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民族宗教としての神道(国家神道)の成立と内包する問題ー(1)

王政復古がなされた時、迫りくる諸外国からの圧力に対して、復古神道を核とした国づくりをしようとした明治新政府では、国民の意識をどのようにまとめるかが重要な問題であった。開国に伴い禁令であったキリスト教にいかに対処していくべきか、また神仏分離の急激な流れの中で仏教・神道をいかに変革していくべきか、しかもこの問題は身分制の解体という大変革の中で起こっていた。また、維新の戦争によって犠牲となった功労者の慰霊・鎮魂という問題も当局者の切実な課題であった。

復古神道(当初は、神教・大教・本教と呼ばれた。神道という言葉に収れんしていくのは、神教を奉じる神道事務局が近代教団として一体性を維持し発展できなくなった以降である)を中心においてはみたものの、体制が落ち着くまでには紆余曲折の歴史が繰り広げざるをえなかった。神道国教化を模索したものの、キリスト教、仏教だけでなく神道陣営からも反発は強く行き詰まった。また、神道国教化に欠かせない教義が貧弱であったことも致命的だった。

明治政府が、この問題にある程度の方向性を見出すには10~20年の期間が必要であった。各宗教教団の活動を容認できる範囲で認める一方、日本は万世一系の天皇をいただく神国であり、神道は宗教ではないという国体論を前面に出すという方法が最終的に成功した方法だった。それは、大日本帝国憲法教育勅語の中で成立したのだった。

日本は、世界に類を見ない王統が綿々と続いている神国であるという主張は、江戸時代本居宣長ほか多くの国学者儒学者によって主張されてきたことであった。他の国のように、国家権力をめぐる抗争と覇権交代がみられなかった素晴らしい国である。その中で天皇家は、日本の初めより日本を治めてきた家系であるという主張である。

この天皇家を頂点に頂く明治政府において、天皇の統治とは、天神地祇・皇霊の祭祀を内容とし、皇祖大神の「言寄」のままに、そして天神・皇霊の「恩頼」にこたえることこそが、天皇の天職(役割)とみなされた。このことは、天皇が国家の最高の神官としての機能を持つ存在だということを意味していた。

羽賀祥二氏は、「19世紀(幕末明治維新期)の日本の政治と宗教の問題を考えていくとき、皇国の神殿創建を目指す動きと人民を教化していこうという、二つの大きな流れというものを指摘できる。日本社会の変動期に対処するうえで不可欠な制度として、神殿創建と教諭方法のあり方が模索されてきたのである」(*1:p5)と指摘されている。この指摘は、幕末の民族共同体の危機に対して王政復古復古神道というかたちの国家創建を選択した日本にとって、従来の社会価値観とは違う国家守護の宗教的体系を整えていく緊急の中心課題として、神殿創建と人民教化の方法があったのである

(1)       大神殿創建構想とその経緯

江戸時代末期、国学者佐藤信淵は、『混同秘策』の中で、天之御中主神・産霊ニ神(造化三神)、イザナギイザナミ、風・火・土・水の四神、天照大神、大国大神、天皇家代々の霊神などを祀り、神事大師が管轄し、天皇が時々拝礼する『宗廟』を中央の神殿として創建し、また造化三神天照大神、天児屋根神などを祀り、中央政治機関である三台(教化台・神事台・太政台)・六府(陸軍・海軍・農事・物産・百工・融通)を統括する大学校を、政治の中心に置くことを提案した。『宗廟』は教化大師が法教(産霊の大道)を講談する場であり、法座の上には宝蓋を釣り、左右には金花を飾り、珠玉金碧の精巧を尽くして『人目を眩耀する』ような輝かしさがあった。大学校には会議室が置かれて、三台六府の役人が政治を行い、大事の決議にあたっては宗廟に報告して決するとされていた」。まさしく華やかな、技巧を凝らした神殿の下での神政政治が構想されていたのである。

こうした幕末の神殿構想の延長線上に、国学者矢野玄道は慶応3年(1867)、「宮中と京都東山に皇国の中央神殿ともいうべき壮大な神殿の建立を構想した。それは規模を縮小しながらも神祇官神殿として創り出されて、新たな国家祭祀の拠点となった。慶応3(1967)年12月9日、王政復古が宣言されると、神祇官復興が画策された。翌年1月17日には神祇事務科が設置され、神祇事務局に改称され、閏4月には太政官内に神祇官が設置され、幕末以来の念願であった神祇官の再興は実現された。(この時期中心的役割を果たしたのは、中山忠能と津和野派の亀井玆監、福羽美静であった。津和野藩では、先駆けて廃仏・神道振興政策が実施されていたことによる。)翌明治2(1969)年7月8には官制改革【職員令】において律令二官制が復活し、神祇官太政官の上位に班位された。神祇官の下には宣教使が置かれ、維新政府のイデオロギー宣布政策を主導することになった。 これを受けて、神祇官神殿の設置の計画も進められる。

実現されなかったが、江藤新平伊勢神宮の東京遷座に伴って、造化三神をも祀る宮中の神殿を創建し、そこでの神政政治を構想した。三島通庸は、皇居の側に一大仮山を築き、山上に純然たる黄金造りの神殿を建てて、伊勢神宮遷座し、国教の本山にしようという構想を提案している。

明治2年10月20日に太政官は神殿造営の許可を出す。工事は11月より始まり、12月竣工して12月17日に仮神殿の遷宮式が行われた。現在の皇居前広場二重橋前交差点付近である。こうして神道国教化を目指す態勢は整えられた。(仮神殿と称したのは遷都問題があったからだという。)明治3(1870)年1月3日には鎮祭が初めて行われた。しかし、神祇官が廃止されてからは祭祀は式部寮(宮内庁式部職の前身)に移った。

しかし、2年後の明治4(1971)年8月8日、官制改革の一つとして神祇官太政官内の神祇省に格下げされ、翌5年3月14日には廃止され、宣教事務は新たに設置された教部省へ、祭祀事務は式部寮へ移管された。このため神祇官神殿の建造物は、増上寺に設置された大教院の神殿として移築された。(移築後、大教院に反対するものによって、放火されて焼失した。)

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神祇官神殿(Wikipediaより)

(2)神道国教化政策の破たんと宮中三神殿体制

神道国教化政策は、信教の自由を要求する民衆の抵抗、キリスト教抑圧に対する諸外国の攻撃、寺院僧侶の抵抗といった反発の中で、時代錯誤な政策がはっきりしていった。明治4(1871)年には近世以来の宮中祭祀のあり方が再編成される。神祇官神殿に合祀されていた歴代皇霊を、宮中に新たな神殿を創建して遷座し、それを神器とともに合祀することにされた。明治4(1871)年9月に宮中に遷座賢所と共に「皇廟」と呼ばれた。明治5(1872)年、神祇省の祭祀は宮中に移され、八神殿は宮中に遷座し、八神を天神地祇に合祀して神殿と改称。賢所、全神祇を祀る神殿、それに天皇家の祖霊殿である皇霊殿という近代の宮中三神殿体制が成立した。明治22(1889)年の宮中三殿の完成によって神祇官神殿は、近代天皇祭祀に完全に組み込まれた。

この宮中への移管は、神祇官政策の行き過ぎの是正だけでなく、太政官における天皇親政・親祭体制創出のための措置であったことは間違いない(桂島宣弘*2)といわれる。そして、明治10年の教部省廃止、文部省設立により、神道国教政策は完全に敗退した。

明治天皇紀は、神祇官廃止について次のように記している。
神祇官は大宝令の旧制を復活したるものにして、太政官の上に班し、恰も王政復古の趣旨を代表せるものの如くなりしが、其勢力大に伸び、叉往々新思想と扞格して新政府の累を為すのみならず、神官の為す所亦党同伐異の弊尠(すくな)しとせず、為に所在囂々(ごうごう)として之を難ずるに至れり、是に於いて其の勢力を殺ぎ、且諸省との平衡を保たしめんとして、之れを改めたるものの如し(明治4年8月8日)」
開化思想との対立、神祇官内外での学派の対立、制度としての合理性を廃官の理由として挙げている。

また明治4(1971)年9月14日の詔書は、次のように述べている。この詔書は、より明確に天祖および歴代天皇の威霊に権威づけられた政治的君主としての天皇の地位を明確に示している。
「朕恭ク惟ル二、神器ハ天祖威霊ノ憑ル所、歴世聖皇ノ奉シテ以テ、天職ヲ治メ玉フ所ノ者ナリ、今ヤ朕不逮ヲ以テ、復古ノ運二際シ、悉ク鴻緒ヲ承ク、新二神殿ヲ造リ、神器ト列聖皇霊トヲ、コゝ二奉安シ、仰テ以テ万機ノ政ヲ視ント欲ス、爾群卿百僚、其レ斯旨ヲ体セヨ」

*1:羽賀祥二著「明治維新と宗教」筑摩書房 1994

*2:桂島宣弘 書評羽賀祥二著「明治維新と宗教」  

http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~katsura/20.pdf