日蓮の警告が受け入れられていれば、蒙古襲来という悲劇は避けられていただろう。

(1)日蓮は、蒙古襲来を予言したとして有名になった。しかしそれは、日蓮の本意ではなかった。日蓮の警告もむなしく蒙古襲来は現実のものとなったからである。

危機を伝えようとする予言は悲しいものである。危機を叫んでも何を馬鹿な!と無視され、当たれば認められはすれどもそこには悲しい現実が出現するだけだからである。鎌倉時代、日蓮が日本の危機を叫んだ時もそうであった。受け入れられず迫害を受け、結局蒙古襲来という悲劇に日本は襲われることになった。太平洋戦争前の日本も、日本の危機を叫んだ大本教出口王仁三郎は迫害を受け、結局日本敗戦という現実がもたらされたのであった。

予言というものは、人間の理性を超えたものであるがゆえに胡散臭いものとして敬遠され、当たった時初めて評価されるという悲しい運命にある。しかし、予言は論理的に可能なものである。表面に現れる人間歴史の背後に目に見えない歴史時間空間〔霊界と呼んでおこう〕が存在して、そこに「神の摂理」とか呼ばれている時刻表が記されているがゆえにできるものである。しかし、それは必ずあたるというものではない。神の摂理時刻表は、現世の人間の選択によって書き換えられるからである。

(2)日蓮の予言と蒙古襲来

日蓮は、1253年(建長5年)4月28日朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、立教開宗した。名前も日蓮と改めた。正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。日蓮は、

「この世界こそが仏の在(ましま)す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか〔来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ〕」。
「一身の安堵を思わば、まず四表(しひょう)の静謐(せいひつ)を祈るべし〔自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきだ〕」。
http://www.nichiren.or.jp/buddhism/nichiren/03.php

と述べ、当時幕府が置かれていた政治の中心地・鎌倉の町辻に立ち、道行く人々に、法華経を説き続けた。

1260年日蓮は、「法華経を立てなければ国が滅ぶ」と主張し、『立正安国論』を鎌倉幕府5代執権北条時頼に献上した。「立正安国論」の中には次のような記述がある。

仁王経にはこの様にある。「国土が乱れる時は鬼神が乱れる、鬼神が乱れるがゆえに、万民が乱れる。賊が来て国をおびやかし、百姓が居なくなり王臣や君主、太子、百官の仲に互いに言い争いが起きるであろう。
天地に怪しい異変が起こり、星の動きや太陽や月の運行がおかしくなり、多くの争いが起こるであろう」と。

他方から賊が来て国を侵略し、自界叛逆してその土地を略奪されたならば、大変な事になるだろう。
国を失い家を滅ぼされたら、どこに逃れるというのか。はやく一身の安堵を願うのであれば四俵の静謐を祈るべきであろう。

あなたは信仰の心を改めて、はやく実乗の一善に帰依すべきである。そうすれば三界はみな仏国になるのであり、仏国は衰える小とはなく、全ては宝の土地である。宝の土地であればどうして壊れる事があるであろうか。国には衰微はなく、土地が破戒される事がなければ、身は安全であり、心が苦悩に悩む事もなくなりのである。この言葉は信じるべきであり、崇ぶべきである。

日蓮は、「立正安国論」を鎌倉幕府執権北条時頼に献上した40日後、他宗の僧侶らにより最初の法難「松葉ケ谷の草庵焼き討ち」に遭う。翌61年には禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年伊豆国に流罪となった(伊豆法難)。1264年には、安房国小松原にて念仏宗信者に襲われ負傷(小松原法難)する。

しかし、「迫害を受けるのは法華経を広める者の証」とその強い意志を曲げることなく法華経を広める。その日蓮の姿に、人々は心を動かされ、この頃から次第に教えに帰依する人の輪が大きく広がっていった。

このような時世の流れの中で、1268年蒙古から鎌倉幕府に国書が届き、侵略の危機が現実となる。この年時頼の後を継いだ執権北条時宗は、国書を受け取るとともに当時の外交担当、朝廷に国書を回送する。日本側は、国書について議論はしたものの返事をせず、寺社に対しては祈願を依頼し、御家人には蒙古襲来の準備だけはするように通達した。その後数度の蒙古の使節に対しても同様に無視する。

1271年日蓮は、幕府や諸宗を批判したとして再び捕えられ、腰越瀧ノ口刑場で処刑されかける。日蓮は処刑は免れたものの、今度はその力を恐れられて佐渡へ流罪にされてしまう。

1274年日蓮は赦免となり、幕府より蒙古襲来の予見について聞かれる。日蓮は、「よも今年はすごし候はじ(撰時抄)」と答え、幕府に法華経を立てよ、と三度目の諌暁を行う。予言の5か月後、蒙古が襲来する(文永の役)。その後赦免された日蓮は、身延山に隠棲する。日蓮の予言は的中し、日蓮の迫害は終わりを迎える。

(3)蒙古襲来と北条時宗

1274年、モンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは、朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する(文永の役)。

対する日本側は、鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。

蒙古来襲の直接の原因は、日本を属国化あるいは国交を結ぼうとし応じなければ軍を送るという、1271年に送られてきた元からの書状および使節を無視し続けたことに端を発する。対馬壱岐と次々攻め落とされる。ついには博多湾に至りここでも当初は一方的に攻められるが、なぜか次の日にはいなくなっていた。元軍は海戦に慣れていなかったためとする説、もともと恫喝のみが目的だったという説がある。(台風の季節ではない。)

その後幕府は、1275年、1279年と再び恫喝のために元から送られてきた使節を、今度は斬り捨ててしまう。幕府の御家人も、今度はその時の経験を分析して土塁を築くなど戦闘に備えた。

この年1279年、北条時宗の招きに応じて無学祖元が来日する。鎌倉で南宋出身の僧・蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受け、大きな力をもつ。無学祖元は、1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺に避難していて元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる。

 乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
 珍重す、大元三尺の剣
 電光、影裏に春風を斬らん

祖元は1281年、2度めの蒙古襲来である弘安の役に際して、その一月前に元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた。無学祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる。

弘安の役では、日本武士は防塁を築きその後ろから改良した弓矢を射て上陸を防ぎ、夜討ちで元軍に対抗する。そもそも士気の低かった旧宋兵らを含む元軍は兵糧攻めにされて消耗し、今度こそ暴風雨の追い討ちがかかり元軍は滅んだ。

蒙古軍を追い払ったけれども、日本が受けたダメージは大きかった。当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。鎌倉幕府は御家人を大量動員して応戦したが新恩給与するための土地が得られず、彼らに対して恩賞として与える物はほとんど無かった。御家人はダメージを受けたが、幕府からの恩賞もなく疲弊して力を失っていった。鎌倉幕府滅亡の大きな原因となったのである。

(4)日本はなぜ神風によって守られたか。

蒙古襲来は、最終的に台風による暴風雨によって蒙古軍が壊滅して救われた。以来、日本では「神風が吹いた」といって、神国日本の象徴的出来事にされている。偶然の奇跡だとほとんどの人は思っておられるだろうが、そうではない。偶然ということはない。すべての事象は、何らかの因果関係によって奇跡さえも起こるものである。日本は、最善の策として蒙古軍の襲来を防ぐことができたはずだが、それはかなわず、次善の策として神風が吹いたのである。

日蓮法華経に帰依していたならば、蒙古襲来は防げたであろう。しかし、鎌倉幕府日蓮を迫害し、蒙古襲来が現実になるまで耳を傾けなかった。危機を事前に知らせることはできても、危機を回避する選択はほとんどの人には難しかった。日蓮の「法華経を信じれば国は安泰である」という主張は、科学時代の現代から見れば空論に見えるかもしれない。しかし、この主張は正しい。日蓮は、「魔を降伏しなければ正法とはいえない」と言ったといわれる。古来日本では、法華経は「金光明経」「仁王経」と併せ、護国三部経とされていた。法華経には国を護る神通力があったのである。その後の法華経日蓮宗の広がりを見るならば、日蓮の教えは正解だったといえよう。

では、なぜ神風が起きて日本が守られたのか。蒙古襲来は防げなかったが、日蓮への帰依の広まりと無学祖元の法力、北条時宗の大悟が、最終局面で日本を守ったのであろう。しかしこのようなことは、太平洋戦争では起きなかった。蒙古襲来に際しては、日本の守りにだけ集中したため神仏の加護を受けることができたが、太平洋戦争では時宗のような信仰もなく、外国にまで軍を進めるという過ちを犯したため、神仏の加護は受けるはずもなかった。国土は灰塵に帰しても仕方なかった。(ほとんどの宗教団体が戦争に反対しなかった。)