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母が紡んできた命と愛―飢饉の時最初になくなっているのが母親

私たちの生命は、先祖から綿々と紡がれてきた尊いものです。子育てを放棄してしまえばそこで命は途絶えてしまいます。そこには家を守り子供を育てるために、知恵を絞り自らを犠牲にして命を削ってまで愛を注いできた尊い母の愛があったことは誰もが感じておられることでしょう。「お母さん、生んで育ててくれてありがとう」、ほとんどの人が母に抱く愛しさと感謝の念こそが、世代を超えて命を紡んできた源泉なのではないでしょうか。

お墓の調査をされている与那嶺さんがこのようなことを話されています。

「お墓を調べていて気がついたのです。江戸時代の天明天保飢饉の時、一番最初になくなっているのがその家の母親だったんです。そして次に祖父母が亡くなり、その後父親が亡くなり、子供たちは何とか生き延びているという例が多いのです。しかも、その日時をみると、母親は最も寒い日に飢えてなくなっているのです。自分は食べないで、子供達に食べさせて自分は死んでいっているのです。そのような母親のいる家系でないと子孫は残っていません。」

何とも涙の出る話ではありませんか。飢饉で多くの人が亡くなったことは知っていても、その渦中でこのように生きた母親が大勢いたのです。そして命は紡がれていったのです。

 

妻(母)は、歴史の中で苦労して命を紡んできたのです。嫁に嫁ぎ、姑いじめに遭い、家の労働力として働きながら、家事全般をこなしつつ、跡継ぎを生み育てなければならなかったのです。裕福で恵まれた家に嫁いでやさしい夫に巡り合えていたならばそうでもなかったでしょう。しかし一つ歯車が狂うと、きびしい人生を生きて来なければならなかったのです。こう思われている妻(母)の歴史も、古代においては少し違っていたようです。

 

(1)日本の古代、妻も財産の所有権をもっていた。

 古代日本の家族制度は、中国・朝鮮とは異なり独特なものだったようです。古代において、文明の先進地中国では女性は嫁入り道具程度のものを除いて田畑や牛馬、奴婢などの財産の所有権や相続権をもっていませんでした。女性は財産の所有権をもたないか、仮にもっていたとしても、夫が生存するかぎり財産の管理は夫に委ねられるというのが普通でした。(家父長制の特徴である。)

ところが日本では違っていたようなのです。古代(奈良・平安時代以前)においては、女性も男性同様に財産の所有権をもっていたらしいのです。

日本霊異記」には、次のような記述があります。

「讃岐の国、美貴郡の地方長官の妻は、夫とは別に田畑や牛馬、奴婢などを自分自身の財産としてもっていました。彼女は非常にケチで、人に施すということがなかったため、多くの民が家を捨てて他郷に逃れました。こうしてかき集められた財産は莫大なものとなり、後に東大寺に施入された財産の一部は『牛70頭、馬30疋、治田20町、稲4,000束』だったということです。

古代においては、日本女性は、それなりに財産をもっていて、家の経営にもかかわっていたようなのです。家長(夫)と妻は共同で家の経営にあたっていたという説もあるぐらいです。女性の社会的地位は高かったのです。」

こうした前知識をもって古代史を眺めると、女性の天皇が次々に誕生し、女流歌人作家が活躍できたのもうなずけることです。

 

(2)武家社会の進展とともに妻(母)は夫に従属したものとなり、裏で家を取り仕切ることになる。

 鎌倉時代には子供の親権は父と母の双方にあったそうです。このことは、女性も親の財産を相続し、その財産は結婚しても夫の方に移ることはなかったことと関連しています。家の中における妻(母)の地位は相対的に高く、夫権はそれほど強くなかったようです。一家の主婦のことを「刀自(とじ)」というのですが、これは本来「戸主」の意味です。家の財産の管理や食糧の調達、下人・所従の賄いなどは、夫(家長)の口出しできない妻の権限であったようです。夫の経営が破たんした時でも、妻は里方の一族を中心としてそれを補償するだけの経済的裏付けをもっていたからではないかと推測されています。

南北朝時代に入ると、嫡子の単独相続制(世襲制)が一般化し始め、それに伴って家における女性(妻)の地位は低下して夫への従属が進んでいきます。女性(妻)は、里方から切り離されて、嫁ぎ先の跡継ぎを生み育てることを使命とされ、それまで持っていた権限を失っていったのです。

現存する土地売券類のうちで、女性が何らかの関わり合いをもった売券の占める割合は、平安時代末から鎌倉時代で約30%、南北朝時代から室町時代中期で約15%、戦国時代では2~3%だそうです。

家父長制を中核とする「家」の成立は、東国の開発領主層(武士団)に起源をもつといわれています。もともと母系社会であったところに、鎌倉時代に儒教

中心とした父系社会ができあがるのです。父系社会を築いた関東武士団は、4~5世紀に朝鮮半島から帰化して入植した帰化人の流れをくむ人々が中心だったようです。埼玉県の高麗神社は、高麗の字の間に「句」の字が小さく書かれており、高句麗から帰化した人の神社であることがわかります。

武士集団においては、農耕より軍事を重視するため、【父親―息子関係】が優先します。上層の一族郎党は血縁関係で結ばれ、養子制度も取り入れていたようです。(養子制度は、中世ヨーロッパでは見られない。中国や朝鮮では「異姓不養」で、男系外から養子をとることは認められていない。)

源氏が関東武士団とともに平家を滅ぼして天下を取り、全国にその支配を確立すると、父系社会が全国に広がり男性のところに女性が嫁いでいくという風習が定着していくのです。

男性に従属せざるを得なくなった日本の妻(母)は、夫を完全に立てて波風を立てず、家庭の実権(財産)をそれとなく握って現実的に家を守っていくというスタイルを築き上げたのです。それを「内助の功」と呼んでいます。世界の中で日本のように夫が働き、財布は妻が握るという形態は極めて珍しいのです。

こうして日本の「タテマエとホンネの文化」「ナンバー2の文化」が生まれたのです。そしてナンバー1は、ナンバー2にまかせる風習が出来あがったのです。日本の儒教が、家父長制のニュアンスが強い中国・朝鮮と違って親子の情のニュアンスが強いのも、このような妻(母)の文化の影響でしょう。この文化は極限まで行くと、「上に立つ殿様は馬鹿でもいい」となってしまいます。そして家庭では、「夫は元気で留守がいい。自分がしっかりして子供を育て上げれば」となるわけです。

 

妻(母)が日本の文化を造り、命を紡んできたといっても過言ではないでしょう。妻(母)が命を紡ぐキーパーソンなのです。妻(母)の愛がポイントなのです。

 

(3)女性の時代とは、単純な女性の社会進出などではない。

 今日本では、「女性の時代」が声高らかに唱えられ、女性の社会進出を高めることが重要であると議論されています。女性が家・夫の従属から解放されて社会的に活躍できる時代圏を迎えているのは事実ですが、そのことはイコール単純な社会進出ではありません。歴史の荒波の中で、家と子供を護るため、知恵と愛でもって現実的な方法を探り続けたのが日本の妻(母)です。これなら大丈夫だという姿が見えるまでは、容易に男どもの試みに乗らないでしょう。日本女性は歴史を知恵と愛で生き抜いてきた実に賢い人なのです。

 

(参考文献:与那嶺正勝著「新・家系の科学」コスモトゥ-ワン 2010)