人々を神から遠ざける二つの邪教(バラモン教とウラル教)

宗教とは「胡散臭いもの」、せいぜいお正月に初詣をして、お盆に墓参りをして先祖供養をして、厄年には厄払いをするぐらいにして、それ以上は近づかないのが賢明であると考えておられませんか。現在多くの日本人が、宗教は理解できない胡散臭いものとして敬遠しているのが現状でしょう。また、宗教の信仰・修行によって得られる功徳や神に触れたという実感(神体験という)もよくわからないのが現実ではないでしょうか。

私たちは、神と触れ合うという感覚がどういうものなのか、何がその触れ合いを妨げているのかがわからなくなっているのです。その原因は、バラモン教とウラル教という二つの邪教(出口王仁三郎が語っている概念)にあるのです。

 

 (1)神と触れ合うという感覚

神と触れ合うという感覚はとても高尚なもので、凡人にはとてもかなわぬものであるという意識がありませんか。とても苦しい修行を全うした人だけが神と出会うことができると考えておられませんか。

実は、多くの人が神と触れ合うという感覚を身近に体験しているのに、その事に気がついていないのです。残念ながらその体験は、一瞬の小さな世界の出来事であるため、神に出会った体験として意識されていません。

 

高校野球が一番わかりやすい例です。高校野球を例にとって説明しましょう。「神とふれ合う」という感覚は「あ-、このことだったのか」と身近なものとして私たちを納得させるはずです。

高校野球では、両チームとも後がないため死力を尽くして闘います。闘っている選手は、もう無我夢中の境地に入り1球1球に魂を込めたように精神を集中させて野球をしています。ゲームに参加している選手だけでなく、控えの選手も観覧席の応援団も皆1球1球に手に汗を握って闘いに参加しています。そうした積み重ねと総力戦が、ゲームの中で信じられないような奇跡を起こします。プロ野球では起きないびっくりするようなドラマが起こるのです。誰もがもうだめだとあきらめかけたところからの逆転劇、何かが作用したとしか思えないような入魂の一球一打、誰もが予想していない結果が起きるのです。

後で、選手が「必死でした。何も覚えていません。球にくらいついていっただけです」とインタビューで答えることをよく聞くことがあると思います。そして、「野球の神様が私たちに味方してくれたのでしょう」と奇跡のドラマの説明を神様の恩恵にします。この「野球の神様」というその言葉こそが、神との触れ合いなのです。

 

この現象が、神と触れ合うという感覚なのです。全力で闘い、自分の思い・力という自我の境地を凌駕して無我の境地に入り込んでいった時に、自分の力・意志を超えた力がどこからか舞い降りてきて力を貸しているのを感じるのです。これが神と触れ合うという感覚なのです。

しかし残念ながら、無我の境地は長続きしません。冷静に我に戻った時、不思議な体験だったと感じるのです。この野球の神様との出会いは、野球という一つの世界の、しかも一瞬の出会いです。本来、日常生活のあらゆる面で神と触れ合う出会いがあるはずですが、自分の至らなさ故に出会うことができていません。

 

それではなぜ感じることができないか。それは、あなたと神の間に雲があるのです。その雲を仏教は「煩悩」と呼び、キリスト教は「罪」と呼び、神道は「穢れ」と呼びました。この雲を取除くことができれば、高校野球の世界で感じるような神と触れ合うことができるはずなのです。宗教はその道を教えているはずなのですが、残念ながら横道にそれるような指導が多く、人々を神から遠ざけてしまい、神と触れ合うという感覚を特殊なものにしてしまったのです。

信仰とは、宗教の教義をそのまま信じて実行することではない。信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することである。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教なのである。神と対話することが難しい原因を知り、元の姿に戻るために、その方法の手段として学び実行するのが宗教の教理であり、宗教的修行である。(出口日出麿)」この言葉に宗教の本来の目的を見出さなければいけません。しかし、宗教の二つの邪教が大きな壁として立ちはだかっているのです。

標題の二つの邪教バラモン教とウラル教という言葉は、出口王仁三郎が語っている言葉です。バラモン教という邪教は、力主体霊という我力に従わすという意味で、主に宗教指導者の誤った指導に焦点を当てています。もう一つのウラル教は、体主霊従(われよし)という意味で、教えを授かる信者のことを言っています。「我執のつよい霊が人の肉体に憑依して、“われよし”の世界を築こう(出口日出麿)」としているのです。

 

(2)バラモン教(力主体霊)

宗教指導者が間違いやすいのがバラモン教です。宗教指導者は、神に近づき神にふれ合うとはどういうことかを教えるのがその使命です。したがって、神と触れ合う世界・感覚を教えられる側にいかに伝えるかが重要です。自らが神と触れ合った経験・感触、聖人が伝えて来た神との触れ合いを伝えていかねばなりません。宗教指導者は偉大な神を伝える仲保者なのです。

聖書の中にイエス・キリストが悪魔に試される場面があります。イエス・キリストは悪魔に非常に高い山に連れて行かれ、世のすべての国々とその栄華を見せられて「もしあなたがひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。(マタイ4-9)」といわれます。イエス・キリストは「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ(マタイ4-10)」と答えて、悪魔を屈服させます。イエス・キリストは、決して自分に力があるなどといっていません。ただ、神を讃え賛美しているだけなのです。このイエス・キリストの姿勢こそ本来の宗教指導者の姿勢であり教えでなければならないのです。

しかし、宗教指導者の中には信者(弟子)を自分につなげようとすることが往々にしてみられるのです。自分は修行を重ねて来たので、神の権能をもっている(超能力とか予言とか奇跡を起こす能力とか)ことを強調する、あるいは、自分を通してしか神につながらないとして信仰を強要する。ここに大きな誤りがあるのです。宗教指導者は、信仰を積み重ねて来られたので、一般の信者よりは神を感じることが多いと思われますが、その経験を伝えていかなければならないのです。

だが、自らの『我』が表面に出てしまうと自らに信者をつなげることになるのです。教義を振りかざし、形式的な修行を推奨するだけで、神の力・エネルギーが伝わっていかないのです。こうなると、神と触れ合うことが難しくなります。「バラモン教」と王仁三郎が呼んだのは、インドのバラモン教の特権階級が自らを通してしか救いがもたらされないという誤った救済方法を強要したことに由来しています。宗教指導者は、あくまでも謙虚に神と信者との仲保者でなければならないのです。

 

また宗教のもつバラモン教としてのもう一つの問題は、多くの場合宇宙の共通する神につなげるのではなく、自らが属する宗教の神と教えにつなげて他の宗教の神と教えを排除してしまったことにあります。この結果、宗教は一つになることができなくなりました。宗教対立はこうした宗教指導者の我執の態度によって生まれ、歴史を掛けた切実な宗教対立の根本的原因となったのです。

「人類が誕生して以来、宗教の対立と抗争は常識であった。神と人間は親子の関係であるといいながら、地上に天国を建設するといいながら、自分の属する宗教こそが正しく他の宗教は間違っていると主張するのが常であった。どれほど多くの迫害と抗争が繰り広げられてきたことだろう。平和を目指す宗教が、対立と抗争の原因であったことは数限りない。(中略)なぜ、宗教が抗争の原因になるのか。その第一原因は、信じるという行為にある。信じるという行為は、盲目的である。理性ではなく、魂の要求のままに従順に従うためである。それは、宗教的行為のすばらしさであり、誰にも平等に行える神へつながる道であるが、十分な内省を伴わずに他のものを盲目的に排撃するという傾向を持っている。そして、今も多くの抗争の原因が宗教に根ざしている。なんと残念な事なのか。(出口日出麿)」

昭和62年(1987)8月、比叡山で初の宗教サミットが世界の主な宗教20数教団の代表が参加して催され、合同礼拝による平和の祈りが捧げられた時、出口日出麿氏は「宗教は末長う仲ような!」と言い続けられたという。出口日出麿氏の言葉をもう一度かみしめておきたいものです。

 

(3)ウラル教(体主霊従(われよし))

自分の願望を達成するために神を利用するというのがウラル教です。「お金が儲かりますように」とか「災いが消えますように」いう願をかけるのがこの姿です。神を信じ神に願いを託しているのですが、何処までも自分本位なのです。それゆえに「われよし」なのです。一言付け加えれば、私の中にある煩悩・罪・ケガレを払拭することに思いが至らず、我欲を神に願うことに専心することなのです。自らは何も変わらず、煩悩・罪・ケガレは温存したままであるため、翻弄されることになります。

 

日本人に非常に多い信仰の姿です。「神にお願いする」そのどこが悪いのかと反発されるかも知れません。この世での自分の幸福・幸せを神に願うのだから正当な信仰であると思われるでしょう。法華経の中の観音経も、「 私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に際し、観世音菩薩の偉大なる慈悲の力を信じ、その名前を唱えれば、必ずや観音がその音を聞いて救ってくださる。この観世音という浄い聖者は、苦しみや死の苦難が訪れたときに、最後のよりどころである。あらゆる功徳を持ち、慈悲の目をもって人々を眺めている。その福の集まる姿は無量であり、だからこそ礼拝すべきである」と、説いているといわれるでしょう。(観音経』は法華経のなかの「観世音菩薩普門品第二十五」という一章)どこに問題があるのかと。

観音信仰では、自らの我を捨てて観世音菩薩にすべて委ねています。しかしウラル教では、自らの内にある煩悩・悪と闘うという信仰の原点をおろそかにしています。煩悩を見つめ煩悩と闘うという信仰の原点が欠落しているがゆえに、我欲に翻弄されているのです。一見信仰のように見えるのですが、その実は魂を悪魔に売り渡しているのと変わらないのです。このため、願いがかなうと大喜びし、かなわないと神様に八つ当たりします。この喜びは、自らの我欲を達成した一時的な喜びであり、仏教のいう六道輪廻(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六つの迷界を指し、衆生が六道の間を生まれ変わり死に変わりして迷妄の生を続けることをいう)の流転する衆生の哀れな姿そのものなのです。神様が聞き届けてくれたように思うかもしれませんが、実際は悪魔(サタン)に聞き届けられていて翻弄されていきかねないのです。

宗教は、自らの煩悩・罪・ケガレに惑い、その苦しみから救われて神と対話できる状態に復帰することにあります。しかしこのウラル教には救いの観念がないのです。そこにあるのは、自らのこの世における願望だけですので、六道輪廻の世界をグルグル回るだけで、神のもとには戻れないのです。これでは、神と触れ合うことはできません。この世の支配者悪魔(サタン)に自らの魂を売り渡しているといっていいでしょう。

 

信仰とは、神と私が対話できる状態に復帰することであって、その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教であると前の方で記しました。「自分で自分にいつも気をつけ、身の内の悪とあくまでたたかわねばならぬ。しかし、自力のみではとうていだめであるから、つねに神さまのお力にすがる事を忘れてはならぬ(出口日出麿)」という姿勢が重要なのです。
ここに聖書の言葉が身に迫ってきます。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。(ルカ3:23~24)」

出口王仁三郎も、次のように言っています。「信仰のためならば、地位も財産も親兄弟も朋友も一切捨てる覚悟がなくては駄目である。信仰を味わって家庭を円満にしようとか、人格を向上させようとかいうような功名心や自己愛の精神では、どうして宇宙大に開放された真の生ける信仰を得ることができようか。自分は世の終わりまで悪魔だ、地獄行きだ、一生涯世間の人間に歓ばれない。こうした絶望的な決心がなくては、この広大無辺にして、ありがたく尊い大宇宙の真理、真の神さまに触れることができようか」と。

 

信仰とは、自らの内の悪と闘って神と対話できる状態に復帰することです。その状態ができない人間が、復帰の過程として一時的にその方法を学び実践するのが宗教です。と同時に、このようなみじめな姿に陥って悪魔に翻弄されている人間社会(ゲーテは、この世の支配者はサタンと呼んだ)を神の世界(地上天国)に戻そうとしているのが宗教なのです。それゆえ、宗教はこの世において必ず迫害を受ける宿命をもっています。サタンの牙城を崩そうとするからです。このことを理解しないと宗教はよくわかりません。

世界には様々な宗教が存在します。それぞれの宗教がそれぞれの教義でもって人を導いています。人や民族が皆違うように、全ての宗教(邪教は除く)にはそれぞれ使命があり役割があります。人や民族がそれぞれ独自の歩みをたどってきたように、それぞれの人の魂にとって受け入れやすい有効な説き方が必要だからです。自分に合う宗教で信仰して、神と対話できる境地に達することが最も大切なことなのです。この道は山登りに似ています。