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民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(2)

(3)全国各地における神社創建と靖国神社

復古神道に基づく神殿が、一時的ではあれ全国に創建されていった。教導職のための神殿として大教院神殿が東京芝増上寺に創建され、各府県の中教院にもそれぞれ創建されていった。明治2(1869)年、東京招魂社(後の靖国神社)、楠木社(後の湊川神社)が創設された。橿原神宮平安神宮明治神宮などの天皇や皇族を祀る神社や四條畷神社などの功績のある人物をまつる神社(建武中興十五社など)も数多く造営されていく。(護国神社は、明治時代に日本各地に設立された招魂社が、昭和14(1939)年4月1日施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」によって一斉に改称して成立した神社である。)

また、古代『延喜式』に倣って、新たに神社を等級化する制度が創設された。明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」により制定された近代社格制度では、社格が官社諸社民社)、無格社に分けられた。伊勢神宮は、全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在とされた。官幣社神祇官が、国幣社は地方官(国司)が祀る神社とされた。主として官幣社二十二社天皇・皇族を祀る神社など朝廷に縁のある神社、国幣社は各国の一宮や地方の有力神社が中心である。官国弊社(官幣社国幣社の総称)は、国家が祭祀を行い,神官の任免を司るなど,国家の経営した神社。第2次世界大戦前まで 218社あった。

明治33(1900)年には、外地の台湾の台北に台湾神宮を創建され、以後、台湾には官国幣社5、県社9、以下81社が造られた。大正8(1919)年、朝鮮に朝鮮神宮を創建された。祭神は、天照大神明治天皇であった。官国幣社9、以下60余社が造られた。

靖国神社は、さまざまな構想と実際の神殿建立のいわば最後に出現した神殿だった。それは、多くの錦絵に描かれた鎮魂儀式だった(羽賀祥二)。社会変革の渦中に現れた宗教をめぐるさまざまな様相のうち、政治の危機のなかで自己犠牲を行った人間の、つまり社会的な死者の霊魂をどのように慰撫するのかという問題が、実はもっとも重要な明治政府の課題だった。神をめぐる神学上の論争が神道事務局で行われている状況とは対照的に、戦死者が一人一人名と功績を認められて丁重に葬祭され慰霊されることは画期的なことだった(記念碑や神社)。生死と霊魂の管理を国家が直接行うことがはっきりしてくることで、壮大な神殿構想も退いていったのである。靖国神社と歴史上の功臣を祀る別格官幣社が、日本社会の宗教的性質を象徴的に表明する神殿となったのである。明治34 (1901)年、国費で維持する官祭招魂社の105社が定められた。

これまでの靖国神社の研究によると、招魂の思想は天皇に敵対した戦死者の霊を祀ることを排除している(村上重良「慰霊と招魂」)。確かに靖国神社で祭祀されることはないけれども、地域社会においては、「朝敵」を祀る招魂社の設立は許可されていた。また政府は、招魂社の正確な数を把握していなかった。(*1:p404)

招魂の思想は、共同体のきわめて危機的な状況のなかで「忠義」を貫いたことの社会の評価である。国家(天皇)と社会への貢献と公共的精神、それが「義」という概念で現されるものであったが、それを促し組織していくための論理として「神道」があった。そこでは、個人的な業績は君主や父母、そして公共的なものへと奉還していくことが求められた。(羽賀祥二)

公共のために犠牲的な死を厭わなかった人々への国家の手厚い保護と顕彰、神道は神社や記念碑という場所で倫理的共同性(「義」の共同体)の確立をめざしてきたといえよう。

(4)国体論としての神道

明治10年代に入って、西洋の権利義務観念や信教の自由の理解が深まる一方、キリスト教については黙認されてきた。片方、明治初期の過激な神仏分離廃仏毀釈については反省されてきた。「政府は宗教への干渉を排除して政教分離の方針を打ち出すべきだと主張する一方で、宗教もまた政治に関係せず、宗教的精神を確立すべきである(福地源一郎「宗教論」明治16年)」という論説に現れているように、宗教政策の転換を求める声も強くなっていた。

そのような中で、明治15(1882)年の「官国幣社神官の教導職兼補廃止」によって、祭祀と宗教の分離がなされた。神官の活動が「公務=社頭奉仕」に影響を及ぼし、また神官教導職が国家の祀るべき祭神を恣意的に解釈していることを考慮して、神官と教導職の分離を打ち出したのだった。教導職は、明治17(1884)年廃止された。(教導職は、天皇と国家のイデオロギーを説くことを職務としていた。教導職に任命されることではじめて宗教活動が許された。教導職制を通じて、仏教では本山の末寺支配権や僧侶身分、得度制を改変させた。)また教導職制廃止直後に、自葬の禁止が解かれて葬祭の制約が排除され、信教の自由が実現してきた。

村上重良は、「祭祀と宗教の分離によって、宗教ではないというたてまえの国家神道が、教派神道、仏教、キリスト教のいわゆる神仏基のうえに君臨する国家神道体制への道が開かれ、世界の資本主義国では類例のない、特異な国家宗教が誕生した。この国教は、いわば宗教としての中身を欠いた、形式的な国家宗教であり、国民は、国家によってこの国教を新たに与えられ、その信仰を強制されることになった。(*3p118~119)」と述べている。

しかし、当時の神社は放任状態に置かれ、さらに20年代初めには官国幣社に保存金が一定期間下付されることになり、その後は財政的な自立を要求されていた(中島三千雄*1)。また、佐々木高行などの神道派が憲法体制のもとで神祇院の設立の動きを見せた時、彼らの意識をとらえていたのは神社と神祇祭祀が「告朔の餼羊(きよう)」になりつつあることへの危機感だった。このような状況の中で、のちに国家神道が定着するのは、他の宗教を取り込む強さを持つこと、擬制政教分離が安定的になること、神道界で国家神道の論理が受け入れられること、さらに国民の側に受容する基盤ができることといった条件が必要であって、これには長い時間(日清・日露戦争期)を有した(中島三千雄*1)。

明治20年代は、教団の自治能力が試される時代だったのだが、その時代の思潮として伊藤博文の言葉をあげる。伊藤博文は、『憲法義解』の中で、西欧で一般的になっていた信教の自由、布教の自由について次のように語っている。

「本心の自由は内部に存するものにして、固より国法の干渉する区域の外に在り。而して国教を以て偏信を強ふるは、尤人知自然の発達と学術競進の運歩を障害するものにして、何れの国も政治上の威権を用いて、以て教門無形の信依を制圧せむとするの権利と権能とを有せざるべし。(中略)内部に於ける信教の自由は完全にして、一の制限を受けず。而して外部における礼拝・布教の自由は法律規制に対し必要なる制限を受けざるべからず。及臣民一般の義務に服従せざるべからず。」

身分制度の解体とそれに並行した西欧の諸制度の導入の中で、急速に社会秩序が変容していくとき、日本人と呼ばれる固有の倫理的価値をもった民族が古代以来、連綿として存続してきたことの根拠が探られようとしていた。そうした日本人の連綿さの証として天皇は持ち出されてきたのである(羽賀祥二)。能勢栄は、「忠孝・廉恥・面目・清潔・貞節などは日本固有の道徳であるが、これらは人々の遺伝と経験から自然に生じて一国の道徳を形成してきたものである。そういうものが日本人の内部に核として存在する。この遺伝的な素質は皇室を尊崇するという外的、儀礼的な行為の中で常に国民的規模で再確認されていかなくてはならない」と述べているが、このような論調の中に国体論が登場する土壌が醸成されてきたのである。

一般に国体とは、皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)天皇により日本は統治されているという史観である。このことと並行して、「神道は宗教ではない」という主張がなされてくる。政府も、「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示した。

そして、国体論・非宗教という鎧を身につけた国民教化の体系(国家神道)は、明治23(1890)年の教育勅語の中で結実した。教育勅語策定の過程で、井上毅が、「今日の立憲政治では君主は臣民の良心の自由に干渉しないのが原則であること、宗教上の論争を避ける意味で、『敬天尊神』の用語は避けるべきであること」、という意見を述べていることは注目される。

発布された教育勅語について、東京日日新聞は、『儒教主義に非ずして国体主義なり』とし、勅語を一句ごとに解説したうえで、『日本の教育は日本の歴史よりせる国体を以て其精神たらしめ而して日本国民の資格を有せざるべからずと云ふの大御心たること其詔勅に於て昭々たり』と要約して歓迎した。しかし、1891年の内村鑑三不敬事件や1892年の帝大文科大学教授の久米邦武筆禍事件のように、批判を許さないような姿勢が既に存在していた。政府の方針に反対するとたちまち発禁を命じられてきたように、詔勅に対する不敬は許されざるものであった。(*4)

その後政府は、多くの衍(えん)義書を出すとともに、国民の祝日等に合わせて学校で厳かに教育勅語の棒読式を行い、普及に努めた。その成果が多大なるものであったことはいうまでもない。また、教育勅語は諸外国からも評価されていた。

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf

*3:村上重良著「国家神道岩波書店 1970

*4:山住正己著「教育勅語」朝日選書1980