅く、社会制度が作り出したものである。宗法社会は、親類を大切にすることを原則とする家族と政治体制を大切にする社会で、この制度は西周の初期までには完成していた。このような制度の下では、君臣関係は政治関係でもあり、一種の血縁関係を備えた宗族関係でもあって二つの関係が統一されている場合、「孝」が社会の最高の規範と道徳の規則となり、それは家庭道徳でもあり社会道徳でもあった。

「忠」は、政治道徳の原則として封建関係の発生に従って生まれたものである。春秋の時代、生産力の発展に従って、生産関係と政治制度にもだんだんと変革が始まった。奴隷主は、あるいは土地を開発することによって富を築き、あるいは商売をすることで富を築き、あるいは製造業で富を築き、だんだんと大夫が諸候よりも富み、諸候が天子よりも富むという局面を生み出した。豊かになった諸侯は争い始め、豊かになった大夫は位を奪い始め、たいして豊かではない諸侯と大夫も自己の有している地位を失うことに甘んじていなかった。覇権を争ったり、位を奪ったり、自分の地位を保全するという目的を達するために、諸候や大夫は争って賢士を招き士を受け入れ、血縁関係のない多くの人びとを招き受け入れ役人とした。それにより、だんだんと宗族関係の政治体制が打ち破られ、以前からあった孝の道では新しい政治関係を守ることはできなくなってしまった。これらの血縁関係のない役人達を拘束し、新しく生まれた政治関係を擁護するために、「忠」が新しい行為の規則として出現した。それは臣下に自分の君主に忠誠を誓うように求めており、忠君の思想も生まれたのである。

 

後漢の時代、封建集権制の強化に従って、孔子の「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」の君臣関係は、「君は臣の綱たり(君主は臣下のおおもとである)」(『礼緯含文嘉』)と硬直化され、忠君思想はこの時から封建専制を教化し、人びとの思想を束縛するものとなった。20世紀人びとは孔子を「君は臣の綱たり」を初めに唱えた人として大批判を加えたが、それは本当のところ不公平である。

「忠」の歪曲化は、「君臣の死を要むれば、臣は死なざるを得ず」という愚忠の思想となった。しかし、それは孔子の思想に対する誤解であり、本来の意味ではない。この誤解は、日本だけではなく、中国歴史にも多くの愚臣を生み出した。

 

(2)孔子の「忠」思想

孔子の君主に仕えるという関係についての論述と評価を見ると、孔子には忠君の考えは非常に薄い。まず、孔子には後世の儒家の強調した「君権は神聖にして侵犯すべからず」の観念はない。殷の湯王、周の武王は臣下として戦争を起こして、各々暴虐な夏の桀と殷の紂を滅ぼした。しかし、孔子はこのような「君を弑する」行為を批判していないだけでなく、逆に彼らを君子として称賛し、『論語』の中で湯王が伊尹を登用した行為を称賛し、武王が至徳を有したことを称賛している。このことから、孔子には後世の忠君思想がなかっただけでなく、逆に残虐な君主を打ち殺すことに賛成していたことがわかる。次に、孔子には後世に奨励された「君に忠にして二主に事えず」の考えもない。管仲は公子糾の先生である。公子糾は斉の桓公に殺されたが、管仲は公子糾のために忠を尽くさなかっただけでなく、反って公子糾の敵である斉の桓公のために力を尽くし、桓公が覇業をなすのを助けている。管仲のような「二臣」を、孔子は非難していないだけでなく、逆に彼が「仁」徳を備えていると高く評価している。

 

(3)孔子の『忠』に関する論述

◆君主に仕えることを述べた唯一の例

定公問う、「君臣を使い、臣君に事(つか)う、之を如何せん?」と。孔子対えて曰く、「君臣を使うに礼を以てし、臣君に事うるに忠を以てす」と。(八佾)

春秋中期以来の忠君思想を孔子が継承しているのだが、発展させている。すなわち「君臣を事うに礼を以てす」で、臣の一方的忠君の義務から、君臣双方が共有する条件としての義務へと修正している。まず、君主が礼に依拠して臣下を使ってはじめて、臣下は忠心をもって君主に仕える。これが孔子が提示した君臣関係である。

もし君主が礼に依拠して臣下を使わないならば、臣下はどうすべきであろうか。孔子の考えは、「道を以て君に事うも、不可ならば則ち止む」(先進)-辞職するといっている。

◆官と民の関係

季康子問いて曰く、「民をして敬、忠を以て勧ましむには、之を如何にせん」と。子曰く、「之に臨むに荘を以てすれば、則敬。孝慈なれば、則忠。善を挙げて不能に教うれば、則勧む」と。(為政)

季康子がどうやったら人びとを厳かでまじめ、一生懸命で、お互いに励まし合うようにできるかと質問すると、孔子は応えた。あなたが人びとに対して厳かでまじめであれば、人びとはあなたの政令に対して厳かでまじめになり、あなたが両親に親孝行で、幼い子に慈しみ深ければ、人びとは一生懸命になり、あなたが賢人を抜擢し、能力の劣った人を教育すれば、人びとはお互いに助け合います。

子張政を問う。子曰く、「之に居りて倦む無く、之を行うに忠を以てす」と。(顔淵)

子張が政治をどうやったら良いかと尋ねた。孔子は彼に応えた。位に就いて役人となったからには、怠ってはいけない。政令を執行するには誠意を尽くし、力を尽くさなければならない。

(4)<孟子>忠誠は相互的なもの

君の臣を視ること手足の如くなれば、則ち臣の君を視ること腹心の如し。君の臣を視ること犬馬の如くなれば、即ち臣の君を視ること国人の如し。君の臣を視ること土芥(つちあくた)の如くなれば、則ち臣の君を視ること寇しゅうの如し。(「離婁章句下」)

人君が臣下を自分の手や足のように大切に扱えば、臣下はその恩義に感じて君主を自分の腹や心(胸)のように大切に思う。君主が臣下を飼い犬や馬のように考えて追い使うだけで礼敬の心がないと、臣下もまた君主をただ路傍の人のように見て恩義を感じなくなる。また、君主が臣下を泥や芥のように見なして踏みつけにすると、臣下もまた君主を寇(仇)やしゅう(敵)のように恨みにくむものである。

 

「忠君」には、特殊な政治的意味がある。国を利し、公を利し他を利す対象を君主一人に限定するため、個人と国家との関係が君主一人との関係になる。それゆえ、歴史上忠君は愛国と一緒になって展開されてきたのである。

歴史上中国にも委細かまわず一つの王朝に忠を尽くした臣下も多数存在し、誤った忠孝思想をもった臣下も数多く存在した(中には親分に惚れて共に死を共にした臣下もいた)。本当の忠臣は、国家・民族に「忠」なのであるが、「忠」という概念は既成の政治体制・君主の擁護に転化されやすいものなのである。