民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(3)

(5)国家神道の成立とは何だったのか(私見)

●国家(民族)の守護祭祀の確立

明治政府の指導者たちがさまざまな宗教的な問題や提案のなかで最終的に理解し、承認を得ようとした神道とは、ある特定の教義や施設にのみ関わるものではなく、いろんな思想や教義などから適度に距離を置きつつ、日本人としての地位とその倫理的な基盤を作り上げようとした(羽賀祥二)ものであった。

そして、その「神道」の為す祭祀は、次のようなものである(羽賀祥二)といわれている。

  1. 歴史の中から、あるいは現存の社会の中から功労者を発見し、顕彰し、序列化していくこと
  2. “神”とは社会的に功績を挙げて、表彰の対象となった人格であり、それは彼らの功績を背後から支えた人々の関係性=共同性であると言い換えられること
  3. その人物に関わる遺蹟・遺物を保存し、あるいは顕彰のための施設(神社・記念碑)を新たに創建すること
  4. その遺蹟・施設への敬礼に人々を誘導することで、“神”と人々、参加者たち相互の心的交流を実現し、さらに社会の構成員全体に「感化」を及ぼしていくこと
  5. 5、この心的な交流を媒介するのが功労者の“霊”であって、それが近代の宗教観念を特徴づけていること(*1:p410)

この理解は、国家という共同体に対する国民の奉仕とそれに対する国家の褒賞であるといえるだろう。つまり神道国家神道)は、個人・家の宗教ではない国家という共同体の神(天)を中心とした紐帯を国民との間で構築するということだったのではないか。明治時代の日本においては、それは万世一系の天照大神の子孫である天皇を頂点に頂いた国体論に行きついたということである。それは、従来の産土神や先祖を祀る神道とは全く次元の違う神道(だから国家神道と呼ばれるに至った)として現出したのだった。

こうして生み出された国家神道は、諸外国の憲法に基づく国民の理念的紐帯よりははるかに親密な国民の紐帯と結束をつくり出した。国家と国民という関係は天皇を核として強い信頼関係で結ばれ、心的関係においても深いものとなった。教育勅語による国民児童への啓蒙、靖国神社等における国家に対する忠臣への顕彰、慰霊鎮魂は、大きな効果をもたらす儀式だったのである。

しかし、国家神道には、国体主義(汎神道主義)・靖国神社天皇親政という三つの大きな問題を有していた。

  • 国体主義(汎神道主義)に潜む怪しい影

 皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されているという主張は、当時ほとんど疑問をもたれていなかった。その神話を記述している日本書紀古事記は、そのまま素直に信じられた。

しかし、現代では日本書紀は二回に分けて記述されたことがわかっている。記述されている内容も抗争の連続で、天の直系の子孫の物語とはいいがたい記述ばかりである。記紀編纂時に都合よくまとめたという印象は捨てきれない。また、桓武天皇の時、記紀編纂時に集めた諸豪族の神話を処分したという話も伝わっている。

 

このような記紀神話を「真の古伝」として、世界に冠たる唯一真正なものだとして、他国の古説をみずからのうちに包含しつつそれらの古説を「真の古伝」の残像としたのが、汎神道主義(国体主義)である。首をかしげざるを得ない代物なのである。

しかしその汎神道主義的イデオロギーが、近代日本の国体論のうちに、あるいは日本精神論のうちにその残骸をとどめることになるのである。すなわちあらゆる雑多な思想・文化を受容し、そしてこれらを日本化する、そのことこそ世界に冠たるわが国体の発現であり、また日本精神の優越性の証拠だという主張のうちに、国学的汎神道主義はその影をとどめるのである。(*5:p233)

こうした汎神道主義が抱えていた問題は、天理教大本教など一部の神道からも異論が出されるのであった。つまり、国体主義には、怪しい影が付きまとっているのである。

さまざまな神殿構想の結果、最終的に根づいたのが靖国神社であったと、羽賀氏は指摘されている。私は、2014年6月15日のブログで、 「日本の宗教は、霊魂の宗教・先祖供養の宗教である」と書いたが、国家宗教としての神道も、国家に殉じてなくなった人の霊魂の慰霊鎮魂に落ち着いたということである。日本人の心情に一番ひびく宗教祭祀が先祖供養なのである。靖国神社は、このことを国家次元で構築したということになる。

靖国神社問題を日本伝統の先祖供養祭祀をもとに分析すると、次のような問題があることを指摘できる。

1、氏神は、産土神鎮守神とは異なる(現在ではほとんど同一視されている)一族(氏)の守護神である。代表的な氏神としては、源氏の八幡神鶴岡八幡宮)、平氏厳島明神(厳島神社)があげられる。氏神への祈願は、氏子の繁栄と安泰を願うのであるが、それは時として敵対勢力に対する戦勝祈願ともなる。靖国神社は、その氏神の伝統を引き継いだのか、戦意高揚・戦勝祈願に駆り出されることになったのである。

2、先祖供養の場合、死後直後の霊は災いをふりまく荒魂として恐れられていた。災いが起こると、先祖が成仏していないのではないかと畏れられた。従ってその霊を鎮め(鎮魂)、罪滅ぼし(滅罪)をし、浄化することが重要になるとされた。このため、荒魂は別に祭壇(若宮様に祀る)を築いて祀られた。共同体にとっては功労者・忠臣ではあっても、共同体外から見た場合には悪人として憎まれている場合、一緒に祀るのではなく、荒魂の祭壇のように別に祀ることが必要なのだろう。戦犯問題には、このような配慮が欠けているとはいえまいか。

 いづれにしても靖国神社問題は、氏神信仰の形式を念頭に置いて考えるべきであろう。

  • 天皇親政と現人神信仰

 明治天皇には天運があった。日本を幕末維新の混迷の極から西欧列強に並ぶまでに導いた中心であったことを見れば、天運を有していたのは間違いない。その天運なるものは、偶然タナボタ式にもたらされたのではない。ある背景によってもたらされたものであるが、明治の日本に大きな光を与えた。

万世一系の皇統を受け継いでいる天皇明治天皇)を中心とする強力な君主国家を築いていく方針を打ち出した明治新政府は、どのようにその体制をつくり出すかに腐心した。明治維新の当時、天皇とはどんな存在なのか、国民にはそれほど知られていなかった。このため政府は、天皇行幸をしばしば行うことで、国民の間に天皇が認知されることに努めた。こうした地道な積み重ねによって、天皇は国民に認知されていったのだが、多大なる効果をもたらしたのが「教育勅語」だった。

 

天皇親政は、天皇の第一の天職を「民の父母」たることにおくか、神祇・皇霊への祭祀におくか、そのどちらに重心を置くのかによって意味合いが変わってくる。天皇が現実に生身の人間として生存して、一方では祭祀をつかさどり、片方では政治に関与するということは、現実世界の生臭い人間模様の中に翻弄されかねないものであるからである。教育勅語の策定過程で、井上毅が『敬天尊神』という言葉は避けるべきであると意見を述べているが、そのことは天皇の神祇・皇霊への祭祀を背面に隠すことになり、生身の天皇を崇拝するという人間主義に陥るきっかけになったのではなかろうか。このことが、後日天皇現人神信仰につながったといったならば語弊があるだろうか。

 

こう考えてみると、成立した国家神道は、必ずしも神(天)に直結したものではないということがわかる。それゆえ国家神道は、日本を守護するものとはなりえなかった。太平洋戦争で日本が壊滅したのも「せむかたなし」だったのである。

 

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf

*3:村上重良著「国家神道岩波書店 1970

*4:山住正己著「教育勅語」朝日選書1980

*5:子安宜邦著「平田篤胤の世界」ぺりかん社 2001